第1話

文字数 8,883文字

 薄汚れた銀色の車体に黄色のラインが入った電車が、JR千駄ヶ谷駅に滑り込んできた。ブザー音が鳴り、電車のドアとホームドアがともに開くと、右手にリュックサックを提げた40代の男が電車から降りてきた。男は階段を足早に駆け下り、改札を抜けた。7月某日の東京は、昨日梅雨明けが発表されたばかりで、午前中から真夏日の気温となっており、日差しがこたえるばかりか、そよ風も暑くて不快に感じる。駅前の交差点を縦方向と横方向の二段階で横断し、床面がグレー一色で覆われている東京体育館の広場に辿り着いた。
 その男――森山雅哉は、広場の奥、ちょうど体育館に併設している陸上競技場が見下ろせる辺りで歩みを止めると、リュックサックから1枚の厚紙を取り出した。A3版の白い厚紙には、赤いマジックペンで「チケット余っている方 同行させてください」と書かれていた。森山は千駄ヶ谷駅方面に向けて、その厚紙を胸の前に掲げた。
 森山の背後には、巨大な円盤の形をした建物が見える。2020東京五輪のメイン会場にもなった新国立競技場だ。今日はこの国立競技場で、サザンオールスターズのデビュー50周年ライブの千秋楽が開催される。
 サザンオールスターズが、ちょうどデビュー50周年となる令和10年末で活動を終了すると発表されたのは、去年のデビュー記念日にあたる6月25日の直前に放送された、ボーカルの桑田佳祐がパーソナリティを務める長寿ラジオ番組「やさしい夜遊び」だった。サザンの新曲はこの番組で最初に披露されるのがお約束となっており、この日も50周年記念シングルの新曲が初オンエアされると予告されていた。
 いつもは、桑田が番組アシスタント役の事務所マネージャーを相手に、冗談や下ネタを交えながら進行していくが、この日は違った。オープニングのトークもそこそこに、桑田本人による提供スポンサー読みと最初のCMが終わると、ファンの皆さんにお伝えしなければならないことがあると言い、桑田は真面目な口調で話し始めた。

 今度の6月25日でサザンオールスターズは活動50周年を迎えることになります。50年、まあ言い換えれば半世紀もやってきたわけで、これもひとえにファンの皆さんのおかげであると思っております。本当にありがとうございます。ということでね、今日はこのあと新曲を聴いてもらうことになるわけですが、その前に私どもサザンから、皆さんにお伝えしなければならないことがございます。
 我々、サザンオールスターズは来年、令和10年末をもって、活動を終了します。
 ……すみません。いきなりこんなこと言われても、びっくりしちゃいますよね。ごめんなさい。今回、このような決断をした理由といいますか、経緯について、この場を借りて少しお話しさせてください。
 我々サザンはデビュー当時、こうして半世紀も活動を続けられるなんて思ってもいませんでした。半世紀どころか、ひょっとしたら1年ももたないんじゃないかって思ってました。でも、ファンの皆さんやスタッフの皆さんのおかげで、なんだかんだありながらも、今日までこうして音楽活動を続けてくることができました。この50年、いろいろなことがありました。嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、そりゃあもうこの場では語り尽くせないくらい、いろいろありました。メンバーの皆といろいろなことをしてきましたし、いろいろな曲を歌ってきました。そんなこんなで活動を続けているうちに、いつしか僕たちは、サザンがこのまま未来永劫続くといいなと思うようになっていました。
 でも、当たり前のことなんですが、形あるものにはいつか終わりが来るものでね。ここのところ、メンバーの皆の体調、体力も以前より衰えてきていて……。もう70過ぎてますからね。あと、曲を作るモチベーションも正直落ちているといいますか……、うん。はっきり言ってしまうと、正直もう、サザンでやりたいことは全部やり尽くした、出し尽くしたっていうのが、僕らの、メンバーの、今の嘘偽りない気持ちであるわけです。
 そういう気持ちでこの先、50年目、51、52…と続けていくことが、果たして我々にとって、ファンの皆さんにとって正しいことなのかどうか、実は2、3年前から悩んでいました。メンバーの皆とも幾度となく話し合いました。
 ずっと続けていくのもひとつの選択肢として間違いではないと思います。諸先輩方でもそういう方はいらっしゃいますからね。でも僕らは、自分たちのパフォーマンスやモチベーションが落ちてきているのが分かっている中でサザンを続けていくことは、ファンの皆さんに失礼だし申し訳ないと思いました。申し訳ないし、我々にとっても、それは健全ではないなと。だから、だからこそ、50周年という節目をもって、サザンオールスターズをスパッと潔く終わりにしよう。そういう結論に至りました。
 今、「活動を終了する」と僕、言いましたが、「解散」ではなく、あくまで「終了」ということで、ここは――まあ、決して格好つけてるわけじゃないんだけど――こだわりがあって、「解散」という言葉を使いたくなかったというか、使えなかったんですね。そんな言葉を軽々しく使えるような間柄では、もはや僕らはなくなっているんですよ。別に、メンバー同士で仲が悪いとか、音楽に対する価値観やら考え方の違いが生じたとか、そういう理由でやめるわけじゃ、決してないしね。
 だから、サザン終了後もメンバー個々の活動は、続けていく人は続けていくと思います。メンバーに今後どうするかちゃんと訊いていないし、漠然とした思いしかまだないんだけど、僕はまたソロで曲を出したりするかもしれないし、また弘とライブ一緒に回るかもしれないし、原さんも何かやるんじゃないかな。ということで、メンバー同士の付き合いは終わるわけではないんでね。サザン終了後も引き続き、メンバー一人ひとりを応援してもらえたら、本当、嬉しいです。
 急にこんな身勝手な話をしてしまって、本当にごめんなさい。驚いちゃったよね。終了までの残り1年半、メンバー全員、全力で頑張ります。いろいろやりますんで――今日ここでは詳しいことはちょっとまだ言えないんですけど――今後追い追い発表していきますんで、楽しみにしててください。最後までサザンオールスターズを、どうぞよろしくお願いします。

 桑田のコメントが終わると、曲紹介や前振りもなく、サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」が流れ始めた。森山はあまりにもショックで、新曲はおろか、その後の番組の内容が全く頭に入ってこなかった。
 放送直後、ネットニュースが速報でサザン終了の記事を配信したのを皮切りに、各メディアが次々と報道した。翌日のNHKニュース7がトップニュースで報じたくらい、どこのメディアも大々的に取り上げた。
 その後、サザンは音楽番組への出演、大規模ロックフェスへの参加、メンバーによるネットテレビでの番組配信、ラストアルバムのリリースなど、終了までの活動について立て続けに発表していった。そして、最後の重大発表と称して、活動50年の集大成となる全国ライブツアーの開催がアナウンスされた。
 公式ファンクラブ「サザンオールスターズ応援団」に入っていた森山のもとにも、ライブツアーのチケット先行抽選予約案内の書類が届いた。20年ほど前から、サザンのライブのチケットは一般販売では入手が困難となっており、当時、先行予約で少しでもチャンスをものにしたいという思いから応援団に加入したところ、毎回チケットが――第一希望ではないときも時々あるが――当選するようになった。今回も当選するだろうと思い、森山は予約を第1希望から第6希望まで全て申し込んだ。
 だが、結果は落選だった。
 がっかりした森山は、有料衛星放送チャンネルに加入して、ライブ中継を自宅のテレビで見ることで我慢しようとしたが、ライブ開催が近づくにつれて、やはり直接見たいという気持ちが強くなっていった。そしてライブの最終日となる今日、森山は意を決して、余りのチケットを持っている観客に同行させてもらおうと、会場に赴いたのだった。
 かつて、チケットの転売やダフ屋行為が問題となっていたことを受け、大物ミュージシャンのライブは、チケットの購入や当日の入場が厳しくなった。サザンも同様で、チケットには代表者の氏名が印字されるようになり、入場時に代表者が身分証明書を提示しないと、同行者も入れないようになった。そのため、チケットの譲渡や転売は以前よりも難しくなり、ライブ会場周辺でうろついているダフ屋や譲渡・転売を希望するファンの姿はひと頃より減った。
 だが、購入時に必要以上の枚数が当選した、本来の同行者が何らかの事情でライブに行けなくなったなどの理由でチケットが余っている場合、チケットを持っていない人はそんな代表者から余ったチケットを譲ってもらい、代表者と一緒に入場さえすれば、例え代表者と知り合いでなくても、ライブを見ることは可能である。そのため、最近のライブ会場周辺では、同行を希望するファンの姿をよく見かけるようになった。
 東京体育館前の広場にも、森山のように同行希望の意思表示をしているファンたちが大勢いた。中には、かつてのサザンのCDの期間限定特典で付いていたオリジナルの法被を着るなど派手な出で立ちの人もいた。自分に声をかけてくれる奇特な人が果たして現れるのか。ポロシャツに短パンを履いている森山は不安になった。チケットを持っていると思われる人たちは、森山には目もくれず、楽しげに会話をしながら通り過ぎていく。
 森山は腕時計を見た。11時43分。千駄ヶ谷駅に着いてから一時間が経過した。今日のライブは、サザンとしては異例の正午開場、16時開演、21時終演という長丁場で、5時間の合間に一回休憩が入る二部構成である。
開場までは無理だとしても、せめて開演までに誰かが自分に声をかけてくれたら。森山は一旦その場にしゃがんで、手にしていた紙を床に置き、リュックサックからペットボトルの水を取り出し、一口、二口飲んだ。屋根のない炎天下で立ち続けるのはしんどい。タオルで顔の汗を拭っていると、頭上から女性の声が聞こえた。
「すみません」
 森山は自分に声がかけられていると思っておらず、そのまま汗を拭き続けていると、また同じ声がした。
「あの、すみません」
 森山はそこで手を止め、顔を上げた。スニーカー、ベージュの七分丈パンツ、Tシャツ、カーディガン、長い黒髪、そして、森山と同年代と思われる女性の顔。
「はい?」
 森山はいささか警戒心を含む声で返事した。
「同行、希望されてるんですよね? ライブ」
 彼女は床に置かれたスケッチブックをちらと見た。
「ええ、そうですが」
 まさか。
 森山ははやる気持ちを抑えながら、答えた。
「もしよければ、私と一緒に観ませんか。チケット、1枚余ってるんです」
 何ということだ。ライブが本当に生で見られるとは。
 森山は立ち上がった。「本当に? いいんですか? 俺なんかと一緒で」
「ダメですか?」
「いや、ダメじゃない」森山は慌てて手を左右に振った。「あなたさえ良ければ、ぜひ、お願いします」
 森山が頭を下げると、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「よかった。こちらこそ、よろしくお願いします」
「その前に」森山は言った。「チケット、見せてもらえませんか?」
 現物を見るまでは安心できなかった。
「あっ、はい」
 彼女は肩にかけていたバッグを下ろし、中から長方形の紙を取り出した。そこには「座席指定券引換券」と書かれていた。
 最近のコンサートでは、この座席指定券引換券のことをチケットと呼ぶことが多い。サザンの場合、座席指定券引換券は、チケットを購入した代表者のもとに事前に書留郵便で届く。従来のチケットと違い、この券には座席番号が記されていない。代表者は当日、座席指定券引換券を持参し、入口でスタッフに渡すと、その場で座席指定券が発行される。その座席指定券を見て初めて、自分の席が分かる仕組みとなっている。彼女が手にしているのは、まさにサザンのそれであった。日付も今日だ。間違いない。
「じゃあ、お渡ししますね」
「あっ、ちょっと待って」森山は急いで荷物を片付けた。「すみません。じゃあ、ありがたく頂戴します。本当にいいんですか?」
「ええ。さあどうぞ」
 彼女はチケットを森山に手渡した。森山はようやくそこで笑みを浮かべた。
「いやあ、嬉しいなあ。ありがとうございます。ダメもとで来たから、まさか本当に行けるとは正直思ってなくて」
「喜んでくれて良かったです」彼女は微笑んだ。「どうしますか? もう、会場に入っちゃいますか? あっ、でもまだお昼食べてないですよね?」
「さっき少し食べたんで、大丈夫です。お腹すいたら、中で何か買えばいいし」
 森山はリュックサックを背負いながら答えた。
「じゃあ、私もお昼食べたので、行きましょうか」
 二人は国立競技場へ続くペデストリアンデッキへ向かって歩き出した。歩きながら、二人はそれぞれ名前を名乗り自己紹介した。
 2020東京オリンピック・パラリンピック競技大会のメイン会場として竣工された新しい国立競技場は、木材をふんだんに使った鳥の巣を想起させるデザインが特徴的である。大会期間中は猛暑の季節で、既設の空調機器のみでは暑さを凌げず、可搬式のエアコンやミストを設置したものの、熱中症で倒れる観客が続出したことから、当時、世間から批判の的となってしまった。その反省を踏まえて空調機器を増設したおかげで、場内は幾分暑さが和らいだ(とはいえ、暑さ対策を怠ると危険なことに変わりはないが。)。
 外苑西通りを渡り、競技場の敷地に入ると、二人は案内看板を頼りに、チケットに記載されているゲートへ向かった。
「ここですね」
 まだ開場したばかりで、スタンバイしているスタッフたちの視線をもろに感じるくらい、人はまばらだった。
「こちらで座席指定券を発行いたしまーす」
 学生と思われる女性係員の声に従い、二人は座席指定券を発行してもらった。その後、ペンライト、ライブ限定グッズの販売案内や有料衛星放送の加入案内のパンフレットなどが入ったビニル袋を受け取り、中へと進んでいく。
「階段、下りるのか」
 森山は目の前にある階段を指差して言った。スタンド席へ続く上り階段の方は、スタッフ専用のようで封鎖されている。
「ということは……」彼女が座席指定券を見ながら言った。「アリーナ席ですかね」
「だったらいいなあ」
 彼女が階段を下り始めた。森山もその後に続く。階段の先の通路を奥へ進むと、視界が開けた。
「おお……」
 森山は思わず声を上げた。
 新国立競技場のフィールドはびっしりとパイプ椅子が敷き詰められており、その正面奥には装飾が施された巨大なステージが構えていた。演壇には様々な楽器がセットされており、巨大スクリーンが両脇に陣取っている。ステージ周辺には波、太陽、雲、稲妻などが描かれており、ステージ全体を包み込むように虹のオブジェがあり、そして、中央の最上部にはメンバー5人を象徴するかのような5つの星――。
「さすが、ラストライブらしく、派手ですね」
「50年間の集大成といったところだな」
 歩みを止めて二人はしばらくステージを見つめていた。
「よろしければ、座席をご案内いたします」
 二人の近くにいたスーツ姿の男性スタッフが駆け寄り、声をかけた。
「あっ、はい。この番号なんですが……」
 彼女が慌ててスタッフに座席指定券を見せた。スタッフは丁寧に座席までの道順を教えてくれた。
 二人は教えられたとおりに通路を進んだ。
「ここみたいですね」
 彼女が座席番号が書かれた看板を指差した。
「A6ブロックの8列……。ここだ」
 森山が先に椅子の列に入った。椅子の背もたれ部分に13、14と表示されている席に二人は腰かけた。
「ええっ、こんな良い席でいいのかしら」
 彼女は驚きの表情で森山を見た。
「こんなに至近距離なのは、初めてだ」
 森山はステージの方を向いたまま、答えた。
 A6ブロックはステージの最前部でかつ、真正面に位置していた。森山たちの場所からステージまでの距離は目測で20メートルほどしかない。
「私も初めてです、こんなに近いの。最後の最後にこんな良い席が取れるなんて」
 彼女が興奮気味に答えた。
 手にしていた荷物をまとめて椅子の下にしまい、森山は改めて周囲を見回した。良く見ると、フィールドの最後部にも小さめのステージが設けられていた。きっとライブの中盤でメンバーたちが移動して演奏するのだろう。何を歌うのだろうか。ライブ会場に入るといつも、待ち遠しくて仕方がない。彼女に同行できて、本当に良かった。
 ところで……。森山は気になっていたことを彼女に訊いた。
「ライブ、どなたかと行く予定だったんですか?」
「えっ?」
 森山と同じように会場全体をくまなく眺めていた彼女は、突然の森山の問いかけに驚いたのか、一瞬身体がびくっと震えた後、森山の方を向いた。
「いや、一緒に行く予定の人がいたのかなと思って」
 森山は座席指定券を取り出して、再び彼女に訊ねた。
「え、ええ。そうなんです。急に行けなくなっちゃって……」
「残念ですね。最後のライブなのに」
「そうですね……」
「あっ、今のうちにチケット代、払わないと」
 森山は慌ててポケットから財布を取り出した。
「お釣り、ありますか?」
 1万円札を2枚、彼女に差し出した。チケット代は1万2千円だ。
「ごめんなさい、細かいの、私も今持ってなくて。後でいいですか?」
「ああ、わかりました。すみません、ちょうどの金額、用意してなくて」
 森山は彼女に頭を下げ、財布をポケットにしまった。
「いいえ、こちらこそ、すみません」
 彼女も森山に頭を下げた。
 突然、大音量の音楽とともに、ステージ両脇のモニターに映像が映し出された。ライブのスポンサー企業のコマーシャルフィルムだった。自動車、清涼飲料水、旅行代理店、通信キャリア、映画など、サザンを起用している大手企業の宣伝が立て続けに流れていく。定期的に流すことになっているのだろう。
 コマーシャルが終わると、女性の声でライブ観覧の際の注意事項がアナウンスされ、会場内は再び小さめの音量で洋楽のBGMが流れ始めた。
「サザンはずっとお好きなんですか?」
 彼女が森山に声をかけた。
「ええ。30年近くファンをやってまして」
「30年か……。最初に買った曲って覚えてたりしますか?」
「もちろん覚えてますよ。『涙のキッス』」森山は民放の長寿音楽番組の名を挙げた。「あの番組で天安門広場から中継で演奏しているのを見て、良い曲だなって思って。次の日、CD買いに行きましたよ」
「天安門広場ですか」
「そうそう。ちょうどその時、中国でサザンがライブを開催中だったから」
「そうだったんですね」
「それまでサザンのことは何も知らなかったんですよ。曲は聴いたことがあっても、それがサザンだと認識してなくて。桑田さんと原坊が夫婦だということも知らなかったし。でも、それをきっかけに過去のアルバムを片っ端から聴いているうちに虜になっちゃって。初めてライブに行ったのは、静岡の浜名湖にある渚園というところでのデビュー20周年の野外ライブ」
「DVDで見たことあります。よくチケット取れましたね」
「当時はファンクラブの優先予約に頼らなくても、余裕で一般販売のチケットが買えたんですよ。俺、発売開始日が平日で学校だったから、親に頼んでJRの最寄り駅にある旅行代理店で買ってもらったんです。家族の分と友達の分と、祖母の分まで買っちゃって」
「お祖母さんもサザン好きなんですか?」
「ええ。初めてテレビでサザンを見た時は衝撃的だったって言ってました」
「凄い。割と簡単に何枚も買えたんですね」
 彼女は目を丸くした。
「そうなんですよ。あの頃は今と比べて割と買いやすかったみたい。『TSUNAMI』が大ヒットしてからかな。ファンクラブに入らないとチケットが買えなくなったのは」
「今では考えられないですね」
「楽しかったなあ」森山は感慨深げに遠くを見た。「会場から長蛇の列が出来て、最寄駅から会場に入るまで随分遠回りさせられてさ。会場は芝生の広場みたいなところで、5万人が入ったんだよね。人が多いから、ライブが終わった後もなかなか出られなくて、終電の臨時列車にギリギリ飛び乗って帰ったよ」
「初めて行ったライブのことって、ずっと覚えていますよね。私は30周年の横浜国際競技場でのライブが最初でした」
「あれね。無期限活動休止前の」
「会場全員でメンバーへのサプライズで、最後にパネルで絵文字作りましたよね」
「そうそう。『WE ARE SNS FAMILY』ってね」
「あの時は、このままフェードアウトしちゃうんじゃないかって思えて、寂しかったな。『必ず戻って来るから、みんなそれまで死ぬなよ』って言われても、無期限って言葉が引っかかって、信じきれなくて」
「言ってましたね。でも、約束通り戻ってきた」
 森山は頷いた。
「だけど、今回はあの時とは違う。もうサザンは戻ってこない。桑田さんの発表をラジオで聞いて、そう思ったんです。そう思ったら、最後のライブは何としても見なきゃと、居ても経ってもいられなくなって、今日ここまで来たんです」
「良かったです。私のチケットがお役に立てたようで」
 彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
「本当にありがとう」森山は頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ、一緒に観てくれる方がサザンの大ファンで嬉しいです。ありがとうございます」
 彼女は慌てて森山に手を振りつつ、礼を言った。
「グッズ、買いに行きませんか?」
 森山はさっきスタッフから貰ったライブのグッズ販売の案内チラシを彼女に見せながら言った。
「はい」
 彼女は、先に席を立った森山の後に続いた。
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