第2話

文字数 12,885文字

 さっき席に来る途中に通ったテラスに、グッズ売り場があるのが見えたので、森山たちはそこへ向かった。売り場の前は行列が出来ていたものの、思っていたよりも回転が早かった。ひと通り買い物を済ませた二人は、売店でビールとポテトを買い、近くの飲食スペースのテーブルで時間を潰すことにした。
 生ビールの入った紙コップで二人は乾杯した。こんな猛暑の日にはビールの喉越しが心地良いが、外を見ると、空は入道雲が広がっていた。
「天気、大丈夫かな」
 森山は空を見つめたまま言った。二人の近くに設置された時計は、14時過ぎを指していた。
「今日は、雨の予報は出ていないですけどね」
 彼女がパウチに入ったトマトケチャップをフライドポテトの紙皿に出しながら答えた。どうぞ、と彼女に促されたので、森山は礼を言いつつ、ケチャップを付けたポテトを1本口に放り込んだ。
「Tシャツが売り切れだったのが、ショックだな」
 彼女が、購入したグッズの入った袋の中身を改めながら呟いた。欲しかったデザインのTシャツが彼女のサイズだけ売り切れていたので、仕方なく別のデザインのTシャツを買ったのだった。
「後で、通販で買っちゃおうかしら。あまり家に服を増やしたくないんだけど」
 彼女が苦笑しながら言った。
「最後なんだし、買っちゃっていいんじゃないですか? 買わないと後悔するかも」
「森山さんは通販で何か買うんですか?」
「この際だし、全商品買おうかな」
 森山がそう言うと、彼女は飲んでいたビールを思わず噴きそうになり、慌てて手で口を押さえた。
「ぜ、全商品ですか……。さっきも結構買いましたよね?」
「ああ、荷物も増えるし金もかかるから、買う物絞り込んだけど」
「あれで絞り込んだんですか?」彼女は目を丸くした。
「うん、俺、限定ものに元々弱くて……。今しか買えないって言われると、つい買っちゃうんだよなあ」
 森山は自分が買ったグッズで膨らんだ袋を見て、頭をかいた。
「わかります。最後ですもんね」
 彼女は頷いた。
 それからしばらく二人は、サザンに関する話題で盛り上がった。話が一段落したところで、森山は彼女に訊ねた。
「サザンで一番好きな曲って、何ですか?」
「一番好きな曲ですか? えー、どれも好きだから、1つに絞り切れない」
 彼女は両手を頭に当て、悩み始めた。
「まあ、そうですよね。名曲がいっぱいあるからね」
「うーん」しばらく悩んでいた彼女は、答える代わりに森山に訊ねた。「森山さんは一番の曲ってあるんですか?」
「俺は一番の曲は決まっているんです」
「えっ、何ですか?」彼女は両手を下ろした。
「『勝手にシンドバッド』」
「意外」彼女は驚きの声を上げた。「もっと隠れた名曲が好きなのかなって思ってました。あの曲はライブには欠かせないですもんね」
「うん」
 森山はビールを一口飲んだ。
「俺、見ての通り、見た目も冴えないし、頭も悪くて鈍臭い人間で」
「そんなことはないですよ」
 彼女は真面目な表情で首を左右に振った。
「いや、実際のところ、そうなんです。学生時代は勉強もスポーツもろくにできなくて、暗い性格で。そんなんだから、女の子はもちろん、男すらも近づかなくて。大学に行って、ますます悪循環に陥って、まともに人付き合いもしなくなって」
 彼女はじっと動かずに、黙って森山の話を聞いていた。
「そんな俺でも大学を卒業し就職してから、一度結婚したんです。でも結局すぐ別れて、また一人になっちゃって、このまま生きていていいのかって思うようになりました。そんな時、サザンの歌には随分助けられました。サザンがいなかったら、俺はとっくにこの世からいなくなってたと思う」
「そんな過去があったんですね。今、お仕事は何をなさっているんですか?」
「ビルメンテナンス会社です。あちこちの建物の管理をしてきて、今は新宿の本社で経理の仕事をしています」
「本社に勤めているなんて、優秀なんですね」
 彼女が尊敬のまなざしを森山に向けた。
「違いますよ。他に人がいないから。あっ」森山はそこで右手を左右に振った。「他の人じゃ務まらないって意味じゃなくて、誰もやりたがらないってことね。経理って地味で面倒臭いから」
「そうなんですか? 経理って、仕事を熟知していないとできないんじゃないですか。高度な判断も求められそうですし」
「その逆ですよ。誰だってできるし、俺みたいな平社員には高度な判断ができる権限も持ってないですからね。どいつもこいつも我が社の台所事情をろくに知らずに言いたい放題言ってくるし、損な役回りですよ」
「大変、ですね」彼女は間を開けて言った。
「いい加減、他の部署に異動したいよ」
「でも、他にやる人がいない、と」
「そうなんだよね」森山は腕組みをして首を左右に振った。
「それじゃ結構、ストレス溜まりますよね」
「溜まる溜まる」
 森山が即答すると、その反応がおかしかったのか彼女は笑った。
「どうやって解消してるんですか? 何か趣味とかあるんですか?」
「俺、これといった趣味がなくて、たまにカラオケに行くくらいですかね。一人で行くこともあれば、会社の人たちと飲み会の後に行ったりとか」
「歌うのはもちろん」
「サザンですね」
 森山は彼女に続けて答えた。
「今の会社に入った頃、カラオケで桑田さんの声を真似て『勝手にシンドバッド』を歌ったら、結構受けて」
「本当ですか?」
「酒の勢いでライブのように皆を煽って盛り上げて歌うから、普段とのギャップが激しいんだと思う」
「ええっ? そんなにハイテンションになるんですか?」
 彼女は身体を仰け反らせた。森山は頷いて続けた。
「うちの会社が入っているビルが、毎年夏にテナント対抗のカラオケ大会を1階の広場で主催していて、会社の皆から出ろ出ろと言われて、仕方なく出たんだけど、そしたら結構上位の成績だったもんだから、それから毎年出るようになっちゃって」
 苦笑した森山に彼女が言った。
「でも、まんざらでもない感じですね。カラオケ大会に出るの」
「ええ、まあ、ね」
 森山は恥ずかしくなり、頭をかいた。
「ステージに立ってあの歌を歌っている時って、とても気持ちいいというか、高揚感で満たされるんですよ。別の自分に変身しているような感じで。きっと桑田さんもこの高揚感がたまらなくてサザンを続けてるんじゃないかって、そう思えるくらい」
「そうかあ。それじゃあ、会社の人も森山さんを見る目が変わったんじゃないですか? 女性からモテるようになったとか」
「見る目が変わったのは確かですね」森山は笑いながら答えた。「女性からはますます変な奴だと思われて、近寄らなくなりましたよ。男性の同僚や上司は面白がってくれるんだけど」
「そうですか…」
「でもまあ、それでいいんです。皆が楽しんでくれるんなら、年に1回くらいはそういうことをしてもいいのかなって。誰かに自分を認めてほしいっていう気持ちも、ないわけではないし」
「自分を認めてもらえるのって、多少なりとも嬉しいですもんね」
「そうですよね」
 森山は深く頷いた。「四六時中注目されると疲れちゃうし。そう考えると、サザンって50年間もこうして注目され続けてきて、凄いなあって思いますよ」
「本当ですよね」
 彼女は、近くに掲示されているサザンのライブのポスターを見ながら応じた。
 それから二人はしばらく会話を交わし、ジョッキと皿が空になったところで、観客席に戻った。電光掲示板の時計は15時を回っていた。競技場の真上の空は灰色で、夏の15時台にしては暗く、さっきは点灯していなかった照明が観客席を控えめに照らしていた。
 開演まで1時間を切り、大勢の観客が席についていた。スタンド席では、サザンのライブでは恒例となっているウェーブを何度も行っていた。法被を着ている人、メッセージ入りのうちわを持っている人、フェイスペインティングをしている人……どの客もサザンの最後の勇姿を見届けようと、開演を待っていた。
「どうして、サザンを好きになったんですか?」
 森山は彼女に訊ねた。
「昔、付き合っていた人がいて、その人がサザンのファンだったんで、その影響で私も好きになったんです。一緒にCDを聴いたり、年越しライブにも行ったりしたけど、取るに足らない、ほんの些細なことがきっかけで喧嘩別れして、それっきりになっちゃいました」
「そうなんですか」
「今でも、彼にまた会いたいって、ほんの少しの時間でも構わないから一緒にいたいって思うことがあって。叶わないということはわかっているんですけど、サザンを好きでい続けたらもしかしたら、って思って……」
 叶わないということは分かっている? 
 森山は彼女の言葉が引っかかったが、うつむき気味に話す彼女の姿を見たら、その言葉の真意を訊くことはできなかった。きっと何らかの事情で、二度と会えない関係になってしまったのだろう。そう思った。
「昔の恋人への義務感でファンを続けているんですか?」
 そうだとしたら、しんどくないのだろうか。森山はそう思いつつ、彼女に訊ねた。
「別れた直後は、少し義務的な感じでサザンを聴いていたこともあったけど、今は決してそんなことはなくて、心からサザンが好きです。曲を聴いていると幸せな気持ちになって、もうちょっと頑張ってみようかって気になるんですよ」
「わかります。もうちょっとだけ、もうちょっとだけって進んでいるうちに、いつの間にかここまで来てしまったっていうね」
「そうそう」
 彼女に笑顔が戻った。
 開演10分前になり、会場内の電光掲示板がカウントダウンを始めた。客席はどよめき、手拍子とかけ声がどこからともなく鳴り始めた。二人は周りの観客につられて立ち上がり、スタッフがせわしなく動き回っているステージを見つめた。
「きっと叶いますよ。その願い」
 森山は彼女を励ますように言った。
 3分前、1分前、30秒前、10秒前……。
 照明が消え、大音量の音楽とともに、ライブ開始を告げる映像が流れ始めた。客席は総立ちとなり、地響きのような歓声が沸き上がった。
「……ったわ」
 彼女が何か言葉を発したが、周りの音にかき消されたため、森山は気付かなかった。
 ステージの照明が点灯し、サザンオールスターズのメンバー5人がステージに現れた。歓声は一段と大きくなった。
 メンバーとサポートミュージシャンのスタンバイが完了し、1曲目の演奏が始まると、国立競技場が熱気に包まれた。


 4時間後、50年間の集大成となる最後の祭りが、幕を閉じた。
 だが、観客たちはなかなか席を立とうとしない。至るところからメンバーたちの名前を叫ぶ声、活動終了を惜しむファンたちの慟哭が聞こえてくる。このまま時が止まって欲しい。森山はステージを見つめながら思った。これで終わりだなんて信じられない。実はドッキリでしたって、桑田がおちゃらけてステージへ戻ってこないだろうか。
 しかし、そんな森山の期待も虚しく、ライブは終了したことを淡々と告げる男性のアナウンスが場内に響き渡った。森山たちの席周辺にもスタッフたちが駆け付け、速やかに出口へ向かうよう、大声で案内を始めた。観客たちはいよいよ観念し、ゆっくりと席を立ち上がり、帰る準備を始めた。森山たちも荷物をまとめ、入ってきたゲートへ向かって歩き始めた。
 ゲートへ向かう人たちで行列が出来ていて、なかなか前へ進まない。森山たちは一言も会話を交わすことなく、列の流れに身を任せていた。森山たちの後ろでファンの中年女性が号泣していた。皆、目が心なしか潤んでいて、足取りも重かった。
 結局、客席から国立競技場の外へ出るのに、30分近くもかかってしまった。
「残念だけど、これでおしまいなんですね」
 東京体育館へ続くペデストリアンデッキの上で、彼女が競技場の方を振り返りながら、ぽつりと言った。
 森山は特に反応しなかった。別のことを考えていたからだ。
 彼女と出会った時から、ずっと気になっていることがあった。最初、座席指定券引換券を手にしたとき「まさか」と思ったが、話をしているうちに「もしかしたら」と思わずにはいられなくなった。ライブが始まってからもその気持ちが消えることはなかった。むしろ、彼女に確かめなければという思いが膨らんできて仕方がなかった。
 このまま進んでいけば、JR千駄ヶ谷駅はもうすぐだ。彼女はさっき、自宅は千葉だと言っていた。駅についてしまったら、二人は別方向の電車に乗って別れてしまう。その前に聞かなければ。
 東京体育館メインアリーナ前の広場で、森山は歩みを止め、前を歩く彼女の背中に声をかけた。
「絵美子!」
 彼女が、振り向かずに立ち止まった。
「絵美子なんだろう?」
 森山は再び背中に声をかけた。
「名字が『石川』だし、顔が似ているから、最初見た時は驚いたよ。でも、お前はもうこの世にはいないから、そんなわけない、偶然だろうって思ってた」
 絵美子は森山に背を向けたまま、微動だにしない。
「でも、話をすればするほど、お前が絵美子じゃないかって思いが強くなってきたんだ。ライブ中も正直、気になってた。あの時のことを思い出しちゃってさ」
 森山と絵美子は大学時代の同級生だった。クラスやゼミ、部活やサークルが同じだったわけではなかった。同じ授業にそれぞれ一人で出席していて、森山が授業に遅れてしまった時に、ノートを貸してくれないかと絵美子に声をかけたのがきっかけで親しくなった。友達も少なく、地味な学生生活を送ってきた2人は、程なくして恋人同士の間柄になった。
 大学を卒業して2人は千葉県内で同棲を始めた。別々の会社に就職したが、2人とも人見知りで暗い性格だったこともあり、お互い、会社の人から言い寄られたりすることもなく、大学時代と何ら変わらず交際が続いたため、就職から1年後、それなら結婚してしまおうと2人は合意し、夫婦になった。
 それから1年経った冬の雪の日の夜、2人は喧嘩をした。喧嘩をすることはこれまでにもしょっちゅうあり、きっかけも些細なことばかりであった。今回も、森山が洗濯物を取り込むのが遅かったという、他愛のない家事の不手際で喧嘩が始まったが、この日は絵美子が積もりに積もったこれまでの不満が爆発し、遂には家を飛び出してしまった。
 こんな天気だし、すぐに戻って来るだろう。戻ってきたらいつものように謝って、仲直りすれば良い。森山はそう思い、雪の状況を伝えているテレビのニュースを見ながら、絵美子の帰りを待っていた。
 だが、1時間経っても2時間が過ぎても、絵美子は帰ってこない。さすがに森山は心配になり、絵美子の携帯電話に何度かかけてみたが、絵美子は出なかった。
 居ても経ってもいられず、森山はダウンコートを着て長靴を履き、家を出た。自宅のアパート前から幹線道路に通じる道路は十センチほど雪が積もっていた。
 幹線道路に出た。普段は交通量が多いこの道も、この日はクルマの往来がほとんどなく、静かだった。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。
 どこまでいってしまったのだろうか。森山はあたりを見渡しながら、慣れない雪道を歩いて絵美子の姿を探した。幹線道路沿いにある、コンビニやファミレス、レンタルビデオ屋にも入ってみたが、絵美子はいなかった。
 あちこち探し回って、森山は疲れてしまった。寒さで身体の芯まで冷えてしまったため、道路沿いの自動販売機で温かい缶コーヒーを買って一口飲んだ。
 コーヒーを飲みながら、もう少し探そうか、それとも一旦自宅に戻ろうか考えていると、ダウンコートのポケットに入っていた携帯電話が鳴った。
 絵美子か。
 森山は携帯の画面を見たが、そこには携帯電話に登録されていない番号が表示されていた。普段なら知らない電話番号からの電話は無視するのだが、このときばかりは電話に出ろと言われた気がしたため、森山は意を決して通話ボタンを押した。
「森山雅哉さんの携帯電話ですか」
 スピーカーから男性の声が聞こえた。男性は市民病院の人だと名乗った。話を聞いて行くうちに、コーヒーを飲んで温まったはずの森山の顔が徐々に青ざめていった。
 それから1時間後、森山は市民病院の一室で、帰らぬ人となった絵美子と対面した。
 家を飛び出した絵美子は、アパートから5キロ近く離れている幹線道路で、雪道でスリップしてコントロールを失ったクルマに撥ねられてしまったのだという。すぐに救急搬送されたが、病院へ着く前に息を引き取ってしまったと、後に警察や病院の人から聞かされた。
 数日後、絵美子の葬儀が執り行われた。森山は絵美子の両親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分が、家を飛び出した絵美子の後をすぐに追っていれば、こんなことにならなかったかもしれないと、何度も何度も土下座して謝った。だが、絵美子の両親は森山を責めることはしなかった。悪いのは、あんな雪の日にノーマルタイヤでスピードを出していたクルマの運転手なのだからと。実際、クルマを運転していた20代の男が葬儀会場に現れた時、絵美子の母親は顔を覆って号泣し、父親はもの凄い剣幕で男を怒鳴りつけて追い返しており、森山とは全く異なる対応だった。だからといって、森山の気持ちが変わることはなかったが。
 それからというもの、森山は毎年、絵美子の墓参りに行くようになった。最初の頃は、絵美子の実家へも行き線香を上げていたが、見かねた絵美子の両親から、かえって我々が辛くなるから来るのはよしてくれと言われたため、それ以降、両親には黙ってお墓にだけ行くことにした。
「あれから10年経ったんだな」
 森山は絵美子の背中に声をかけた。「今日、こうして会うことができて、嬉しいよ」
 絵美子が振り返った。口元が歪み、目から涙が溢れている。
 森山は絵美子に駆け寄り、彼女を抱きしめた。
「あの時は済まなかった。申し訳ない」
 絵美子が涙声で言った。
「もう自分を責めることはやめて。あの時、家を出ていった私が悪いんだから」
 二人はしばしの間、無言で抱擁を交わした。
「あの時」森山が口を開いた。「どこへ行こうとしてたんだ?」
「実家よ」絵美子が森山から身体を離しながら答えた。
 彼女の実家は最寄りの駅から3駅目のところにあり、最初は電車に乗ろうとしたが、積雪で運転を見合わせていたため、流しのタクシーを探しつつ、実家までの10キロ近い道のりを歩いている途中で事故に遭ってしまったのだと、絵美子は説明した。
「そうだったのか……」
 森山はうつむいた。絵美子が慌てて言った。
「だから、もう自分を責めないでって。私だってあんな些細なことで怒らなければよかったんだし、お互い様でいいんじゃない?」
 森山が顔を上げた。「お互い……様?」
 絵美子は大きく頷いて、森山の両腕に触れた。
「だから、これからは私のことは気にしないで。あなたのこと、ずっと見ていたけど、どうも私にいろいろと気を遣っていたみたいだから……。これまであなたを苦しませて、こっちこそごめん」
「そんな。お前が謝ることじゃ――」
 その瞬間、鋭い稲光とともに、地響きがするくらいの雷鳴が轟いた。同時に雨が突如激しく降り始めた。
「こりゃひどい。早く駅へ行こう」
 森山は絵美子の手を引いて、JR千駄ヶ谷駅へ向かって走り出した。
 駅前の交差点では、ライブの運営スタッフや制服姿の警備員がずぶぬれになりながら交通整理をしていた。歩行者信号が点滅し、スタッフたちが渡るなと大声で叫んでいたが、2人は構わず横断歩道を渡って駅舎へ駆け込んだ。
 駅構内は、森山たちのように雨を凌ごうと急いでやって来た人たちで、ごった返していた。2人はそそくさと改札を通過し、はぐれないように手を繋ぎながら、ホームへ向かった。
「どうして今日、俺と会ってくれたんだ?」
 森山は前を向いたまま、絵美子に訊ねた。
「あなたにはこの先自由に生きてほしくて」絵美子が答えた。「私だけでなくサザンもいなくなってしまったら、あなたには拠り所がなくなってしまうでしょ。そんなあなたの姿を見るのは辛いから、今日会うことにしたの。あなたのことだから、チケットを持っていなくても会場に来るだろうと思って」
「さすがだな。俺が来るのをお見通しとは」森山は苦笑した直後、絵美子を睨んだ。「しかし、人が悪いぞ。今の今までずっと正体を明かさずにいるなんて」
「怖かったの」絵美子はうつむいた。「正体を明かした時、あなたがどう反応するか怖くて。だから、あなたが気付いてくれるのを待っていたの」
「そうだったのか」
「それに、ライブ前に私だとわかったら、あなたが動揺してライブに集中できなくなっちゃうかもしれないじゃない」
「優しいんだな」
 森山は再び苦笑した。そして続けた。
「絵美子、俺の拠り所はこれからもなくなることはないぞ。月並みな言い方だけど、お前もサザンも、俺の中でこれから先、ずっと生き続けるからな」
「俺の中で…?」
「ああ」森山は絵美子に向かって頷いた。「さっき、桑田さん、歌ってたろ? ビートルズの」
「レット・イット・ビーね」
 ライブのアンコールで数曲唄った後、サザンのメンバーだけの演奏で、桑田がビートルズのレット・イット・ビーを唄ったのだった。2番まで唄った後、桑田は観客に向かって喋り始めた。
「みんな、今日は長い時間付き合ってくれて、本当にありがとう。僕たちメンバーも凄く楽しませてもらいました」
 桑田がお辞儀をすると、観客席から拍手が沸き起こった。
 拍手が止むと、桑田は続けた。
「活動終了の話を初めてした時――僕のラジオ番組ですけど――その時にも言ったかもしれないけど、物事にはいつか終わりがやってくるものだからね。それがサザンにとっては今だったということです。我々メンバーも70を過ぎて、残された時間が限られてきておりまして、今まではファンの皆さんや多くの関係者の方々のことを第一に考えて生きてきましたけど、これからは自分たちのことを最優先にして、多少ワガママと言いますか、レット・イット・ビー、『あるがままに』生きていこうかなあって思っています。ですから、皆さんも我々のことは早々に忘れてもらって、『あるがままに』これからの人生を楽しんでほしいなと思い、ちょっと歌わせていただきました。
 この仕事って本当、浮き沈みが激しくて、自分たちがいくら続けていきたいと思ってても、なかなかそれが叶わない厳しい世界なんです。そんな世界で、僕たちみたいなのが半世紀もやらせてもらえて、本当に幸せ者だなと、メンバー一同、心からそう思っております。皆さんのおかげです。50年間、本当にありがとうございました」
 サザンのメンバー5人が立ち上がり、深々とお辞儀した。観客席から無数の慟哭が響き渡った。
 桑田は顔を上げた。晴れやかな表情をしていた。
「それじゃ、最後は僕たちの活動の出発点であるこの曲で盛り上がって、元気に締めたいと思います」
 桑田はスタンド席、アリーナ席、そして、全国各地で開催しているライブビューイングの開場に向かって、声をかけた。
 ドラムの松田弘のかけ声で、「勝手にシンドバッド」の演奏が始まった――
「何があっても、それを嘆いたり悲しんだり恨んだりせず、『あるがままに』受け入れて、自分の心のままに精一杯生きていく。これからはそうしようと思う」
 森山がそう言うと、絵美子は笑みを浮かべた。
「大丈夫そうね。安心した」
 絵美子がホームで見送ると申し出たため、2人は階段を上り、総武線各駅停車の下り線ホームに辿り着いた。電車が来ることを知らせるアナウンス放送が流れていた。
 森山にはまだ絵美子に訊きたいことがあった。
「なあ、絵美子」
 どうやって今日のチケットを手に入れたんだ?
 そう言おうとした瞬間、また白い光とともに雷鳴が轟いた。2人は驚いて、思わず繋いでいた手を離してしまった。
「うわあ、だいぶ近くで落ちたな」
 森山は絵美子の方に顔を向けた。しかし、そこにいるはずの絵美子の姿はなかった。
「あれ、絵美子?」
 森山は立ち止まってあたりを見渡したが、絵美子はいなかった。
 三鷹行きの電車が入ってきた。森山はホームを走りながら絵美子を探した。
 もう帰ってしまうのか? いきなり過ぎるじゃないか。
 乗降客が行き交うホームの人ごみをかき分け、森山はホームの最後尾まで辿り着いたが、絵美子はとうとう見つからなかった。
 発車ブザーが鳴り響き、電車のドアがホームドアとともに閉まった。
 今日は願いが叶って良かった。ありがとう。元気でね。
 どこからともなく、絵美子の声が聞こえた。
「元気でね、か……」
 森山は小さくそう呟くと、絵美子を探すのを諦め、次の電車を待つ列の最後尾に並んだ。
絵美子と一緒にサザンの最後の勇姿を見られたのだから、十分だ。これ以上一緒にいたいだなんて、贅沢にも程がある。だいいち、『あるがままに』生きていくって絵美子に宣言したばかりではないか。森山はそう気持ちを切り替えた。
 森山の前に並んでいる年配女性4人組の会話が耳に入ってきた。サザンのライブの観客であることは服装や荷物から明らかだった。周りが騒がしくて断片的にしか聞き取れなかったが、内容はだいだい把握できた。そしてその内容は、森山が認識しているものとは全く違っていた。最初、森山は自分の耳を疑った。だが、彼女たちの様子を見る限り、出任せで喋っているようには思えなかった。
 森山は、普段苦手意識を持っている年代の彼女たちに声をかけることができなかったため、スマートフォンで検索サイトのアプリを立ち上げた。
 ニュース検索結果の最初の見出しを見て、森山は思わず、あっと声を上げてしまいそうになった。急いでその見出しをタップした。

サザン ラストライブ中止 桑田佳祐の体調不良で

 ●日に東京・国立競技場で開催されるサザンオールスターズの活動終了前の最後のライブが中止となったことを、同日午後、所属事務所が発表した。ボーカルの桑田佳祐が一昨日から風邪を患っており、昨日のライブ後、喉が炎症を起こしていることが発覚。医者から安静にするようにとの診断を受け、メンバーと協議した結果、大事をとって●日の公演を中止する結論に至った。チケットの払い戻しや再演については、後日所属事務所から公式ホームページ等で告知する――

 記事の末尾には、所属事務所からの発表内容の全文と合わせて、桑田本人からのメッセージ全文が掲載されていた。メッセージには、今日ライブを楽しみにしていた人たちに対して本当に申し訳ないという謝罪の意と、これから関係各所と調整することになるため、今すぐ詳細について明言はできないが、今日の埋め合わせは後日、別の機会に何としてでもやるという強い意思が綴られていた。
 俺がさっき絵美子と見たライブは、一体何だったんだ。俺は確かに最後、「勝手にシンドバッド」を他の観客と一緒に熱唱したはずなのに……。そうだ。
 森山は座席指定券を確認しようとズボンのポケットに手を入れた。しかし、ポケットには何も入っていなかった。
 お前がライブを見せてくれたのか、絵美子……。
 中野行きの電車がやって来たが、森山はそれには乗らずに、ライトアップされた国立競技場をじっと見つめた。列の後ろの客たちは森山をよけながら、電車に乗り込んでいった。


 それから1か月後。
 森山は新宿五井ビル主催のテナント対抗カラオケ大会のステージ裏で、出番を待っていた。今年も上司から出てくれと言われ、引き受けたのだった。もはや毎年恒例となっているタンクトップとジョギパンという、サザンのデビュー当時の衣装で、森山は、一緒に出るサンバのダンス衣装に身を纏った同僚たちと缶ビールを飲みながら談笑していた。
「しかし、森山さん、さすがですよね」
 後輩の男性社員の一人が、森山の衣装姿をしげしげと見つめながら言った。「俺には到底真似できないっすよ」
「お前に言われたくないよ」森山は顔をしかめた。「お前だって、そのまま浅草のサンバカーニバルに出場しても違和感ないぞ」
「いやいや、俺には森山さんのようなパフォーマンスは無理ですもん。よく人前であれだけのことができるなあって。あっ、ディスっているわけじゃないですよ。リスペクト、リスペクト」
 他の同僚たちも同意して頷いている。
「もう俺は、これで最後の出演にしようと思ってるんだ」
 缶ビールを屑入れに入れながら、森山は言った。
「えっ、何でですか?」
「引退ってこと? まだ早すぎるでしょう」
「ひょっとして、先輩、サザンの真似?」
 同僚たちが驚いて矢継ぎ早にコメントしてきた。
「さあ、もう出番だから行こう」
 同僚たちから逃げるように、森山はステージ袖へ向かって走り出した。
 前の参加者の女性2人組が歌い終わり、ステージから戻ってきた。
「続きましては、ここ数年の常連となっております、株式会社山田メンテナンスの社員の皆さんで結成したユニット、『森山雅哉と愉快な仲間たち』で曲はお馴染み、サザンオールスターズの『勝手にシンドバッド』です。どうぞ!」
 森山たちは曲のイントロが始まると同時に、ステージへ飛び出した。
 ラーラーラーララララーラーラー…
 同僚のダンサーたちが半ば自棄になってコーラスを唄いながら、狭いステージを縦横無尽に動き回る。森山が桑田の声色で歌い始めると、五井ビルの広い中庭に設けられた観客席から歓声が沸き起こった。
 この瞬間が快感だった。だが、それも今日が最後だ。
 絵美子と会ったあの日、森山はカラオケ大会への出場を今回限りにしようと心に決めた。もう、無理して自分を輝かせようとするのはやめにしよう。物真似は好きだし、やっている間は楽しい。周りも受けてくれるから、ついつい調子に乗ってしまう。でもそれは借り物の自分であって、本当の自分ではなかった。だから、終わった後に本当の自分が戻って来ると、突如虚しさが大波の如く襲ってきて、その虚しさは物真似をしている時の快感をいつも上回っていた。これからは自分の好きなように、自由に生きてみよう。やりたくないことは無理にやる必要はない。そうすることが、自分にとってマイナスになったとしても、損することになったとしても、レット・イット・ビーだ。
 ついこの間、サザンオールスターズ応援団から郵便が届いた。中止になってしまったライブの代替公演を年末に行うことが決まり、さらに嬉しいことに追加公演を実施することになったため、その抽選案内が同封されていた。案内の書類には、ライブが今回延期となったので、活動終了は一旦保留とし、もうしばらく我々のワガママに付き合って欲しいという趣旨の、サザンからのメッセージが綴られていた。
 もちろん森山は、追加公演の抽選にエントリーした。それも2枚。
 年末、絵美子と一緒に、今度こそ本当のライブを見よう。
 ライブに当選するのも、絵美子に会えるのも決まってはいないのに、どちらもきっと叶うと森山は思っていた。根拠は全くないが、叶う気がした。
 歌は最後のサビに入っていた。森山は観客にも手拍子やコーラスを要求し、一心不乱に桑田を演じた。エンディングのコーラスを歌いながら、森山が改めて客席全体を見渡すと、最後部にある中庭の噴水のそばで絵美子がこちらを見つめていた。
 絵美子、見に来てくれたのか。
 その直後、ダンサーたちが森山を囲む形で踊り出したため、客席が一瞬見えなくなった。曲はフェードアウトし、森山は抱き付いてきた男性のダンサーの頭を、サザンのライブで桑田がよくやるパフォーマンスの如く「馬鹿野郎」と小突いて、カラオケは終了した。
 客席から大きな歓声と拍手が沸き起こった。
 森山たちは観客たちに向かってお辞儀した。噴水のそばに絵美子の姿はもうなかった。
 ありがとう、絵美子。また国立で会おう。
 森山は晴れやかな笑顔で観客たちに手を振りながら、ダンサーたちと一緒にステージを後にした。
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