かぐや王子と玉子

文字数 3,245文字

莫対月明思往事・損君顔色減君年
「贈内」『白氏文集』巻十四



鋭い、獣の爪のような月が、藍色の空に、白く細く光っていた。
Mはアパートの階段をカツン、カツンと音を鳴らしながら上る。夜勤の仕事が終わった帰り、身体はくたくただが夜風は心地よい。
「あ、どうも。」
部屋に入る前に、左隣の部屋の青年と出会した。腕に天体観測用の望遠鏡ーゴルフバッグのような黒い袋を抱えている。Mのアパートの左の隣人は、風変わりな、天文学者を夢見る青年Nである。たまにアパートの廊下ですれ違うが、貧弱な痩躯と白い肌に、もじゃもじゃの、クラシックの作曲家みたいな髪型をしている。
Mはスーパーの袋を持っていたが、Nはちら、とそれを見て言った。
「私、玉子嫌いなんです。」
Mはスーパーの袋のなかの、一番下に居座る透明のパックに、仲良く並んだ玉子を見下ろした。
「どうして?うまいし、使い勝手が良いし、栄養価高いよ。」
「むかし、フィンランドの神話で、女神イルマタルの膝から落ちた鴨の玉子の黄身が太陽になって、白身が月になった、というお話を読んだのです。それから、食べるのがなんだか怖くなって。」
「その話、怖いのか?君は随分怖がりだな。ところで、ちゃんとごはんは食べているの?」
「食べています。グミとガムですね。」
「碌に食べていないね。しかも、こんな深夜に起きているのかい?若いのに身体に良くないよ。」
「天体を見るには深夜ですよ、Mさん。それに、グミにはコラーゲンが入っていて肌に良いですし、ガムは顎と歯に良いのです。」
ああいえばこういう、とMは疲れた脳でぼんやり考えた。
もしーもし自分に息子がいたら、これくらいの年齢だったろうな、と独身のMはなんとなく父親風情になっていた。
「まあ、N君、研究もそこそこにしなさいよ。大学時代、若いうちはいいけど、身体は資本だから大事にしないとさ。」
「ありがとうございます。それでは、気をつけて行ってきます。」
Nはふらふら望遠鏡を担いで、アパートの階段を降りていった。確か、彼は自転車しか持っていないはずだーとMは考えた。
「でも、あれだけ好きなものがあるって、良いよなあ。まあ、身体は壊さないようにはしてほしいな。」
Mはカーテンの隙間から、月光に照らされたNの、自転車に乗る、後ろ姿を見送った。


次にMがNに会った日は、休日で、ちょうどスーパームーンの日だった。
Mの持つ切子のロックグラスの中に、まん丸の黄金の月が反射して浮かんでいる。 Mはそれをそうっと飲んだ。月見酒だ。
Mがアパートのベランダで、スーパームーンを晩酌の肴代わりに見ていると、Nが外から帰ってきた。Mは2階のベランダから、1階の駐輪場に自転車を停めたNに話しかけた。
「やあ、N君。今夜は見ての通り満月が凄いぞ。スーパームーンだ!君も心躍るだろう?」
「こんばんは、Mさん。ーあまりスーパームーンは見ない方が良いですよ。あ、ちなみにスーパームーンは占星術用語で、天文用語ではありません。正確にはperigee-syzygy、近点惑星直列、あるいはperigee full new moon、近点満月です。どちらにしろ見過ぎると良くないのです。」
MはNの解説はよくわからなかったが、Nがスーパームーンをよく思っていないのを不思議に思い、尋ねた。
「N君はどうしてスーパームーンや満月をあまり、見ないの?」
「ああ、昔海外にいた時の影響です。日本人は古来より満月を愛でますが、私は英国で怖いことを聞いたのです。」
「怖いこと?」
「ー私は英国に居住していたとき、月狂条例、精神異常法の勉強をしました。ルナティック・アサイラムについてです。」
「ルナティック・アサイラム?」
Mは、彼の好きな英国のバンド、Kasabianのアルバムをふと思い返した。
「どういう意味の言葉?」
「古い言葉で、精神科病院という意味です。ルナティックは精神障がい者や月狂、アサイラムは保護施設の訳です。
月狂条例は、1845年、精神障がい者を保護施設へ収監するため成立した法律です。
ルナティックの派生でルナシーという単語は『狂気/精神異常』を指しますが、法律用語では『心身喪失』らしいのです。」
ルナシー。…Mは、若かりし頃の河村隆一を思い返した。
「あ、ちなみにバンドのルナシーのスペルは『LUNA SEA』ですよ。狂気という意味の『LUNACY』はインディーズ時代の綴りです。メジャーになる時に、『月のように変化があって、海のように深く』という思いで『LUNA SEA』に変更したそうです。」
「…君、僕の心が読めるのか?…しかもルナシー全盛期、君は生まれてないだろ…」
「ああ。母がロックが好きでしたので。」
「お母さん、お若いんだね…。」

Mはまた、吉川晃司のソロアルバムに「LUNATIC LUNACY」という曲があったことをぼんやり思い返した。あの曲の収録アルバム『LUNATIC LION』は、月狂のコンセプトアルバムだったのだなあ、と一人で感慨に耽っていた。
Nはルナシーの『Tonight』を一瞬口ずさみ、話を続けた。
「ルナティック・アサイラムに話を戻します。当時、英国では満月の夜には患者たちが異常行動をすると信じられ、ルナティック・アサイラム、精神科病院では患者たちを柱にくくりつけたり痛めつけたりしたそうです。」
「なにそれ。いやに非人道的だな。」
「ロボトミーをする時代ですからね。だからまあ、私は、つまり満月が怖いのです。気が狂うんじゃないかなって。しかも今日はスーパームーンです。怖すぎます。
日本人は月を愛でるのが昔から好きですよね。私、やはり日本には居ずらいなあ。」

Nは呟いた後、
「立ち話もなんですから、ちょっと失礼します。」
と言って、階段から自室に戻り、ガラガラ、とベランダを開けた。そして、右隣にいるMに再び話しかけた。
Nの白い顔はスーパームーンを受けて、能面のように光り、張り付いていた。Mは一瞬、怯んだ。
「ーおのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。ー私もそろそろ、月に帰ろうかと考えているんですよ。」
Mは酩酊してきて、だんだんふらふらしてきた。
「え?そうなの?N君、君は、かぐや姫?あ、かぐや王子?」
「信じるか信じないかはMさん次第です。」
「まあ、君、ちょっと変わってるしなあ。」
「ーある人の『月の顔見るは、忌むこと』と制しけれども、ともすれば、人間にも、月を見ては、いみじく泣きたまふ。」
「ん?月の顔を見るは、忌むこと?ー竹取物語でも、月を見ることはタブーだったのか。」
Nは月の光を真っ直ぐ見据えながら呟いた。
「莫対月明思往事・損君顔色減君年」
「なに、なに急に?なにそれ?」
Mはますます混乱した。
「月明に対し往事を思うことなかれ。君が顔色を損じ君が年を減ぜん。
ーつまり、月が明るいのに対して、過ぎた日を思ってはいけない。あなたの容色を損ない、寿命を縮めるだろう、という白居易の詩文集『白氏文集』の言葉です。竹取物語に影響を与えたとされています。」
「…君と話してるとなんか面白いな。月にはまだ帰らないでくれよ。」
「ええ。気まぐれですけど。」
Mの酔いは楽しげに進行して、吉川晃司の「LUNATIC LUNACY」を鼻歌で歌いながら、手元にあった温いカップラーメンの中に、生玉子を割り入れた。
カップラーメンの上には小さな太陽の黄身と、透明で白い月の白身が浮かんだ。Mはいよいよ楽しくなって、「LUNATIC LUNACY」を口ずさんだ。
「…OK!ばらしてやろうか?こわしてやろうか?くだいてやろうか?こわしてやろうか?くだいてやろうか?ばらしてやろうか?…」
「おやおや、Mさん、だいぶ出来上がっていますね。私は失礼します。それでは、また。」
カラララ、という音とともに、Nは姿を消した。カップラーメンを見ながらMは、
「満月があれほど怖いのに、かぐや姫ーかぐや王子?なんだなあ。」
とほろ酔いでつぶやき、月明かりに照らされながら、再び玉子を攪拌し、ラーメンを啜った。
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