第4話 浅井雅美(人事)目線:一年後

文字数 1,156文字

浅井雅美(人事)が見届けた結末:一年後

 はめ殺しの窓の一つ一つに、春の柔らかな日差しが挿しこんでいる。オフィスで働いている社員は疎らだ。書庫に向かう途中、調査課を通り過ぎると、大森課長が手を振ってくれた。一年前に彼女と共に滝本美香に解雇を言い渡した時のことが頭をよぎった。あの頃、現在の状態を予想できた人はいただろうか? 当初ゴールデンウイークまでには終息するだろうと言われていたコロナ禍は、二度目の春を迎えた現在も猛威を奮っており、第四波の到来が懸念されている。一時的な措置のはずだったテレワークもパーマネントな労働形態として定着した。うちの会社も現在は、週二日出勤、残りの三日は在宅という体制でシフトを組んでいる。

 ズームでの会議やセミナーをいち早く取り入れた松田支社長の尽力もあり、支社の市場調査は前年以上の実績を上げた。調査は会社に出勤しなくともできるということが見事に証明され、一部業務におけるAIの試用も始まった。唯一、松田支社長の計算ちがいだったのは、うちの支社の閉鎖が決まったことだ。オフィス・スペース削減を目的とした支社の統廃合の煽りを食ったのだ。ポジションを失った松田支社長の三月末付けでの退職も先週発表された。テレワークの成功が彼の首を絞めたとはなんとも皮肉な結果だった。幸いなことに、地道に実績を積み上げていた大森課長はチームごと別のオフィスへ転属することになった。私も本社人事部への転勤が発令され何とか生き残った。

 今日は朝から書庫に閉じこもって書類の区分け作業をしている。段ボールの中味を一つ一つ確認しては搬出先と機密レベルを記したラベルを貼っていく繰り返しだが、思いのほか疲れた。休憩を取ろうと普段は使わない調査課の給湯式に向かった。インスタント・コーヒーを水に溶かし、ミルクはないかと冷蔵庫を開けた。赤いタッパが眼に入った瞬間、強烈な腐敗臭が襲ってきた。

「浅井さん、開けちゃったんですね」
 背後に大森課長が立っていた。呆然としている私に彼女は続けた。
「それ多分、滝本さんが忘れていったお弁当です。私、あの日にそれを見て以来、冷蔵庫は開けないようにしていたんです。誰かが処分してくれるだろうって、みんなが同じ事考えていたのですね」

 私は黙って赤いタッパを取り出すと、数メートル先にあるシューターに投げ込んだ。たったこれだけの事を誰もできなくて、冷蔵庫が使いものにならなくなるまで腐敗が進行していた。弁当の呪いにでも怯えていたのだろうか? あまりの馬鹿馬鹿しさについていけない。トイレのシンクで悪臭のこびりついた手を何度も洗い流しながら、やっぱり汚れ仕事は人事の役回りということか、と思い至った。何もかもが滑稽に見えてきて苦笑してしまったが、自分の中で何かを納得した。

     (了)
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