第2話 大森真砂子(上司)目線

文字数 2,552文字

大森真砂子(上司)の憂鬱

 今日こそXデーだ。過去二ヶ月間、この日のために、内密に人事と入念な打ち合わせを重ねてきた。今時リストラなど珍しくもないが、従業員を解雇するにあたっては、細心の注意が必要だ。不用意な発言をすれば、不当解雇の訴訟を起こされかねないからだ。

 実はXデーは、一日延期されていた。解雇する予定の滝本美香が欠勤したからだ。昨日の朝、彼女から病欠の許可を求める電話を受けた時は、こちらの動きを感づいたのだろうかと一瞬冷や汗が出た。幸い今朝は、定時に美香は出勤してきた。彼女が仕事を始めるのを確認すると、事前の打ち合わせ通り、九時半に人事部の会議室で浅井雅美人事課長と落ち合った。私が着席するなり、浅井課長は通常の業務連絡と何ら変わらない自然さで、美香を電話で呼び出した。私にとって解雇を言い渡すのはこれが初めてだったから、美香が現れるまでの数分間は緊張のあまり声も出なかった。

 ドアのノブが廻る音で沈黙は破られた。美香は入室するなり、私の顔を見て大層驚いたようで何かを語りかけてきたが、浅井課長はそれを無視していきなり本題に入った。

「大変残念ですが、滝本美香さんは、本日を持って解雇となります」

 瞬間、美香の顔は生気を失い能面のようになった。現実を受け入れられない様子だった。

「これは、滝本さんの勤務評価とは全く関係ありません。滝本さんには、顧客から預かった機密市場情報の分析をして頂いておりましたが、今後この業務はAI(人工知能)に委託されることになったためです。会社の都合による解雇ですので、退職金に加え、今後半年間は、毎月給与の全額が支給されます。更に、ご希望でしたら、大手人材育成会社、マックス・コンサルティング社が提供する再就職支援の各種サービスも無料で受けて頂くこともできます」

 相手が能面から人間の顔に戻る前に間髪入れずに、グッド・ニュースを伝えるのが浅井課長の戦略だった。本人には何の落ち度もないこと、解雇の代償として、破格の退職金と特典が支給されることを告げると、大方の場合、被解雇者の錯乱を防げるのだという。

「ということは、同じ部門の他の従業員も全員解雇されるってことですか?」
 果たして美香は、浅井課長の狙い通り、こちらの真意を探ろうとする冷静さを見せた。
「他の方の人事情報については、お伝えできません」
 浅井課長は顔色ひとつ変えずに百合子の質問を突っぱねた。
「真砂子さんも解雇されるんですか?」
「いいえ。人工知能で全てを対応できるわけではありませんから」
 と言った瞬間『失敗した』と思った。解雇される本人以外の事は決して口にするな、と釘を刺されていたのに『この私が解雇されるわけがないじゃない』と言い返したい自尊心に負けたのだ。
「真砂子さんが私を解雇しなきゃいけない理由は、他にあるんじゃないですか?」
 案の定、百合子はこちらが話したくない所をついてきた。

 彼女は、二ヶ月程前に、私の指導方法を痛烈に非難したメールを松田支社長に送付した。いや、正確には送付しようとした。そのことが解雇と関係があると感づいたようだ。全くその通りなのだが、実はそのメールは、松田支社長ではなく、大口顧客である東洋物産の財務部長に送信されたのである。同じ松田姓で、下の名前がタカシとタケシの一字違いだったため、マツダとタイプした後に自動的にポップアップされるメールアドレスの選択を間違えたらしい。東洋物産の松田財務部長が、本文中の宛先になっていた我が社の松田支社長に、受信したメールを転送したことから、本件が発覚した。

 『内部告発メールの大口顧客先への誤送』という前代未聞のお粗末で不面目な不祥事は、情報漏洩事故として本社へ報告され、うちの支社の管理体制が問われる事態となった。松田支社長の怒りを買ったことは言うまでも無い。

「感情的になると見境がつかなくなってメールアドレスの確認もおぼつかなくなるような人間に、顧客の機密市場情報など預けられない」

 という支社長の鶴の一声で、美香の解雇は即時決定された。とはいえ、実際ヒトひとりを解雇することは容易ではない。労務関係の顧問弁護士も『この不祥事だけでは、解雇の理由として不十分』との意見だったが、やり手の支社長は何が何でも百合子をクビにしろと譲らない。検討の結果、本人の瑕疵ではなく、会社側の都合を理由とした解雇を適用することになった。AIの導入うんぬんは、そのために考え出した作り話だ。この結果、美香の退職条件は格段に良くなった。

 あの告発メールが東洋物産の松田財務部長に送られたことを、美香は未だに知らない。彼女を解雇した後に、内部告発メールで恨みをかって不当解雇されたと主張される訴訟リスクを考えて、雇用側は当該メールに気がつかなかったシナリオにしたのだ。

 彼女は知るよしもないが、あの誤送信が、どれだけ直属上司である私の評価を下げたことか……

 ――これ以上、問題を起こさずに退職金と共に大人しく出て行ってもらいたい。

 私が望むのはそれだけだった。切なる祈りが届いたのか、美香はこう言って立ち上がった。
「もう結構です。このまま帰宅しますので、机の中の私物は自宅に送って頂けますか?」
 安堵の余り腰が抜けてしまった私に代わり、浅井課長がその場を納め、百合子を送り出してくれた。

 美香のメール誤送信事故の後、改善策として情報管理強化委員会が設置され、私はその委員長に任命された。肩書きが一つ増えたように見えるが、実の所、あの件の不始末は私の責任であることの見せしめだ。その証拠に、予定されていた昇進は、『委員会の成果を上げるまでは見送り』とされた。東洋物産の松田財務部長からは「お宅の内部も色々あるみたいだからねえ」とクレームが入って以来、仕事の依頼はなくなった。内外からの信用をとり戻すには時間がかかりそうだ。

 人事部から戻る途中、給湯式に寄って新しいコーヒーを煎れた。ミルクを取り出そうと冷蔵庫を開けると、見覚えのある赤いタッパが目に飛び込んできた。もしかしてと嫌な予感がした瞬間、見なかったことにして勢いよくドアを閉めた。魑魅魍魎には関わらないのが一番だ。そう自分に言い聞かせると、自分の席へと急いだ。

            (続く)
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