ふと、思う

文字数 2,158文字

 春めいてきたのに、私には夢がない。小学校の卒業文集に書いたなりたいものは「公務員」だった。まるで曲の一節だが、一番食いぶちに困らないであろうと思ったからである。実にかわいくない子供だ。しかし、こんな子供が増えているのではないかと、子供おばさんは心配なのだ。
 小説やキャッチコピーを賞に応募しているくせに、今では別に作家にもコピーライターにもなりたくない。ありがたいことに「親のすねかじり」を堂々とさせていただいている身だ。しかしながら、私のように夢を持たない人間が現代には増えてきている気がする。いや、気がする、ではない。確実に増えた。
 憧れとは一体なんだろう。いい暮らしとはなんだろう。戦後は復興を掲げ、先達は遮二無二働いてきた。だからこそ今の日本がある。バブル期やその後も「24時間働けますか」なんて今では地獄だ、コンプラ違反だなどと騒がれるようなキャッチコピーがあった故、みんな身を粉にして働いてきたのだろう。だが、それで得たものは何だったのだろうか。これはきっと、世界中で同じことが起きている。
 日本だけではなく、世界の問題。少子高齢化と働き手不足。諍い。数えだしたらキリがない。
 生きることはとてもシンプルで、食えて、屋根のあるところで眠ることができ、安心できる居場所と、ストレスを発散できるようなささやかな娯楽があればちょうどよい。このシンプルなことをいくらでも豪勢にしようと思えばできるだろう。上を見ればきりがない。下を見てもきりがない。でも、豪勢にすればするほど虚しさを感じるのではないだろうか。
 金はないよりあるほうがよい。だけど金があっても解決できない物事は山程あるのだ。いくら金持ちでも、担い手不足で今まで受けられたサービスが受けられなくなることはある。豪華な食事だって、生産農家や運送業界が人手不足だったらできない。それなのに都会の人々は、「金さえ払えばなんだってしてもらえる」という欺瞞を持っているように見える。きっと、私もそのひとりだ。
 さて、最初の話に戻ろう。夢がない。「こんな大人になりたい」という人がいない。「こんな老後を送りたい」という手本もない。人間というのは案外オリジナリティというものに欠けている生物なのかもしれない。手本となる「夢のような絵に描かれた素晴らしい大人」など幻想だ。今突きつけられている現実的問題は、子供の想像力を育む時間を奪うかもしれない。勉学の環境を奪うかもしれない。子供だけではない。心の癒やしだけを求める大人も奪われているのだ。
 どうすれば「夢」を持つことができるのだろう。やりたいこともない。目標も設定できない。ただ闇雲に暗い夜を迷走するしか手立てはないのだろうか。
 ここまで「ないない」とないものばかりを嘆いてみたが、あるものはなんだ。限られた時間だ。この人生という名の限られた時間の中で、私たちは一体何ができるのだろう。
 人生は死ぬまでの暇つぶしーーそう考えていたこともあった。しかし、今は次世代やその後の世代を残すことや、生き抜く術を引き継ぐ方法をなんとかして模索していかなくてはならない。そのために、自分ができることを些細ながら考えていきたい。
 自分一人が勉学に勤しみ、自己鍛錬をすることはできよう。自分一人が私腹を肥やすことも今の時代はできよう。だけども、もうそんな個人主義は通用しないのだ。とは言え、人口が減りすぎて、却って個人主義(核家庭主義)にならざるを得なくもなっているのが現状だ。
 各人が独立した思考を持ち、そこで出たアイデアを共有し、続くかわからない未来へ託す。無意識ながらに昔からそうやって人間は種の存続をしてきたではないか。難しい話ではないはずだ。なのに、「では自分はどうすればいいのか?」という己の問題に置き換えると途端にわからなくなるのは、人間の欠陥だろう。
 軍隊アリはゾウをも倒すと言うが、はたして人間はアリなのだろうか。そして、ゾウにあたるものは一体何になるのだろうか。見えない地球という歯車を、今日も地球のアリたちは回す。アリがいるならキリギリスもいるだろうが、アリが少なくなったら吟遊詩人のキリギリスたちもアリと同じ働きをしなくてはいけなくなるだろう。キリギリスは果たしてアリと同じ仕事ができるだろうか? 
 こうしていくら頭を捻っていても、結局動かなければ机上の空論なのが虚しい。「考える前に動け」ともよく言われるが、どう動けばいいのか皆目見当がつかない。また、考えずに
動いたとき、迷惑をかけてしまったこともあるのでそれは反省しなくてはならない。同じ轍は踏まないようにせねばならぬ。それを考えると余計ににっちもさっちも行かなくなってしまうのだ。
 頭でっかちになることは決して良いことだとは言えない。私は実に頭が悪い。要領が悪い。楽に生きているほうだという自覚はあるのだが、楽に生きることが悪であるような気がしてならない。それは多分、過重労働をしていたときの考えの癖だ。
 これからの時代、「死ぬほど忙しい」か「死ぬほど暇か」の選択を迫られることになるのかもしれない。そうなったとき、人は諍いを起こし、平和には暮らせなくなる。今ある束の間かもしれない安寧のときに何を考えどう行動するか。それが「自分」の問題である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み