第2話 クラブ アカデメイア 5.5

文字数 1,561文字

 霧湖は自分の店の鍵をバッグから取り出すと、魔女が呪文を掛けるようにゆっくりと撫でてから、丁寧に鍵穴に差し込んだ。
 霧湖がオーナーをしている店の鍵は、霧湖と店長の黒馬しか持っていない。ゆっくりドアを開けて、スマホの明かりで室内照明のスイッチを見つけ、明かりを点ける。シックな作りの長い廊下が浮かび上がった。
 今日は月曜日の午後三時で、店長はまだ来ていない。
 普段は、ママの霧湖が店に顔を出すのは八時ころで、その後二時間位テーブルを回ったら、それで帰ってしまうのだが、週の初めの月曜日だけは早めに店に来て、朝礼に顔を出すようにしていた。
 霧湖は店内の照明を入れて、フロアを見渡す。
 霧湖にしては思い切って金をかけた調度品を、うっとりと眺める。自分の店となれば、愛着は一入だ。然し開店費用の半分は前の店のオーナーからの借入金で賄ったから、のんびり調度品に見惚れている余裕は無い。
 霧湖は持ってきたジャージに着替えると、バックヤードの水廻りの掃除を始めた。
 店内の掃除は毎日黒服がやっているが、バックヤードはどうしてもお座成りになる。
 その気持ちの緩みが、客の前でどんなに綺麗事を繕ってみても出てしまい、観る人間が見れば判ってしまうのである。
 ホステスが流行のファッションに身を包み、エステとジムで体を磨いて、化粧を塗りたくっても、それで誤魔化せるのは中流の男までである。それが酒の席であっても、一瞬女の子の表情に浮かぶ生活の疲れを、一流の男であれば見逃さない。店に出るまでのバックルームの汚れが、そういう表情に表れると霧湖は考えていた。
 あと一時間もすれば、店長の黒馬が出てくるだろう。
 黒馬は前の店のオーナーの紹介で入れた男で、まだ四十前にしては経験も豊富で出来る男なのだが、正式にはまだ店長代理に留めていた。
 例えば霧湖が今やっている掃除に、黒馬は店に来てすぐに気付くだろうか。前の店で店長をしていた縞桜なら、店のドアを開けた瞬間に気付くだろう。そこの差を、黒馬に気づかせ、育てて行かなければならないと霧湖は考えていた。
 ダスターを持って、十五分も躰を動かしていると、汗が出てくる。それが引いたころ、霧湖はトイレからバックルームの掃除へ移っていった。
 霧湖はそのうち無心で体を動かしていた。そして気付くと、この前焼鳥屋で一緒に飲んだ縞桜のことを考えていた。
 縞桜は霧湖の少し後に店に入って来て、それから二十年一緒に働き、霧湖がママになってから店長にまで育てた男だった。今はその店で支配人になっていた。
 霧湖ママがそこまで育てたようなものだが、育て過ぎたというか、この前初めて二人で飲んだときも、鋭くなり過ぎて霧湖は少し慌てた。
 つまみの注文を任せたら、霧湖が食べたい物が次々に現れるので逆に戸惑って仕舞うくらいだった。
 焼鳥屋なんて初めてきたのに、なんで霧湖の好みが分かるのか。
 不思議に思いながら、霧湖は何だかおかしくて、その日はよく笑って呑んだ。
 縞桜もちょっと怪訝そうな顔をしながら、楽しそうに飲んでいた。
 またあいつを誘って飲みに行くか、とロッカールームでダスターを片手に一人考えていると、後ろに黒馬が立っていた。
「おはようございます。今日は、早いですね」
「おお、来てたのか。何だ、声くらいかけろよ」
「すいません。何だか楽しそうなんで、すぐに声掛けづらくって」
「何言ってんだよ。じゃあ、続きはお前がやっとけ」
 霧湖がぶっきらぼうにダスターを黒馬に投げた。
「はい、わかりました」
 黒馬はママからダスターを受け取っても、まだニコニコしている。
「あたしはいつものジムで汗流してくるから、頼んだぞ」
「はい。行ってらっしゃい」
 霧湖はバッグを掴むとそのままの格好で店を出た。それから、黒馬の育て方を少し考えるか、と思った。
 
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