第2話 自律神経失調症

文字数 2,136文字

「翔(しょう)はちゃんとやれる子なのよ、本当は」
 母から何百回もこの言葉を聞かされた。確かに僕はやれる子だった。こどもの頃から運動神経は抜群だったし、勉強は常にトップクラスだった。 
 そんな僕が内界に閉じこもったのは、今から半年前の高校二年の夏だった。いろんな人がいろんなものを僕にくれた。僕の家まで来た同級生の友情の押し売りや、親戚の大きなお世話と厄介とかだ。
 高校二年時の担任の高橋先生はよその高校から赴任してきたばかりだった。高橋先生はウチに来た時、僕の顔を真剣そうに見ながら言った。
「どうして学校に来られないのかな?」
 僕には赴任早々ヤッカイ者を押し付けられた、そんな風に見えた。中年女性独特の歪んだ皮膚が〝めんどうだ〟と言っていた。
 僕がわからない、と答えると
「わからないことはないでしょう。理由は何?」
 とやたらと答えを探したがった。
「あるようで無いようで」
「ほら、あるんじゃない。ちゃんと考えてみて」
 ぼくは、無いと言ったつもりだったのだけれど、そのまま黙っていた。
「岩瀬くんは頭がいいんだから。わかるはずよ」
 僕はしばらく考えた振りをしたあとこう言った。
「それがわからないんです」
 高橋先生はだいぶがっかりしたように肩を落とした。
「いじめじゃないのよね。理由がないといじめじゃないかって言われるのよ。教頭先生に詰問されるし、教育委員会に呼ばれるしで大変なことになるんだから。」
 僕は頭にちらついている高橋先生の白髪を見ていた。
「ほら、最近うるさいでしょ、あとでいじめだってわかったら。下手をすれば週刊誌ものよ」
 先生はフーッとため息をつくと、目の前の手帳を閉じてバッグにしまいこんだ。
「だからお願い、また来るから考えておいて」
 小学生の宿題じゃないんだから、僕は心の中で苦笑いした。そして高橋先生のベージュのスーツを見ていた。少し色褪せた色が先生の心のように疲れた色に見えた。その後高橋先生と母が学校で何度か話したようだった。高橋先生はいじめではないことを母に確認すると、それっきり家に来ることはなかった。そして先生は僕を学校に来させることを諦めた代わりに、医者に行くようにと言ってきた。

 僕は壁も椅子も薄みどり色の心療内科の待合室で、診察を待つ人たちの中に紛れていた。病院独特のアルコール臭がないからか、部屋全体が無臭味だった。壁に飾られた猫と目が合ったけれど、心を見透かされそうだったので目をそむけた。
 名前が呼ばれるのにそう時間はかからなかった。診察室に入ると三十代後半に見える女医は白衣のポケットに手を入れたまま、どうしました、と聞いてきた。
「学校から言われてきました」
 僕はぶっきらぼうに答えた。座った丸椅子がとても不安定で、足を上げるとくるくると回りそうでおかしかった。
「そう、じゃこれ書いてみて」
 女医はアップにした髪の後ろにある短いポニーテールを僕に見せると、また振り向いて紙を渡した。
「ゆっくりでいいから」
 そう言うと、机に向かって何かを書き始めた。紙には二十問くらいの質問があって、どれも『強く思う』から『全く思わない』の一から五段階に評価するようになっていた。
「食欲がない、寝つきが悪い、気分が落ち込む、将来に希望がない……」
 僕がボソボソとつぶやくと、
「読まなくてもいいのよ」
 女医は顔を机に向けたまま僕に言った。僕は黙読した後、最後の質問だけもう一度つぶやいた。
「死にたくなる」
 女医は面倒くさそうに顔を上げると、僕を一瞥してからまた顔を机に戻した。僕は女医が心の中で舌打ちしたことがわかった。女医の顔が、診断書をもらってきてくださいね、と言った高橋先生の顔と重なって見えた。一つ一つの質問は僕にはすべて、「思わないか、全く思わない」だった。僕は鉛筆で○印をつけると女医に渡した。女医は紙を受け取ると、テンプレートみたいなものに当てて点数をつけ始めた。
「うーん、そんなに悪くないわね」
「そうですか」
「ストレスはないのかな?」
「ないです」
「学校へ行かなくなってからどのくらいなの?」
「二ヶ月くらいです」
「じゃやっぱり病気よね」
 女医は決めつけるように僕を見た。化粧をした白っぽい顔が僕に病気になれと言っていた。
「自律神経失調症かな。とりあえずお薬だしとくね。診断書も書いておくから」
 僕が何も言わずに女医の顔を見ていると
「お薬はちょっと多いけど胃の薬も入っているから」
 僕は病院を出ると隣の薬局で四種類の薬をもらった。
「トリアゾラム 寝つきをよくするお薬です」と書かれた効能書きを見たあと、よく眠れるって書いたのに、と声に出して言った。
「何かありましたか?」
 薬局の中年の男性店主は僕の言葉に反応して問いかけてきた。
「いいえ」
 僕は白いビニール袋にいっぱいになった薬を抱えると薬局を後にした。コンビニのトイレで手を洗いうがいをしてから、レジでフランクフルトソーセージを買った。カラシとケチャップの容器を折ってフランクフルトにかけようとすると、薬の袋が邪魔をした。僕は、えいっ、と言って口を開けて待っているゴミ箱に放り込んだ。
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登場人物紹介

主人公 翔 高校生 17歳

早苗さん 25歳 アルバイト店員

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