【参】急
文字数 3,414文字
わたしと探偵はAを市内にある人気のない川原へと連れて行き、川を渡す鉄橋の足もとに身を潜めました。そびえ立つ鉄橋の陰は、暗い夜の闇をさらに濃くしていました。
夏の夜の虫たちのオーケストラと川流れの優しいせせらぎも数時間後にはサイレンの暴力的な悲鳴に変わっている――そう思うと、不安に思わずにいられませんでした。
探偵はAの首を掴んだままコンクリート製の鉄橋の柱にAを叩きつけると女性のものとは思えないほど冷徹な声でAにある命令をしました。Aは小刻みに何度も頷きました。
Aはすでに探偵の暴力によって支配されていました。わたしは探偵のやり口を咎めましたが、探偵はわたしの忠告を気にも留めませんでした。
探偵はAが逃げられないよう拘束し、タオルを猿轡代わりに噛ませました。背中には人差し指をナイフに見立てて突き付け、変な真似をしたら――と言いました。
探偵はわたしに身を隠すよう言い、わたしは素直に従いました。
五分ほどして、夜の闇の向こうで何かが蠢くのが見えました。
わたしは静かに息を殺し、物陰から顔を出して、ことの成り行きを見守りました。
闇の中を蠢く何か――それは中肉中背の男と長身で肉づきのいい男のふたり組で、どちらも一〇代後半から二〇代前半と言ってよい具合でした。
中肉の男「B」は所謂弥生系の顔つきで、髪型はオールバック、紺のスーツにノータイで、小脇にはセカンドバッグを抱えており、長身の男「C」は渡来人的な縄文系のゴツゴツした顔つきで、黒のジャージを着ていました。
わたしは、このふたりがわたしを襲った三人組のメンバーだと確信しました。
探偵の手もとが動きました。どうやらAの猿轡を外したようで、闇の中に彼の天にも上るようなかん高い声が響き渡りました。BとCの到着の遅れを咎めるAの声は完全に裏返り、上ずっていました。男ふたりが足を止め、互いの顔を見合わせると訝るようにAを見ました。Aに事情を訊ねるBのマイルドトーンの声色が闇に響きました。
それからAは仲間ふたりと殺人事件のネタについて話し合いました。
何が言いたい、とBはAに訊ねました。Aは、自分は警察に捕まりたくないと訴えました。その話の流れから、ホームレスの男性を殺害したのがCであると判明しました。
BとCがAのほうへと近づくのが見えました。
突然、BとCが足を止めました。
『うしろにいるのは誰だ』
わたしはそれが自分のことを指していると思い、すぐさま物陰に顔を引っ込めました。
助けてくれ、とAが懇願しました。それが何を指すのか。Aが探偵に背いたのです。
わたしはさっき以上の注意を払って再度物陰から表の様子を伺いました。
Bはバッグから、Cは懐から何かを取り出しました。
ふたりの手に握られた何か――形状から察するに、Bが握っているのは携帯用の特殊警棒、Cが握っているのは白鞘の匕首のようでした。
が、探偵は焦る素振りを見せることなく、BとCに向けAを突き飛ばしました。
BがAを避けました。
倒れ込むA。
探偵は一瞬の隙を突き、Bの顎に鋭いフックをお見舞いしました。
Bの身体が揺らぎました。
Cが怒号を上げ、探偵に向かっていきました。
探偵はCの匕首の突きを、身体を斜に向けてやり過ごし、小手返しの要領で右手を返して投げ飛ばしました。
地面に叩きつけられるC――探偵はそのままCの右腕の関節を極めました。
が、体勢を整えたBが探偵に襲い掛かろうとするのを、わたしは見逃しませんでした。
探偵が危ない。
わたしは右腕を吊っていたサポーターを外し、悲鳴を上げながら飛び出しました。
Bの動きが止まりました。
わたしはBに飛び付くとそのまま腰に組み付き、全体重を掛けてBを押し倒しました。
Bは組み付くわたしに必死で抗い、二、三度、特殊警棒でわたしの後頭部を打ちました。悪あがきするような殴り方ではありましたが、その打撃は現在の記憶だけでなく、幼い頃の美しい記憶すらも吹き飛ばしてしまうのに充分なほどの衝撃を持っていました。
ここからは曖昧な話にはなってしまうのですが――
Bに組み付いたわたしは痛みも忘れてBの身体を必死に押さえつけていたそうです。
やめろ……意識の向こう側で、そう聞こえた気がしました。
が、わたしは構わずに力を籠め続けました。
もし力を緩めれば、反撃を受けるかもしれない。
わたしは死んでしまうかもしれない。
不安と恐怖が、わたしを狂気の沼の中へと誘っていきました。
頬に衝撃が走りました。
わたしはBの右脇に倒れ込みました。
大きな影がわたしの前に立ちはだかりました。
わたしは正気に戻り、暴走した戦意を喪失しました。
左手で熱を帯びた頬を押さえながら、近づいてくる影を見上げました。
探偵が冷ややかな目でわたしを見下ろしていました。
Bは白目を剥いて伸びていました。
Cもうつ伏せのまま動く気配がありません。
探偵は舌打ちしてジャケットの懐から携帯電話を取り出すと、誰かに電話を掛けました。
探偵にどうするか訊ねると、探偵はその場で待っているようわたしに言いました。
少しして、明らかに寝起きであろうと思われる刑事さんが現れました。目をこすりながら不機嫌そうに顔を歪めていた刑事さんも気絶した三人組を見ると驚きの表情を浮かべ、わたしと探偵に事情を説明するよう言いました。
わたしたちは刑事さんに事情を話しました。
そして、三人組を引き渡しました。
終わった――そう確信しました。が、まだ終わりではなかったのです。
その後、警察での取調べがありました。
探偵が、三人組を傷つけたのは自分であって、わたしはあくまで三人組を拘束しただけに過ぎないと庇ってくださったお陰で、刑事さんは苦虫を噛み潰したような顔でいくら相手に襲われ、正当防衛を主張しても、これでは過剰防衛と言われてもおかしくはない、と苦言を呈し、今回のわたしの所業に対して厳重に注意されました。
わたしは刑事さんのお話をこころして聞き、深く内省致しました。
ですが、わたしに対する警察側の穏便な取り計らいに、わたしは深謝するとともに、この場を借りて深くお礼とお詫びを申し上げたいと思います。本当に、ありがとうございました。そして、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした。
しかし、今回の経験を通して、わたしは本当にたくさんのことを学びました。
そこでひとつ皆様に対して言えるのは、人間はとても臆病な生き物だが、ほんのちょっとの勇気があれば――
何でもできる。
何にでもなれる。
人は変われるということです。
わたしも自分の弱さに打ち勝つことで困難に打ち勝つことができました。
だから、皆様も立ちはだかる困難に打ち勝つことができるはずです。
わたしは、それを証明したかったのです。
ですが、わたしは自分ひとりで困難に打ち勝ったとは思っていません。
これもひと重に市民の皆様を始め、スタッフの皆様、様々な職業の、様々な方々のお力があってこそだと、わたしは思っております。
つまり、わたしが困難に打ち勝てたのは、皆様の信頼があったからこそ、なのです。
人間は協力し合わなければ生きていけません。
ですから、これからはわたし共々、協力し合って、外夢市というすばらしい街をもっともっと、発展させていきましょう!
大丈夫、わたしと皆様とならできるはずです!
長くなりましたが、これにてわたしの演説を終わらせて頂こうと思います。
それでは皆様、ご清聴、誠にありがとうございました――。
夏の夜の虫たちのオーケストラと川流れの優しいせせらぎも数時間後にはサイレンの暴力的な悲鳴に変わっている――そう思うと、不安に思わずにいられませんでした。
探偵はAの首を掴んだままコンクリート製の鉄橋の柱にAを叩きつけると女性のものとは思えないほど冷徹な声でAにある命令をしました。Aは小刻みに何度も頷きました。
Aはすでに探偵の暴力によって支配されていました。わたしは探偵のやり口を咎めましたが、探偵はわたしの忠告を気にも留めませんでした。
探偵はAが逃げられないよう拘束し、タオルを猿轡代わりに噛ませました。背中には人差し指をナイフに見立てて突き付け、変な真似をしたら――と言いました。
探偵はわたしに身を隠すよう言い、わたしは素直に従いました。
五分ほどして、夜の闇の向こうで何かが蠢くのが見えました。
わたしは静かに息を殺し、物陰から顔を出して、ことの成り行きを見守りました。
闇の中を蠢く何か――それは中肉中背の男と長身で肉づきのいい男のふたり組で、どちらも一〇代後半から二〇代前半と言ってよい具合でした。
中肉の男「B」は所謂弥生系の顔つきで、髪型はオールバック、紺のスーツにノータイで、小脇にはセカンドバッグを抱えており、長身の男「C」は渡来人的な縄文系のゴツゴツした顔つきで、黒のジャージを着ていました。
わたしは、このふたりがわたしを襲った三人組のメンバーだと確信しました。
探偵の手もとが動きました。どうやらAの猿轡を外したようで、闇の中に彼の天にも上るようなかん高い声が響き渡りました。BとCの到着の遅れを咎めるAの声は完全に裏返り、上ずっていました。男ふたりが足を止め、互いの顔を見合わせると訝るようにAを見ました。Aに事情を訊ねるBのマイルドトーンの声色が闇に響きました。
それからAは仲間ふたりと殺人事件のネタについて話し合いました。
何が言いたい、とBはAに訊ねました。Aは、自分は警察に捕まりたくないと訴えました。その話の流れから、ホームレスの男性を殺害したのがCであると判明しました。
BとCがAのほうへと近づくのが見えました。
突然、BとCが足を止めました。
『うしろにいるのは誰だ』
わたしはそれが自分のことを指していると思い、すぐさま物陰に顔を引っ込めました。
助けてくれ、とAが懇願しました。それが何を指すのか。Aが探偵に背いたのです。
わたしはさっき以上の注意を払って再度物陰から表の様子を伺いました。
Bはバッグから、Cは懐から何かを取り出しました。
ふたりの手に握られた何か――形状から察するに、Bが握っているのは携帯用の特殊警棒、Cが握っているのは白鞘の匕首のようでした。
が、探偵は焦る素振りを見せることなく、BとCに向けAを突き飛ばしました。
BがAを避けました。
倒れ込むA。
探偵は一瞬の隙を突き、Bの顎に鋭いフックをお見舞いしました。
Bの身体が揺らぎました。
Cが怒号を上げ、探偵に向かっていきました。
探偵はCの匕首の突きを、身体を斜に向けてやり過ごし、小手返しの要領で右手を返して投げ飛ばしました。
地面に叩きつけられるC――探偵はそのままCの右腕の関節を極めました。
が、体勢を整えたBが探偵に襲い掛かろうとするのを、わたしは見逃しませんでした。
探偵が危ない。
わたしは右腕を吊っていたサポーターを外し、悲鳴を上げながら飛び出しました。
Bの動きが止まりました。
わたしはBに飛び付くとそのまま腰に組み付き、全体重を掛けてBを押し倒しました。
Bは組み付くわたしに必死で抗い、二、三度、特殊警棒でわたしの後頭部を打ちました。悪あがきするような殴り方ではありましたが、その打撃は現在の記憶だけでなく、幼い頃の美しい記憶すらも吹き飛ばしてしまうのに充分なほどの衝撃を持っていました。
ここからは曖昧な話にはなってしまうのですが――
Bに組み付いたわたしは痛みも忘れてBの身体を必死に押さえつけていたそうです。
やめろ……意識の向こう側で、そう聞こえた気がしました。
が、わたしは構わずに力を籠め続けました。
もし力を緩めれば、反撃を受けるかもしれない。
わたしは死んでしまうかもしれない。
不安と恐怖が、わたしを狂気の沼の中へと誘っていきました。
頬に衝撃が走りました。
わたしはBの右脇に倒れ込みました。
大きな影がわたしの前に立ちはだかりました。
わたしは正気に戻り、暴走した戦意を喪失しました。
左手で熱を帯びた頬を押さえながら、近づいてくる影を見上げました。
探偵が冷ややかな目でわたしを見下ろしていました。
Bは白目を剥いて伸びていました。
Cもうつ伏せのまま動く気配がありません。
探偵は舌打ちしてジャケットの懐から携帯電話を取り出すと、誰かに電話を掛けました。
探偵にどうするか訊ねると、探偵はその場で待っているようわたしに言いました。
少しして、明らかに寝起きであろうと思われる刑事さんが現れました。目をこすりながら不機嫌そうに顔を歪めていた刑事さんも気絶した三人組を見ると驚きの表情を浮かべ、わたしと探偵に事情を説明するよう言いました。
わたしたちは刑事さんに事情を話しました。
そして、三人組を引き渡しました。
終わった――そう確信しました。が、まだ終わりではなかったのです。
その後、警察での取調べがありました。
探偵が、三人組を傷つけたのは自分であって、わたしはあくまで三人組を拘束しただけに過ぎないと庇ってくださったお陰で、刑事さんは苦虫を噛み潰したような顔でいくら相手に襲われ、正当防衛を主張しても、これでは過剰防衛と言われてもおかしくはない、と苦言を呈し、今回のわたしの所業に対して厳重に注意されました。
わたしは刑事さんのお話をこころして聞き、深く内省致しました。
ですが、わたしに対する警察側の穏便な取り計らいに、わたしは深謝するとともに、この場を借りて深くお礼とお詫びを申し上げたいと思います。本当に、ありがとうございました。そして、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした。
しかし、今回の経験を通して、わたしは本当にたくさんのことを学びました。
そこでひとつ皆様に対して言えるのは、人間はとても臆病な生き物だが、ほんのちょっとの勇気があれば――
何でもできる。
何にでもなれる。
人は変われるということです。
わたしも自分の弱さに打ち勝つことで困難に打ち勝つことができました。
だから、皆様も立ちはだかる困難に打ち勝つことができるはずです。
わたしは、それを証明したかったのです。
ですが、わたしは自分ひとりで困難に打ち勝ったとは思っていません。
これもひと重に市民の皆様を始め、スタッフの皆様、様々な職業の、様々な方々のお力があってこそだと、わたしは思っております。
つまり、わたしが困難に打ち勝てたのは、皆様の信頼があったからこそ、なのです。
人間は協力し合わなければ生きていけません。
ですから、これからはわたし共々、協力し合って、外夢市というすばらしい街をもっともっと、発展させていきましょう!
大丈夫、わたしと皆様とならできるはずです!
長くなりましたが、これにてわたしの演説を終わらせて頂こうと思います。
それでは皆様、ご清聴、誠にありがとうございました――。