【弐】序破

文字数 15,955文字

皆様、この度はご心配をお掛けして、誠に申し訳ございませんでした。ですが、このように無事、皆様の前に戻ってくることができ、とても嬉しく思います。

恐らく、わたしがこの二週間ほどで経験したある数奇な出来事に興味をお持ちの方もいらっしゃるかと思いますので、早速その件についてお話したいと思います。

ただ、申し訳ございません。中にはことの経緯を存じない方もいらっしゃるかと思うので、最初からお話させて頂きますが、どうかご容赦ください。

あれは日差しの照る七月前半のことでした。

わたしは駅のロータリーで選挙演説を行っていました。

駅という場所を選んだのは、通勤通学時のサラリーマンや学生、主婦の方やご老人の方にもわたしの演説を聴いて頂ければ、と思ったからです。

わたしの声は選挙活動によりほとんど枯れていましたが、わたしは自分の掲げるマニフェストをひとりでも多くの方に届けたいと思い、力を振り絞って演説を続けました。

声を張り上げて数時間、気付けば夜になっていました。

朝から休憩も取らずに選挙演説を続けていたため、声はほとんど出なくなっており、唐突に襲ってきた眩暈で、わたしはその場に崩れ落ちそうになってしまいました。

 大丈夫ですか?と市長選の協力者でもあるわたしの会社の秘書がわたしのもとに駆け寄ってきてくれました。わたしは大丈夫だ、と強がりましたが、実際は、視界は霞み、手摺りに全体重を預けていなければ、立っているのもままならないような状態でした。

ですが、ここで倒れたら、毎日苦しい思いをしている人たちに申し訳が立たない。そう思い、わたしは自分を奮い立たせました。

わたしは秘書に栄養剤を買ってきて欲しいと頼み、大丈夫だから、と彼女に精一杯の笑顔を見せました。彼女は心配そうに顔を歪めていましたが、わたしのお願いに、わかりました、と答えると急いで駅構内にあるコンビニへと向かってくれました。

他のスタッフの子達もわたしのことが心配のようでしたが、わたしは彼女たちに自分の仕事を続けるよう指示し、彼女たちも渋々自分たちの仕事に戻っていきました。

みんな頑張っているのに、自分がこんなざまではいけない。

呪文のように何度も自分に言い聞かせ、自分ひとりの力で何とか体勢を整えました。

その時でした。

建物の陰から、目出し帽を被った三人組がわたしを見ているではないですか。

その三人は、ひとりが中肉中背で、ひとりは小柄の小太り、残ったひとりは他のふたりと比べると長身で引き締まった身体の持ち主でした。

わたしは視界の中で揺れる三つの影を、何だろうと思いながら眺めていました。

すると突然、目出し帽を被った三人組が、わたしに向かって駆け寄ってくるではありませんか。そして、その手には何か怪しい光が煌いている。

それは、金属バットでした――鉄パイプでした――木刀でした。

不吉な予感がしました。

声を上げようとしました。が、悪魔が氷のように冷たい手のひらでわたしの心臓を握り潰しているような、そんな恐怖がわたしの声という声を殺してしまったのです。

足は地面に張り付いたまま動かず、逃げることはできませんでした。

目の前に立ちはだかる三人組。

ひとりがバットを振り上げました。

瞬時に身体が反応し、わたしは寸でのところでバットの一撃をかわしました。

すぐに追撃がやってきました。今度はパイプです。

夜霧を裂くようなパイプの一閃が降ってきました。

わたしは身を守ろうと右腕をかざしました。
鈍い音――鋭い痛みが前腕を襲いました。

その場に崩れ落ちたわたしは亀のように丸くなって、後頭部を両手で庇いました。すぐさま三人組がわたしを殴打し始めました。わたしは耐えました。身体が軋み、呼吸が細くなっていくのがわかりました。

声が聞こえました。その声が誰のもので、何と言ったかもわかりませんでした。が、それが合図であったかのように、わたしの身体に浴びせられていた打撃の雨が止みました。

大丈夫ですか?という声とともに誰かがわたしの肩に手を掛けました。わたしは自分でも意図しないほど大きく身体を震わせました。

わたしの肩に掛かった手の感触が消え、誰かがわたしの顔を覗き込みました。

警察の方でした。どうやら、駅前交番の駐在の方が助けに来てくださったようです。そして、それに合わせて三人組も逃げていったようでした。

わたしはすぐさま近くの病院へと運ばれ、CTスキャンを取りました。

結果、右の前腕にひびが入っていることがわかり、そのままギプスで固定しました。

不幸中の幸いだったのは、鈍器で背中を乱打されたにも関らず、肋骨も背骨も無事だったことです。殴られている最中はわかりませんでしたが、医師が言うには、打撃が運よく腰のほうへ散ったお陰で肋骨と背骨への被害が最小限で済んだのではとのことでした。

深夜、わたしは秘書とともに病院を後にしました。正直、検査入院を覚悟していましたが、医師によれば明らかな骨折や動けなくなるほどの痛みがない場合は、自宅で様子見でも構わないとのことで、わたしは秘書の車に同乗して帰宅することになりました。

『明日の選挙活動後、警察の方が調書を取るために事務所を訪れるそうです』

運転中の秘書の報告に、わたしは力なく頷きました。傷ついた背中がシートに擦れると痛みが呼び起こされ、胸のうちにあの時の屈辱と怒りの炎が沸々と込み上げてきました。

このまま、あの三人組を見逃していいものか。

わたしを暴行した三人組は、今頃わたしを嗤い者にしながらのうのうと酒を喰らっているに違いない。そう考えると怒りは静まりません。ですが、わたしはただの市長候補。もっと言えば、ただの自営業の男――一般市民です。そんな男があの三人組に対して何をしてやれるというのでしょう。

答えは、ノーです。

わたしは所詮、ただの一般人に過ぎないのです。悔しいですが、運がなかったと自分を宥め、大人しく選挙活動に励むべきだと、渋々矛を納めることにしました。

翌日も変わりなく、早朝から選挙活動に取り組みました。擦れ声ではありましたが、多少の声は出るようになっていたので、ジェスチャーも交えて無理をしない程度に演説に臨みました。加えて、わたしの秘書が、昨日のようなことがないようにと見るからに屈強そうなガードマンをわたしの周りに配置してくれたので、何の問題もなかった――

はずでした。

と言うのも、今まで麗しい女の子をたくさん配置していた中に黒いスーツを着た筋骨逞しい男性が入り混じると、その光景は異様で、わたしたち一団は、まるで暴力団の若頭とその取り巻きと形容されてもおかしくないはないような有様でした。そしてその所為か、これまで握手を求めてきたご老人や、お子様方も近寄っては来なくなりました。

余談ですが、わたしは暴力の類は嫌いです。大嫌いです。もちろんそれを資金源として活動しているような反社会的な集団や組織も同様に嫌悪しています。ですから、わたしが市長になった暁には、そのような団体の追放運動をより推進していきたいと思っております。話が逸れてしまい、本当に申し訳ありません。本題に戻ります。

中には、傷ついたわたしに同情してくださる声もありましたが、現実は残酷で、わたしを見て指をさしヒソヒソと話をする主婦たち、まるでゴミを見るように蔑んだ目でわたしを見るサラリーマン、ゴシップをネタに嗤う学生たちと明らかにあの出来事を嘲笑するような振る舞いをする人が目立つようになり、市民の皆様が脅威に思えてなりませんでした。

 わたしはボディガードを遠ざけ、うしろを向いて片手でシャツを脱ぐとキズだらけの背中を白日のもとに晒しました。街行く人々の息を飲む声と押し殺された悲鳴が聞こえました。中には、携帯電話のカメラのシャッター音も聞こえました。

 少ししてからわたしはシャツを着直して顕わになった背中を隠すと、市民の皆様に向き直りました。狐につままれたような顔をしている方、面白がって笑っている方、不快感を隠さない方、わたしはその場にいるすべての人々に向けて言いました。

『皆様、この度はご心配お掛けして申し訳ございませんでした。選挙活動中に暴漢に襲われるとは、わたし自身、思ってもみませんでした。これもわたしという人間が、みなさまに誤解を招くようなことをしてしまったからだと深く反省しております。恥ずかしい。本当に恥ずかしいです。皆様にそう思わせてしまった、わたし自身が本当に恥ずかしいです。市民の皆様から疑いの目を向けられてしまう市長候補など、恥さらし以外の何者でもありません。ですから、わたしはその汚名を返上するためにも、これまで以上に死ぬ気で頑張っていかなければならない。そして、皆様と協力してこの外夢市というすばらしい街を、美しい街を、より発展させていきたいとより強く願うようになりました!』

 野次が飛びました――たくさんの野次が飛びました。

わたしは罵詈雑言に耐えました。

そして、胸に刻み込みました――

これが、今現在の皆様の声なのだ、と。

ただ、わたしを応援してくださる方もいないわけではなく、そういった方たちとわたしを罵倒した方とを同列に扱うのは気が引けましたが、応援してくださる方、罵倒する方、皆様が市民なのです。

市政を預かろうとしている身として、一部を贔屓したり、弾圧したりしてはならない。
何故なら、それは独裁者のやることだからです。

わたしは独裁者ではないし、これから先もそうなるつもりはありません。が、それ以上にわたしを打ちのめそうとする罵詈雑言は壮絶でした。

そして、こんな声が聞こえてきたのです。

『そんなこと言うんならなぁ! テメエでその暴漢を捕まえてみせろ!』

 そのひと言で、わたしの腹は決まりました。 わたしは声を震わしながら言いました。

『わかりました。わたしはわたしを暴行した三人組を捕まえることを皆様に誓います』

 ざわめきが起こりました。

『もちろん、暴漢の逮捕は警察機構の仕事であることは百も承知です。ですが、それだけでは、わたしの気持ちはおさまりません。それにこのまま悪事を見逃せば、仮にわたしが市長に当選したとしても、この外夢市は犯罪の蔓延るスラム街も同然となるでしょう。わたしはこの街をそんな風にはしたくはないのです。わたしは警察機構への協力はもちろん、自分自身でもこの忌々しい暴行事件の犯人追及に乗り出していきたいと思います!』

 わたしは高らかに宣言しました。

おこがましい話ではありますが、わたしはこの時、自分を「I have a dream」と叫んだキング牧師と重ね合わせていました。そして、非暴力不服従を訴えたガンジーとも……。

わたしはどこかそう宣言する自分に酔っていたのかもしれません。

演説終了後、選挙事務所を訪問してくださった外夢市警察の刑事さんが、冷ややかな視線をわたしに投げ掛けて、あんなこと言って、一体どうなさるおつもりですか?とわたしに仰いました。わたしは、申し訳ございませんと謝意を示しながらも、どうしても我慢ができなかったのですと弁明しました。

 あなたの気持ちもわからないではないが……、と刑事さんはジャケットの胸ポケットから煙草の箱を取り出し一本抜き出すと、吸ってもいいですか、と訊ねてきました。わたしは頷き、残っていたスタッフの子に灰皿を持ってくるよう言いました。

灰皿が置かれると、刑事さんは箱からライターを取り出し、煙草に火をつけました。わたしもスタッフもみな非喫煙者でしたが、来客に備えて灰皿も完備してありました。

近年、喫煙者の方々の肩身はどんどんと狭まってきております。わたしが市長になった暁には、そんな喫煙者のために、市内の喫煙所にちょっとした工夫を凝らしたいと考えております。話が逸れてしまい、申し訳ございません。
それから刑事さんは調書を取り始め、わたしは曖昧な記憶を頼りに三人組の身体的特徴や服装、持っていた凶器等の情報を刑事さんにお話ししました。

調書を取り終えると刑事さんは、くれぐれも下手な真似はしないようにとわたしに釘を刺して事務所を後にしました。

非常に頭を悩ましました。その時は刑事さんの言うことに素直に従いましたが、自分としては納得していなかったからです。

 何があっても、あの三人組を探し出さねばならない。

わたしの決意に揺るぎはありませんでした。

 翌朝早く、わたしは知り合いの探偵の事務所を訪ねました。

職業上の理由で名前は伏せさせて頂きますが、その探偵は外夢市の近隣の街を拠点とする女性探偵で、人探しには抜群の実績を持つと評判の人物でした。

探偵はわたしの説明に終始相槌を打つのみでしたが、すべてを話し終えると、承知致しましたとわたしの依頼を引き受けてくださり、早急に調査を開始すると約束してくださいました。ですが、すべてを探偵の手にゆだねてしまっては、結局は人任せなのではないか、と批判されても仕方がありません。とは言え、わたしが自ら暴漢の捜索に乗り出す弊害として、選挙活動の時間が短くなってしまうという問題があり、探偵にはその弊害を少しでも軽減させるためのサポートをして頂こうと思い、わたしは調査を依頼したのです。

それなら逮捕は警察に任せればいいではないか、そういう声があってもおかしくはないでしょう。ですが、それではダメなのです。何故ならわたしは市民の皆様に誓ったのです。

自分の手で犯人を捕まえてみせると。

わたしに二言はありません。

政治家に二言など必要ないのです。

 それからは、選挙活動の合間を縫っては道行く人から話を聞いて回りました。時には町工場や市の施設、小さな個人経営の店舗を訪れ、話を伺うこともありました。さらには嫌厭していたインターネットの掲示板の外夢市のスレッドを覗いてみたりもしました。

その中には、わたしの活動を茶化したり、わたし個人を罵倒したり、会社の事情やわたしのプライベートを穿ったりするような書き込みも散見されました。

わたしはそれらの意見をこころに留めつつ、何か有益な書き込みはないか探しました。すると、無数にある書き込みの中から、非常に興味深いものを発見しました。

それはこんな書き込みでした。

――あの市長候補が胡散臭いかどうかは別にしてもさ、最近確かに外夢市も治安悪いよな。目出し帽の三人組だっけ? それと関係あるかはわからないけど、大ヶ崎公園のトイレで怪しい三人組を見たな……。

わたしは画面をスクロールし、もっと情報はないかとチェックしました。すると、他にも大ヶ崎公園のトイレで怪しい三人組を見たという書き込みがあるではないですか。

とは言え、情報を額面通りに受け取るのも危険かと思い、わたしはさらに詳しい情報を得るために自ら掲示板に書き込むことにしました。幸い、その掲示板はハンドルネームと呼ばれるネットワーク上での名前を明記する必要がありませんでしたので、わたしは名前を入力せず、用件のみを打ち込みました。

 ――その怪しいヤツって、結構前からいたの?

 わたしの書き込みに対するレスポンスがいくつかありました。

何でもその怪しい三人組は、半年ほど前から大ヶ崎公園や市内にある別の公園、人通りの少ない場所に現れ、さらにその身体的特徴がわたしを暴行した三人組と近似しているとのことでした。また、中肉中背と長身のふたりは、最近は現れないが、小柄で小太りの男は今でも大ヶ崎公園のトイレへ通っているらしいとの情報も手に入りました。

わたしはその場の雰囲気に合わせた口調でレスポンスしてくれたユーザーにお礼を言い、パソコンの電源を落としました。時刻は夜の一〇時くらいだったかと思います。わたしはクローゼットからTシャツとジャージの下を取り出して着ると、事務所を後にしました。

事務所を出ると、ハンズフリーで秘書と電話をしながら大ヶ崎公園へと歩きました。

 皆様もご存知の通り、大ヶ崎公園は市の境目の私鉄沿線に位置する運動公園ですが、あの掲示板の書き込みが正しければ、夜の大ヶ崎公園は不審者の温床で、例のトイレを始め、得体の知れない輩がそこら中にいるとのことでした。
わたしが大ヶ崎公園の鉄門を潜った頃には、時刻は一一時を回っていました。

公園には酔っ払って奇声を上げる中年男性や、黒尽くめの怪しい青年の姿があり、公園全体に不気味な雰囲気が漂っていました。

足が竦みました。今すぐにでも園内から立ち去ろうかとも思いましたが、わたしは自分を奮い立たせ、書き込みにあったトイレへと向かいました。

 そのトイレは園内の端――私鉄沿線とは真逆の位置にあり、周囲は木に囲まれて暗く、街灯の光すらも届かないような場所でポツンと孤独な光を放っていました。

 もしトイレで怪しい人物と鉢合わせてしまったら……。

 自分の弱さがわたしに逃げるよう言いました。

確かにわたしは起業という言わば身投げに近いようなチャレンジをしましたが、今やっていることは同じ身投げでも、わけが違います。

下手をすれば自分の命がないのだ。

そう考えると、犯人を捕まえると宣言したあの時の自分を呪いたくなりました。

ですが、ここで身を引けば、皆様の信頼を裏切ることになってしまう。

そんなことは、絶対にあってはいけない!

ギコチナイ足取りで、わたしは孤独な光を放っているトイレへと足を踏み入れました。途中、何度も帰ろうと思いましたが、皆様のわたしへの信頼が、わたしの足を一歩前へ送り出してくれたのです――拍手、ありがとうございます。

トイレ内部は非常に汚れていました。湿った新聞の切れ端や、トイレットペーパーがそこら中に撒き散らされており、便器には汚物――あまり綺麗な表現ではありませんが、ご了承ください――がこびりついていました。他にも白色光が端々に潜む闇をより強調し、闇に浮かびあがるタイルには濃緑の汚れが繁殖していました。

ひと目で管理が行き届いていないことがわかります――余談になって申しわけありませんが、わたしが市長になった暁には、公共の場のクリーン化を推進していきたいと考えております。何故なら、それも防犯の手段のひとつであるはずですから……。

 四つある個室のドアはすべて閉じていました。わたしは自分の呼吸が浅く、早くなっていくのを意識しつつ、手前から一つひとつ中を調べていくことにしました。

 ひとつ目の個室は、用具入れでした。無論、人が入れるようなスペースはありません。

 ふたつ目の個室のドアは開いており、中を覗くとあるのは汚れた便器だけでした。

 三つ目の個室のドアも鍵が掛かっておらず、中の様子はふたつ目と同様でした。

 残る個室もあとひとつ。ランニングシューズのゴム底が湿ったタイルに擦れるキュッという音が、わたしの背筋を凍りつかせました。足音を立てないよう、より一層の注意を払って、わたしは最後のドアへと歩み寄りました。

 四つ目の個室――鍵は掛かっていませんでしたが、ドアの前に立つと饐えたような異臭がしました。汚物のにおいとはまた違う、もっと別の酸っぱいような強烈なにおいでした。

誰かいる。

不意にそんな予感がしました。

わたしは四つ目の個室のドアを、ゆっくりと、ゆっくりと、押しました。

つがいの経年劣化からか、開く時に金属同士が擦れ合うイヤな音がしました。

ドアを少しだけ開き、中を覗こうとしました。

突然、何者かがわたしの手を掴みました。

そしてその何者かは、そのままわたしを個室の中へと引きずり込もうとしました。

 血の気が引きました。

わたしは必死に抵抗しました。

相手の指が手首に食い込みました。

わたしは全力でその手を引き離そうとしました。

「何なんだよ!」ドアの向こうにいる何者かが怒鳴りました。

掴まれている腕を思い切り引きました。相手の腕がドアから出たのを確認すると、ドアノブに不自由な右手を引っかけ、渾身の力を籠めてドアを思い切り引きました。

ドアの縁金が、相手の手首に当たりました。
苦痛に呻く声。わたしは何度も何度も縁金を相手の手首に打ち付けました。

 止めてくれ!という悲鳴が上がりました。
わたしはドアを引くのを止めました。

すると、わたしの腕を掴んでいた手が解かれ、ドアが開かれました。

 個室の中にホームレスらしき男性がいました。衣服にはシミと土埃が巣を作り、そこら中が破れていました。垢だらけの顔は苦痛に歪み、肩で息を切っていました。左手は傷ついた右手に添えられていました。目には涙が滲んでいました。

 何すんだよ!と男性は鼻息を荒くしてわたしの胸倉に掴み掛かってきました。

わたしは男性に対し、正当防衛を主張しました。

すると男性は、なら何故ここに来たのか、とわたしに食って掛かってきました。

わたしはジョギングの最中に尿意を催したからだと答えました。

男性は、じゃあ、おれの勘違いかよ、と床に唾を掃き捨てました。

わたしはその真意を男性に問い、絶句しました。

 何と、このトイレは男性同士の性交流の場として、有名な場所とのことでした。

 つまり、わたしが腕を掴まれたのは、そういう行為――選挙演説の場で話すようなことではないのですが――を求められてのことだったのです。

わたしは別の意味で男性を警戒し始めました。が、わたしにその気がないとわかると、男性はそのままトイレを出て行こうとしました。わたしは男性を呼び止め、このトイレに現れるという不審者について訊ねてみました。男性は悪態をついて去ろうとしましたが、わたしは男性の肩を掴み、粘り強く訊ねました。

すると男性も根負けしたのか、少し考えた後、もしかしたらアイツか、と呟きました。
わたしは男性に詳しい話を聞かせて頂けないかと頼みました。が、男性はただでは話をしないと譲りませんでした。わたしは緊急時のために靴下の中に隠し持っていた三万円を男性にお譲りすると、男性は目を輝かせ、わたしが差し出した三枚の一万円札を奪い取ると自分の頬に擦り付けました。

わたしは男性に例の何者かについて再度訊ねました。男性はまるでわたしにお札を取り返されまいとするかのようにいそいそとお札を懐に仕舞いこむと、その怪人物について語り始めました。

男性曰く、その怪人物は、年齢は二〇代前半くらい、体型は小柄の小太りで、社会に対して強い不満を持っており、この腐った社会に復讐したいと語っていたとのことでした。

本来ならば、こういった場で出会った相手とはそれほど深い仲になることはなく、一度だけの付き合いになるのが通例らしいのですが、その男性はそのトイレに毎晩のように通っていらっしゃるため、同様にトイレへと通い詰めているその怪人物とは顔見知り以上の関係になったのだそうです。

品のない話になってしまうため詳細にはお話できませんが、男性はその怪人物の印象をドス黒い顔を赤らめながら恍惚そうに語っていました。わたしはその怪人物の名を訊ねました。男性は膨れっ面をし、見つけたらどうするんだ、と詰め寄ってきました。

話を訊くだけだと答えると、男性は何度も念を押してわたしにそれは本当かと訊ねました。わたしは何度もそうだと答えました。すると男性は、まるで使い古した玩具に飽きた子供のように、なら仕方がないと言いました。

恐らく、彼もホームレスになるまでの間に様々な苦労をし、その結果人間不信になってしまったのでしょう。わたしはとても悲しい気持ちになりました。ですから、わたしが市長になった暁には、居住地を持たない方のための支援をしっかりとやっていきたい、と思っております。

それから、男性は、その怪人物の名を明かしました。ですが、ここではその怪人物を便宜上「A」、中肉中背の男を「B」、長身の男を「C」と呼ぶことにしましょう。

わたしは男性にお礼を言うと名前を伺い、また訪ねてもよろしいかと訊ねました。男性は大丈夫だと言い、今日と同じ時間にまたいると付け加えました。

それから数日後、選挙活動を終えて携帯電話を確認すると、探偵からメールが入っていました。わたしは初めて大ヶ崎公園に訪れた帰りの道中で、男性から聞いた話を探偵に話し、その「A」なる人物について調査を依頼していたのです。

そのメールにはこう記されていました。

――大ヶ崎公園から半径一〇キロ圏内で探索したところ、件の名前に該当する人物は五人。ですが、その中で体型等の条件を満たしている人物はふたり……。

その文面に続いて、その容疑者のひとりと見られる二名の人物の住所や職業、年齢等の個人情報が無機質に踊っていました。わたしは探偵にお礼の返信をし、事務所に戻るとすぐに着替えて大ヶ崎公園へと向かいました。

この日も靴下に一万円札を忍ばせてありました。ホームレスの男性に「情報料」としてお支払いするお金です。男性はお会いする度にわたしからお金をせびりました。ですが、これは決して賄賂ではなく、あくまで協賛金としてお支払いしたものでした。

しかし、そんな男性も、その日の前日はご不在で、いくら待っても姿を現しませんでした。「A」なる怪人物も一向に姿を現しませんし、不意にわたしはホームレスの男性に騙され、お金を持ち逃げされてしまったのではと思いました。

落胆しました。ですが、こうやってまた同じ時間に例のトイレへ伺ってしまうのは、こころのどこかで男性を信頼していたからだったのでしょう。

園内に入ると真っ直ぐにトイレへ向かいました。

トイレの内部――手前の個室トイレからけたたましい声が聞こえました。途端に居心地が悪くなり、そのまま立ち去ろうかとも思いましたが、一応、ふたつ目、三つ目の個室を調べました。どちらも人はいません。という事は――詳しい話は控えましょう。

わたしはことが済むまでトイレの外で待っていました。

一〇分ほどすると、トイレの出入り口からメガネを掛けたスーツ姿の如何にもインテリ風の男性が出てきました。インテリ風の男性が、おれは何も疚しいことはしていないと言わんばかりにわたしを睨みつけてきました。わたしはわけもわからず首を横に振りました。インテリ風の男性はそのまま何もなかったかのように去っていきました。

インテリ風の男性が去ると、わたしはトイレの中に入って男性の名前を呼びました。おぉ、アンタか、とひとつ目の個室からホームレスの男性が姿を現しました。

目を疑いました。

現れた男性はまるで別人で、伸びきった油塗れの白髪は綺麗に散髪されて角刈りになっていました。垢塗れでドス黒かった皮膚は血色のよい赤色になり、ボロボロだった衣服はすべて新調されていました。

わたしが驚いていると男性が恥ずかしげに、わたしから貰ったお金で身だしなみを整えたのだ、と答えました。だから昨日はご不在だったのか、と腑に落ちました。同時に、わたしは男性のことを一瞬でも疑ったことを後悔しました。

加えて男性は身だしなみを整えた理由を、モテるためだ、と答えました。わたしはこの時、同性愛者の健気な努力にこころ打たれ、ホームレスの方の支援と同時に、自身の性事情で悩んでいる方々の支援も行わなければならない、と強く感じました。

誰も自分の住まいや、性で悩む必要などない。わたしは自分の生活や性癖のために肩身の狭い思いをしている人に、胸を張って生きて頂きたいのです。

それから男性に、今日はまだAは現れていないかと訊ねましたが、来ていないとのことでした。そして、男性はわたしに冗談なのか本気なのかわからないようなことを言いました。わたしは笑顔でそれを回避し、ふたつ目の個室で待ち伏せしてもいいかと訊ねました。男性はふて腐れ気味に構わないと言い、わたしはふたつ目の個室でAを待ち伏せしました。

が、やはりこの日もAは現れませんでした。

それから数日は何も進展はありませんでした。

わたしは相も変わらず、大ヶ崎公園のトイレを訪問し続け、日に日に汚れが増えていく男性の肌と衣服を目にすることになりました。ですが、肝心のAは一向に現れません。

わたしはほとんど諦め掛けていました。探偵に連絡をしてもレスポンスはなく、メールで、「調査中につき、お電話は控えさせて頂きます」と送られてくるのみでした。

絶望がわたしの中に深く浸透していきました。この時点で既に市長選まで一週間を切っており、もうダメかもしれないと思いました。
しかし、このままでは自分がうそつきになってしまう。

それだけは絶対にあってはならない。

わたしは尚も選挙活動を終えると、足繁く大ヶ崎公園に通い続けました。そんな生活が祟ってか、選挙活動中に眩暈を起こして倒れそうになったこともありました。

視界がハッキリした頃には、支援してくださるスタッフや、秘書が心配そうにわたしの顔を覗いていました。彼女らはわたしに、もう止めましょうと言いました。

ですが、わたしは諦めませんでした。諦めるわけにはいきませんでした。

そんな時、探偵から電話がありました。選挙活動後、事務所に帰る車の中でリダイアルすると、探偵はすぐに電話に出て、用件を言いました。

件のAに関して、前者である可能性が濃厚だとのことでした。

来た。蒔いてきた種がようやく芽を出したのです。事務所に戻るとわたしはすぐさま着替えて大ヶ崎公園へと向かいました。大ヶ崎公園に着きトイレへ向かうと、どういうわけか、トイレ脇の草地にトイレ掃除に使われる用具が捨てられていました。わたしは不思議に思いましたが、それ以上は気にも留めず、トイレの中へ急ぎました。

トイレは静まり返っていました。わたしは堂々と男性の名前を呼びました。

返事はありませんでした。

ご不在なのかなとも思いましたが、一応、個室を一つひとつ調べてみることにしました。

 ひとつ目――鍵は掛かっていませんでした。ノックをしてみます。誰も返事をしません。ドアを開けました。あるのは、汚れた便器だけでした。

 ふたつ目――やはり鍵は掛かっていません。ノックをしますが反応はありません。中には誰もいませんでした。

三つ目もやはり鍵は掛かっていませんでした。ノックをしても反応なし。ドアを開けてもやはり誰もいませんでした。

わたしは深く肩を落としました。男性に探偵から伺ったAの情報を確認すれば、何か新しい情報が得られるのでは、と期待していたからでした。

わたしは失望し、そのままトイレから去ろうとしました。

水の滴る音がしました。

わたしは言いようのない不安を覚えました。 わたしは三番目の個室から一番目の個室へと遡ってチェックし直しました。やはり異常はありませんでした。

気の所為か……?

不意にトイレ脇に落ちていた掃除用具を思い出しました。

まさか……。

振り向き、手を震わせながら、ゆっくりと、用具入れのドアに、手を、掛けました。

一気に引きました!

絶句しました。

用具入れの中に変わり果てたホームレスの男性の姿があったのです。

詳しい状況に関しては申し上げることもないでしょうから省きますが、それはもう凄惨な光景でした。男性は、まるで頭陀袋のようになって、人間の尊厳をすべて奪われたと言っても過言ではないような惨たらしい姿に変わり果てていました。

この事件は、ここ外夢市で起きた犯罪の中では断トツに猟奇的で、マスコミが連日大ヶ崎公園付近に押し掛けていましたから皆様の記憶にも新しいかと思います。

しかし、わたしはそんなことで外夢市を有名にしたくはない。市の治安を担うのは、市に拠点を置く警察である以前に、市の代表者、つまり市長であるべきだとわたしは考えております。犯罪は根絶せねばなりません。わたしが市長になった暁には、犯罪撲滅に向け、更なる運動を展開していきたいと思います。どうかよろしくお願いします。

それからわたしは警察に電話をすべきか考えました。外夢市警察署は大ヶ崎公園から踏み切りを越えたすぐそこにあります。なので、警察が大ヶ崎公園まで着くのにそれほどの時間は掛かりません。今、ここで殺人事件の第一発見者となって取調べに時間を取られるか、それとも今すぐ逃げるか、わたしは選択に迫られていました。

わたしは探偵に電話で相談することにしました。

事情を説明すると、探偵はある提案をしました。

探偵との電話を終えると、わたしは公園内の公衆電話を使い、外夢署に匿名で電話を掛けました。何故、匿名か。時間を取られるわけにはいかなかったのです。

ただ、市長という役職は不安定なもので、国会議員とは違い、不逮捕特権がありません。なので、法を犯せば議会中だろうと関係なく逮捕されます。わたしは自分が今にも切れそうな吊り橋の上を歩いているような状況に追い込まれているのを自覚しました。ですが、吊り橋が落ちても構わない。わたしは皆様との約束を果たさなければならない。

だから、これで自分の人生が終わってしまっても構わない。

わたしは、どんな手を使ってもあの三人組を逮捕する。

わたしは腹を括りました。わたしは警察への電話を終えると、すぐさま探偵に指示された公園の近くにある古びたアパートにて彼女と落ち合いました。

探偵に続いてAが居住しているとみられる部屋の前まできました。探偵がわたしにマスクを手渡し、インターフォンから少し外れた場所で待つよう言いました。わたしは素直にマスクを着用すると、探偵の言う位置へと移動しました。

探偵がインターフォンを鳴らしました。

少しして、インターフォンのマイクから男性の声が聞こえました。

すると、探偵は鬼気迫った調子で男性に何かを訴え掛けました。

あまりにも切迫した演技の所為でことばの輪郭は潰れており、探偵が何と言ったかわかりませんでした。男性も曖昧な態度で応対するばかりです。が、探偵は尚も鬼気迫った調子で捲くし立てました。そのうち相手もそれに押されてか、少し待ってくれと言い、インターフォンのマイクを切りました。

一分ほどして、部屋の中から若い小太りの男 ――Aが顔を出しました。

Aはのっぺりとした顔を青白くして、ふくよかな頬を引き攣らせていました。探偵はAに招じられ、中へ入りました。それに合わせてわたしも続き、Aの部屋へ突入しました。

Aが部屋に突入したわたしに罵声を浴びせました。

リビングへと続く廊下は大変散らかり、ゴミや生活用品が床を覆っていて大変歩きづらく、開け放たれたドアから覗けるリビングも廊下と同様の有様でした。

探偵はすぐさまAの腕をうしろに捻り拘束すると、そのまま奥へと連行しました。

探偵はAをリビングへ押し込むと、カーペットの上でAに足払いを掛けました。

身体が宙に浮き、次の瞬間には、Aの背中と後頭部は床に叩きつけられていました。

探偵は咳き込むAの胸の上に跨り、両膝でAの両肩を押さえ込むと、Aの首に手を掛けました。Aが声を上げようしました。が、その声は、声になっていませんでした。

探偵にマスクを取るよう言われたわたしは、言われた通りにマスクを外しました。

Aが潤んだ目を大きく引ん剥きました。

探偵はAの首を押さえたまま、わたしの顔を指してこの顔に見覚えがあるだろう、と訊ねると、Aの首から手を離しました。

咳き込むA。咳が止まると、探偵はAにメンチを切り、声を上げたり、うそをついたりしないよう警告しました。Aは首を持ち上げ、二、三度頷きました。

探偵が再度わたしを指して、この人を暴行したのはお前か、とAに訊ねました。

視線を逸らすA。

探偵はAに張り手を見舞いました。

 質問に答える時は人の目を見て自分の口で話せ、と探偵はAに言いました。その表情はドライアイスのように冷やかで乾いていました。Aは探偵の質問に、はいと答えました。

 探偵は、大ヶ崎公園の浮浪者を殺害したのは自分か、とAに訊ねました。

 Aは違うと答えました。

探偵はAにホームレスの男性を殺した下手人を白状するよう迫りました。

Aが再度視線を逸らしたので、探偵はAに再び強烈な張り手を見舞いました。

わたしは探偵にやめるよう言いました。わたしは犯人を捕まえはしたいが、痛めつけたいわけではない。ただ、真実が知りたいだけなのだ、と。

わたしはAにすべてを打ち明けるよう頼みました。

Aは呻くばかりで具体的な返事をしませんでした。探偵が再び張り手を見舞おうとしたので、わたしは探偵の手を掴み、やめるよう懇願しました。

 許してくれ、とAが悲鳴を上げ、すべてを吐きました。残りのふたりの所在地も、動機も、凶器の場所も。動機はわたしへの制裁で、インターネット上で集まった有志ふたりとともに犯行に及んだとのことでした。そして――

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登場人物紹介

皆さんこんにちわ!


わたしは、東京都の某所にて『ヤーヌス・コーポレーション』という会社を経営しております!


この度、外夢(そとむ)市の市長選に立候補させて頂きました!


わたしは、外夢とは縁も所縁もない存在ですが、市長となって、外夢という素晴らしい街の発展に注力していきたいと思っております!


よろしくお願い致します!

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