迫りくる影

文字数 3,839文字


 おびただしい数の自動車や荷車が町の広い通りを埋めていた。
 大きな荷物を持った人がその周囲を取り囲み、列は遅々として進まず、あちらこちらから怒声が響いていた。
 この表通りのざわめきは、横手の引っ込んだ小路の二階に面した窓にも伝わる程の大きなものになっていた。
「幹線道路は、軍が車を止めてしまっているから、みんな裏街道でパリに向かうみたいですね。少しでもアルデンヌの森から離れたいと南や西への道はどれも大混雑らしいです」
 ランスの町は、昨日から終夜途切れることなく喧騒に包まれていた。
 無理もない。
 ポーランドに攻め込んだ後、しばらく鳴りを潜めていたドイツ軍がついにフランス国境を越え進撃してきたからだ。
 フランスイギリス連合軍は、北部アルデンヌの森から侵攻してきたドイツの機甲軍団にあっさり破れ潰走を始めており、森からそう遠くないこの町の周辺に居た部隊はいつの間にか後方に移動し始めていた。
 町を戦場にしたくないという意図だろうが、住民たちにしてみたら見捨てられたとしか思えなかった。
 これが狂騒(パニック)に火をつける事となり、住民は安全な場所を求め逃げ出そうと躍起になっているのだった。
 ところがその難民の列は、彼らを守ってくれるはずのフランスと英の連合軍によって行く手を阻まれてしまっているのだった。
 ドイツ軍は幹線道路に沿って進撃するだろう、その予想で連合軍は部隊を大急ぎで道路贈位に展開しているのだが、難民の波はこの陣地構築の邪魔になるからと通行を阻害されたのだ。
 いや、止められるどころか逃げてきた方向に逆戻りしろとまで強要される始末だった。
 仕方なく一般市民は狭い裏街道に殺到したのだが、その数があまりに多く。列は遅々として進まない状況となっていた。
 この為に町の中において早くも難民の行列は激しく渋滞し、動かぬことに不安を覚えた者たちの怒声が、四方から飛び交う結果となっているのだった。
「少しでも早く逃げたい人は、荷物を捨てて道ではない畑や牧草地を進んでいるって噂も聞こえてきてますよ」
 リアンナ・マッソーは目の不自由な義理の母と二人で花屋を営んでいたが、もう何か月もまともな商売が出来ていなかった。
 すべては、戦争のせいであった。
 今リアンナは、その花屋の二階で義母を相手に食事の用意を済ませたところであった。        二人は家の中で息をひそめるように食卓についた。
            
「リアンナ、逃げないのかいお前は」
 椅子に座った母が嫁に聞くが、リアンナはすぐに否定した。
「お母さまを残してはいけません」
 目の見えぬ義母の手を握りリアンナは言った。
「マルセルは帰って来ないかもしれない。兵隊に行って無事で帰って来られる保証なんてないんだ、あんたが家に縛られている必要はないんだよ。ここはきっと戦場になるから、あんたは逃げていいんだよ。若い娘に戦場は危険すぎる。前の戦争でこのあたりがどんな風だったか、話は聞いているだろう」
 第一次世界大戦においてこの町は戦場の只中に置かれた。
 その結果、長期間ドイツ軍のの占領下におかれたのだ。
 住民たちは苦しい日々を送ることになり、リアンナの義母もこの戦争のさなかに視力を失ったのだった。
「大丈夫ですお母さま、この家には絶対に危険はやってきません。あの人が帰って来るまで私がこの家を守りますから。彼と約束したのですよ、お母様と花たちを守ると」
 リアンナは母の手を握ると、落ち着いた声でそう言い、ゆっくりと母の体を抱きしめた。
「あんたは、なんていい嫁なんだろう。余計に心配だよ。どうかこの子を守ってあげてくださいマリア様」
 母は光のない瞳から涙を流していた。
「お店の掃除をしてきます。お母さまは、食事を済ませたらゆっくり休んでいてください」
 リアンナは母にそう告げると、一階の店舗に降りて行った。

 店の中はがらんとしているが、まだ棚にはいくつかの鉢植えが残っていた。
 とっくに入荷は止まっており、店を閉めてこそいないが、客が訪れることはまずなかった。
 だが、その閑散とした店の扉が、上に吊るしたチャイムの音と共にゆっくりと開いた。
「まだ店を開いてくれていましたねマダム」
 店の入り口にかなり長身のフランス軍兵士が立っていた。その姿を見てリアンナは驚いた。
「マルコさん、あなたまだ町に居たのですか。軍は移動したと聞いていましたのに」
「ええ、本隊は既に南の街道に移動しました。私の隊は事務処理に残っています。ですが、間もなく出て行かなくてはなりません。それにあたってどうしても必要となったので、お願いしていた鉢植えの一つを急いで貰い受けに来ました」
 リアンナがため息を吐きながら小さく頷いた。
「やはり町は見捨てられるのですね」
「残念ですが、明日にはこの町には鍵十字(ハーケンクロイツ)の旗が溢れているでしょう。何もできないで申し訳ありません」
 マルコと呼ばれたフランス軍兵士が、すまなそうに首を振った。
「ただの兵隊のあなたが謝る事じゃありませんわ。ドイツ軍は怖いですが、私たちはじっとしているしかできません。戦う兵隊さんは、きっと怖くて仕方ないのでしょうね。お察しします」
 マルコは形容しがたい表情を浮かべながら答えた。
 悲しそうでもあり諦めに浸っているようであり、それでいて何故か唇の端には笑みのようなものも浮かんでいる。
「宿命ですね、銃を持つなら命を捧げる覚悟を持つ、それが嫌なら牢にでも入るしかない。戦争というものはそうやって人間を選別する冷酷なものなのです。ですが、その中で足掻くのも人間なのですよ、私などは精一杯姑息に生きて行こうと思ってます。馬鹿正直に敵に銃を向けるだけが兵士の仕事じゃありませんから」
 これを聞いて、リアンナは少し間を置き言った。
「変わっておりますね。愛国とかを語るのかと思いました」
「いや、私にはその資格が欠如しているのですよ」
 マルコはゆっくり首を左右に振った。
「どういう意味ですか」
 リアンナが首をかしげたが、マルコはこれに何も応えずこう言った。
「とにかく、やれることをしなくてはいけないので、鉢植えはどうしても持っていかなくてはなりません、すいません用意していただけますか」
「ああ、ごめんなさい。必要なのは、どの鉢ですか?」
 マルコは一個の鉢を指した。
「その花の咲いたベラドンナです。他の鉢はまだ預かっていてください。お願いします」
「軍は移動すると仰いましたが、こんな時に何故わざわざ花を?」
 リアンナが壁際に置かれた鉢のうちのを一つ取り上げた。
「どうしてもそれが必要になる事態が必ず起こる、とだけお答えしておきます。それ以上は語れないのですよ、申し訳ない」
 マルコはそう言いながら鉢を受け取った。
「この花がどうしても必要なのですか、いったい何に使うのか私には想像できません」
 マルコは鉢の花をゆっくり確認しながら言った。
「見たとおりこれは観賞用の花ではありません。美しくありませんでしょう。ですが、非常にデリケートで、そして有意義な花なのです。この花は私とその仲間の仕事に不可欠なものなのです」
 そう言ってマルコは曖昧な表情で肩をすくめて見せた。
「私は花屋ですけど、ここに嫁いでまだ2年も経っていませんから、植物について詳しいことは判りません。ただ、主人からこの花はひどく日光に弱く、葉に触れるとかぶれるから注意して扱うようにと言われ世話をしてきました。どうしても必要としている人がいるのだから、枯らせてはならないと言い付けられてました」
 リアンナはマルコが持った鉢の花を不思議そうに見つめた。
「そうですね、マルセルさんはこの花の扱いを本当によく熟知していました。あなたが、彼が出征した後もこうして世話をしてくれていたから、私は本当にこれが必要な今、こうして鉢を買い受けることが出来たのです。とても感謝しています」
 マルコはそう言うと、丁寧に頭を下げた。
「花屋の仕事の一つです。鉢植えは、必要に応じて花屋が預かるからこそ、皆さんにご愛顧してもらえるのだと主人が口を酸っぱく言っておりました」
「ええ、だから私も残りの鉢を安心して預けて行けるのです。いつか、必ず取りに来ます、どうかよろしく面倒をみてやってください」
 マルコはそう言うと店の扉をゆっくり開き歩み始めた。
「どうか道中も気を付けてください。無事にお過ごしできることを祈っています」
 リアンナに見送られ店を出て行きながら、マルコは言った。
「いつかマルセルさんが戻って来たら、私は必ず約束を守ると伝えてください。大丈夫です、どんなに時間がたっても彼は戻ってきますから」
 なんと言うか。ゆるぎない自信のようなものが滲んだ物の言い方であった。その言葉を聞くと、リアンナも何故か安心した気分になれた。
「ありがとうございます、励みになります」
 リアンナがそう言うと、マルコがあっと小声を上げてさらに続けた。
「もし、外で黒い犬を見かけましたら、是非可愛がってやってください。きっといい事があります」
「はあ」
 リアンナは小首を傾げたが、兵士はもう店の外に出て行ったあとであった。
 翌日、町はドイツ軍の侵攻を許した。そこから、長い長い占領生活が始まったのであった。
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