第1話

文字数 8,634文字

 不吉なニュースが流れ始めた。
 家族の箸が止まった。
「七十三歳の女性が自宅で刺殺されているのが発見されました。捜査本部は高校一年生の少年を祖母殺害容疑で逮捕し、事情を訊いております。近所の人々の話しでは、祖母はこの少年を大変可愛がっており、一様に信じられないと話しております。それでは、すぐお隣の主婦の――」
「一郎、テレビ消したら。和子さんの美味しいお料理に悪いわ」
 祖母の志麻が、画面から目を逸らしたまま父に言った。
「――和子、テレビ、消そうか」
 父が、母にやんわりと言った。 
 武(たける)はこの様子を気にするでもなく、黙々と鮭のムニエルをつついていた。
一つ不思議に思ったのは、祖母はこれまで一度だって、母の料理を褒めることがなかったことだ。
 祖母は、自分の食器を台所に運び、そのまま長い廊下でつながる離れに引き上げていった。
 武がリビングから出ると、母の声が聞こえてきた。足を止めた。
「不思議よね。世間には殺すほどに憎み合う祖母と孫の関係もあるのね……」
「憎み合っているとは限らないさ。以前、引き篭もりの高校生が金槌で祖母を惨殺した事件があったが、二人は巣で寄り添う親子鳥のような間柄だったらしい」
「ああ、あの事件ね。確か少年は犯行前に遺書を残していたという」
「厳しすぎる父親ではなく、なぜ優しかった祖母に殺意が向ったのかが最大の謎だった。もう一つ俺の疑問は、人間、希望があれば人を殺したり自殺したりはしないと思う。少年はすでに、希望を失っていたんじゃないかな」
 武はこの時、父に少年の本当の心など分かるはずがないと、陰で薄笑いを浮かべた。
         *
 高校一年の武は、同じ学年に、中学時代から心を通わせてきた小林彩香(さやか)という親友がいた。
大人しい性格で、男子グループに交じれない武の悩みや喜びを親身に聞いてくれる相手は彩香しかいなかった。
 武と彩香は、いつも逢う街の図書館の帰り、公園の芝生に腰を降ろした。
「俺、親父のような技術者でなく、何か文系の仕事をしたいんだけど、婆ぁばが、男は理系だって、うるさいんだよな」
「そう、武のお父さん、企業エリートだもんね」
「彩香はどうするんだ? 大学は」
「うちは、できれば就職してくれって……。でも私は、どうしても社会福祉士になりたい。大学も仙台だと通えるし、
働きながらでも行くつもり。武も、昔っからおばあちゃん子だから、わかる気もするけど、自分のやりたいことやったほうがいいよ。あとで絶対後悔すると思う」
「いいなぁ、彩香は、自分が強くて。俺、両親には反発できるんだけど、婆ぁばにだけは何も言うことができないんだ。婆ぁばの声って、うまく言えないけど、俺の中で俺を支配してるっていうか、暗示がかかるみたいで、何もできなくなるんだ……」
 武は両膝を抱え、逞しく伸びている芝生の中の雑草を見つめていた。彩香が、吹っ切るように笑顔を作り、武の肩をぽんと叩いた。
「元気出しなって。正直、武は中学の頃から婆ぁば婆ぁばって鬱陶しかったけど、蟻も殺せない優しいところがあるよね。それって、きっとおばあちゃんからの影響よ。私は武のそういうところが好き」
「でも、俺は男だから、もっと強くならなくちゃって、いつも思うんだ。どうしたら彩香みたいに強くなれるのかな」
「私だって、自分が強いなんてないよ。ただ、誰も守ってくれる人がいないから、自分で責任がとれるように判断するだけ」
 武は、ハッとして彩香を振り向いた。自分は、何かに守られすぎているのだろうか。取り残されそうな不安を覚えた。再び芝生に目を移し、呟いた。
「俺たち、卒業しても友達でいれるよね……」
 彩香は、何も言わなかった。もう帰ろうといって立ち上がった。
         *
 翌週の木曜日、担任が、朝のホームルームが始まるとすぐに、大きな声を張り上げた。
「渋谷、昨日グラウンドで女子生徒に怪我をさせたそうだな。なぜすぐ連絡しなかった。遅くまで緊急会議で大変だったんだ」
「先生、俺、なにも悪いことしてませんよ!」
「お前が蹴ったサッカーボールが自転車に当ったそうじゃないか。怪我した女子生徒の友達が見てたんだよ」
「そんなこと言われても、急に出てきた自転車の方が悪いんだ」
「あとから職員室に来い!」
 担任は、まったく反省の色を見せない武に言った。
 職員室で、担任が事故の経緯を説明した。
 武は自転車が転倒するや否や逃げたが、女子生徒の脚に泥除けカバーが刺さり、大量の出血があった。友達から連絡を受けた被害者の母親が病院に運び、緊急手術が行われた。九針も縫う大怪我だった。その後、父親から職員室に烈火のごとき抗議の電話が入ったという。
「いいか、渋谷、俺は間違いを犯したことを責めてるんじゃない。それを率直に認め、すぐに連絡することが大事だと言ってるんだ」
 武は、担任の言うことが理解できなかった。結局、なんだかんだ言っても、自分を悪者にしたいだけなんだとしか考えられなかった。担任が、あきらめたように続けた。
「何回言っても分らないようだな。今日はこれでいい」
 その日の夜、担任から事故の詳細を聞いた渋谷家は騒然となった。
夕食後、両親と三人のリビングで、母が切り出した。
「私、こんなに恥ずかしい思いをしたことはないわ。先生が言うには、今回だけでなく、明らかに自分が悪かったことでも、それを認め、詫びるということがまったくなく、家庭ではいったいどういう教育をしてるのかって」
 父が、誰の目も見ないで口を開いた。
「俺が厳しすぎたのかな――。いつの頃からか、武は自分を正当化する癖がついてしまった」
「誰でも自分を正当化するけど、武は度を越しているのよ。うっかりするとそれが真実だと錯覚してしまう」
「母さん、俺なにも悪くないよ。悪いのは自転車なんだ」
 武は、母にだけは分かってもらいたいと、必死に訴えた。
「裁判でも起こされたら勝ち目はない。すぐ菓子折りを用意してくれ」
 父が、涙目で訴える武をそっちのけで、母を見た。
「あなた、そんなことはどうだっていいのよ! 私が悔しいのは、どうして親に一言話せなかったのかということ」
 武には、父の裁判の話も、母が流す涙も、どうしても理解できなかった。親なら、自分の言い分も少しは聴いてくれてもいいじゃないかと。
その時、祖母がスリッパの音を響かせながらリビングに入ってきた。
「どうしてそんなに武をいじめるの! 寄ってたかって」
 祖母が、悲痛な声を上げた。
 武は、祖母の毅然とした態度を見ると、自分に何か問題があるのだろうかと思い始めた気持ちが、急に引いていった。
「お義母さん、いじめてるのとは違うのよ! このままでは大変なことになるわ。そもそも武がこんな子供になったのは、すべて――」
「お母さん、今日はもう遅いから、早くお風呂に入って休んでください」
 父が、母が言い出した言葉を遮るように、祖母を促した。 
 この事件は、示談金を払った上に、父が被害者の家の玄関で土下座し、事なきを終えた。武は父の言うとおり、ただ頭を下げ続けていた。
       *
 もの心がついた頃から、武の心にはいつも、祖母の柔らかな鎖が絡まっていた。幼いながらに、武にも、いつかそれが重大な枷になると気づいた時期があった。今考えれば、ほとんど本能的なものだったのかもしれない。それは夏の日の、遠い記憶にあることだった。
 広い庭は亡くなった祖父の好みで、自然がそのまま残されていた。木立に囲まれた丘には、季節になると野バラが咲き、祖母の背中で揺られながらそれを眺めた記憶がある。
ある夏の日、芝生の緑が陽光を反射し、雨風にさらされた天然木のテーブルが白く光っていた。
縁側に、いつもは床の間にある花瓶が置いてあり、母と祖母が、花壇の切り花を生けていた。母が、冷たい飲み物を持ってくるわと言い、台所の方に消えていった。
祖母が花瓶に一輪の花を差すと、武の頭を撫で、再び花壇に戻っていった。あたりの風景に溶け込み、まるで庭の主のように見える祖母の姿が、武にはなぜか、母より大きく見えた。
 武の目の前で、花瓶が、滑るように落ちていった。
 陶器の割れる乾いた音と、ジュースのコップをトレーに載せた母が現れたのが同時だった。
母は、踏み石の周りに飛び散った花瓶を見つめ、口を半開きにしたまま固まっている。
武は呆然としながら、母の目を見ていた。母の唇がわなわなと震え始めた。
「武! どうしたの、これ――」
 母が、やっと口を開いた。その時だった。
「それ、婆ぁばが悪かったんだ。武ちゃんは悪くない」
 いつの間にか、切り花を持った祖母が後に立っていた。
 祖母がしゃがみ込み、武を抱き締めた。武は祖母の腕の中にいながら、じっと母の目を窺っていた。
「武、落したのはあんたでしょ? 自分が悪かったと思ったら誤りなさい!」
 母の真剣な目は、武を射抜き、後ろの祖母に突き刺さるほどに強かった。母のあのような形相を見たのは、後にも先にもこの時だけだった。
 母の心の叫びは、武の心を鷲づかみにした。熱いものが込み上げてきた。武がやっと、口を開こうとした時だった。
「いいのよ、武ちゃんは悪くないんだから、ママに謝ることはない。私が弁償してあげるから、それでいいでしょ!」
 祖母が、手に力を込めながら、母に真っ向から対峙した。
 母の目から、徐々に光りが失せていった。母は何も言わず、花瓶の欠片を拾い始めた。
       *
 母が、犬を飼い始めたのはその頃からだった。何か思うところがあったのかもしれない。
 母は白色の柴犬にタローという名前をつけた。勤め先の会計事務所に出かける前に、毎朝子供に話しかけるように、庭で食べ物を与えていた。
 武もタローが好きだった。大人しく華奢な体だが、透き通った聡明な目に、小さな尊厳を感じた。
 むやみに人に吠えないタローは、庭続きの浅井家の夫人にも可愛がられていた。白髪をきれいにまとめた夫人が、二人では食べ切れないと、収穫したジャガイモを茹で、よく食べさせていた。
 そのタローが、たった一度だけ、狂ったように吠えたことがあった。
 それはある日曜日の午後のことだった。夫人は驚いたのか、すぐにとんできた。庭に、怯えて立ち尽くす小さな女の子がいた。手から血を流していた。
 武は、すぐに手当てをしながら、事情を訊いた。
「ごめんなさい。早くお家に帰りたくて、近道をしたの」
 少女は泣きながら答えた。
 公園で仲間と別れ、家に帰る途中だった。後ろから自電車がぶつかってきた。少女は倒れ、少年はそのまま逃げていったという。
 家は、浅井家に面する道路沿いあり、少しでも早くと、庭を横切ろうとしたらしい。
武が蹴ったサッカーボールが自転車に当たり、大怪我をしたという女子生徒のことが、ふと脳裏をよぎった。 
       *
 季節は秋に差しかかろうとしていた。
 武は学校の帰り、市街地を抜け住宅街へとかかるいつもの交差点に向っていた。
襟巻をまいた老婆が、男児と手をつなぎ、何かを語りかけながら歩いている。
 ふと見ると、子供の右腕が左腕の半分くらいしかない。生まれつきだという、彩香の左手の指を思い出した。
 それは、武の心の中にある小さな空洞と同じものなのだと思った。
 交差点に近づいた時だった。街路樹がざわめき、強い風が吹いてきた。目の前で、布がひらりと舞った。老婆が、飛び去っていく襟巻に手を伸ばし、細い悲鳴を上げた。
 老婆は後ろにいた武に懇願の目を向けた。
「すみません、ちょっとこの子を見ていただけませんか」
「――あぁ、いいですよ」
 武は一瞬戸惑ったが、自分を見上げる子供の目がくりくりと輝いているのを見て、思わずその子の左手を握った。
 老婆は腰をかがめながら、襟巻が引っかかった街路樹の方に戻っていった。
「お兄ちゃん、ぼくの家あそこだよ!」
 子供が、まるで虹を見つけた少年のように、交差点を右に曲がった所の小さな一軒家に右手を差し伸ばした。
 その時、髪を靡かせ、自転車で駆け抜けて行く彩香の姿が飛び込んできた。一瞬、子供の手がするりと離れた。子供が交差点に向かい駆け出した。
 あぁ、危ない! 武は後を追った。交差点に入ろうとする子供と、横断歩道の手前で止まろうとする彩香の後ろ姿を交互に見ながら、車線信号が黄色から赤に変わったことにホッとした。
 だが次の瞬間、後方から道路を揺るがすような轟音が響き、左折しようとするダンプカーが交差点に突っ込んで行った。
 重いブレーキ音が空気を引き裂いた。彩香の目の前で、岩のようなタイヤが、子供を呑み込んでいった。
 武はすぐに、事故現場に駆けつけようとした。だが、足が向った方向は違った。マフラーを手に、放心したように交差点に向う老婆とすれ違った。老婆の目が、飛び出さんばかりに武に迫ってきた。武はそれを振り切り、集まり始めた野次馬や、駆け寄ってきた同級生も無視し、ひたすら逃げた。
 翌朝、電話が鳴った。武はドキッとした。警察からだった。
「昨日の午後五時頃、みどり町の交差点の近くにおりましたね?」
 登校前に出頭した駅前の交番所で、警官が、父と並ぶ武に話しかけてきた。
「はい、交差点の近くまで行きましたが、忘れ物を思い出し、学校に戻りました」
 武は、警官の目を見ながら答えた。わきの父が、じっと耳を傾けている。
「その時間帯に、あの交差点で人身事故があったのですが、知ってましたか?」
「いえ、今、始めて知りました」
「そうですか、大変痛ましい事故が起きましてね」
 警官は、事故現場の写真を二枚、テーブルに載せた。
 武は一瞬、目を逸らした。
「ところで、あの交差点の近くで、おばあちゃんに何か頼まれませんでしたか?」
「……」
「どうなんだ、武! 正直に言いなさい!」
 父が、小刻みに震え始めた武の襟首をつかんだ。
「まぁ、お父さん、今日のところはこのぐらいにして、落ち着いたらもう一度ご足労願いますか」
 警官は、最初から武の嘘を見抜いているに違いなかった。父も、同じだろうと思った。
その日は父も会社を休み、祖母を抜いて家族会議に入った。武は、すべて正直に話した。今度こそは、自ら土下座して、許しを請おうと覚悟を決めた。
       *
 翌日、武が登校すると、彩香の姿が見えなかった。
 放課後、全校生徒が緊急で体育館に集められた。いつになく神妙な顔をした校長先生の口から、昨日、小林彩香が自殺した旨が伝えられた。
 武は耳を疑った。あちこちから女子生徒のすすり泣きが聞え始めた。なぜ自殺を? 考えられるとすれば、あの残酷な光景にショックを受けたからか――。それにしても……頭の中が真っ白になった。
 武は呆然として玄関に向った。そこで、さらに脳天を打ち砕かれるような衝撃を受けた。
「これ、内緒よ。彩香、車庫の中で、首吊っちゃったらしい。一昨日、彩香の目の前で交通事故があったそうよ。彩香、現場に引き止められて、死んだ子供の祖母から、なぜ子供をすぐに止めなかったと、さんざ責められたみたい。その夜、両親が家にまで押しかけてきて、ガラスの割れる音もするし、私も怖かった」
 玄関の靴箱の反対側で誰かに話しているのは、彩香の家のすぐ近くに住んでいる木下めぐみの声だった。 
 脳裏に、暗がりで揺れる彩香の姿が浮んだ。
 違う! 彩香に罪はない。俺が手を離したばっかりに。何てことだ――。
 武は、ふらふらと玄関を出た。級友の声が、体を素通りしていく。
 俺が逃げたために彩香が死んだ。もしあの場で、老婆に子供の手を離したことを正直に詫びていれば、彩香の苦しみを分かち合うことができたはずだ。彩香は自殺することはなかった。なぜ、あの時逃げたのだろう。理由などない。これまで自分が、何百回と繰り返してきたことだ。すべてはうまく潜り抜けてこられた。
 けれども、今回は違う。生きる希望のすべてだった彩香を失った。俺はどうしてこんな人間になっちまったのだろう……。
 灰色に霞む自宅が見えてきた。
「あら、武、どうしたの? 真っ青な顔をして――」
 ただ今も言わず玄関に入った武を見て、母は目を見張った。まるで幽霊でも見るかのように。
「あぁ、大丈夫。頭が痛いので少し休むよ。夕食はいらない」
「武ちゃん、風邪でも引いたのかしら。心配ね……」
 階下から、祖母の声も聞こえてくる。
 武の目には、もう誰も映ってはいなかった。
 部屋の中は、海の底のように暗かった。目を凝らし、仄かな出口を探す。けれども、もう武には、光りを投げかけてくれる存在はない。もがけばもがくほど、底なしの沼に入り込んでいく。溢れ出る涙が耳を伝い、床を濡らしていった。いつの間に眠っていたのか、夜中に目を覚ました。
 部屋の隅に、彩香が悲しそうな顔で佇んでいる。これは夢なのか。武は叫んだ。
「許してくれー、彩香、俺が悪かった。俺の中の悪魔が、また囁いたんだ」
 彩香の視線が、武の頭蓋を突き抜けていく。もう自分を見ていないかのように。やはり、夢なのだ。
 突然、恐ろしい光景が迫ってきた。邪悪な獣が次から次へと襲ってくる。武は必死で逃げる。あの人が、必ず助けてくれる。いつだって、自分の醜い棘を覆い隠してくれた。野ばらの花のように。
 闇の向こうに、誰よりも大きく見える婆ぁばの姿が見えてきた。武は両手を広げ飛び込んでいく。懐かしい干草の匂い。でも、何かが変だ。ふと見上げる。えっ、ど、どうしたんだよ? 武は凍りついた。優しい笑顔が、みるみる般若の面へと変化した。
 武は、ハッとして目を覚ました。悪魔の正体が、武の深層に刻まれた。
 その時、強くドアがノックされた。
「どうしたんだ? 武、ここを開けなさい」
「風邪引いたみたいだ――。今日、学校休むよ」
 武は、ドアの鍵を外し、隙間から片目だけを見せた。
 父と母が心配そうに、部屋の中を窺っている。やがてドアは、静かに閉まった。
         *
 武は午後二時になるのを待った。
 階下は静まり返っている。両親は仕事で、祖母は昼寝の時間だ。邪魔をする奴は誰もいない。
「俺は悪魔を退治する。俺の中に棲みつき、俺を支配し続けてきた悪魔を抹殺する」
 武は呪文のように唱えながら、台所から持ち出した出刃包丁を握り、一歩、一歩、悪魔の住処へと向かった。縁側に差しかかった時だった。
 ふと、庭に佇むタローと目が合った。タローは芝生に落とした尻尾をぴくりともさせず、じっと武の目を見ている。
「タロー、なぜそんな目で俺を見る。俺にはこれから大事な仕事がある。終わったら食べ物をやるから、邪魔だけはしないでくれ。頼む」
 武が通り過ぎようとした時だった。地の底から轟くような声が脳裏に響いた。
「武、お前は志麻さんを殺そうとしているな。返り血を浴びようとする勇気だけはたいしたもんだ。少しは成長したようだな。だが、地獄の痛みに耐えながらのたうち回る苦しみは誰が受けるのだ? この期に及んでお前は、また逃げる気なのか」
 それはまるでタローが発したように聞こえてくる。武は、ハッとして振り返った。だが、白目が広がったように見えるタローからは、微かな唸り声が聞こえるだけだ。
「俺が逃げるだと――違う! 俺は、俺の中に棲みつこうとする悪魔を抹殺するのだ」
 武は、ざわつき始めた木立の奥に声を荒げた。その時だった。タローの白目がさらに広がり、不気味な光を帯びた。
 唸り声が言葉となって、脳裏に突き刺さってくる。
「うふふふふ、悪魔を殺す? 嘘だ! 悪魔などどこにもいない。お前は単に、自分の弱みをさらけ出す勇気がないだけだ。お前の心の弱さが多くの人を傷つけてきた。お前の大切な人が、なぜ自ら死を選んだのか、お前はまだわかっていない。悪魔はお前だ!」
 彩香の自殺の原因――確かに、本当の理由はわからない。
 その時、父の言葉が脳裏に蘇った。そうか、彩香は希望を失ったのだ。手が不自由な子供が、目の前で消えていった時、彩香の福祉への夢も破壊されたに違いない。弱い者に寄り添い、一途に生きようとする彩香の微かな希望さえも、俺は奪ってしまった。
 沸騰していた全身の血液が逆流し始めた。婆ぁばに罪はない。俺が、それを隠れ蓑に利用していただけだ。
 ふらふらと庭に下りて行った。踏み石のわきに白く光る物がある。あの時の、花瓶の欠片に違いない。
 武はまざまざと思い出した。母に、婆ぁばから自分を取り戻してもらいたくて、わざと花瓶を割った、幼き日のことを……。
「ありがとうタロー。お前も今日から自由だ」
 武は犬の首から、柔らかな枷を外した。
 テーブルに手を載せる。陽光が掌を射抜くように降り注いでいる。滴り落ちる涙が乾いた木に吸い込まれていく。細く白い指が、命乞いをするように、小刻みに震え始めた。
 タローの言うとおりだった。五本の指が、浮き上がる血管から養分を吸い取りながら蠢いている。それは紛れもなく、悪魔の触角だった。
 武は、重く垂れ下がるものを振り上げた。陽光が、波紋に鈍く反射する。
 無言で、それを振り下ろした。
 脳天を突き抜けるような激痛が、武の中の悪魔を焼き尽くしていく。
 哀しそうな彩香の目に、あのころの温もりが、わずかに滲んだ。
 タローの狂ったように吠える声が、徐々に、薄れていく……。
                                    (了)
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