第7話

文字数 2,769文字




 友香は右耳に屁のような不快な温もりが残っているような感覚がとれなくて、耳介を爪で掻いた。三浦さんのせいだった。
 オートマットからの帰り道、由奈は一人で先をふらふら歩いていた。いつもの給水塔がではなく、駅に向かう道から帰るようだった。私は追いつくこともなく、遅れてついていった。すると、三浦さんがさりげなく私に歩調を合わせてきた。それから私を肘で小突くと「富山の自転車壊した犯人、由奈ちゃんじゃねえかな?」と囁いた。
 「なんで」
 何故かぎくっとした。当人たち以上の辱めを受けている気分だった。
 「由奈ちゃんって、その、そういうことしてんでしょ?」
 きゅっと息が詰まったのを悟られませんように、と祈りながら戦慄した。大丈夫だ、私は侮辱の対象には入っていない。私は自分が戦慄としている理由を整理しようと焦りながらも、この場をやり過ごさなければならず、つい口癖で、多分、と言いかけて思わず唇を噛んだ。
 「ええと、まあ、そうですね。え、でも、その、富山さんが相手ってこと?あの人そういうことする人なんですね」
はははははは。なんで私は笑っているのだろう。三浦さんは興奮した様子で、マジか!まあ確信してたけどね、やっぱりなあ、と一人でカタルシスに浸っていた。カマかけられたのかな?ああもう最悪だ。
 「風俗使ったことないサラリーマンなんていないから。友香ちゃんも彼氏できたら、そこは許してあげてね」
 うるせえ。結局私は愚弄されるはめになった。
 「でも富山は輪にかけてロリコンだからね!由奈ちゃんの背伸びしたくて勘違いしちゃってる痛い女子高生みたいなノリがそそるんだろうな。由奈ちゃんって未成年?」
また、多分、と言いそうになった。
 「いや、違います」
 調子に乗った三浦さんはいよいよ耳打ちをしてきた。
 「見せつけてるつもりになってんだろうけど、馬鹿にされてるってわかんねえんだろうな、アホだから。友香ちゃんも結局由奈ちゃんのそういうところを見下すのが好きで一緒にいるんでしょ?」
 「……」
 「友香ちゃんの気持ちもわかるよ。富山、ルックスだけはいいからなあ。俺も最初はそうだった。富山は東京で未成年に手出して捕まったからこっちに戻ってきたって噂だったんだけど、仕事出来るし、話していてもまともだし、ちゃんとした人じゃん、って、むしろちょっと尊敬していたくらいなんだけど、由奈ちゃんが現れた時は『あっ!やっぱこいつやってるわ!』ってなったよね。しかもまたトラブル起こしてくれてやがんの!結婚したのに、大変だねえ」
 三浦さんは、こんなに滑稽なものが見れただけでも転職した甲斐があったってもんよ、と手を叩いた。
 「要するに由奈ちゃんが、メンヘラって言うの?そんな感じの情緒不安定で、あいつの自転車ぶっ壊したんじゃねえかなって。これで決まりでしょ。黙ってた方が面白いから、これ秘密ね」
 三浦さんは私の肩を叩き、友香ちゃん見た目に騙されちゃだめだよー、普通が一番なんだから、という捨て台詞を残してペデストリアンデッキの人混みに紛れた。
三浦さんの息は臭くはなかったが、他人にパーソナルスペースを侵害される気持ち悪さを改めて実感した。
 通販で注文していた画集が平積みの漫画と小説の傍にころがっていた。勝手に開けんなよ。これ以上私を乱さないでくれ。
 プライドに理性が崩された。馬鹿にされたくない。私の普通の人間としてやってきたプライドを守りたいがために、腑抜けた心が一掃されたのだ。他人から見たって由奈と私は少なくとも親しい関係であり、彼女のせいで他人に侮蔑されたことに、冷静に憤っていた。興奮と冷静が同居していた。冷静さの正体は、私は由奈をどこか軽蔑していて、三浦さんが軽蔑の背中を押してくれて、表面まで現れた。
 私は由奈の掴み所がないところが好きで、それを守り抜きたかったのに。簡単に他人に流されている自分が虚しかった。
 由奈は、キッチンとリビングの間で立ったまま、質問をはぐらかした。
 「なんで?」
 「答えになってないよ」
 由奈は私に背を向けて床に横たわると、そうじゃないんだよなあ、とぼやいた。それからぶつぶつと呟き続けた。どれだけ醜くたって受け止めるから、ちゃんと言い訳してくれ、と心の中で手を擦り合わせた。
 「……」
 由奈は私を言いくるめる算段がついたのか、寝返りをうつと、あざとい調子に戻って言った。
 「じゃあ、わたしの質問に答えてくれたら、友香の質問にも答える」
 「いい加減にして」
 「わかったよ、しかたないなあ」
 由奈は起き上がってあぐらをかいた。
 「わたしが風俗やってたのは、奈良島から聞いてる?」
 「うん」
 初めて会った日の記憶すら茶番に変わってしまって、とても強い孤独を感じた。彼女は壁に背をもたれさせて、微風で空いたカーテンと窓の隙間を見上げた。
 「富山さんは当時の客で、こっちに来てからばったり会った。それだけ」
 「なんであんな醜い飲み会したの?ずっと気持ちが悪かった」
 「楽しかったでしょう?」
 「ただただ不愉快」
 「それは八つ当たりだよ。知らないうちは楽しかったんでしょう」
 「ずっと疑ってたよ」
 「でも楽しかったのは否定できないでしょ」
 由奈はばつが悪そうにしながらも、淡々としていた。私は何も言えなかった。私は富山さんと由奈の関係を明らかにして、どうしたかったんだっけ?由奈は、富山さんにはお金という関係があって、私とはどんな関係があるのだろう。それが全く出てこなかった。大事ななにかを見て見ぬふりをしてきたのだ。多分茶番でいいから、関係を、依存を作らなければならなかったんだ。ずっと気付いていたけれど改めてその事実と正面から向き合った。動悸がして、譫言がこぼれた。
 「どうしたらいい?」
 由奈は失笑した。それから俯いて何度か頷いた。
 「こっちの科白だよ」
 しばらく沈黙が流れた。由奈は黙っていることに飽きたようで、じゃあ次わたしの番ね、とマイペースに仕切った。
 「友香と奈良島はどんな関係だったの?」
 そうだ、あの日富山さんに見られたんだった。こんなんでごまかせると思うなよ、と憤ったが、呆れて返す言葉が見つからなかった。由奈から見た私は奈良島に似ているのではないか。ふとそれを確かめたくなった。
 「由奈にとって私と奈良島は同列?」
 「全然、確かにちょっと似てるけどさ、友香のことは好きだよ、本当に」
 「なんで」
 「わたしが友香を好きな理由を並べて、抱きしめたら、また元通りになる?」
 「……」
 黙ってそうしてくれればいいのに。彼女はその術も弁えているはずなのに。また愚弄されている。こいつはもう私に飽きたんだ。こいつは全部壊して消えていくんだ。
 「ごめんね。すぐ出ていくから、もう少しだけお世話になります」
私はなにも言えなかった。
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