第4話

文字数 10,712文字




 奈良島は、座椅子の上で目を覚ますと、首と背中の痛みに呻いた。それから、大きく欠伸をした。
 欠伸で目を閉じたらそのまま眠れそうな浮遊感が訪れたが、すぐになくなって、頭痛が訪れた。
 深夜の、高揚したテンションで簡単に裏返る興奮とシニカルに振り回された疲労がまだ尾を引いている。節々が痛む。それらを自分が何かを頑張った証だと褒める照れくささが混じって胸焼けした。素面なのだから二日酔いより質が悪い。目の前のノートパソコンは、スリープ状態になっていて、エンターボタンを押すとしゃきっと画面がついて、パスワードを要求した。常盤さんには見せられないな。途方もなければとりとめもなく、とてもつまらないだらだらした文章になり、それを消してはまた同じことを書き続け、俺の内側の主張の矮小さに嫌気が差し、カーテンから光が漏れる頃に焦り始めるとやっと頭が回り始めて、謝辞という名分を常盤さんに押し付け、それっぽいものが書けたことにしたのだった。
 ドアを叩く音がする。俺はインターフォンの音で目を覚ましたということか。ドアを叩くほどの不躾に駆られる用件なのか?NHKならもう契約した。警察か?世話になる覚えもないのにそわそわする。ブラウザの履歴くらいは消しておくか?不安になるのも馬鹿らしい。休日だっていうのに、どこまでも喧しい。口臭いな、まあいいや。ドアの前で再びどんどんと叩かれて、急かされるままに、ドアから顔を出した。
 「はい」
 苦手というか、未知の生物に近い男が立っていた。学生時代はラグビーでもやってましたといったガタイで、側頭部を刈り上げた、熊みたいな男だった。ぎりぎり美人と言えそうな、気の強い女と付き合っていそうだ。グレーのジャケットにアイボリーのネクタイをしていて、如何にも営業っぽい男だった。虚業特有の、腰が低い雰囲気を醸し出しているのが文系出身っぽくて、くだらねえ、と唾を吐きたくなった。男はハンカチを内ポケットから出すと、額の汗を拭った。
 「おやすみのところすみません。声が聞こえてしまったもので」
 「はい」
 「先日お金に関する意識調査のアンケートをポスティングさせていただいた会社の者です。解答がなかったので直接お伺いさせていただきました。五分だけお時間よろしいでしょうか?」
 生命保険か?それとも投資か?まあ暇だしちょっとだけ相手してやろうか。
 「はい」
 「ありがとうございます。早速なんですけど、アンケートって読まれました?」
 「いやあ、ちょっとなくしちゃったみたいで」
 外は快晴だったが風があって、昨日よりはいくらか涼しかった。昨日の常盤さんが頭の中でフィルムがかって再生された。俺は昨日、常盤さんの印象に残る青臭さを吐けただろうか、ちゃんと大人になって、俺の拗らせた性格を嘲る目をしなくなった彼女にまた「気色悪いんだよ」と言われたい。やはり頭の中を巡るのは、昨晩書いた自分語りで、再度推敲したくなった。暇でもなかったな、と目の前の男が邪魔になった。適当に、早めに切り上げよう。
 「でしたら一から説明いたしますね。現在貯金とは別に資産運用等はされてらっしゃいますか?」
 「いえ」
 「将来対策というか、まだお若そうですし老後はまだ早いでしょうけど、結婚して子供が生まれたり、家や車を買ったり、大きな決断が待っているわけですけれども、そこに対する不安等は、いかがでしょうか?」
 名誉棄損で訴えてやろうか。車どころか免許を取る予定もないし、婚約者どころか恋人もできず童貞のまま静かに野垂れ死ぬ予定だからさっさと帰れ、とは言えなかった。俺は、ぼそっと、あんまり、とだけ呟いてごまかした。男は興味なさげに再び質問した。
 「ちなみにおいくつですか?」
 勝手に敗北した気分になり俯きながら、上目遣いでちらと男の顔を見やると、早くもカモをとらえてやるという表情に変わっていた。この手の連中は狡賢いのではなく、鬱陶しいのだという知見を得ただけで十分だった。
 「二十九、えーっと、今年で二十九になります」
 こんな奴に個人情報を渡すわけにはいかない。三十で死にたいという、叶わないであろう願望があったので、すらりと答えられた。男は馬鹿にしていると言わんばかりに曲げていた背中を反って、驚いている演技をした。
 「ほー、若く見られるでしょう」
 「ははは」
 これで給料もらってんのかよこいつ。男の左手の薬指に指輪を確認した。こいつにもガキと嫁がいるんだな。それだけでぼんやりしてしまった。
 「ではさっそくですけど……」
 ジャズ喫茶なんて気取りやがってとひねくれていたのだが、早計だったようだ。店内に入るや否やビリー・ホリデイの歌声が聞こえる。偉大なジャズシンガーの歌声に見合う、静かな店内は、季節外れの暑さから逃れる最高の避暑地で、心の中で「失敬致しました」と楽譜を睨むウィントン・ケリーに平身低頭して腰を下ろした。
 この街には、縁もゆかりもなければ、観光するような名所もない(失礼)のに、遠路はるばるここオートマットを訪れたのは、友人のような女性に招かれたからだ。誤解なきよう補足しておくと、友達以上恋人未満という意味ではなく、他人以上友達未満という意味の“ような“である。
 この友人のような女性、常盤さんと僕は大学の同期であり、同じ研究室で卒業研究をした。ただそれだけであるが、ここに至った経緯を詳しく記すことにする。
 僕はどれもこれも俄かにではあるものの映画やアート、ジャズを含めた洋楽が好きで、それらにちなんだTシャツを着て大学へ行くことがしばしばあった。すると常盤さんは目ざとく僕のTシャツに鋭い視線を走らせる。その視線は、ミニシアターで洒落たカップルを睨んだり、レコードショップで懸命にレコードを捲る可愛い女の子を無遠慮に見つめたりする僕自身の、確認することのできないはずの視線とシンクロしているような気がして、噴き出してしまいそうになるくらいくすぐったいのだ。下心はもちろんだが、友人になりたいという興味すらなく、やたら面映ゆいその視線にしか興味がなかったのだが、彼女が折れて話しかけてきた。
 「ソニー・クラークが好きなの?」
 不意に他愛のない会話を振られることに慣れていない僕は、戸惑っているのを必死に隠そうと朴訥に「まあ」と返すのが精一杯だった。いてもたってもいられなくて、帰ることにすると、彼女もついてきた。
 それから何度か大学から駅まで一緒に帰った。たまに寄り道して、駅の近くで一人暮らしをしている彼女のアパートの前で漫画を借りては返した。よかったよ、以外の感想を伝えられず、改めて僕には社交性が欠如しているんだと痛感させられて辛かった思い出だけが残り、あまり漫画の内容を覚えていない。けど面白かった。彼女はジャズが好きだと言ったが、ジャズの話に花が咲いたわけでもなく、ぽつりぽつりと身の上話をしただけで、卒業して、しばらく音信不通となっていた。
 早朝の回想を遮断するように男の声音が変わった。
 「あの、話聞いてます?」
 これが嫌なのだ。怒っているならそのまま感情をぶつけてくれ。年齢のあたりで気付いていたはずなのに、茶番に乗ったふりをしながら、ねちっこい詰め方をする姑息さ。そして結局このやりとりは一銭にもならないことに気付いていない無能さ。馬鹿なのはお前の方だからな、と指を突き付けてやりたい。
 「あっ、はい」
 「じゃあ私の言ったこともう一度おっしゃっていただけます?」
 「一字一句は覚えてませんけど、要するに今は給料で、今の生活をしているけど、将来家とかの大きな買い物や病気とか、老後とか、の大きな出費が発生する可能性があって、そういったことへの対策を考えるってことですよね?」
 「それで?」
 だから馬鹿なのに議論してますみたいな面すんなよ。こいつを殴るための筋肉がないことが悔やまれた。
 「ですから、いつかは考えないとですねって、答えましたよね?」
 「だからいつ考えるんですか?」
 「じゃあ、来週にでも考えますか?」
 男は、自己陶酔に満ちたすかした表情を浮かべた。気色が悪い。この勘違いを正すには暴力が最適なのだ。つまり俺はこいつを正すことはできない。俺は俺自身に憤慨した。
 「来週に何を考えるんですか?」
 「将来への対策について?」
 「具体的には?」
 それをお前が売りつけに来たんじゃないのか?この男は無能な営業マンではなく、嫌がらせをしにきた狂人なのかもしれない。勘繰りが止まらなくなって膝が震えた。
 「えー、あー、ちょっと思いつかないな。えっと……あの、そもそもそれを教えてくれるんじゃないんですか?」
 男は漸く感情を露わにした。それは常人の怒り方と同じで、安心した。
 「考える気のない人間には教えないけど」
 「はあ」
 「お前さあ、なめてんの?嫌がらせに付き合ってる暇ないんだけど」
 「いや、そういうことではなくて」
 男は偉そうにゆっくりと、さっきと同じような、具体性に欠いた説明をした。
 「で、聞く気あるの?ないの?」
 「すみません。あります」
 何故説明を求めたのか。自分で言ったのにわからなかった。これからもこうやって選択を間違え続けるのだろうな。
 「ちょっとその前に別で何個か訊きたいことあるから、ここだと近所迷惑になるから、玄関いれて」
 「はい」
 腕っぷしでは敵わない、得体の知れない男を室内に入れた愚かさから逃避するように、再び早朝の自分語りへ飛び込んだ。
 僕がここに来た目的は、この常盤さんに謝ることだった。本来僕が謝る場を準備すべきなのだが、半年も放置してしまった挙句、彼女にこんな素敵な喫茶店と、映画まで拵えてもらう始末だった。
 前述の通り、僕は不甲斐ない人間である。義理も通せず、助けてもらった人間を友達とも言い切れないダメ人間である。
 大学を卒業する直前くらいから予兆はあったのだが、心の拠り処としていた、映画や音楽やアートが、全て嫌になった。会社の先輩に「風俗くらい行っとけば?」と言われたのを鵜呑みにしてみた。僕は寂しさも欲望も持っていない人間だということを発見できたという点では良いことだったのだろう。別に楽しくもなかったが、することもない僕は、月に一度だけそういったお店に通うようにした。
 それから数ヶ月経った、冬の寒い日に、僕が常盤さんに迷惑をかける引き金となった女の子と出会った。
 男は玄関に入り込んで臭そうな革靴を脱ぐと、腰悪いんであぐらで失礼します、と洗濯機の脇に座り込んだ。やはり常人、というか営業マンだ。それはそれで厄介極まりないのだが。
 「ちょっと話それるよ。お前がなめた態度とるからだからな。勘違いすんなよ」
 「はい」
 「お前さあ、働いてねえだろ」
 この男は、お説教をしたいらしい。仕事でミスをすることはあるが、このように改まってお説教を食らったことはない。世の中には客にまで説教をしたがる業種があるらしい。彼の薬指の指輪といい、目に映るものすべてが風景で、俺はVRゴーグルをつけているだけで、実態はないような、そんな感覚に陥る。でも今は、自分の実態を痛感しながら、他人を眺めている。ストレスで判断力が鈍っているのだ。それで話が余計に拗れて、見知らぬ男を家まで上げてしまった。
 「いや、一応働いてますよ。まあどう思われても構わないんで想像にお任せしますけど」
 男はまたすかした表情をした。だから気に食わないって正直に言えばいいのに。これが“社会人の作法”なのだろうか。
 「じゃあ保険証見せてみろよ。知ってる?保険証の下に会社名が書いてあんだよ。働いてればの話だけど」
 「ごめんなさい。見せる理由がちょっと、見当たらないので」
 「じゃあ逆に保険証を見せたくない理由を教えてよ」
 「その……個人情報ですので」
 男は、人差し指を立てて、あのさあ、と呆れた口調で言ったが、立てた人差し指をこめかみに持っていき、二回ほど撫でると、言葉を飲み込んだ。
 「そうだな。保険証には個人情報が載っている。で、それを俺に見せることができない理由ってなんなの?」
 「できない理由……」
 オウム返しをしたものの、まったく思い浮かばなかった。こいつは何を言っているのだろう。知らない、どうでもいいや。俺はまた回想に耽った。
 金髪でショートヘアの彼女は、メイメイという源氏名で働いていた。映画(題名は忘れてしまった)のヒロインから取ったらしい。映画が好きらしいので、それっぽい映画監督を何人か挙げてみると、大学生かよ、と、彼女はその辺の女子大生みたいに、生意気に歯を見せて言った。
 彼女は等身大の若い女の子のようでもあり、並の風俗嬢以上にやさぐれているようでもあった。とにかく開き直ってはいないけれど、病んでもいない、ずっと浸かっていたくなる絶妙にぬるいテンションで僕を受け入れてくれた。
 「触ってはこないくせに、見つめてくるときの目力がすごい。自信満々に見つめてくるのに、ぎこちないのは、なんなの?」
 「わかんないよ」
 「赤ちゃんみたいに物を見ちゃだめよ」
保護犬みたいだよね、と彼女は俺の鼻頭に触れた。
 俺が“保険証を見せることができない理由“を見つけられないまま数分が経過した。客であり家主であるはずの俺は正座をしていて、早くも足が痺れてきた。男はスマートフォンを操作し始めた。上司に「社会不適合者に絡まれている」とでも報告しているのだろう。男は無関心に呟いた。
 「理由」
 「はい」
 「なに?」
 「個人情報ですので、悪用の危険もありますので、お断りします」
 男は顔を上げて、俺を睨んだ。
 「おい、いい加減にしろよ。俺がここに来た目的話したよね?どこにお前の個人情報を悪用する可能性を感じたの?それにさ、保険証の情報で何ができるわけ?写真を撮るわけでもあるまいし、一々覚えないよ」
 もう疲れたよこっちも、といやみったらしく添えた。疲れたと言いつつも、男は追い打ちをかけた。
 「わかるよ。お前が保険証を見せたくない理由。嘘ついてるからだろ。お前本当はいくつなんだよ」
 「二十四です」
 男は項垂れてこめかみに指をあてて、再び俺を睨んだ。
 「嘘はつくなよ。なあ、嘘は駄目だろう?」
 「はい、すみません」
 「俺は二十四歳ってのも信じられないのよ。だって証拠がないから。引き籠りのガキ、そういう印象でしかないわけ。だからしっかりと保険証を見せて、証明してほしいの」
 ワンルームマンションに引き籠るガキがいるなら教えてくれよ。俺はへらへらすることしかできなかった。男と目を合わせると、かったるさで口が綻んでしまいそうになった。こんなカス人間に必死になっちゃって。赤の他人が、俺が引き籠りのガキかどうかを確かめるために、神経をすり減らしている。くだらねえ。子供の頃想像していた大人はもっと効率的な生き物だったんだけどな。これが当たり前なのかもなあ、と俯瞰したつもりになって、疑問符を消した。わかったふりをするのはやめろ、と自分を咎めた。俺はいつもこうだ。傷ついたふりをして、勉強したつもりになって、わかったふりをして、斜に構えてたポーズを取りながら、時間と尊厳を失い続けている。それを治そうとずっと焦っていた。彼女がいなくなったあの日までは。俺に足りないもの。欲望と寂しさ、それにプライドと劣等感だ。飢えていたわけじゃない。ただそれらが欠けていることが不安で、あんなことをしたのだった。
 メイメイは当然ながら唐突に、僕の前から姿を消した。僕の人生に支障はなかった。ただ日常は続いていく。風俗には行かなくなった。暇だなあ、とぼうっとしていると、誰かにこのことを話したくなった。風俗嬢に入れ込んでたら、逃げられちゃった。今考えると面白くもなんともない(苦笑)それでも僕にとっての全てで、失った虚しさを感じないことが虚しくて、誰かに貶されたかった。友達なんていなかった。でも会社の人に話すのは気が引けた。くだらないと何度繰り返しても感傷が打ち消せなかった。そこで常盤さんを呼んだ。
 常盤さんはちゃんと現れた。なんなら僕が遅刻した。久しぶりに休日に外に出てみると急に活力が溢れてきて、レコードショップに寄ったのだった。僕が遅刻を詫びもせず、ほくほく顔で挨拶したのが功を奏したようで、常盤さんも嬉しそうに破顔して「機嫌よさそうにしやがって。気色悪いんだよ」と返した。あの時、人生で初めて人と上手く接することができた気がした。
 居酒屋で常盤さんと飲んだわけだが、二人共根暗なはずなのに、これが大いに盛り上がった。途中から表情筋と喉が痛くなってこんな幸せがあるのだなとひしひし感じた。
常盤さん曰く、居酒屋で僕は「優しくしないでくれ」と言ったらしい。それは、最後まで僕の幻想を保ったまま去っていったメイメイに対してだったかもしれないし、いきなり呼んでも来てくれた常盤さんに対してかもしれないし、平穏過ぎて怖いくらいの日常を送っていることに対する、信じてもいない神さまへの感謝をしていたのかもしれないし、結局のところわからない。ただ僕はこれだけで幸せで、でもそれだけじゃ駄目なんだと悩んでもいて、そういう想いを頭が悪いなりに伝えたかったんだと思う。
 俺はこういう日が来ることも予想していたはずだ。たまたまいじめられずに学生時代を終え、たまたまクビになるようなやらかしをせずに社会人をやってこられたわけだが、俺みたいな根暗で個性も欲望もプライドも持たないクズが気に食わない人間は少なくないだろうと考えたこともあったし、いつか理不尽に出会う日が来ることも予期していた。もう全部面倒臭い。やめた。
 「じゃあ、保険証見せますんで、それで勘弁してもらえませんかね?」
 俺はへらへらした口調で言った。
 「勘弁ってどういう意味?お前は説明を聞くために俺を家に上げたんじゃないの?お前さっきから言ってること全部おかしいよ」
 「まあわたくしがいけないんですけどね、ただこういう状況になって、まだあなたから提案を聞きたいとはね、ならないんですよ。金は出しませんけど、保険証くらいなら見せますんで、帰ってください」
 俺の口端から、にたにた、と音が鳴っているような気がして不快だった。意外にも男は俺の緊張で引きつっただけのへらへらした口調から怒りを汲み取ったらしく、大人しく俺の意見を受け入れた。こいつの基準がわからない。許されるとそれはそれでもっとごねてほしくなった。
 「じゃあ早く持ってこいよ」
 部屋に戻ると俺はノートパソコンをつけた。一晩かけたのに、肝心の常盤さんへの感謝が抜けていた。俺は座椅子に腰を下ろして、最後のセクションを読み返した。
 僕はとにかく楽しくて、別れの際まで常盤さんに「気色悪いんだよ」と言われたくてたまらなくて、駅まで歩きながら、酔いが回って、という態を装って一方的に喋り続けたが、全部独り言みたいな悲しさを帯びていた。常盤さんは飲み過ぎたのか、体調が悪そうに若干背中を曲げながら歩いており、僕を相手にしなかった。僕も少し申し訳なくなって、黙って歩いていると、肩に緊張が走って息を飲んだ。さっと振り返った。黒髪になっていたけど、あれは確かにメイメイだ。実際に髪のにおいが香ったのか、記憶による錯覚なのかわからなかった。しばらく(といっても実際は五秒とかそのくらいだろう)考えた。追いかけたってなんて声をかければいいのか……そうだ、常盤さんに紹介すればいいんだ。そしたら常盤さんだけじゃない、メイメイだって僕を「気色悪い」と笑ってくれるはずだ。
 僕はメイメイを追いかけた。今考えると人違いじゃなくて本当に良かった。そうでなくても、二人に迷惑をかけたんだけど。某日本の中心ともいえる駅の某口にある喫煙所で、二つの季節を過ぎてメイメイと再会した。でも僕は声をかけることができなかった。やっぱり企みは全部飛んでしまった。彼女と目が合うと、彼女は僕を認識した。それだけで幸せで、僕の欲望は満たされてしまった。そして僕は醜い面で彼女を視姦した。常盤さんは、完全に不審者状態の僕をメイメイから引きはがし、メイメイに謝ってくれたのだった。
 それから秋と冬が過ぎて、春になった現在、ここでやっと僕は常盤さんに謝ることができた。依然として僕は不幸でも幸せでもなくて、このままじゃ駄目だという不安に未だもがき苦しんでいる。
 長々と書いたが、例えばこの店は、店名や装飾や、流れているジャズからわかる通り、古き良きアメリカを現わしているのだろう。でもその裏側にはビリー・ホリデイが歌うように黒人差別があり、ベトナム戦争があったのだ、しかしそんな側面は、金と余裕のある文化人擬きがマスターベーションのおかずにすればよいのだ、僕は普通の人間らしく、無邪気にお洒落だねーと煙草を吹かせばよいのだ。つまり僕は、考えすぎないようにしたい——するのだという決心のために、長々と無味無臭で退屈極まりない文字の連なりを並べたのだった。色んな意味で、身の程を弁えたい。醜いなりにおどけて、調子よく生きていたい。
それでは改めて一服して、常盤さんと映画を観に行くことにする。ここまでお付き合いくださった方、こんなくだらなくて長い自分語りを読んでくださり、本当にありがとうございました。コーヒー美味しかったです。
 男はよほど警察を恐れているのか、声を荒げた。
 「おい!いつまでかかってんだよ!誰かに電話でもしてるのか?」
 「見つかりました!すぐ戻ります!」
 警察が怖いなんて、やっぱり詐欺やマルチの類なのだ。下手に空回りしたのは好手だったらしい。とはいえ、保険証という個人情報を晒すわけだが。
 「すみません。ちょっと探すのに苦労しちゃって」
 「普通財布に入れておくものだろ」
 「いや、病院とか、あんまり行かないもので」
 俺は名刺交換するように謙って両手で保険証を渡した。男は、ふうん、と偉そうに俺の保険証を眺めた。
 「会社に報告しなきゃいけないから写真撮るよ」
 ここでごねるのだ!と自分を鼓舞したが、中折れするような無力さに苛まれて終わった。
 「どうぞ」
 俺は敗北感が性癖になっている。拍数は変わらないのに鼓動が大きくなる心臓は、絶頂を現しているみたいだった。
男は保険証を床に置いて写真を撮ると、「ごめんね」と保険証を俺に返して立ち上がった。やっと解放される。俺は立ち上がって、自然と頭を下げていた。
 「こっちも声荒げて、悪かったね。でも最後にもう一つだけ付き合ってほしい」
 「はい」
 「俺の給料が出ている時間を無駄にしたわけだからさ、君からも、俺の上司に謝ってほしい」
 「はい」
 「じゃあ、今から電話するね」
 男は保険証を取って戻ってくると、対等な関係にいるような、まるで友人に接するような気の抜けた表情になっていた。一仕事終えた——この茶番は保険証の情報を抜き取るのが目的だった——といったところか?もうなんでもいいや。考えるだけ無駄だ。俺は情報を奪い取られた。男は仕事を成功させた。それだけだ。男の媚びへつらった声が聞こえる。状況はメッセージでやり取りしていたのだろう。男はスマートフォンを耳につけると、のっけから謝っていた。はい、はい、誠に申し訳ございません、はい、いえ、あの、本人からも謝らせます、いえ、富山さんに迷惑をかけてまったことを俺自身が許せないんです、俺なりに筋を通すというか、声だけにはなりますけど、はい、申し訳ございません、では、お電話変わります。
 男はスマートフォンを俺に渡した。
 「お電話変わりました。この度は申し訳ございません」
 目の前にいる男の上司と思われる男は、優雅に笑っていた。それからなめた態度と体のいい言葉で俺を嘲った。
 「いいよ別に。こっちこそごめんねー。貴重な休みの日に」
 どこかで聞き覚えのある声だった。ああ、と声を漏らしそうになった。希望が降りてきた。そういう感嘆だった。次こそは正しい選択をする、いや、できる。そう確信させる恍惚に感嘆を漏らしたのだった。
 電話の男は、このまま切っちゃっていいよ、と言うので、ちらっと目の前の男を見やった。電話を切らずにスマートフォンを男に渡すと、またぐだぐだと謝り始め、しばらくして電話を切った。
 男は平然と俺の靴ベラを使い、玄関を開けた。
 「いやあ、いい天気ですよ。お出かけの予定は?」
 男はまた営業くさい口調に戻っていた。
 「いや、今日は」
 「まあ、ゆっくり休んでください」
 俺もそのまま外に出てお互いに軽く頭を下げた。男が見えなくなって煙草に火をつけた。快晴で、細い一車線道路と二軒の家を挟んだ先の公園から、子供の声が聞こえた。あとがきを加えなければ。使命感を、見知らぬ男に詰められた恐怖から解放された安堵が邪魔しようとしたが、使命感が打ち勝った。喉がいがいがして、喉に絡まった痰を吐き出した。やっぱり口が臭い。でも歯を磨く前に書いておかなければならないことがある。
 PS 常盤さんへ
 一つ伝え忘れていたことがあった。ずっと頭の片隅に準備していたんだけど、照れくさくなって言えず仕舞いだったんだ。あの日、常盤さんは例の風俗嬢を追いかけたよな。ちらっと見えたんだよ。二人が手を繋いで横断歩道を走って、繁華街の方に行くのが。あんなメイメイの表情は、初めて、というか、俺が拝めるものではないと想像すらしたことがなかった。幼いような表情をすることはあったんだけど、それとも違って、素直っていうと少し語弊があるな、俺には見せたことのない……とにかく美しかった。常盤さんも、周りの人混みも、全部彼女を引き立てる景色だったよ。90年代の青春映画みたいだったよ。街並みは昔の香港で、常盤さんはヘタレな男の子で、汚くて棟の多い団地に同年代の男の子たちと住んでいて、ドラッグとセックスと思春期をまぜたような世界で、いわゆるストリートの世界に怯えながらも彼女への恋情だけを希望にサバイブしていて、誰ともなく高く振り上げられてしまった破壊衝動が打ち下ろされて、他の連中が自爆してくれたおかげで彼女と手を繋ぐことができて、街から逃げるために二人は夜と人混みを駆ける。そんな映画。あの後どうなったの?今度教えてよ。
そしてもう一度だけ謝っておく。俺はまた常盤さんに迷惑をかけちゃうかもしれない。今度こそ本当に捕まってしまうかもしれない。でも俺には余計なことを考えずに行動する機会が必要なんだ。許してほしい。
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