第二章②

エピソード文字数 2,247文字

「ここか……」
 ニコルをつかんだまま、デイヴィッド警部がぽつり呟く。
 ここはテムズ川沿いの見晴らしのいい通り。
 ふだんなら人通りも激しいこの通りに、いまや溢れんばかりの警官たちが出張っていた。
 あたりの人々に聞き込みを行う者。現場の血痕や遺留品の有無を熱心に調べている者。柄杓のようなもので川の泥をさらう者。さまざまである。
 通りの一角には、赤黒い血痕のついた麻布を上からかぶせられた被害者と思しきものが、静かに横たわっていた。
 そしてその傍らには、なぜか険しい顔で議論を交わすお偉方の面々まで。
 どこか浮き足立って見えるその光景は、きっと警戒網の裏をかかれたせいなのであろう。むろんそこにはスティーヴ警視の姿もあった。
 苛立ったような警視の顔を見て、ふっと警官たちの中に身を隠すデイヴィッド警部。
「危ない、危ない。やつに見つかったら、またどやされるかもしれんからな」
 顔だけをひょっこり出し直して、お偉いさんたちの方を観察する。
 だが、どうもこちらの存在に気づく気配はないようだった。どうやら議論が白熱していて、それどころではないらしい。それならそれで、けっこうな話である。
 ゆえにデイヴィッド警部は気を取り直し、さあ、こちらもいざ捜査に乗り出さんとばかりに、その意気込みを口にした。
「さて、やつらに気づかれんように、俺たちも聞き込みをば──」
 なれど、そこまで言いかけたところで、その言葉を途中で切る羽目になってしまった。なぜならそんなデイヴィッド警部の腕を、ニコルがパシパシと叩いていたから。
「ん? どしたぁ?」
 言いながら、デイヴィッド警部はやむなくニコルの顔をのぞき込んだ。
 すると、そこにあったのは、
「ぐ、ぐるじぃ……」
 真っ赤になった顔で、切実に訴えるニコルの姿だった。どうやらただ単に腕を叩いていたのではなく、放してくれとしきりにタップしていたようだった。
 それに気づいて、慌ててその手を放すデイヴィッド警部。ただ、次の瞬間、その口から飛び出していたのは、
「あ、悪ぃ悪ぃ」
 さして悪いとも思っていない表情での、なんとも軽い謝罪の弁のみだった。
 さすがにこれには被害者のニコルも、一瞬唖然茫然。しかし、一応なにか恨み言の一つでもぶつけてやらねば、とも思ったのだろう。気を取り戻すやいなや、
「ゲホッゲホッ……、あなたって人はぁ……」
 息も絶え絶えになりながらではあったが、せめてもの恨みを込めて、デイヴィッド警部の顔を思いっきり睨みつけていた。
 だが、当のデイヴィッド警部はそんなもの何処吹く風。ニコルのジト目など露ほども気にせず、周りの情報をこそ気にかけていた。
「さ、落ち着いたところで、俺らも情報を集めんとな」
 これにはニコルもただただ呆れて、溜め息をつく他はなかった。
「はぁ~……」
「どした?」
「いえ、なんでもないです。早く私たちも捜査をしましょう」
「おう、そうだな!」
 ほんと、威勢だけはいい。
 しかし、この威勢のよさは紛れもなくデイヴィッド警部の取り柄でもあろう。なにしろ言うが早いか、その威勢のよさを活かさんとばかりに早速手近にいた若い警官を一人、背後からガシッとつかまえていたのだから。
 いきなりのことに、むろん若い警官はいきり立つ。
「貴様ぁ! なっ、なにをす──」
 だが、そこまで勢いで言ったところで、相手が名うてのデイヴィッド警部と分かってか、態度を一変。
「──っと、これはデイヴィッド警部。何事でありましょうか?」
 目を合わさないようにしつつも、背筋をピンッと張って、最敬礼の姿勢までとったではないか。しかもかわいそうに、ちょっと震えた状態で。
 すると、それを気遣ってなのか、ふだんは絶対に見せないようなにっこにことした笑顔で、デイヴィッド警部がさらりと訊ねた。
「うんうん、仕事ご苦労。ところで、調査の方は終わったのか?」
「は、はいっ! 遺留品などはまだ精査中ですが、被害者の身元はすでに割れました」
「そうかそうか」
 そううなずいてから、デイヴィッド警部はすっと若い警官の肩に手を回し、
「で、被害者の身元は?」
 張り付いた笑顔のままで尋問した。
「あっ、しかし……」
 身を強張らせて、言い澱む若い警官。
 この様子から察するに、スティーヴ警視から箝口令でも敷かれているのだろう。
 だが、デイヴィッド警部のことを貴様呼ばわりした時点で、もはや運のつき。ここに、違う意味での被害者確定である。
「ん?」
 威圧の篭もった笑顔で、デイヴィッド警部がさらなる念を押す。
 すると、そこでようやく観念したのか、若い警官は一枚の紙切れをおずおずと差し出した。
 上官命令は絶対服従が掟。むろん本来ならデイヴィッド警部よりもスティーヴ警視の命令の方が優先されるべきなのだが、この場合身の危険を考慮に入れれば、これが正しい判断といえよう。
 なにしろその証拠とばかりに、被害者の身元が書かれたメモを引き渡すや、若い警官は機嫌のよくなったデイヴィッド警部から、いとも簡単に解き放たれたのだから。
「しっ、失礼しましたぁっ!」
 解放された途端、被害者は脱兎の如くその場を去っていった。
 傍から見れば、失礼したのはデイヴィッド警部の方なのだが、この事に関してはこれ以上なにも言うまい。
 ただ、脇で傍観していたニコルだけが、その哀れな警官に同情して、ペコリと小さくお辞儀をしていた。
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登場人物紹介

●ニコル・クロムウェル(Nicol=Cromwell)


グレーター・ロンドン庁からスコットランドヤードに嘱託検死医として派遣されている、第二検死課の医師。しかし、派遣以降、ニコルに回ってくる仕事は、第一検死課の手伝いか、最近実験的に導入されたばかりの指紋照合の研究をさせられるぐらいで、後は若手警官が医務室代わりに第二検死課へと来るぐらいのもの。だが、デイヴィッド警部に巻き込まれ、急きょ連続殺人の捜査に駆り出されることになるのだった。

●デイヴィッド・ターナー(David=Turner)


スコットランドヤードの熱血警部。5年前の切り裂きジャック事件で、新米警官として事件にあたった経験から、「今回の一連の事件は、やつのしわざじゃねえ!」と捜査本部の方針に猛反発。しかし、単身捜査をするのには限界があるため、前々から目を付けていたニコルを巻き込むことに。

●マリア・フローレンス(Maria=Florence)


聖ニコラオス孤児院で孤児たちの世話をする修女(シスター)。

もともと彼女自身も捨て子であり、ニコルと同じ聖ニコラオス孤児院で育った過去を持つ。性格は明るく、ニコルに頼まれ、同じシスターのマギーとともに街のうわさを聞きこむことに。なお、マリアに一目ぼれしたデイヴィッド警部から、それとなくアプローチを受けるが、本人はいたって気づいていない。

●スティーヴ・マルサス(Steve=Malthus)


スコットランドヤードのエリート警視で、デイヴィッドの上司。捜査の手法の違いからデイヴィッドと対立することが多い。新たにロンドンを恐怖の渦に巻き込んだ連続殺人犯を、切り裂きジャックの再来と信じて疑わない。

●マギー・フランクリン(Maggie=Franklin)


聖ニコラオス孤児院のベテラン修女。おしゃべり好きで、かつ、うわさ好きな性格なので、今回の事件のこともいろいろとニコルやデイヴィッド警部に聞き込んでくるが、その反面、町で聞き込んだうわさもいろいろと話してくれる、迷惑であり、ありがたい人物。


●ミネルバ・ファーガソン(Minerva=Ferguson)


聖ニコラオス孤児院の筆頭修女。真面目な性格で、厳格なクリスチャン。マリアやマギーが事件に首を突っ込むことをこころよく思っていない。

●ウィリアム・スチュワート(William=Stewart)


聖ニコラオス孤児院のあるイースト・エンド教区に務める優しき老牧師。孤児院に常駐しているのは修女たちで、ウィリアム牧師は週一回礼拝のときに孤児院を訪ねている。

●連続殺人の被害者 case1

アニー・スコット(Annie=Scott)


27歳。第一の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で夜明けに死体が発見される。18箇所に及ぶ切り口が見られた。

職業は売春婦。

事件日は十月十四日。

●連続殺人の被害者 case2

ローズマリー・ジョーンズ(Rosemary=Jones)


23歳。第二の被害者で、死因は頚部を掻き切られたことによる窒息死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で悲鳴を聞きつけた巡査がかけつけるも、事切れた状態で発見された。切り口は、死因となった頚部の一箇所と、腹部の七箇所の刺し傷。

職業は売春婦。

事件日は十一月十五日。

●連続殺人の被害者 case3

アイリーン・コックス(Irene=Cocks)


24歳。第三の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で夜明けに死体が発見される。29箇所に及ぶ切り口が見られ、ずたずたに腹まで割かれていたが、内臓はすべて揃っていた。

職業は売春婦。

事件日は十一月二十九日。


●連続殺人の被害者 case4

メアリー・リトル(Mary=Little)


21歳。第四の被害者で、死因は頚動脈の切断。

テムズ川のほとりで死体が発見される。腹がずたずたに割かれていたが、内臓はかろうじてすべて揃っていた。

職業はメイド。

事件日は十二月四日。


●連続殺人の被害者 case5

マーガレット・ウォルポール(Margaret=Walpole)


22歳。第五の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で、夜明けに死体が発見される。腹がずたずたに割かれており、内臓の一部が持ち去られいた。

職業は教師。

事件日は十二月五日。


●連続殺人の被害者 case6(未遂)

フェアリー・コールズ(Fairy=Coles)


第六の被害者になりかけた女性。3件目の被害者アイリーン・コックスと顔見知りであり、その遺体の第一発見者でもある。

職業は売春婦。


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