Dr.ニコルの検死FILE

エピソードの総文字数=2,247文字

「ここか……」
 ニコルをつかんだまま、デイヴィッド警部がぽつり呟く。
 ここはテムズ川沿いの見晴らしのいい通り。
 ふだんなら人通りも激しいこの通りに、いまや溢れんばかりの警官たちが出張っていた。
 あたりの人々に聞き込みを行う者。現場の血痕や遺留品の有無を熱心に調べている者。柄杓のようなもので川の泥をさらう者。さまざまである。
 通りの一角には、赤黒い血痕のついた麻布を上からかぶせられた被害者と思しきものが、静かに横たわっていた。
 そしてその傍らには、なぜか険しい顔で議論を交わすお偉方の面々まで。
 どこか浮き足立って見えるその光景は、きっと警戒網の裏をかかれたせいなのであろう。むろんそこにはスティーヴ警視の姿もあった。
 苛立ったような警視の顔を見て、ふっと警官たちの中に身を隠すデイヴィッド警部。
「危ない、危ない。やつに見つかったら、またどやされるかもしれんからな」
 顔だけをひょっこり出し直して、お偉いさんたちの方を観察する。
 だが、どうもこちらの存在に気づく気配はないようだった。どうやら議論が白熱していて、それどころではないらしい。それならそれで、けっこうな話である。
 ゆえにデイヴィッド警部は気を取り直し、さあ、こちらもいざ捜査に乗り出さんとばかりに、その意気込みを口にした。
「さて、やつらに気づかれんように、俺たちも聞き込みをば──」
 なれど、そこまで言いかけたところで、その言葉を途中で切る羽目になってしまった。なぜならそんなデイヴィッド警部の腕を、ニコルがパシパシと叩いていたから。
「ん? どしたぁ?」
 言いながら、デイヴィッド警部はやむなくニコルの顔をのぞき込んだ。
 すると、そこにあったのは、
「ぐ、ぐるじぃ……」
 真っ赤になった顔で、切実に訴えるニコルの姿だった。どうやらただ単に腕を叩いていたのではなく、放してくれとしきりにタップしていたようだった。
 それに気づいて、慌ててその手を放すデイヴィッド警部。ただ、次の瞬間、その口から飛び出していたのは、
「あ、悪ぃ悪ぃ」
 さして悪いとも思っていない表情での、なんとも軽い謝罪の弁のみだった。
 さすがにこれには被害者のニコルも、一瞬唖然茫然。しかし、一応なにか恨み言の一つでもぶつけてやらねば、とも思ったのだろう。気を取り戻すやいなや、
「ゲホッゲホッ……、あなたって人はぁ……」
 息も絶え絶えになりながらではあったが、せめてもの恨みを込めて、デイヴィッド警部の顔を思いっきり睨みつけていた。
 だが、当のデイヴィッド警部はそんなもの何処吹く風。ニコルのジト目など露ほども気にせず、周りの情報をこそ気にかけていた。
「さ、落ち着いたところで、俺らも情報を集めんとな」
 これにはニコルもただただ呆れて、溜め息をつく他はなかった。
「はぁ~……」
「どした?」
「いえ、なんでもないです。早く私たちも捜査をしましょう」
「おう、そうだな!」
 ほんと、威勢だけはいい。
 しかし、この威勢のよさは紛れもなくデイヴィッド警部の取り柄でもあろう。なにしろ言うが早いか、その威勢のよさを活かさんとばかりに早速手近にいた若い警官を一人、背後からガシッとつかまえていたのだから。
 いきなりのことに、むろん若い警官はいきり立つ。
「貴様ぁ! なっ、なにをす──」
 だが、そこまで勢いで言ったところで、相手が名うてのデイヴィッド警部と分かってか、態度を一変。
「──っと、これはデイヴィッド警部。何事でありましょうか?」
 目を合わさないようにしつつも、背筋をピンッと張って、最敬礼の姿勢までとったではないか。しかもかわいそうに、ちょっと震えた状態で。
 すると、それを気遣ってなのか、ふだんは絶対に見せないようなにっこにことした笑顔で、デイヴィッド警部がさらりと訊ねた。
「うんうん、仕事ご苦労。ところで、調査の方は終わったのか?」
「は、はいっ! 遺留品などはまだ精査中ですが、被害者の身元はすでに割れました」
「そうかそうか」
 そううなずいてから、デイヴィッド警部はすっと若い警官の肩に手を回し、
「で、被害者の身元は?」
 張り付いた笑顔のままで尋問した。
「あっ、しかし……」
 身を強張らせて、言い澱む若い警官。
 この様子から察するに、スティーヴ警視から箝口令でも敷かれているのだろう。
 だが、デイヴィッド警部のことを貴様呼ばわりした時点で、もはや運のつき。ここに、違う意味での被害者確定である。
「ん?」
 威圧の篭もった笑顔で、デイヴィッド警部がさらなる念を押す。
 すると、そこでようやく観念したのか、若い警官は一枚の紙切れをおずおずと差し出した。
 上官命令は絶対服従が掟。むろん本来ならデイヴィッド警部よりもスティーヴ警視の命令の方が優先されるべきなのだが、この場合身の危険を考慮に入れれば、これが正しい判断といえよう。
 なにしろその証拠とばかりに、被害者の身元が書かれたメモを引き渡すや、若い警官は機嫌のよくなったデイヴィッド警部から、いとも簡単に解き放たれたのだから。
「しっ、失礼しましたぁっ!」
 解放された途端、被害者は脱兎の如くその場を去っていった。
 傍から見れば、失礼したのはデイヴィッド警部の方なのだが、この事に関してはこれ以上なにも言うまい。
 ただ、脇で傍観していたニコルだけが、その哀れな警官に同情して、ペコリと小さくお辞儀をしていた。

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