#8 青い衣、墨の花

文字数 4,935文字

突然呼び止めてしまってごめんなさい。
その……バイクが気になってしまって。
目にも鮮やかな綺麗な青。とても素敵な色。晴れわたった夏の空みたい。

え、試しに跨ってみますか、ですか?
いえいえ。大丈夫です。見せていただけるだけで十分ですから。転倒して車体に傷でもついたら大変ですし、そもそも私、自動車免許も持っていなければ自転車だって怪しいくらい、乗物の操縦がてんで駄目なんです。でも……お気遣いありがとうございます。お優しいんですね。

そうですね。私、バイクに興味があるわけじゃないんです。
もちろん、乗れたら楽しいんだろうなとは思うんですけど。
……ついお声を掛けてしまったのは、そちらの原付が、友達が所有していたバイクに似ていたからなんです。青い塗装のスーパーカブ。比較的新しい4段リターン式変速の110CC。

お詳しい、だなんてそんな!
昔、友達に写真を見せてもらってから調べたんです。このバイクのこと……自分が乗るわけじゃないのに。バイクの写真を指さして笑う彼女が眩しくて、羨ましくて。それから、ああやっぱり彼女の相棒は私じゃないんだなっていう歯痒さも少しありました。
なんだか懐かしいけれど、実はそんなに前のことじゃないんです。大学の講堂で彼女と知り合ったあの日から、まだ一年も経っていない。それは言い換えれば、彼女の死から一年も経っていないということで……

私は、彼女の≪友達≫であったのでしょうか。
彼女のことを≪友達≫と呼んでいいのでしょうか——いつも自問自答します。

・・・

彼女を知ったのは大学二年目の春のこと。
かねてから興味があった『子ども家庭支援論』の講義で、共同レポート作成のペアとなったのがきっかけだった。初回講義に代わるガイダンスで教授が出した課題は、「次週の講義までに二人一組をつくっておくこと」という、レポートそれ自体より困難な代物。

入学してからというもの、LINEの連絡先ひとつ増やせない人見知りに、そんな無理難題をこなせるわけもなく。案の定ペア作りにつまづいた私と、いつも講義を早退するため指示を聞き逃した彼女がペアになるのは、振り返ってみれば、偶然の出会いでもなんでもなかった。

福祉系の私立短期大学ゆえ、一学年における生徒数はそう多くはない。
それでも私が彼女を知らなかったのは、なにも、彼女が決まって講義終了の15分前に姿を消すからという理由だけではない。入学式の席次や出欠点呼。苗字の最初の一文字が、五十音のはじめとおわりに位置する私たちは、あまりにも縁遠かった。
ペアとして座席の移動を命じられた彼女は、私に歩み寄ると、

「ワタナベスミカさんだよね。名前。スミカって響きはよくあるけど、結構珍しい漢字だなって思った覚えがあるよ。持ち物も黒で統一してて格好いいなって思ってたんだ」

親し気な笑みを浮かべてそう告げた。
ぎりぎり結べるくらいのミディアムヘアに、少女らしい小柄な体躯。万年ジーンズ姿の服装は、流行より動きやすさを重視しているように思えた。早退しがちという情報から、病弱なのだろうと早合点していたが、気さくにはにかむ彼女からはそのような印象は受けなかった。(彼女が講義を早退するのは、複数掛け持ちしているアルバイトに遅刻しないためだと、私はすぐに知ることになる)。

「お……お父さんが大学教授で、水墨画が好きで。だから『墨花(スミカ)』って名付けたって」
「素敵な話。お父さん、ここの大学の教授なの?」
「ち、違うよ……大学でまで親と会いたくないし」
「わかる」

彼女は薄く笑うと、自身のペンケースを掲げてみせた。青いメッシュのペンケース。

「渡辺さんのテーマカラーが『黒』なら、私は『青』かな。レポート頑張ろうね」

飛びぬけた美人でもなければ、学業や一芸に秀でているわけでもない。
だけど側にいるだけで胸がすくような、澄んだ青空を思わせる女の子。
彼女はそんな人だった。


バイトもしなければサークルにも属さず、家に帰って母の手料理を貪るだけの私と違い、働き者の彼女はいつも疲れた顔をしていた。朗らかに笑う双眸の下には、コンシーラーで隠しきれないクマが透けていた。
だからさもありなん。彼女は講義中によく船を漕いでいた。

「あっ、わ、やばい。寝てた。今何時?」
「15時……まだバイトの時間じゃないから大丈夫だよ。ノート、後で見せるね」
「本当ごめん、ありがとう」

彼女は両手で頬杖をついて手のひらに顔をうずめる。
そんな彼女をよそに教授はつらつらと講義を続ける。
ペンを走らせる音、テキストを捲る音。近くで誰かのスマホが震える。着席場所にこだわりのなかった私は、件の講義でだけ、彼女が退室しやすいように講堂後方・出口近くの座席を選ぶようになっていた。
彼女は胡乱げに首を回し、

「さっき、ゴキゲンな蝶になった夢を見てた」
「それって『胡蝶の夢』……?」
「なにそれ?」

彼女は寝ぼけ眼に私を映して、そう問った。
出典は『荘子』斉物論。現実と夢の区別がつかない状況、または、その区別をつけない境地を喩えた言葉であり、ひいては人生が儚いことのたとえに用いられる。蝶になって遊ぶ夢をみた荘子が目覚めて曰く、夢で胡蝶になったのか、蝶が夢をみて自分になったのか——そんな故事を披露すると彼女は感嘆の声を上げた。

「渡辺さんって物知りだよね」
「そんなことない……よ」
「今さらデジモンの話だったなんて言えないじゃん」
「でじもん……?」

首を傾げる私に、彼女はぷっ、と噴き出して「前言撤回」と呟いた。
家に帰って父のPCを起動して、生まれて初めてデジモンアドベンチャーというアニメを知った。


レポートの提出期限が迫ってきたころ、彼女は右の目蓋にガーゼを貼って登校してきた。
彼女は瞬きするたびもぞもぞと動くそれに顔をしかめながら、慌てふためく私を宥めた。

「ちょっと転んだだけだよ。渡辺さん焦りすぎ」
「でも痛そう……」
「平気平気。ところでこれ見て。バイク、原付なんだけどさ。免許取って自分で買ったんだ。結構な出費だったからまた稼がないと」

はぐらかすように突き出した彼女のスマホには、新車の原付バイクが映っていた。バイクという物騒なイメージとは程遠い、おもちゃみたいな愛らしいフォルム。鮮やかな青色の塗装が彼女に似合っていた。しかし大した感想も伝えられないうちに、写真は着信画面に切り替わり、軽快な通知音が鳴った。

「ごめん、バイト先から電話だ」
「いつものスーパー?」
「ううん。駅前のコンビニ。バイト、新しく増やしたんだ」

彼女はそう言って手を振ると、雑音のないエリアを求めて去っていった。
そのとき私ははたと気づいた。私は彼女のことを何も知らない、と。
彼女がアルバイトに奔走する理由も。原付バイクを購入した理由も。
趣味嗜好に生活習慣。家族構成に思想信条。聞いたこともなければ、反対に聞かれたこともない。お互いに興味がないのか、薄情なのか——否、きっと彼女が人見知りの私に配慮してくれているのだろう。プライベートに踏み込まないように。心地いい距離を保てるように。

家に帰ってスマホを触って、彼女の連絡先を知らない自分をもどかしく感じた。
つまり私は、今さらながら、彼女のことを知りたかった。
……
……
……
そして私は、間もなくして、彼女が死んだことを知った。

教えてくれたのは『子ども家庭支援論』の教授だった。
彼女が三週連続で講義を欠席したことによって、レポートの完成が危うくなった私は、その旨を申告しようと尋ねた教授の研究室で、彼女の死を聞かされたのだ。予想だにしていなかった情報に私は声を失い、しまいには表情筋のコントロールまで失った。レポートは連名でなくてよいという言質を取り、「ありがとうございます」と口角を上げた私の表情は、さぞ気味が悪かったことと思う。

季節の変わり目だった。そうでなくてもワーカホリック気味の彼女のことだから、長引く欠席も、少し体調を崩しているだけだと思い込んでいた。
いつものように講堂で待っていれば会えるものだと信じていた。
いつものように講義終了の15分前に起こしてあげる気でいた。

とぼとぼと家に帰ってやわらかい布団に突っ伏して、彼女がこの世にいないことを心の上辺でだけ理解した。塞ぎこんだ私を心配した両親が「せめてご焼香だけでもあげさせてもらったら」と提案したので、私は人見知りをぐっと堪えて、何とか彼女の家を特定した。

そして、彼女について何も知らなかったことを嫌というほど実感した。


彼女の家は、郊外の、築四十年以上は経っていそうな寂びれたアパートの一階にあった。
駅からもスーパーからも遠く、最も日当たりがよいのが玄関という奇妙な物件。
私は洗濯機が屋外に設置されていることに怖気づき、同時に、中に入らずとも「彼女の部屋」というものが存在しないことを悟った。辺り一帯が変に暗い。埃とタバコとすえた臭いがする。
あの明るい彼女の居住空間とは到底思えなかった。

「ご、ごめんください……」

大きな蜘蛛の巣を避けてインターホンを押したが、返事はなかった。
ドアの向こうからは物音ひとつせず、家人が不在であることはあきらかだった。しかしここで日を改めようと引き返してしまったら、私は二度とこの場所に来られないような気がしていた。生理的な居心地の悪さともいえる不快感が、冷や汗となって背中を流れた。

そうして、どのくらい立ち尽くしていただろう。
生唾で喉を潤すのも限界を迎えていたその瞬間、背後から声を掛けられた。

「うちに何か用」

それはひどく無感動な、吐き捨てるような口調だった。
声の主は、年齢は私の父親と同じくらい、いやもっと若いかもしれない。とにかく顔立ちの整った男性だった。だらしなく着崩したシャツは皺だらけ。片手に持ったレジ袋だって底から割り箸が飛び出しているのに、本人が生まれ持った美貌だけはどこまでも鋭く、扱いづらい刃物のような印象を受けた。

「あ、あの……私、アサ——いえ、アオイさんと同じ大学の……」

男性はしばらく蟻の行列を眺めるような目で私を見ていた。
が、やがて何かに合点がいったのか「ああ」と息を漏らした。

「アレの知り合い?」

それがあまりにも淡々としていたから、

が彼女のことを指していると気づくのに時間がかかった。
私は一瞬だけかっとなったが、なおも顔色ひとつ変えない男性にぞっとして硬直した。親のものとは思えない発言だった。それなのになぜか私は、男性が彼女の父親だと確信していた。
彼こそが、彼女に青衣(アオイ)と名付けた父親だ、と。

それ以上その場に留まることに耐えられなくなった私は、彼女の父親に背を向けると、一目散に逃げ出した。彼は私を追ってこなかった。一刻も早く家に帰りたかった。走りながら、そういえば写真の原付バイクを見なかったな、既にあの父親に捨てられてしまったのかな。と唇を噛んだ。

家に帰って父の辞書を借りて、面影を追うように彼女の名前を調べてみた。

【青衣】召使いなどの身分の低い者が着る服、の意。

きっとよくあるアオイの響きに当て字でつけた漢字で、他意はない。そうに違いない。そう信じたい。
——私はそこで初めて、彼女を想って泣いたのだった。

・・・

どうしてあのとき逃げてしまったんだろう。
どうしてあのとき何も言えなかったんだろう。
今でも後悔の気持ちは胸の奥で燻ぶっていて、さらに悪いことに謝ることもできなくて……謝られたって彼女は困るだろうな、なんて思ったりもするんですけどね。湿っぽい話をしてしまってごめんなさい。

お兄さん、どこか彼女に似てるんです。
だから、お兄さんがその原付バイクに乗っているのが嬉しくて。
って気持ち悪いですよね。嫌だな、私どうしちゃったんだろう。

「その≪お友達≫のこと、大切だったんですね」

えっ……ああ、はい、私、私は……
ごめんなさい。こんなところで泣いちゃうなんて。本当にすみません、でも本当は私ずっと……ぐずっ、うそ鼻水出てきちゃった。みっともない。うん、うんもう平気、大丈夫。
あの……迷惑ついでにもうひとつ可笑しなことを言ってもいいですか。

私ときどき夢を見るんです。
夢のなかではあの日の彼女が、それこそ蝶ではなく——青く綺麗な原付バイクになって、どこまでも続く道の上をゴキゲンに走り回っているんです。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクで旅をしている青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。事故死したシデの従姉・麻木青衣の遺品。

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