第1話 出逢い

文字数 1,798文字

 慶応三年十一月十五日、情人(シャンス)が三十二年前に生誕した日の戌刻。長崎丸山遊廓の小さな妓楼の一室で、秋野は別の男を接待していた。瞼の裏に浮かべたシャンスは、緋縮緬の蒲団を負い、なぜか今に限り同色の長襦袢も羽織っている。これまで目にしたことのない姿を不思議に思いつつ、秋野はいつも通りに胸が熱くなった。
 龍馬しゃま――。心の中で呟く。次に逢える日を夢見ながら。
 今宵の客も、好ましい男ではない。腑抜けた長崎商家の若旦那だ。もっとも、龍馬以外の客のすべてが好ましくなくなり久しかった。
 黒い顔。逢う度に後退していく縮れた総髪。太い眉。見開けば意外に大きな目。浅黒く逞しい体躯。侍だけでなく民も、野良の犬猫さえもが懐く大丈夫。巷で話題の大政奉還の立役者が自分のシャンスであることを、秋野は誇らしく思う。

 丸山遊女は、廓に閉じ込められていない。長崎の町中であれば、出歩くことを許されていた。
 秋野は、外出の帰り道に思案橋の中程で立ち止まるのを常としていた。指を折る。文久から元号が変わって程ない。元治元年の三月になった。年季が明けるまで、まだ四年近くも奉公せねばならない。中年増になった今、積年の疲れを感じると、故郷が恋しくなる。きっと、あの山の向こうには帰れない――。長嘆息しながら思う。
 木橋は石畳に、丸山遊廓へ続く。袂に紅燈が揺れ、傾いた日差しを受けている。
(稲佐ん山があべこべに見えとる……。お日様もあべこべばい)
 今夕も思い浮かべたときだった。
「稲佐山があべこべに見えゆう」
 背後から耳に届いた男の声に驚く。聞き慣れない方言だった。
「福田から見るがとは、まっこと右と左の逆じゃ。朝日と夕日も逆になっちゅう」
 久方振りに故郷の村の名も耳にし、また驚く。秋野は、向き直って目を遣った。
 肥前長崎特有の優しい夕日を浴びた色黒背高の筋骨逞しい男は、三十路に達しているだろうか。稲佐山の向こうの福田村、更には東支那海をも遠望しているかのようだ。細められた双眸は、精悍で異彩を放っている。商売柄、秋野は数えきれぬ程の男と相対してきたが、こんなに惹き込まれる目を持つ男に逢ったためしがない。
 西洋のブーツを履いており、オーデコロンの匂いも漂わせているが、黒木綿の紋服に小倉袴という身形だ。一風変わった用心棒――幕府軍艦奉行並である勝海舟の護衛の役目も負い、長崎にやって来た――のような大男の顔が愛嬌を帯び、はっきりと秋野の網膜に焼き付いた。薄くなりはじめた生え際も、可愛らしく映る。いつの間にか、野良猫が二匹、大男の足元に戯れ付いていた。
「おまさんは、丸山の女子(おなご)やか。まっこと、綺麗な着物じゃのう。福田で見た夕景のようじゃ」
 この小袖を好む訳まで口にされ、嬉しさが増す。日没間際の水平線と似た色合いの帯を境に、橙と藍の紫がかった素地が徐々に色合いを変えていく。秋野は、泣きたくなるくらいに綺麗な故郷の夕焼けの空と海を連想させる衣裳を好む。
「わしも、丸山へ遊びに行ける御身分になりたいのう。もっとも、神戸から長崎に拠点を移した暁には、わしの海軍を作って、幕府の世の身分はぶっ潰しちゃる」
(わしん海軍? 身分ばぶっ潰しゅ?)
 大男は、縮れ髪を掻いて赤子を思い起こさせる笑みを見せた。同時に秋野の心が蕩ける。
「長崎は、ええのう。海の青と山の緑と空の色が柔らかく調和しちょって、まっこと美しい町ぜよ。ここで、蒸気船を手に入れて、カンパニーも作っちゃる」
(かんぱにー……聞いたことがあるごたる)
「おまさんは、摂津神戸村から京へ駆けたときの相棒に似ちゅうわい」
 秋野は、目を見開いていた。中肉中背で長崎美人の部類に入るが、面長で可愛らしい馬顔をしている。大き過ぎないぱっちりした目は清んでおり、若干離れているのも愛嬌になりえ、優しさを滲み出していた。
 夕日を背に、大男への好意を隠さず、控えめだが明るい笑みを浮かべる。
「うちは、梅木楼清次郎抱え、秋野と申しましゅ。お待ちしとりましゅけん」
 大男は、橋の上で行こか戻ろか思案する様子を遂に見せず、遊廓とは反対の油屋町へ歩を進めた。単に、見晴らしの良い場所から稲佐山を眺めていただけらしい。春の風のように颯爽と去って行く。秋野は、大きな後姿が視界から消えるまで見送った。
(あがん男ん人が馴染みになって来んしゃれば、こん商売ばしよっても楽しみができるとに……)
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