第5話 その女性の話

文字数 2,204文字


 五十代前半と思しき女性は、私が道に迷ったことを説明すると、歯を見せて笑った。

「今どき、地元の人間だってこの道を通ることは滅多にないよ。あんたみたいな旅行客であれば迷っても仕方ないね」

 この建物の二階に住んでいるという女性は、やすらぎ荘に勤めているのだと説明した。仕事は午前、午後、深夜の三シフト制で、今日は深夜シフトだから、もう一時間もすれば出勤するつもりだったという。

「このアパートは従業員専用の宿舎なの。今夜の出勤は私だけだったから、お客さんは運が良かったと思うよ。だって、私が連れていってあげることができるから」

 女性は野良着(のらぎ)姿で、手に(なた)を握っていた。その理由を「きのこを採るついでに(やぶ)を刈っていた」と話すと、彼女は大きな目をキラリと光らせ「藪はすぐに深くなるから」と付け足した。

「助かりましたよ。どこまで行っても国道に戻れなくて、本当に途方に暮れていました」

「この場所はちょうどトンネルの横だからね。もう少し先に行かないと合流できない」

 女性は薄い茶色の瞳をしていた。まつ毛が長く、私には日本人には見えなかった。だが、日本語は流暢(りゅうちょう)である。

「まったく、トンネルが掘られる前は、こっちの道しかなかったんだけど、今では逆にこっちの道を使うことはないわな」

 女性は私の肩を叩くと、「こっちだよ」と言って、さっさと先に立ってアスファルト道路を歩き出した。

「この道、土砂崩れで行き止まりになっていますね」

「ああ、八年くらい前だったかな。崖上の土地で盛土が崩れてなあ。あれは自然現象ではなくて人間がやらかしたことだよ。まったく人間はロクなことをしないねえ」

 女性は手にしている鉈で横に伸びている雑草を叩いた。私はびくっとした。

「もともと、この小田沢(こたざわ)の集落には金鉱があってね。五十年くらい前までは人間が多く住んでいた。やすらぎ荘も、旅館になる前は鉱山の管理事務所だったんだよ」

 私は宿に来る前に立ち寄った博物館で、鉱山の説明を読んだことを思い出した。

「鉱山の井戸に温泉成分が含まれているのが分かり、閉山後に山の権利者が温泉旅館を始めたのが、やすらぎ荘の始まりなんだ」

 ――だけどバブルがはじけた頃から客が減り、一度は潰れたんだ。それを今の経営者が土地建物を買い取り、高級旅館にしてオープンしたのが三年前。おかげでまた人が来るようになったけれど、景気が良いのはあの旅館だけで、小田沢は荒れ果てているよ――。

 女性は暗闇の中を迷うことなくずんずんと前に進んでいく。私のヘッドライトは女性の薄汚れた赤茶色のパーカーを照らすだけだ。

「小田沢はこの地域の名称なんですか?」
「ああ、合併前の村の名前だ」

 女性がまた鉈を振るったらしく、バキッと大きな音がした。私は思わず息を()んだ。

 二人はしばらく無言で歩いた。女性の歩きには何ら躊躇(ためら)いがないため、足元が不安な私は遅れがちになった。

 そう言えば、彼女はきのこを採っていたと語っていたが、鉈以外に荷物を持っていない。私の中で、女性に対して当初抱いた安堵感は(しぼ)み、反対に警戒心が膨れ上がりつつあった。

「今日は結婚記念日なんですよ」

 妙な切迫感に駆られ、私は自分の話を始めた。会話を途絶えさせてはいけないと思った。

「妻が高級旅館に泊まりたいというので、やすらぎ荘に来たんです。良い旅館ですね」

 女性からは何の反応も返ってこない。何を話せばいいのかが分からず、私は焦った。

「うちは子どもがいないせいか、結婚記念日が一番大きいイベントなっています」

 女性は何も返さない。

「おばさん、家族はいるんですか?」
「娘が一人いるよ」やっと返事があった。「だけど最近は顔を出さないねえ」

 この時、前方に鈍い光を放つものが目に入った。女性の後に続いて近づくと、鉄パイプのバリケードが私のヘッドライトの光を反射していたのだった。

「この道じゃないでしょう」私は思わず叫んでいた。

「この道で間違いないよ」中年女性はバリケードをまたいだ。

 私には女性が近道をしているとは思えなかった。この女、私を(だま)そうとしているのではないか、との疑念が膨れ上がってくる。

 ではその目的は何か。私に何をしようとしているのか。

「おばさん、おかしいよ。止まってくれよ」

 女性が振り返る。私を見る目が光っていた。

「あんた、本当にやすらぎ荘の従業員なのか?」

 考えてみれば、あんなところに従業員宿舎があるはずがないのだ。あれは廃墟だ。

「この先にごみの埋め立て地がある」女性が言った。
「なぜ小田沢にごみを埋め立てなければならないのか。人間のごみは、人間が生活する場所に埋めればいいじゃないか」

 自然が怒っているぞ――。女性が低い声で唸った。

「あんた、何を言っているんだよ」

 私は女性を怒鳴った。さっきから膝の震えが抑えられない。寒さだけでなく、暗闇からじっと(にら)みつけている女性への恐怖が私の体温を下げていた。

 この場を逃げたほうがいいと判断した私は、女性との距離を保ちつつ、スマホを持った右手を素早く操作して地図アプリを立ち上げた。

 表示された画面には、何もない空間に点滅する青い光だけが映っていた。そこには国道はおろか女性と出くわした建物もない。

 ここはどこなんだ。拡大しても建物も道も出てこない地図を凝視したまま、私は顔を上げることができない。
がさっと女性が足をこちらに踏み出した音が聞こえた。私はひたすらスマホの画面を見つめ続けた。
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