第2話 高級旅館
文字数 1,591文字
実際、旅行当日である十月二十二日までの数日間は終電で帰る日が続いたが、私は何とか乗り切った。
そうやってようやく取得できた休暇の朝を迎えた私は睡眠不足で、鏡を見ると心なしか顔がむくんでいるように見えた。
「謙也 さんの会社は、本当にブラック企業だよね」
運転席で欠伸 を連発する私に呆れた文枝 が、助手席で大げさに嘆いてみせた。「結婚記念日の旅行前日まで深夜残業をさせるなんて異常だよ」
「会社には休暇の理由なんて伝えていないんだから、誰もこっちの事情を知らないよ。それに俺が休むことで部下に負荷がかかるのでは申し訳ないから、頑張るしかなかった」
車を発進させると、文枝はスマホを片手にカーナビに目的地のデータ入力を始める。宿に向かう途中で立ち寄る観光スポットや昼食の店はすべて妻が決めていた。
これは結婚前からの二人のルールで、レジャーに関して私には決定権は与えられていない。
だが私には不満はない。直前まで旅行のことに気が回らないことが多いので、妻が細々としたことを決めてくれることをむしろ有難いと思っていた。
午前中は観光客で賑わう歴史公園を散策した。昼食は文枝が予約したイタリアンレストランでパスタを食べ、午後は土産物屋のような自然博物館を見学した。
私たちがあらためてやすらぎ荘に進路を取ったのは午後二時半頃だった。
やすらぎ荘には、それから三十分余りで着いた。
海岸沿いの国道から目立たない看板を目印に細い道に入り、傾斜のある坂道を三百メートルほど進むと平地に出た。さほど広くない駐車場には、三ナンバーの外国車がすでに数台停まっている。
その先に白い壁で囲まれた和風の建築物があった。
小田沢温泉と呼ばれているのだから、てっきり複数の温泉旅館が立ち並んでいるものと思っていた私の予想は裏切られた。やすらぎ荘は雑木が生い茂る丘陵地に一軒だけ建っている平屋の旅館だったのだ。
建物はまだ新しく、白い外壁には汚れは見当たらない。陽の光を反射する黒い屋根とのコントラストが美しく、道の両側から迫り出した枝葉のトンネルを登ってきた私は、突如と姿を見せた鮮烈なツートンカラーに圧倒された。
ただし、車から降りて振り返ると海は全く見えず、旅館のホームページに記載されていた「絶景が広がる宿」との謳 い文句が、私の胸の中で空虚に響いて消えた。
案内された部屋は、確かに高級旅館の部屋らしい雰囲気を醸 し出していた。広々とした居室、高い天井、大きなベッド、大きな窓とバルコニー、そして檜 の露天風呂。
冷蔵庫を開けた文枝は「ウエルカムドリンクがあるんだ」と歓声を上げた。
さっそく缶ビールを出した妻は、音を立ててプルタブを引いた。それを見ながら、私もジョギングウエアに着替え始めた。
「あれ、ジョギングは明日の朝じゃなかったの? いつも、日の出の画像を撮ってくるじゃない」
「夕食時間は午後六時だよね。今から二時間以上もやることがないから、軽く走って明日のコースの下調べをしてくるよ。今回は事前に周辺の地図を調べられなかったから」
「じゃあ私、先にお風呂に入っているよ」
文枝はそう言うと缶ビールを傾け、一口、二口と喉に注いだ。夫が一人で出掛けることに不満を抱いている様子はない。
彼女は彼女なりに、午後三時過ぎからアルコールを摂取することで日常からの開放感に浸っているのだろう。
私はTシャツに短パンに着替え、念のために薄いウィンドブレーカーをバックパックに収納すると、それを背負って部屋を出た。
バックパックにはスマホと夜間用のLEDヘッドライトも入っている。
フロントを抜けて建物の外に出ようとすると、スーツ姿の男性従業員から「この辺りの道路には街灯がないので、暗くなる前に戻ってきてください」と声を掛けられた。
私は従業員に向かって小さく手を上げると、軽く跳ねるようなステップを踏みながら建物を出た。
そうやってようやく取得できた休暇の朝を迎えた私は睡眠不足で、鏡を見ると心なしか顔がむくんでいるように見えた。
「
運転席で
「会社には休暇の理由なんて伝えていないんだから、誰もこっちの事情を知らないよ。それに俺が休むことで部下に負荷がかかるのでは申し訳ないから、頑張るしかなかった」
車を発進させると、文枝はスマホを片手にカーナビに目的地のデータ入力を始める。宿に向かう途中で立ち寄る観光スポットや昼食の店はすべて妻が決めていた。
これは結婚前からの二人のルールで、レジャーに関して私には決定権は与えられていない。
だが私には不満はない。直前まで旅行のことに気が回らないことが多いので、妻が細々としたことを決めてくれることをむしろ有難いと思っていた。
午前中は観光客で賑わう歴史公園を散策した。昼食は文枝が予約したイタリアンレストランでパスタを食べ、午後は土産物屋のような自然博物館を見学した。
私たちがあらためてやすらぎ荘に進路を取ったのは午後二時半頃だった。
やすらぎ荘には、それから三十分余りで着いた。
海岸沿いの国道から目立たない看板を目印に細い道に入り、傾斜のある坂道を三百メートルほど進むと平地に出た。さほど広くない駐車場には、三ナンバーの外国車がすでに数台停まっている。
その先に白い壁で囲まれた和風の建築物があった。
小田沢温泉と呼ばれているのだから、てっきり複数の温泉旅館が立ち並んでいるものと思っていた私の予想は裏切られた。やすらぎ荘は雑木が生い茂る丘陵地に一軒だけ建っている平屋の旅館だったのだ。
建物はまだ新しく、白い外壁には汚れは見当たらない。陽の光を反射する黒い屋根とのコントラストが美しく、道の両側から迫り出した枝葉のトンネルを登ってきた私は、突如と姿を見せた鮮烈なツートンカラーに圧倒された。
ただし、車から降りて振り返ると海は全く見えず、旅館のホームページに記載されていた「絶景が広がる宿」との
案内された部屋は、確かに高級旅館の部屋らしい雰囲気を
冷蔵庫を開けた文枝は「ウエルカムドリンクがあるんだ」と歓声を上げた。
さっそく缶ビールを出した妻は、音を立ててプルタブを引いた。それを見ながら、私もジョギングウエアに着替え始めた。
「あれ、ジョギングは明日の朝じゃなかったの? いつも、日の出の画像を撮ってくるじゃない」
「夕食時間は午後六時だよね。今から二時間以上もやることがないから、軽く走って明日のコースの下調べをしてくるよ。今回は事前に周辺の地図を調べられなかったから」
「じゃあ私、先にお風呂に入っているよ」
文枝はそう言うと缶ビールを傾け、一口、二口と喉に注いだ。夫が一人で出掛けることに不満を抱いている様子はない。
彼女は彼女なりに、午後三時過ぎからアルコールを摂取することで日常からの開放感に浸っているのだろう。
私はTシャツに短パンに着替え、念のために薄いウィンドブレーカーをバックパックに収納すると、それを背負って部屋を出た。
バックパックにはスマホと夜間用のLEDヘッドライトも入っている。
フロントを抜けて建物の外に出ようとすると、スーツ姿の男性従業員から「この辺りの道路には街灯がないので、暗くなる前に戻ってきてください」と声を掛けられた。
私は従業員に向かって小さく手を上げると、軽く跳ねるようなステップを踏みながら建物を出た。