第1話
文字数 2,037文字
全くどうしてこんな世の中になってしまったのか。
私は独 り言 ちながら躓 くように歩いていた。
私は大学で教鞭 をとっていたが、以前はこんな惨 めな思いなどしたことはなかった。
全て今の世の中の、そしてコロナのせいだ。
二年半前、コロナの流行とともに大学の授業はオンラインが主になり、私も自宅から授業をする、ということになった。
パソコンやウエブカメラの設置、使い方などは学校の事務から一通り説明があっただけで、
「こっちに来てやってくれるんじゃないの?」
私の問いかけに事務職員は、
「ディスタンス! 今の手順で必ずできますから」と言い、捨てられた。
言っておくが私は無能ではない。
海外の研究者ともメールでやり取りし、時には現地へ赴 き、三か国語を操 り意見を戦わせてきたものだ。
だがオンライン授業初日。
「先生、ミュートになってます」
画面の向こうから声がした。ミュート、訳せば『無言』。私はずっとしゃべっているではないか。そのまま続けていると再び、
「教授、聞こえません。ミュート解除してください」
別の声が聞こえた。
だから言わんこっちゃない。こんなやり方、うまくいくわけないのだ。
焦りまくった私は大学の事務に電話しようとリビングに置いてあった携帯を取りに行った。
「あら、あなた。授業中じゃ?」
リビングにいた妻の咲子 が問いかけてきた。
「もうあなたったら!」
事情を話すと咲子は私の書斎に入り、授業でオンになった画面の前でいとも簡単にミュートとやらを解除した。学生たちにすべて見られてしまった。
それからも突然セキュリティチェックがはじまって送受信が中断したり、画面が固まったりということがあり、そのたびに咲子を呼びに行くということが何度もあり、私は学生たちから『ITスキルが奥様未満』と認定されてしまった。
咲子こそ若い頃はカメラもいじれない機械音痴だったのに。※
そういえば咲子は孫の幼稚園のアルバムづくりの手伝いをすると言ってよく出掛けていた。今のアルバムは紙の写真ではなくデータなのだとも。
ふんっ。
今日は咲子と外で食事する予定だが、咲子は用事を済 ませるため先に家を出ており現地で待ち合わせだ。
「あなたのスマホをお忘れにならないでね。そちらで予約を入れているのですから。私の分のクーポンはもうお友達と使っちゃったから」
昨日の晩から咲子にうるさく言われていた。
ふと見ると路面のケーキ屋の前で、「あら困ったわ」と同じ年ごろらしい女性が声をあげていた。
どうやら現金を忘れて、スマホのキャッシュレス決済をしたいようだがチャージ金額が足らず、サイト経由のカード払いにしたいのだが、どこで切り替えたらいいか分からないということのようだ。店員も、いつもの自分の支払い方法以外は分からないようでお互いに困っていた。
「それならアカウント情報のところから切り替えられませんかね?」
と声をかけた。以前咲子と買い物しているときにやったことがあった。
「え、お分かりになるの?」
その人は自分のスマホを放り投げるようにして私に渡した。
いつも咲子から「スマホは簡単に人に触 らせちゃだめですよ」と言われている私はちょっとぎょっとしたが、支払情報を切り替えてから返してやった。
「まあ! ありがとうございます!」
その人は大げさなほど礼を言った。
「え、いや……このくらいなら」と言ってから「しまった」と思った。いつも咲子から「このくらいの事もご自分で出来ないの?」としかられるので「このくらい」という言葉で人は傷つく、ということを私はよく知っていた。だがその思いは杞憂 に過ぎず、その人は大喜びで買い物を終え、
「本当にありがとうございました。お詳 しい方に会えてよかったわ」と言って去っていた。
その言葉に、私は思いがけない気持ちに包まれていた。
「『お詳しい方』って……え~照れるなあ」
知らず知らずに頬が緩 んできた。
「いっつもおこられてばっかりなのにい」
そう思いながらポリポリと頬を掻 き、うふふと笑ってしまった。人が見ていなかったらスキップしたいくらい嬉 しかった。
この分野、いつの間にか今更人に訊 けないくらい置いて行かれてしまっていた。咲子は「あなたはすぐ丸投げするから覚えられないんですよ」と言うが、じゃあ、と訊こうとすると、
「それを説明するにはそれ以前に分かってもらわなければいけないことがあるんですよ」と言って面倒くさがる。
そうだ、パソコン教室に行こう。プロだから咲子より親切に我慢強く教えてくれるはずだ。私にだってできないはずがない。そうすれば咲子より詳しくなって『教えてやる』こともできるはずだ。
ウキウキしながら待ち合わせのレストランに行くと店の前で咲子が待っていた。
「あなた。スマホ、お忘れになってないでしょうね?」
顔を見るなり言われたが、今日はご機嫌で渡すことができた。
途端に咲子の表情が曇った。
「あなた。バッテリーが切れていますよ」
※フィルムカメラの時代です。
私は
私は大学で
全て今の世の中の、そしてコロナのせいだ。
二年半前、コロナの流行とともに大学の授業はオンラインが主になり、私も自宅から授業をする、ということになった。
パソコンやウエブカメラの設置、使い方などは学校の事務から一通り説明があっただけで、
「こっちに来てやってくれるんじゃないの?」
私の問いかけに事務職員は、
「ディスタンス! 今の手順で必ずできますから」と言い、捨てられた。
言っておくが私は無能ではない。
海外の研究者ともメールでやり取りし、時には現地へ
だがオンライン授業初日。
「先生、ミュートになってます」
画面の向こうから声がした。ミュート、訳せば『無言』。私はずっとしゃべっているではないか。そのまま続けていると再び、
「教授、聞こえません。ミュート解除してください」
別の声が聞こえた。
だから言わんこっちゃない。こんなやり方、うまくいくわけないのだ。
焦りまくった私は大学の事務に電話しようとリビングに置いてあった携帯を取りに行った。
「あら、あなた。授業中じゃ?」
リビングにいた妻の
「もうあなたったら!」
事情を話すと咲子は私の書斎に入り、授業でオンになった画面の前でいとも簡単にミュートとやらを解除した。学生たちにすべて見られてしまった。
それからも突然セキュリティチェックがはじまって送受信が中断したり、画面が固まったりということがあり、そのたびに咲子を呼びに行くということが何度もあり、私は学生たちから『ITスキルが奥様未満』と認定されてしまった。
咲子こそ若い頃はカメラもいじれない機械音痴だったのに。※
そういえば咲子は孫の幼稚園のアルバムづくりの手伝いをすると言ってよく出掛けていた。今のアルバムは紙の写真ではなくデータなのだとも。
ふんっ。
今日は咲子と外で食事する予定だが、咲子は用事を
「あなたのスマホをお忘れにならないでね。そちらで予約を入れているのですから。私の分のクーポンはもうお友達と使っちゃったから」
昨日の晩から咲子にうるさく言われていた。
ふと見ると路面のケーキ屋の前で、「あら困ったわ」と同じ年ごろらしい女性が声をあげていた。
どうやら現金を忘れて、スマホのキャッシュレス決済をしたいようだがチャージ金額が足らず、サイト経由のカード払いにしたいのだが、どこで切り替えたらいいか分からないということのようだ。店員も、いつもの自分の支払い方法以外は分からないようでお互いに困っていた。
「それならアカウント情報のところから切り替えられませんかね?」
と声をかけた。以前咲子と買い物しているときにやったことがあった。
「え、お分かりになるの?」
その人は自分のスマホを放り投げるようにして私に渡した。
いつも咲子から「スマホは簡単に人に
「まあ! ありがとうございます!」
その人は大げさなほど礼を言った。
「え、いや……このくらいなら」と言ってから「しまった」と思った。いつも咲子から「このくらいの事もご自分で出来ないの?」としかられるので「このくらい」という言葉で人は傷つく、ということを私はよく知っていた。だがその思いは
「本当にありがとうございました。お
その言葉に、私は思いがけない気持ちに包まれていた。
「『お詳しい方』って……え~照れるなあ」
知らず知らずに頬が
「いっつもおこられてばっかりなのにい」
そう思いながらポリポリと頬を
この分野、いつの間にか今更人に
「それを説明するにはそれ以前に分かってもらわなければいけないことがあるんですよ」と言って面倒くさがる。
そうだ、パソコン教室に行こう。プロだから咲子より親切に我慢強く教えてくれるはずだ。私にだってできないはずがない。そうすれば咲子より詳しくなって『教えてやる』こともできるはずだ。
ウキウキしながら待ち合わせのレストランに行くと店の前で咲子が待っていた。
「あなた。スマホ、お忘れになってないでしょうね?」
顔を見るなり言われたが、今日はご機嫌で渡すことができた。
途端に咲子の表情が曇った。
「あなた。バッテリーが切れていますよ」
※フィルムカメラの時代です。