あの日、私は雨でずぶぬれていた。

文字数 2,529文字

 あの日、私は雨でずぶぬれていた。通り過ぎる人々を眺めて、流れる涙は雨に消えて、誰も私に気づかない。存在の薄さを悲しむ余裕もなく、私はひとり打ちひしがれていた。でも、それはそれで良かったのだと思う。冷え切った体は心も冷ましてくれる。怒りと悲しみの情熱に打ち震えたことも忘れられる。私は無になるのだ。ただ、寒くて、そのまま死んでしまいたいと思った。いや、きっと死んでいただろう。私はそうして永遠の安らぎを得る。そのはずだった。あなたが現れなければ。

 あなたは震える私に近づき、そっと傘を差しだした。そんなことをする人がいるなんて信じられなかった。そしてあろうことか私を抱きしめて、連れ去ってしまった。固くなった体でそれに抵抗することも出来ず。私はうなだれて、されるがままとなった。元より抗うつもりなどない。なるようにしかならないと、投げやりな気持ちになっていた。

 連れて来られたのは六畳一間の安アパート。こんな部屋がまだ今の時代に残っていたのかと感心したほど古臭い。少しかび臭いタオルを投げられて、そのままごしごしと体を拭かれた。荒い手つきがうっとおしく、私は抵抗の意思を示した。しかし、あなたはそんなことおかまいなし。私の抗議の声はドライヤーの音にかき消されてしまった。疲れ切っていたから、それ以上抗うことも難しい。諦めて私はあなたの好きなようにさせた。

 食事の提供には、恥ずかしながら喜んでしまった。行儀作法もままならず、あちこちに残りかすを散らかして。がっつく私はさぞみっともない姿だったろう。いつ以来の食事だったろう。胃が満たされるにつれて、私は生きる願いを取り戻していた。そうするとあなたのことが急に恐ろしくなった。勝手なこととは思う。命が助かったと思うがゆえに命への執着が現れ、それゆえに命の恩人を警戒し始めるだなんて。けれど私には余裕が無かった。だからあなたを疑い、距離を取った。とても失礼なことをした。けれどあなたは気にする様子も無く、ただ私のしたいに任せてくれたのだ。

 あなたと付かず離れずの生活が続いた。あなたは昼間はどこかで仕事をしていたけれど、私にはどうでも良いこと。ただ、日中はとても退屈で、せいぜいパソコンのキーボードを叩くくらいしかすることが無かった。だからそんな日々が続くと、あなたが帰ってくるのを待ち遠しいと思うようになってしまった。あなたを好きになったわけではない。あなたのような人でもいないよりはマシだと思えたに過ぎない。

 食事にありつける。寒さをしのげる。それだけで、私にとっては恵まれた環境だと言える。しかし欲望に際限は無いらしい。あなたがいない時間の退屈さに私はいい加減腹を立て始めた。そのせいで少し喧嘩をしてしまった。喧嘩と言うと語弊があるかもしれない。あれは一方的な私の我儘だったろう。あなたがいない時間の寂しさを紛らわせる何かを求めていた。そうしてあなたが私にくれたものは、小さな猫のぬいぐるみだった。

 たったそれだけのことが、思いもよらぬ効果を生むものだ。ぬいぐるみは私の心に確かなうるおいをもたらした。ころころと床に転がしてみたり、優しく抱きしめてみたり。そんなことを私は繰り返した。そうすることで私は少しだけ優しくなれたと思う。

 それからしばらくの間、私は幸福を知った。穏やかに流れる時間を。時折、あなたと喧嘩することもあったけれど、思い返せばそれも楽しい思い出だ。あなたにとってはどうだか知らないけれど。なのにその頃のことはあまり覚えていない。辛いことはよく覚えているのに、幸福な時間は視界がぼやけてしまう。ほんとうに、どうしてそうなのだろう。

 ある日、あなたはひどく疲れた顔をして帰ってきた。私が心配そうなそぶりをしたら、無理に笑顔を作って心配ないなどとのたまう。誰がどう見ても尋常な様子ではない。あなたはいつもより早くに寝て、私のことなどお構いなしだった。私は少しだけ悲しくて、少しだけ泣いた。

 そしてあなたは部屋に戻らなくなった。代わりに、見知らぬ女が来るようになった。私は身の危険を感じて部屋の隅に逃げたが、どうやら悪人ではないらしい。あなたがいない間、私に食事を提供しに来てくれたのだ。とは言え、私はその女となれ合うつもりはなかった。女が入って来る時はいつも距離を取って警戒した。女もきっと私となれ合うつもりなどなかったのだろう。食事の準備と軽い掃除を済ませるとさっさと帰っていった。

 あなたが戻らない日が続いた。私は段々と、また捨てられたのだと思い始めた。一度諦めたはずの命を取り戻すと、執着心が強くなるのかもしれない。辛く、苦しい時間が流れる。あなたがくれた猫のぬいぐるみを抱き寄せて、ただ平穏を祈った。

 怒りはきっと、生きるのに必要な感情だと思う。私の感情は悲しみから怒りへと移り変わり、あなただけは許せないとさえ思うようになっていた。これほどの苦しみを与えるのなら、手など差し伸べてほしくはなかった。あの雨の中、誰にも知られず静かに消えてしまえば良かった。それが今、生き永らえて、永遠とも思える責め苦を受けている。不幸を思い知らせるために、私に幸福を与えたとでも言うのか。私は徐々に食事もできなくなっていき、怒りさえも衰え始めていた。

 目覚めると、そこは見知らぬ場所だった。真っ白な世界。白い男が立っていて、すぐ近くにあなたがいた。あなたは以前とは似ても似つかない顔をしていたけれど、私はすぐにあなただと分かった。あなたのその灰色の瞳がとてもきれいだったから。白い男は何か特別というようなことを言い、あなたから離れた。

 少し前まで私はあなたに怒り、あなたを憎んでいたというのに。あなたの傍であなたを感じられる。たったそれだけで私の心は優しさを取り戻した。あなたの枯れた手が私の頬に触れる。そしてようやく気が付いたのだ。私はいつの間にかあなたを愛していたということに。私はあなたの耳元に顔を寄せて言った。あなただけは許せない、と。あなたはしわくちゃになった目元をさらにしわくちゃにして笑ってくれた。

 そして私は安心に包まれて眠る。
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