第1話 クレープ

文字数 1,944文字

 空を飛びたいと思ったことなんて一回もない。空にもきっと不自由はあって、それと折り合いをつける術を鳥だって持っているに決まっている。
 私は崖を前にして立っていた。私と崖の間には今日も強固な柵があった。私の左手にはクレープが握られている。まるで利き手が右手ではないと主張するかのように。私の利き手は神と私と家族と友だちのみぞ知る。知ってる人が多すぎるから言わなくて良かった。
 右手には二つのシルバーリングがはまっている。自分ではめた癖にはまっているなんて白々しいか。シルバーリングは右手の寂しさを埋めてくれる。このシルバーリングを購入したアパレル店の店員に、「夏になると手元が寂しくなりますよね」と言われ、私は手の周辺に17回も寂しい思いをさせていた事実を突きつけられた。もう寂しい思いをさせたくなくて、急かされるようにリングを購入した。衝動買いをしたのはそれが初めてだった。家に帰って気づいた。手の寂しさを埋める手段はリング以外にもあるはずだと。ミサンガをつけていた時期もあったし、腕時計をしていた日もあったし、ハンドクリームでも案外手の寂しさは紛れるかもしれなかった。でもシルバーリングの着け心地は悪くなかった。
 今日の右手の寂しさはシルバーリングで埋めた。左手の寂しさはクレープで埋めた。私の寂しさは埋められなかった。スマホのアプリに入っている数独のデータは半分しか埋まっていない。まずい、語感だけで喋りすぎた。
 左手で食べるクレープはひどく食べづらかった。ウサギの丸焼き位食べづらかった。分からない譬えは使わない方が得策だった。だからって使わずにいられるほどまだ大人ではなかった。
 クレープを利き手の右手に持ち替えた。左手が寂しくなったので、仕方なく柵を掴んだ。真っ黒で所々剥げた柵はひんやりと冷えていて、これじゃあ左手は寒さに震えて、もっと人肌恋しく思ってしまうのではないかと不安になった。だから私は両手でクレープを持った。決して可愛い子ぶったわけではない。ここだけ切り取られたら私は両手で何でも持つ系女子の括りに入れられてしまうだろう。だけど、それもいいかもしれない。
 ようやくクレープの一口目を食べた瞬間、口の中に幸せが広がった。クレープが美味しいことは知っていた。そして私は甘い食べ物が大好きだった。この2つの手がかりから推理すると、私はクレープと相性抜群だと分かる。ミステリー要素も入れてみた。
 それにしても私とクレープは相性が良すぎた。美味しいと脳が認識する前に口が美味しいの形に動いた。誰かに伝えたい優しさの美味しいではなく、自分の中で定義したい美味しさだった。できれば涙が出てほしかった。そうすればもっと美味しい証明になったのに。二口目、三口目は止まらない。四口目は止まった。飽きたのではない。包装紙が邪魔で上手く食べられなかった。
 包装紙を掴む左手の握る力を緩め、右手でクレープの先端を持って引っ張り上げる。しかし、包装紙の内側とクレープがくっついてしまって引き上げられない。包装紙の中を覗き込んでくっついている箇所を探した。その原因箇所と反対の方向に強く引っ張った。その勢いを誤ったのだろう、クレープの中にあった生クリームが上から溢れ出した。私は生クリームがこぼれないように口で封じる。私の口の周りはあざとい女子のそれになった。さらに不運が重なることをこのときの私は知らなかった。けれど、数秒後の私はそのことを知っていた。クレープを掴んでいた右手はべっとりと砂糖でコーティングされ、次のクレープ候補生になってしまった。クレープを取り出すために左手で掴んでいた包装紙を少し広げたことで、底に溜まっていた凝縮された何かの汁がポタポタとこぼれだした。いくらなんでも山あり谷ありすぎた。
 私は一口目みたいに存分に味わうことができずに、処理するように食べてしまった。脳には美味しいが流れ込んでくるが、それと同じ質量で食べにくいストレスがかかった。もっと食べやすければ完璧な食べ物なのに、と思ったところで、だからかと納得した。クレープが食べやすかったら非の打ちどころがないから、クレープ以外のスイーツは淘汰されてしまうだろう。私は今の多様性に富んだスイーツ業界が好きだ。クレープがわざと食べにくくなることで、スイーツ業界は均衡を保っていた。クレープが頑張ってくれていたんだね。頑張っている人を見るのは嬉しいことだった。食べ物も例外ではない。私はべとべとの包装紙を握りしめ、崖の下に向かって「クレープ、ありがとう」と叫んだ。
 私のお腹の中に入ったクレープは、感謝される筋合いはないみたいなスカした態度を取っていて、私はその褒められ慣れてない雰囲気が可笑しくて笑ってしまった。

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