魚尾灯
文字数 1,991文字
夕暮れだった。
僕の記憶の中では、確かにそうだ。
ひしめく人々の半分ほどは中村座に向かっている。
「お江戸から来た太夫 が一節 謡 うんだと」
「古いな。東京 になってから、もう十年にもなる」
酔客 がわめきながら歩いていた。
人間がみっしりと詰まった道の真中 から、僕は押し出された。
兵児帯 の端が踏 まれたらしい。すっかり解 けて、着物の
そんなだらしない格好で、僕は火の無い瓦斯 の街灯 の下にいた。
三つ向こうの街灯に、点消方 が火を入れている。
僕は紫色の空を見上げて目を閉じた。
急に淋 しい気分になった。鼻がつんとする。
「耕坊、無事かい?」
目を開けた。声のした方から叔父 さんが走って 来る。
僕は鼻をすすり上げて笑った。
「坊に怪我 でもさせたら、義姉 さんに申し訳が立たない。今日賑町 に連れて来るのだって、ようやっと許しをもらったって言うのに」
こぼしながら、叔父さんは僕の頭や背中をなで回した。帯の解けの他は何事もないのを確かめると、解けた兵児帯 を僕に巻き付けた。
何度やっても帯端は後ろに揃わない。諦 めて横腹 で結び留めることにした。それもうまく結べない。
幼子の僕が『この人は器用ではない』と判 るほどに不器用な人だったが、さすがにこんなに手先が危ういとは思っていなかった。
あの頃の――袴着 のお祝いをしたばかりの――僕のほうがよほど器用だった。
「僕がやる」
僕は叔父さんの手から帯を奪 った。お腹に巻き、腰 で蝶々 に結ぶ。
少し斜 めだけれど、叔父さんの硬結 びよりはずっとましだ。
叔父さんは驚いた顔を作って、
「耕坊は器用だね。お前 は義姉 さん似だ。男の子はお母さんに似た方が幸せなんだぞ。自分じゃあ羽織 の緒 一つ結べない不器用なお父さんに似なくて、お前 は本当に幸せ者だ」
叔父さんはいつも僕の母親のことを褒 める。
母親を褒 めちぎった次には、必ず父親を貶 す。
それでいて、
「今のはお前 のお父さんには、きっと内証 にしてくれ」
と頭を下げる。
すごく申し訳なさげ顔で何度も頭を下げ、手を合わせて僕を拝 んだりもする。
背ばかりひょろ長くて、お蚕 さまの顔を怖がる弱虫で、手先が不器用で、頭が良くて、僕に面白い話をたくさん聞かしてくれる。
僕には優しいこの叔父が、僕は好きだった。
父母も祖父母も、蚕種製造業 の跡取 りである僕には、とても厳 しかった。
大人になった今なら判る。家族は僕を立派な人間にしたいだけだったのだと。
でも子供には判らない。
僕はいつでも一寸 したことで叱られたから。
暴力は無い。強くて怖い言葉で怒られた。
父母や祖父母は、僕にとっては恐ろしい人々だった。
そして僕が叱られるとひょっこり顔を出して助け船を出してくれるのが、この叔父だ。
叔父はただ顔を出すだけだ。口出しもしない。
叔父が現れると、母が黙り、父や祖父母は叱責 の矛先 を僕から彼に向けなおす。
家業を手伝わない、役に立たない勉強ばかりしている、体が弱い、嫁 の来手 が無い、婿 の先が無い。
嫁や婿のこと以外、父や祖父母は僕に説教するのと同じようなことを(僕によりもかなり難しい言葉で)言う。それだけだ。
結果的に叔父さんは僕の身代わりになった。
結果的に僕は助かった。
だから、叔父さんが困っているときには僕が助けようと考えていた。
「内証 にする」
そうすれば叔父さんを助けられると僕は信じた。それがうれしくて、ニコリと笑った。
叔父さんも笑い返した。
思えば叔父さんは、家の中に居場所がなかったのだろう。
部屋はある。
本が詰まった書棚と椅子と机の置いてある八畳間だ。
僕が行くと、叔父さんは本棚から一冊抜き出して、読んで聞かせてくれた。
遠い異国の捕物 話、大昔の風習、様々な花の育て方、蚕の病気の治し方。
しかし、叔父さんは本当にそんな本を読んでいたのだろうか。
もしかしたら、いつでも同じ本を開いて、書かれていないことを語っていたのかも知れない。
兎 も角 も古い家の中に叔父さんの居場所はそこだけで、話し相手は僕より他になかった。
いいや、違う。大人になって僕は然 う気付いた。
叔父さんの居場所は、この世界のどこにも無かった。少なくとも叔父さんは然 う感じていたに違いがない、と。
「耕坊、一番太鼓 が鳴ったよ」
叔父さんは僕の手に寛永銭 を握 らせた。
「一刻 ……ほら、この短い針が二つ進んだ頃に迎えに来るよ」
叔父さんの胴着 のポケットから、銀鎖 の懐中 時計がちらっと出て、すぐに仕舞 われた。
「中村座の木戸口 で待っておいで」
そう言うと、叔父さんは人混みの中に入って行った。洋装の背中はすぐに見えなくなった。
二時間経 ったら叔父さんは戻ってくる。身体 からお酒と白粉 の匂いを漂 わせて――。
『それも内証 にする』
僕は小銭を握り締めて、中村座に向かった。
ふと振り返ると、僕の立っていた所の瓦斯灯 に、点消方 が火を入れていた。
僕の記憶の中では、確かにそうだ。
ひしめく人々の半分ほどは中村座に向かっている。
「お江戸から来た
「古いな。
あすこ
が人間がみっしりと詰まった道の
あわせ
も乱れていた。そんなだらしない格好で、僕は火の無い
三つ向こうの街灯に、
僕は紫色の空を見上げて目を閉じた。
急に
「耕坊、無事かい?」
目を開けた。声のした方から
僕は鼻をすすり上げて笑った。
「坊に
こぼしながら、叔父さんは僕の頭や背中をなで回した。帯の解けの他は何事もないのを確かめると、解けた
何度やっても帯端は後ろに揃わない。
幼子の僕が『この人は器用ではない』と
あの頃の――
「僕がやる」
僕は叔父さんの手から帯を
少し
叔父さんは驚いた顔を作って、
「耕坊は器用だね。お
叔父さんはいつも僕の母親のことを
母親を
それでいて、
「今のはお
と頭を下げる。
すごく申し訳なさげ顔で何度も頭を下げ、手を合わせて僕を
背ばかりひょろ長くて、お
僕には優しいこの叔父が、僕は好きだった。
父母も祖父母も、
大人になった今なら判る。家族は僕を立派な人間にしたいだけだったのだと。
でも子供には判らない。
僕はいつでも
暴力は無い。強くて怖い言葉で怒られた。
父母や祖父母は、僕にとっては恐ろしい人々だった。
そして僕が叱られるとひょっこり顔を出して助け船を出してくれるのが、この叔父だ。
叔父はただ顔を出すだけだ。口出しもしない。
叔父が現れると、母が黙り、父や祖父母は
家業を手伝わない、役に立たない勉強ばかりしている、体が弱い、
嫁や婿のこと以外、父や祖父母は僕に説教するのと同じようなことを(僕によりもかなり難しい言葉で)言う。それだけだ。
結果的に叔父さんは僕の身代わりになった。
結果的に僕は助かった。
だから、叔父さんが困っているときには僕が助けようと考えていた。
「
そうすれば叔父さんを助けられると僕は信じた。それがうれしくて、ニコリと笑った。
叔父さんも笑い返した。
思えば叔父さんは、家の中に居場所がなかったのだろう。
部屋はある。
本が詰まった書棚と椅子と机の置いてある八畳間だ。
僕が行くと、叔父さんは本棚から一冊抜き出して、読んで聞かせてくれた。
遠い異国の
しかし、叔父さんは本当にそんな本を読んでいたのだろうか。
もしかしたら、いつでも同じ本を開いて、書かれていないことを語っていたのかも知れない。
いいや、違う。大人になって僕は
叔父さんの居場所は、この世界のどこにも無かった。少なくとも叔父さんは
「耕坊、一番
叔父さんは僕の手に
「
叔父さんの
「中村座の
そう言うと、叔父さんは人混みの中に入って行った。洋装の背中はすぐに見えなくなった。
二時間
『それも
僕は小銭を握り締めて、中村座に向かった。
ふと振り返ると、僕の立っていた所の