白髪奇譚
文字数 1,774文字
ー愛することは狂うことではないのか。
彼は、自室で古い写真アルバムを捲りながら、放心していた。
昨夜から今朝まで降り続いた、激しい雨で窓の外には霧が立ち込めている。
何も見えない。
その先にある庭の、紫陽花が、何色か彼はもう忘れてしまった。
彼の妻ー透子とは互いが25歳の頃結婚した。
彼と透子が勤めていた、自然科学博物館が出会いの場所だった。
彼は学芸員として、木や花の標本を作成していた。透子は、事務職員として博物館のチケットもぎりやミュージアムグッズの販売をしていた。
透子の髪は、漆黒で、真っ直ぐの非常にうつくしい髪だった。
ーなんだって僕は、妻の髪を集めていたのだろうか。
彼は、透子の髪をひそかに集めてきた。
透子の髪はうつくしく、意志を持ち生きているようで、彼はその髪を永遠に保存したい気持ちに囚われていたのかもしれない。
あたかも標本のように。
二人で暮らし始めた小さなアパートの脱衣場や、リビングのフローリングに溜まる髪を、彼は箒で掃き清めては、そっとポケットに入れていた。
ーあなたは綺麗好きで、お掃除がお好きね。私、助かります。
透子は彼のおかしな行為には気が付かず、柔らかに笑った。透子に嫌われたくなくて、彼はその収集癖を終に話せないでいた。
ある日、透子は鏡越しに彼を見て言った。
ーあなた、どうかしら?
ーん、何か変わった?
ーいやね、髪を切ったのよ。気がついてくださらないなんて、全く私に関心がないのね。
髪型に関心がないわけは、なかった。彼は狂おしく、透子をー否、透子の髪を愛していた。
その気持ちは、透子には伝わっていなかった。
言葉にしなければ、伝わらない愛を、彼は自己完結させていた。
彼の愛は偏り、変質していき、透子は時折、夫の遠い目を恐ろしく感じていた。
黒く長い髪は、時には短く、時にはミディアムに、変化していく。
彼は、拾い集めた透子の髪を、一ヶ月ごとに紙で束ね、自室の机の、鍵付きの抽斗に大事にしまっていた。
ーあなた、私に言いそびれたことなどありませんか?
ー…ありがとう。君には感謝している。こんな僕と結婚してくれて、ありがとう。
ーそれは私のほうこそ。…あなたを残してこの世から去るのは、胸が痛いわ…
ー僕は君を、…
透子は、彼の言葉を全部聞かずに亡くなった。結婚してからちょうど35年目の今年ー肺病を拗らせてこの世を去った。
白髪混じりになっていた透子の髪は、もう、生気をなくし棺に静かに眠っていた。
ー透子、透子。僕の透子。
子のない彼は、透子の死後、その髪を毎日子供のように見つめて愛でていた。
髪の束は、400束以上に及んでいた。
もう、鍵のかかる抽斗には入れず、束も解き、自室の畳の上、枕元に並べておいた。そうすれば、また透子に会うことが出来る気がした。
寝苦しい、湿気の纏わりつく夏の晩のことだ。
すうっと、細い針のような、銀色の雨が降る夜だった。
紫陽花は雨に打たれて変色していた。
彼は、畳敷の布団に入り、寝苦しさを覚えていた。
全身がこそばゆい。
ーシ…
ーミシ…
体をすう、と筆で撫でられる感覚。
足の裏から脛、太もも、首、頬とサワサワと上がってくる。
彼は金縛りのように動けない。
やがて、
ーうっ…
彼は目を虚空に見開く。
ーサミシイ。サミシイ。
首元から声が聴こえる。
ー透子。透子なのか?
ーサミシイ、サミシイ、サミシイ。
ーすまなかった。寂しい思いをさせたな。僕は君を愛している。言葉にはしてこなかったが。ー病床で君に言いそびれた。
ー…シテル?アイシテル?
ー愛している。君を。
ー…ワタシヲ?ソレトモ…
渾身の力で、首は絞められた。
ー透子…君の髪に殺められるならそれでも、かまわない…
彼が息もできない、意識が朦朧とする中で、恍惚が襲ってきた。
彼は、意識を失った。
強いひかりが見えた。
心地よい失神だった。
小鳥の声で、彼は目を覚ました。
翌朝になっていた。すかさず首に手をあてるが、何もない。
枕元の、大量の透子の髪はきれいになくなっていた。
しかし、ふと振り向いた棚の上の、若い透子の写真の髪が、黒から白に変わっていた。
ーなぜだ?
彼は棚から古いアルバムを出す。透子と昔撮った写真ーアルバムの中の透子の、出会った頃からの、その髪もすべて白く変わっていた。
彼は震えながら洗面所へ行く。
鏡の中の自分を見ると、怯えた目で蒼白で、首には、赤い強い締め跡が残っていた。
彼は、自室で古い写真アルバムを捲りながら、放心していた。
昨夜から今朝まで降り続いた、激しい雨で窓の外には霧が立ち込めている。
何も見えない。
その先にある庭の、紫陽花が、何色か彼はもう忘れてしまった。
彼の妻ー透子とは互いが25歳の頃結婚した。
彼と透子が勤めていた、自然科学博物館が出会いの場所だった。
彼は学芸員として、木や花の標本を作成していた。透子は、事務職員として博物館のチケットもぎりやミュージアムグッズの販売をしていた。
透子の髪は、漆黒で、真っ直ぐの非常にうつくしい髪だった。
ーなんだって僕は、妻の髪を集めていたのだろうか。
彼は、透子の髪をひそかに集めてきた。
透子の髪はうつくしく、意志を持ち生きているようで、彼はその髪を永遠に保存したい気持ちに囚われていたのかもしれない。
あたかも標本のように。
二人で暮らし始めた小さなアパートの脱衣場や、リビングのフローリングに溜まる髪を、彼は箒で掃き清めては、そっとポケットに入れていた。
ーあなたは綺麗好きで、お掃除がお好きね。私、助かります。
透子は彼のおかしな行為には気が付かず、柔らかに笑った。透子に嫌われたくなくて、彼はその収集癖を終に話せないでいた。
ある日、透子は鏡越しに彼を見て言った。
ーあなた、どうかしら?
ーん、何か変わった?
ーいやね、髪を切ったのよ。気がついてくださらないなんて、全く私に関心がないのね。
髪型に関心がないわけは、なかった。彼は狂おしく、透子をー否、透子の髪を愛していた。
その気持ちは、透子には伝わっていなかった。
言葉にしなければ、伝わらない愛を、彼は自己完結させていた。
彼の愛は偏り、変質していき、透子は時折、夫の遠い目を恐ろしく感じていた。
黒く長い髪は、時には短く、時にはミディアムに、変化していく。
彼は、拾い集めた透子の髪を、一ヶ月ごとに紙で束ね、自室の机の、鍵付きの抽斗に大事にしまっていた。
ーあなた、私に言いそびれたことなどありませんか?
ー…ありがとう。君には感謝している。こんな僕と結婚してくれて、ありがとう。
ーそれは私のほうこそ。…あなたを残してこの世から去るのは、胸が痛いわ…
ー僕は君を、…
透子は、彼の言葉を全部聞かずに亡くなった。結婚してからちょうど35年目の今年ー肺病を拗らせてこの世を去った。
白髪混じりになっていた透子の髪は、もう、生気をなくし棺に静かに眠っていた。
ー透子、透子。僕の透子。
子のない彼は、透子の死後、その髪を毎日子供のように見つめて愛でていた。
髪の束は、400束以上に及んでいた。
もう、鍵のかかる抽斗には入れず、束も解き、自室の畳の上、枕元に並べておいた。そうすれば、また透子に会うことが出来る気がした。
寝苦しい、湿気の纏わりつく夏の晩のことだ。
すうっと、細い針のような、銀色の雨が降る夜だった。
紫陽花は雨に打たれて変色していた。
彼は、畳敷の布団に入り、寝苦しさを覚えていた。
全身がこそばゆい。
ーシ…
ーミシ…
体をすう、と筆で撫でられる感覚。
足の裏から脛、太もも、首、頬とサワサワと上がってくる。
彼は金縛りのように動けない。
やがて、
それ
は確実に首に絡まった。ーうっ…
彼は目を虚空に見開く。
ーサミシイ。サミシイ。
首元から声が聴こえる。
ー透子。透子なのか?
ーサミシイ、サミシイ、サミシイ。
ーすまなかった。寂しい思いをさせたな。僕は君を愛している。言葉にはしてこなかったが。ー病床で君に言いそびれた。
ー…シテル?アイシテル?
ー愛している。君を。
ー…ワタシヲ?ソレトモ…
渾身の力で、首は絞められた。
ー透子…君の髪に殺められるならそれでも、かまわない…
彼が息もできない、意識が朦朧とする中で、恍惚が襲ってきた。
彼は、意識を失った。
強いひかりが見えた。
心地よい失神だった。
小鳥の声で、彼は目を覚ました。
翌朝になっていた。すかさず首に手をあてるが、何もない。
枕元の、大量の透子の髪はきれいになくなっていた。
しかし、ふと振り向いた棚の上の、若い透子の写真の髪が、黒から白に変わっていた。
ーなぜだ?
彼は棚から古いアルバムを出す。透子と昔撮った写真ーアルバムの中の透子の、出会った頃からの、その髪もすべて白く変わっていた。
彼は震えながら洗面所へ行く。
鏡の中の自分を見ると、怯えた目で蒼白で、首には、赤い強い締め跡が残っていた。
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