二十九

文字数 4,969文字


「ほう。真崎さんは、京都のご出身だったんですか――。それは知りませんでしたなぁ」
 翌日、響子に案内された酒落たリストランテでランチをともにしながら、里中は、意外な展開に驚いて言った。しゃきしゃきしたものの言い方は、およそ京都人らしくなかったし、その物腰も関西人離れしていたからだった。
「でも、こうしてお顔を拝見していると、そうは見えませんよ」
「あら、そうですか。これでも、京女っぼいねって言われるときがあるんですよ。沼田なんかは、しょっちゅうそう言って、わたしを玩弄うんです」
「ということは、ご両親などはこちらにお住まいで…」
「父はいません。二年とちょっと前にがんで死んじゃったんです」
 内容のもつ深刻さの割りに明るい声であった。
 里中は、つまらないことを訊いてしまったと後悔した。
「実家は北白川にあるんですが、分譲マンションなんです。でも、たまに京都に帰ってきたときにセカンドハウスみたいに使っている程度で、普段は誰も住んでいないんです」
「誰も――と、おっしゃいますと」
「母もいないんですよ」
 ね、不思議でしょ――と言わんばかりの笑顔であった。
 その態度は、実にさばさばとしていて、まさか亡くなった両親の話をしているとは思えなかった。おそらくそういう風にいうことで、自身の気持ちを軽くしているのだろう。里中は思った。
「そうだったんですか……」
 辛うじて、それだけを口にした里中に
「でも、気になさらなくていいんですよ。いまでは、悲しいとか寂しいなんて思っていませんから――」
 響子は、明るく言った。
「それに沼田と知り合ったのも、がんのお陰なんです。二人ともがんの父を抱えていましたしね。初めのころは、病室が同じだったんです。それで、お互いにことばを交わすようになって……」
 どこまでも翳を感じさせない女性だった。
 里中は、ますますなにも言えなくなっていた。いくら相手が明るく言ってくれたとしても、深刻な話題であるという事実は変わらないし、里中の心を明るくしてくれるわけではなかった。
 ということは、彼女は天涯孤独ということなのか――。
 しかし、彼女が案内してくれた小さなリストランテは、里中の思いとは正反対なくらいに明るかった。まさに彼女の心も、その明るさに比例し、気分までも高揚しているようであった。シチリア風の白い壁面が昼の陽射しに照りかえり、彼女の美しい顔がいっそう輝いて見えた。
「ごめんなさいね。せっかくのランチタイムだというのに、こんな話をしてしまって……」
「いえ、こちらこそ。迂闊なことを聞いてしまって、申し訳ありませんでした」
「でも、いずれ話さなくちゃいけないことですわね」
 彼女は屈託なく言った。「父は、大学の教員をしていたんです。その父の口利きで、稿倍舎にも入れたんです。ラッキーでした。本来なら、入れなかったでしょう。感謝しています」
 問わず語りが好きな女性だ――。里中は思った。
 こうなると、聞き上手を気取るしかなかった
「母は、わたしが中学校に上がる前に父と離婚しました。そしてある男性と一緒になってしまったんです。
 それ以来、父は研究に没頭し、部屋に閉じ篭るようになってしまいました。家事はすべて通いの家政婦さんがやってくれましたが、母の代わりをしてくれる女性はいませんでした。そのぶん、わたしが父の面倒を看ていたようなものです」
 里中は、彼女が繰り出すいくつかのキーワードを聞き、なにか恐ろしい予感が的中しそうになるのを覚えて心が騒いだ。
 大学教員の父、小学生のときの父母の離婚、ある男性と一緒になる母、天涯孤独、京都北白川のマンション……。ひょっとして、このお嬢さんは、あの小説に出てくる美貴さんの娘さんなのではないだろうか……。
 もしそうだとしたら、なんという巡り合わせなのだろう。
「里中さんも不思議に思ってらっしゃるかも知れませんが、多分、この明るさはそのときに身についたものですわ。本当を言うと、わたし、こうは見えても、すっごく寂しがり屋なんですよ。
 でも、そんなところを見せると、父が悲しむと思って、いつも明るく振舞っていたんです。すると不思議なもので、それがいつの間にか、習い性になってしまったんですね。
 いまでは、ご覧の通り、能天気なくらい明るいねって、みんなに言われてます」
 里中は聞けば聞くほど、ことばを失っていく自分を感じた。
 間違いない――。
 この子は、あの小説に出てくる美貴さんの子だ。
 里中は、彼女とホテルで出会ったときの印象を想い出した。
 立てば、すらりとしたボディラインは、あのホームレスのねぐら、新大手橋の下で拾った写真の中の美貴さんのものだった……。
 だからといって、自分はいまあなたの母親が一緒になった男が書いた原稿を持っているんですよとは言えなかった。いくら悔恨の遺書めいた文書とはいえ、あれはあくまでもフィクションとして綴られた文章のはずなのだ。
 しかも、ホームレスにまで落ちた男の独白小説であった。
 内容についても、まだ三分の一ほどでしか読み終えていないし、最後がどうなり、母親がどうなったかまで把握できていない以上、彼女に言って聞かせるほど重要な説明資料とはなり得なかった。
 父子家庭とはいえ、家政婦までいる良家のお嬢さまとして育った彼女のことだ。またぞろ迂闊なことを口走って、そのガラスのような心を傷つけてしまわないとも限らない。
 ここは、黙っておこう。里中は決意した。せっかく京都にきたんだ。種々の疑問点を調べてからでも遅くはあるまい。
「母は、恋多き女でした――」
 響子が遠くを見るような眼差しで語り始めていた……。
「でも、決して淫奔といわれるような種類の女ではなかったんです。わたしが、小学五年生のときの恋愛が最後だったと思いますが、おそらく、もっとも不幸な恋だったといえるのではないでしょうか。
 相手は学習塾の講師で、三十歳を過ぎているというのに、その日暮らしをしているようなひとでした。ほんの短い期間でしたが、わたしも習ったことがあります。いつも同じ黒のジャケットを着て、穏やかに話す先生でした。
 先生は、それまでの母の恋愛対象とは、ぜんぜん違っていました。
 それまでは、レストランの支配人とか、地方裁判所の裁判官、大学教授、弁護士を目指す事務職員、そういったひとたちが相手でした。
 でも、最後の男性だけは様子が違っていたんです。
 将来が約束されたエリートでもなければ、どこかの御曹司でもない。妹と自分の二人だけの母子家庭育ち。三流の私大出。明日の生活もままならないような、着たきり雀のひとでした。
 魔が差した、といっていいのかも知れません。あるいは、単に感受性の強い母独特の同情心から、翳のある先生の横顔が魅力的に見えたのかも知れません……。
 ともかく、そんな先生との結婚生活は、まさにマイナスからのスタートだったでしょう。
 でも、母は、父やその他の男性たちとの結婚生活のように、約束された、なに不自由のない、相手に頼りきった生活より、ふたりで力を合わせて築き上げて行く生活がしたかったんだと思います……」
 里中は黙して聞いていた。色んな想いが交錯した。
 恋に狂った母親が家を出て行く――。それを知った多感な少女の気持ちが、いかばかりだったのか。しかも、幸せになったのならともかく、最後の人生で最悪の不幸に出遭ったのだとしたら……。
「家を出てから七年後、初めて母が手紙をくれたんです――。
 残念ながら、差出人の住所は書かれていませんでした。でも、京都中央の消印がありましたから、京都にいることはいたんだと思います。その意味では、安心でした。心のどこかで、その気になれば会うことができるという思いがありましたから……。
 その手紙の末尾に『いつもあなたのことを憶っています』と書かれていました。たったのひと言ですが、それを知っただけでも、わたしは捨てられたのではないと実感しました。大学一年生のときです。
 そのとき、母は幸せだったのだろうと思います。
 だからこそ、手紙も書けたのでしょう。それから二度ほど手紙が届きました。
 最後となった近況報告には、先生がその後、二度目の転職をし、単身赴任や研修で、あちこちを忙しく飛び回っていること、自分がフラワーブティックに勤め、店長をさせてもらっていること、お客さんに可愛がってもらっていること、毎週末に赴任先の先生と会って、食事を楽しんでいることなどを楽しそうに書いていました。
 でも、その後はふっつりと、便りがこなくなりました。おそらく手紙も書けないほどの情況になったんだと思います」
「手紙も書けないほどの情況とは……」
「その情況がどんな状態を指しているのか、わたくしにもわかりません。でも、相変わらず先生のことを思って、苦しく貧しいながらも、母ならではの愛ある暮らしをしていると信じています。手紙をくれないのは、わたしに弱みを見せるのが嫌だからなんです」
「住所がないのも、そのためなんですね」
「――だと思います。後足で砂をかけるように、父やわたしを捨てて出て行ったんですもの。
 どんなに惨めで辛い暮らしであろうと、わたしや父に迷惑はかけないと思っているはずです。おそらく父が死んだことも知らないでしょう。わたしが結婚しようとしていることも知らないでしょう。ただただ一緒になったひとを支えて続けて一生を終わろうとしているんじゃないでしょうか。
 同じ血を引いたわたしにはわかるんです。母というひとは、そういうひとなんです。自分の望んだことなら、どんな犠牲も辞さない。生意気なようですが、今度の婚約で、初めて母の心がわかったような気がするんです……」
「……」
「実を言うと、沼田との恋愛も、これが初めてではないんです。でもわたしは、沼田に本物の料理人になってもらいたいと思っています。そのためには、どんな苦労も厭わないつもりです。いままでに蓄えた、全財産を擲ってもいいんです。
 幸いというか、悲しいことにというか、この婚約を寿いでくれたり、危ぶんでくれたりする父はいません。それだけにわたしは、全力を尽くして沼田を世界に通用する料理人にしてみたいんです。
 母も、おそらくは、そのように思って、あの先生と一緒になったのではないでしょうか。もし仮にそれに失敗したとしても、わたしは後悔しません。
 母も、おそらくしないでしょう。
 父には寂しいことかも知れませんが、わたし、やはり母の子でした。失敗しても構わない。母のように、男のひとのお手伝いがしてみたいんです……」
 彼女の話は一種哀訴のようなものであったが、あまりにも唐突過ぎて、里中にはなんとも答えようがなかった。よほど自分を信用したものか、それとも、よほどオープンな性格なのか……。
 そういえば、あの小説に出てくる美貴という女性もそうだった。
 吉田は、会ったその日から、彼女自身の秘密を打ち明けられて戸惑っていた。ひょっとして、これが真崎家の遺伝なのか……。
「すみません。わたし、つい興奮してしまって、言わなくてもいいことまで言ってしまったみたいですね」
「あ、いえいえ。ひとつの恋を貫くのも人生ですから、わたしがあれこれ言える筋合いのものではありませんよ」
 里中は、辛うじてそれだけを言った。
「里中さんも、きていただけますよね」
「え」
「わたしたちの披露宴に、ですよ」
「ああ、それはもう喜んで……」
「ああ、よかった。断られたら、どうしようかと思ってたんです」
「それは、そうと。真崎さんは、偉いですね」
「どうしてですか」
「だって、いまどき、そんな心の持ち主はいませんよ。
 玉の輿とかいって、お医者さんとか、事業家目当ての見合いパーティが、相変わらず盛況だっていうじゃありませんか。
 彼女たちは、旦那さんの稼ぎで、自由気ままな生活を送ろうとしているんでしょ。そんなの、ちょっと狡いですよね」
「いいんじゃありません。それも、ひとつの人生なんですから」
「あはは。これは、一本取られましたな」
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