第十五話 狼

エピソード文字数 4,091文字

金と黒の長い髪が、純白の立髪に続いて宙に踊る。それはまるで、戦地に赴く兵士が掲げる軍旗を連想させ、これから新たな試練が待ち受けている事を、二人に告げているかのようであった。
ドロネアの洞窟の周辺にある森を抜け、目の前に広がった丘を下ると緩やかな草原が続いていた。その草原をグリンデに言われたように、ひたすら雪がかる山脈に向けて真っすぐに駆けていた。
頬をかすめる強風が、耳介の手前で渦を巻き、嵐の如き轟音を生む。まだ依然、心地なさが見て取れるが、シルキーも二人の存在に、少しずつ慣れてきたようだった。オリビアの指示も必要としないほど、白馬は頼もしい姿を見せつける。森の中とは違い、目の前を塞ぐ障害物はなく、その解放感からかシルキーはより速さを増していった。二人は、背にしがみつくのがやっとな程である。
感覚で避けているのだろうか。時期的に、ウサギをはじめとした、小動物の巣穴の跡が多くあるはずなのだが、シルキーは足を取られる様子もなく、恐れすら見せない。
そして本当に怪我をしているのだろうか。とても人が二人乗っているとは思えないほどの速さを生み出し、足元の花々から作り出される、色取り取りの残像の線が視界の淵に描かれる。
オリビアが以前乗せてもらっていた馬より速く感じるほどである。万全の状態であったら、どのくらい速いのだろう。まして硬く踏み固められた地面ではなく、草原を駆けている。
二人は身を持って、名だたる豪傑達がこの白馬に憧れた由縁を思い知らされたのであった。

しばらくの間、草原を駆けていると、遠くからは低く見えた、目の前の山脈の麓の森の木々たちは、より高さを増し、だんだんと姿を大きく変えた。今まで、辺りには背の低い草花しか目につかなかったが、少しずつ木々が増え始め、気がつくと再び森の入口へと足を踏み入れていた。
木陰と出会うのは数時間ぶりである。今まで、燦々と注いでいた太陽の光の下を駆けていたのもあってか、瞳が暗闇に順応しない。辺りは黒に近い緑色に染まり、深い池の底を歩いているかのようだ。
水草の隙間から水底へ光が差し込むように、所々に橙色の光線が注いでいる。ふと木々の葉の隙間に目をやると、雪がかる山脈の先端がほんのりと茜色に染まっていた。
森の中は、人の出入りなどが感じられず、二人が進む道も荒れた細い獣道へと姿を変えていった。
シルキーの足がだんだんと遅くなっていき、オリビアに思考のゆとりを与える。真っ先に頭に浮かんだ内容は当然のものであった。
(……何処へ向かっているのだろう。)
ドロネアの洞窟周辺の森を抜け、あの小高い丘へ出た際に、改めてグリンデからこの森へと入るよう伝えられていたのだが、いざこの獣道を目にすると不安しか出てこない。
「……グリンデさん、あの今……」
グリンデもそろそろ何か伝えようと思っていたのか、オリビアが全て問い終える前に、彼女は口を開いた。
「この先に小さな川が見える。その川の上流に向かうぞ。川に着いたら水が流れてくる方へ進むのだ。それと……馬を一度止めては貰えぬか」
オリビアは、少しの緊迫感を含んだグリンデのその口調に驚き、シルキーの鬣を強く掴み、引いた。シルキーは嘶く様子も見せず、静かに歩みを止める。
「……その川の周辺には、やっかいな狼達が群れをなして生息しておってな、今一度スノウミントの香水を振りかけろ。気休めにしかならんやもしれんがな」
そういうとグリンデはローブの懐から、スノウミントの小瓶を再度オリビアへと手渡した。この道中、危険な野生動物に遭遇する事を想定していたグリンデは、予備に数個のスノウミントの子瓶を持ってきていたのであった。
(……狼)
オリビアの住む、チェルネツの森周辺にも狼は生息しており、時折、家畜や穀物を荒らしていた。しかし抱きかかえれば、オリビアの細腕でも持ち上がりそうなくらい小さく、土を投げれば、尻尾を巻いて逃げ出すほど臆病であった。
魔法を有する伝説の魔女が警戒する狼。凡人にとっては大きく生死に関わるだろう。オリビアは無言でスノウミントの香水を全身に振りかけた。
 
森の奥に進むにつれて、草木はどんどん深まった。辺りはすっかり薄暗くなり、シルキーの白い鬣も蒼がかった灰色に染まっている。鳥たちのさえずりは消え、腰元の【輝きの花】の灯りも、だんだんと明るさを増しているように感じられた。
夜の森の中で小さく灯る輝き。それは白紙の上に垂らされた、一滴の墨液のようなものである。存在を隠す遮蔽物など何もない。獣たちが自分たちの様子をうかがっているかと思うと、とてつもない恐怖心が全身を襲った。
(グリンデさんがいなかったら、どうなっていたのかな……)
もはや羞恥の極みである。オリビアは、いくら感情的になっていたとはいえ、一人で薬草を探しに行くとグリンデの家で宣言した事が恥ずかしくなっていた。
マリーは素より、リリオンやロックワームの件。思い出すだけで何度命を脅かされたか。好奇心だけで何処へでも行ってしまうような自分を、母がどれだけ心配していたのか、その理由を今では凄く理解できる。シルキーに再会してからこの森へ辿り着く間に、腰元を巻く腕を何度確認した事だろう。
オリビアは、世界が思っているよりも危険で広いという事、自分の存在がいかに小さなものであるかをこの短い道中だけでも十分に学ばされたのであった。

二人の間には依然として沈黙が生まれており、虫や梟と思われる生き物たちの鳴き声を縫って、かすかに水が流れる音が聞こえてきた。
「もう少しで川が見えそうだの。……たのむから狼どもよ、静かにしていてくれよ」
前に進むと、今度は音だけではなく、ひんやりとした空気と水の匂いが鼻の奥に広がった。その匂いを感じてすぐに、グリンデの言うように行先に川が姿を現した。
幅は小さく、人一人の身長分が有るか程度。深い所でも、おそらくオリビアの腰の高さぐらいであろう。流れもさほど強くはなく、夏場なら泳げるかもしれない程の小さな川だった。足元には細かな石が堆積しており、シルキーが歩くたびにざくざくと音を立てる。
「……シルキーを川の浅瀬の近くに歩かせてはくれんか。もし1匹でも狼が姿を現したら急いで馬を止めて、我がよしと言うまで布を口に当て、息を止めろ。わかったな」
オリビアは、その言葉の意味がわからなかったが、グリンデの真剣な口調に、ただ静かに頷くしかなかった。
前に進もうとシルキーの鬣を軽く引っ張った時、これまで従順を見せていた白馬の足が久しく反抗を示した。シルキーは耳をたて、辺りを警戒し、川の向こうにある草むらに意識を取られている。
「……くそ。やはり既に見つかっていたのか。やつらの嗅覚の前では、スノウミントも頼りにならんか……オリビア、我の合図とともに息を止めろ」
グリンデはそう言うとシルキーから勢いよく川辺へ飛び降りた。どういう意図があるのか解らないが、彼女は膝下ぐらいまで水に浸かる所へ行くと、かがんで川の水面に両手を当てた。
野生動物の危険察知能力の高さを知らされる。シルキーは既に、その存在に気づいているようで興奮を隠せていない。足元にある石がごとごとと大きな音をたてている。相手の姿を知る術がないオリビアには、ただただシルキーの首元を撫で、なだめる事しか出来なかった。

──グルルルル……

突如、川の両端の草むらから静寂を裂く、野生動物の威嚇の声が聞こえた。おそらく2、3匹どころではない、数十頭はあろうものである。
「オリビア、息を止めろ!」
続いて、間髪入れずにグリンデの咆哮が響いた。オリビアは興奮するシルキーの鬣を右手で強く握りながら、左手でローブの襟元を口に当てた。
無意識のうちに頼みを寄せているのがここでもわかる。オリビアの視線はグリンデに向いていたが、彼女はその際、驚きの光景を目の当たりにした。川に浸かるグリンデの両手が水の中で赤く光り出し、ぼこぼこと水面に何個も大きな気泡を生み出したのである。
川の水は、急激な熱を加えられたのか、たちまち蒸発し、煙のような蒸気が辺りを覆い尽くした。先ほどまで十分に見えていたグリンデの姿もすっかり包み込まれ、彼女の黒い長衣もぼんやりとしか把握できない。
やはりこれは魔法によるものなのか。オリビアには、その霧がうっすらと赤みがかって見えていた。川面から発せられた、その奇妙な赤い蒸気は、辺りをすっかりと覆い尽くし、霧の要塞を生み出した。
突然、その要塞の靄の壁から手が伸びてきた。チェルネツの森の二の舞か。どきり、と心臓が突き刺さるような感覚がしたが、それはすぐに収まった。グリンデが、腕を伸ばしながらこちらへ駆けてきただけであったのである。
「我の手を取れ。馬の背に乗せろ!」
息を止めろと言っていたが、大声を上げて、うっかりこの赤い霧を吸ってしまっても問題ないのか。そのような疑問がよぎる余裕はない。オリビアは、咄嗟に鬣を持つ手を離し、急いでグリンデの手を掴むと、思い切り力を込めて彼女をシルキーの背へと引き上げた。
駆けてきたグリンデの背の向こうで、水がばしゃばしゃと跳ねる音と、唸り声が聞こえる。これが魔女を警戒させた狼たちなのか。真っ黒い毛をした獣らしき影が、水の中で飛び交っているのがうっすらと見える。
気がつくと、オリビア達の乗るシルキーの周りも、無数の狼たちに囲まれていた。その様子を見て驚き竦んだが、狼達はオリビアに襲いかかる様子もなく、狂ったように河原の石に飛びかかったり、仲間同士で噛みついたりしているだけである。中には酔っ払ったように、ふらふらと歩き回る狼や、眠っているように横たわる狼もいた。
「このまま川上に走れ!」
大混乱のこの状況下で、取る行動は一つしかない。
再びグリンデの喚声を聞いたオリビアは、手のひらでシルキーの腹を強く叩き、川上へ向けて走らせた。飛び交う狼たちの姿は、二人の視界の淵にだんだんと追いやられ、やがて完全に霧に覆い隠され見えなくなった。
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