第1話僕たちこれでも誠意π

文字数 2,000文字

 πは不思議な数だ。
 これを掛けると直径は円になって閉じ、そして立方体は膨らんで球になる。
 まるで整然と事象を変換する魔法のようだ、いつもこの記号をみるとうっとりする。


「へっ、俺なんて2πrの2が乙に見えてさ、オッ……」
「黙れ、僕の萌え公式をそんな妄想で(けが)すな」
 郷田(ごうだ)をにらみつけた僕は、奴の視線がすでに別の方向を見ていることに気がついた。
「あいつ、また一人だ」
 転校生の円城寺(えんじょうじ)さんが硬い表情でポツンと座っている。声をかけてもあまりしゃべらないらしい。絵から抜け出してきたようなルックスの彼女に最初は群がっていた女子達だったが、話が続かないことに気がついて徐々に距離を置き始めたようだ。
「なんでも、前の学校でいじめられたって聞いた」
 情報通の佐竹が当たり前の様に割り込んで来てささやいた。
「気の毒に。なんとかしてやりたいなあ」
「お、気があるのか」佐竹が意味ありげな笑みを郷田に向ける。
 佐竹につかみかかろうとした郷田だが、それを厳かな声が遮った。
「戦いは何も生まない。私たちに必要なのは博愛です」
 ひょろ長い体躯に能面のような顔。口から出る言葉は正論(セイロン)ばかり、『スリランカ師匠』の二つ名を持つ島田が二人を制した。
「俺らで声かけに行くか?」
「単純ですねえ」師匠の言葉に郷田が目を剥く。
「いきなり男子が声をかけたら、かえって引かれるでしょ」
 チャイムが鳴ってこの話題は放課後に持ち越しとなった。


「スマホは持ってない。SNSもやってないみたいだ」
 情報網を駆使して調査したらしい佐竹が首を振る。
「じゃあ、手紙ですかね」
「どうやってわたすんだよ」師匠に他の全員が突っ込む。
 僕らの中学校の靴箱には蓋が無くて丸見えだ。かと言って、彼女に手渡しする勇気は無い。
「実は彼女の部屋にはベランダが付いていて、毎朝そこで背伸びをするんだ」
 痛いほど尖った視線が僕に集まる。
「隣の家が僕のおじさんの家なんだ。たまたま見かけたんだよ」
「パ、パジャマ姿をかっ」鼻息荒い郷田の頭に、佐竹が本でカツを入れた。
 毎朝、って所に気がつかれなくて良かった。いいじゃないか、朝練に行く時に遠回りしてチラっと見るだけなんだから。
「では、ベランダにお手紙を届けましょう」
 島田の細い目が半円のように湾曲した。

「まるで(からかさ)連判状だな」佐竹が眉をしかめる。
 ばれたとしても主謀者がわからないように正方形の紙の真ん中から対角線上に思い思いの言葉を書く。
 僕らはその紙を折って紙飛行機にすると、ベランダに投げ入れた。

 最初は悪戯と思われたのかもしれない。
 でも、2回、3回……と続くうちになんだか円城寺さんが変わってきた。
 休み時間、彼女の笑い声が聞こえてくるとちょっと誇らしい気持ちになる。
「ちょっと男子。円城寺さんに、励ましのお手紙を送った奴っている?」
 いきなり井上が僕らの方を見て叫んだ。
「いいよ、ミカ」円城寺さんが止める
「感動しちゃったわよ、あたし」
「へっ、今どきそんな古風なことするって、どこの王子様だよ」
 郷田が言い返す。僕たちも(あざけ)るように笑って援護した。

 でも、ここらが潮時。僕らは身バレする前に手紙作戦を終了することにした。
 最後と思ってそれぞれが思いっきりかっこつけた台詞を書き殴る。

 君の事をどこか遠くから応援している。
 ここからが青春だぞ。
 アデュー!
 円周率のように、君の笑顔が無限に続くように。

 書き終わると皆、頬を染めてはあっ、と息を吐き出した。
 そして淡い下心とヒーロー願望を乗せて、紙飛行機は最後のフライトを終えた。

 が。
「しまった。下書きを消してなかった」
 能面が真っ青になっている。
 書く位置に師匠が各々の名前をうっすらと鉛筆で書いていたのだ。毎回きっちり消していたのに、あまりに高揚していたせいだろうか。
 全員、引きつった顔でベランダを見上げた。
「あ、あれだ」佐竹が柿の木を指さす。隣家に伸びた太い枝はベランダ近くまで伸びていた。
「おじさんに言って登らせてもらえれば、ごみ拾いトングの長い奴で取れるかも」
 月明かりの中、柿の木の上に登り、お互いの身体を支え合う。一番身軽な僕が柿の枝の先端ギリギリにしがみついて、ベランダの柵の間にトングを突っ込む。
 もう少し、もう少しなのに、紙飛行機がうまく挟めない。
 πの神様、なんとか丸く収めてくれっ。
 僕は思いっきりトングを伸ばす。
 つかんだ!

 瞬間。

 犬の吠える声と、足音。戸の開く音。
 びくりとした弾みでバランスが崩れる。
 悲鳴と共に僕らはバラバラと地面に落ちた。
 低い柵を越えて紙飛行機が円城寺さんの目の前に着陸する。

 身の上に、失敗アールの惨状……。
 僕の頭の中で、球の体積が無限ループした。

 彼女が紙飛行機を拾い上げる。
 僕らは、笑いでごまかすしか無かった。

 青春はπ掛け。球のように膨張した心の中に妄想と理想が押し合いへし合い。
 僕たちこれでも誠意π(せいいっぱい)……なのだ。
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