第1話 わたし、結婚したいので

文字数 15,048文字

 結婚したい。
 私だけじゃない。誰もが結婚したいと思っていると思う。
 結婚をして、子供が生まれて。小さな家に住んで、旦那と子供に囲まれて。
 でも、そうはうまくいかない。それが現実だ。
 だいたいがして相手がいない。相手がいなければ結婚も何もない。
 結婚の前に彼氏ができなければ。そのためには、彼氏となる相手がいなければ。
 それが先立つものであって、私はその先立つものに恵まれない。
 私だけじゃない。結構みんなそうだ。
 出会いがない。先立つものに出会うチャンスがない。
 アパートと会社の間を行き来する日々。
 会社には男性がいる。まだ結婚していない人だっている。知り合うチャンスがない訳じゃない。だけど知り合えなかった。少なくとも私は先立つものである独身男性と知り合えずに、この歳になってしまった。
 久美子ちゃんは真面目だから。周りの人は私をんなふうに言う。
 わかってる。私は真面目だ。それは誉め言葉じゃない。真面目過ぎるんだ。わかってる。だからきっと周りの人は面白くない。私が真面目過ぎて面白くないからだ。
 それはお付き合いをする男性にとってもそうだ。私にだってお付き合いした男性はいた。二十代の頃だ。遠い昔。笑。最初彼はにこにこ笑って大丈夫だって言ってくれたんだ。久美子ちゃん大丈夫だよ。僕があなたを笑わせてあげるから。心配しないで。大好きだよ、って。 
 だから私は安心してお付き合いした。それで数か月が過ぎた。何の問題もない。そう思っていた。彼が無口になったことを除いては。
 久々のデートで映画を観た帰り、送ってくれた車の中で私は聞いてみた。ねえ、どうして最近無口なの、と。そしたら彼が言った。自分でもよくわからない。なんか重いんだ。久美子さんといると。重いかんじがして、次の言葉が浮かんでこないんだ。僕は無口な方じゃないんだけど。こんなの初めてだ。
 次のデートの誘いは来なかった。よく自然消滅なんて言うけど、まさか自分の恋愛がそうなるとは思っていなかった。でも彼からの連絡は、待てど暮らせど来なかった。こういうのを自然消滅っていうんだ、と私は思った。そう思うまでに数か月かかった。彼とお付き合いした期間よりも、長い月日が経っていた。

 私は足が悪い。右足の足首が曲がっていて、まっすぐに歩くことができない。それは先天性のもので、生まれた時から三十六年を経た今でも、私の足はその状態のままである。そこが普通の人と違う所だ。そういうのをコンプレックスというのだろう。確かにそうなのかも知れない。でも私はあんまりそうは思わない。これが私のデフォルト。普通の状態なんだ。
 私が座っている時は皆気付かない。立ち上がっても、ほとんど気付かない。気付くのは歩く時だ。私が歩くと、皆の雰囲気が変わる。私を見る目が変わる。この人可哀想に、という目になる。憐みの目に代わる。そして人は私に対して何か気遣いをしてあげなければ、と思うようになるのだ。私はそれが嫌だった。気遣いなんかいらない。私は歩けるし、痛みを感じている訳でもない。私は普通だ。座っている時と変わらない。これが私だ。普通の私だ。ちょっと歩く姿が人と違うだけだ。ちょっとびっこを引いて見えるだけだ。それだけだ。
 母はとにかくがんばりなさいと言った。幼い頃から。たぶん母は、足にハンデを背負った私を強く育てたかったんだろうと思う。負けないで、というのが母の口癖だった。だから私はがんばった。体育の時間の陸上は苦手だったけれど、水泳は得意になった。背泳ぎの選手で、水泳部の部長をやったくらいだ。体育以外の科目は何のハンデもない。私は外遊びが得意でない分、家で勉強した。よい大学に入って、東京の一部上場企業に就職した。母はさぞかし鼻が高かったろう。数年前までは。
 優秀な娘が良い大学へ行き、良い会社に就職した。鼻が高い。さあ次は結婚だ。世の母親はすべからくそう思うだろう。その気持ちはわかる。私もそう思う。しかし。先立つものがない。その昔クリスマスケーキと言われた25歳を悠々と過ごし、唯一私にアプローチをくれた彼氏と自然消滅した二十代をあっという間に乗り越え、まさか私が独身のまま35歳になるなんてねえ、というのが全く冗談ではなくなり、36歳の年が明けた。
 何が悪いのか。私の、一体、何が悪いというのか。そうか。真面目過ぎる所か。なるほど。確かにそうだ。私はそこを直さなければならないのだろう。私は私の悪い所を改善するのだ。私は私の真面目過ぎる所を直す。決めた。それは決定。と、それはいいとして。私は私の真面目過ぎる所を、どうやって改善したらいいのだろう?
 その夜は残業も無かったので、早い時間に足立区梅島のアパートの小さなワンルームに帰宅した私は、部屋着に着替えるのもそこそこに、机の上のパソコンを起動させた。私は調べなくてはならない。私の改善方法を。検索サイトを立ち上げる。検索ワードを入れる。「真面目」「改善」「セミナー」。一杯出てきた。世の中にはごまんとセミナーやらイーラーニングやらがあった。それこそごまんと。けれども、真面目過ぎるのを改善するセミナーというのは見つからない。何かを真面目に改善するものばかりだ。こんなにごまんとセミナーがあるのに、と私は思った。私が求めているセミナーは一つも無い。真面目に改善するというのでは、百八十度方向が逆ではないか。ううむ。
 そこで私は考えてみた。なるほど。セミナーというのは、真面目に取り組みたい人のためにあるのだ。真面目にスキルを得たい人がセミナーを受ける。スキル取得と引き換えに授業料を払う。そのようにしてセミナーのビジネスモデルはできあがっている。なるほど。
 チカチカ。さっきから私の目の端っこに映っている点滅。わずらわしい。検索サイトの画面の右側に、点滅している四角いボタン。「出会い」と書いてある。きっと検索サイトが私の年齢と境遇を何らかの方法で知っていて、私の条件に合わせた広告を打ってきているのだ。ほらこれ。あんた求めてるんでしょ?という訳だ。ははん。と私は思った。そんな手には乗らない。私はそんな馬鹿じゃない。
 私は気を落ち着かせるために、一旦冷蔵庫に行った。まだ仕事着のままだったが、着替えるのは後回しにした。冷蔵庫からビールを取り出す。冷えた缶ビール。そうだ。私はビールを飲むのだ。ビールと言っても発泡酒だけど。そう。ビールってこういう時のためにあるんじゃん。栓を開ける。コップに移す。お台所で立ったまま、ガブっと飲んでみる。プハー。美味い。これでなくちゃ。一人暮らしを始めてかれこれもう十四年目に突入したけど、これが一人暮らしの醍醐味じゃん。これが一人暮らしの幸せなんじゃん。仮にもしここに母がいたとしたら。私の母はきっと怒り出すだろう。すごい剣幕で怒鳴り、娘の愚行を今すぐこの場で正すに違いない。それが娘のためだと思って。それが娘に対する躾であり、その躾がゆくゆくは娘の将来を明るいものにするのだと考えて。娘の将来が、良い大学を出て良い会社に就職し、良い旦那さんの所に嫁に行くという明るい将来につながるものと考えて。
 ゴクゴクゴク。私は勢いよく立て続けに三口ビールを飲んだ。プハー。声に出して言ってみる。コップが空になった。缶から更に注ぎ足す。ゴク。もう一口飲む。プハー。私は右手にコップを持ち、左手に缶ビールを持ち、台所から右足を引き摺って部屋を横断し、机の前まで行った。間髪を入れなかった。バシッ。音が出る勢いでボタンを押した。その「出会い」というボタンは、出会い系合コンの勧誘サイトへとリンクするボタンだった。「あなたの出会いがそこにある」と書いてあった。その下に、明るく笑う男女の写真。ちょっと私よりも若い人たちなのか。私はちょっと年寄りなのか。ええい。そんなことはいい。構うな。と、私は私に言った。そしてそこにあった記入欄に、私のパソコンのメールアドレスを入力した。あっという間に登録が完了。私は缶に残ったビールをコップに注ぎ足し、ゴクゴクゴクと三口飲んだ。プハー。そうだ。がんばれ私。と私は思った。勢いだ。勢いが大切なんだ。こういうのは。

 合コンは一月半後に行われた。
 私はその合コンに臨むにあたって、勢いをつける必要があった。自分自身に勢いを付ける。気後れしないように。今までの自分とは違う自分なんだと思えるように。
 まず私は、決行日の一週間前に美容院へ行った。私の髪はショートカットだ。あれは二十代の頃だった。髪を短く切ってみたら殊の外手がかからず、これまで日々頭髪のためにかけていた時間が激減した。(私自身の名誉のためにここに書き記しておくが、それは決して彼氏に振られたからという、そんなベタな動機などではない)。それ以来私はショートカットだ。襟足も眉毛も全部見える。この髪形を変えようかとも一瞬考えた。しかし急には変えられない。だからパーマをかけることにした。私の直毛にウェーブがかかった。もしかして私ちょっとおばさん化した?とも思ったが、悪くはなかった。そう。この髪形。悪くない。
 髪型が少し変わった。まだだ。まだ足りない。もっと勢いが必要だ。合コンという未知の領域にチャレンジするための勢い。変えること。自分を変えること。それで私が考え付いたのは、コンタクトレンズ作戦だ。私は私自身を変える。コンタクトレンズで変える。
 小さい頃から勉強の虫だった私は机にかじりついていたのが祟って、小学生の頃から近眼で眼鏡っ子だった。眼鏡は幾つも買い替えた。もう数えることができないくらい。今も三つ持っている。通勤用の眼鏡、会社用の眼鏡、そして自宅用の眼鏡だ。それぞれ微妙にデザインが違う。その三つの眼鏡の中で、一番のお気に入りを通勤用にしている。だって、通勤途上でどんな出会いがあるかわからないではないか。だから私は、通勤する時に一番のお気に入りの眼鏡をかける。縁が丸くて、少し大きい。後の二つもそこそこ気に入っている。縁が細くて、眼鏡の存在感が薄いやつだ。私はこの年まで眼鏡を外したことがなかった。それこそお風呂に入る時くらいしか。だから私自身、眼鏡がない状態の私に慣れていなかった。コンタクトレンズ屋さんに行ってコンタクトレンズを付けて、鏡を見た。そこには眼鏡のない私がいた。新鮮だった。眼鏡のない私の目は、少し大き目に感じた。眼鏡がない顔に慣れていないので、なんだか物足りない顔のようにも思えた。
 「どうですか」と後ろにいた店員のおじさんは言った。「見えますか。大丈夫ですか」
 「はい」私は答える。
 「いいですね」
 「は?」
 「眼鏡がないお顔の方がいいですね」
 そう言っておじさんは笑った。多分どんな人に対しても、初めてコンタクトレンズを買ったお客さんに対しては、そんなふうに言うのだろう。いわゆる営業トークというやつだ。それはわかっていた。だけど私は、それでも気分がよかった。眼鏡がない私。軽くなった気がした。これまで、眼鏡が私を縛っていたのかも知れない。私を真面目な私に縛っていたのは、眼鏡だったのかも。そんな風に思った。もう一度鏡を見ると、鏡の中の私が微笑んでいた。いいかんじじゃん。我ながら。いけるかも。その瞬間に、私はそう直感した。
 そんなふうに勢いづけて、私は生まれて初めての合コンに臨んだ。生まれて初めての出会い系合コンというやつだ。
 髪にはいいかんじでウェーブがかかっていた。お化粧は派手過ぎないように、でもいつもより濃い目にした。特に目の周りをはっきりと模り、より大きく見えるようにしてみた。口紅は最近ずっと使っていなかった濃い目の赤いルージュを引き出しの奥から引っ張り出して、それを唇の上に小さ目に塗ってみた。上品、と私は思った。
 服装は以前友達の結婚式に出た時に着たベージュのワンピース。派手過ぎない。でも地味じゃない。細目のシルバーのネックレスを付けて、ヒールを履いた。出かける前、私はアパートの鏡でもう一度私を見た。コンタクトレンズだったので、ちょっとびっくりするくらいよっく見えた。髪型、お化粧、服装。いける。両手でピースサインを作ってみた。いける。テンション上げるよ。いくよ!
 と、そんなふうに思わせぶりの前置きをさんざんしてから言うのもなんだが。
 惨敗だった。
 合コン。私が私人生の中で初めて挑戦した出会い系合コン。
 惨敗。
 参加料女子三千円ポッキリ。参加者25名。うち女性11名。
 惨敗。
 他の女子が全員私より確実にかなり年下だったことといい、私よりも積極的で肉食系の様相を呈していたことといい、男性参加者の14名に対して14回自分自身の年齢と境遇と足が悪いことも含めた自己紹介を強いられたことといい、その参加者の男性が全員が全員全く完全にどうしようもなく魅力の「み」の字も無かったことといい、そんな「み」の一文字も無い男性陣から今後の交際の要請が「友達からお願いします」も含めて完全に全く皆無で終了したことといい。出会い系合コンなんかに参加するんじゃなかった。あんなものに参加した私が馬鹿だった。後悔なんか絶対にしないと誓った私であったが、後悔の言葉以外の言葉は何も出てこないくらい、私の人生の経験の中で今回のこの経験がワーストワンなんじゃないの、他にこんなに苦々しい経験をしたことなんてこれまでの私人生の中で無かったんじゃないの、ていうくらい、私の劣等感を抉り出し、白日の下に晒し、他の見ず知らずのうら若いだけで中身もへったくれも無い女どもの引き立て役になるためだけに三千円を払って貴重な日曜日の夕方の二時間を潰した、という結果に終わった。
 くそう。と私は思った。その合コンが行われた恵比寿からの帰り道。くそう。と苦虫をかみつぶしながら山手線に乗った。くそう。くそう。気を抜くと不覚にも涙が流れてきそうになった。なんで私が泣かなければならないのか。くそう。でもくそうと思うばかりで、気持ちの切り替えができなかった。屈辱だった。どう考えても屈辱だった。どこをどう取っても。屈辱のシーンしか浮かんでこない。屈辱しか思い出せない。気持ちの切り替えなんかできない。ポジティブになんかなれない。何もかも嫌になった。これから私は自分のアパートへ帰る。そして何事も無かったかのように明日の日曜日を過ごし、そしてまた次の日が来て、私は新橋にある私の会社に出勤しようとするだろう。いつもみたいに。14年間続けてきた、いつもの月曜日の朝みたいに。ああ。嫌だ。嫌。だって何のために朝を迎えるのかわからない。何のために明日の朝目覚めるのかわからない。私は何故、何のために明日を生きるというのか。
 気付くと秋葉原の駅にいた。知らず知らずのうちに、山手線を降りていた。習慣というのは恐ろしく、かつ、便利なものだ。考えていてもいなくても実行される。自動的に実行される。私は秋葉原で乗り換える。日比谷線へ乗り換える。
 天井から下がっている看板を確認した。日比谷線へ向かうために。その時だった。看板の文字が見えなくなっていた。私はそれに気付いた。でも、どういうことなのかわからなかった。酔ってるんだろうか。酔っていて目が霞んだとか。いや。目が霞んだなんてもんじゃない。看板が見えない。まるで、眼鏡を外した時のように。ハッとした。今日は眼鏡じゃない。コンタクトレンズを付けてきたのだ。さっきまではよく見えていた。眼鏡をかけるよりよく見えていたくらいだった。でも今見えない。片目? 私は片目ずつ目を瞑ってみて、見えるかどうか確かめてみる。ウィンクするみたいに。駄目だ。見えない。両目とも見えない。両目ともコンタクトレンズが外れてしまった。さっき涙を拭った時か。それって、山手線の中だ。私は山手線の中でコンタクトを落としたのか。それとも外のホームか。私の脳裏に地面を這いずり回ってコンタクトレンズを探す人の映像が浮かび上がってきた。私もそうやって落としたコンタクトレンズを探すのか。この人込みのホームで。いや、山手線の中で落としたとしたらどうやって探すのか。探しようがないではないか。眼鏡、と私は思った。眼鏡をかければいいのだ。コンタクトが駄目なら眼鏡をかければいい。しかし。その答えはNOだ。私は生まれて初めてこの歳で参加する今回のこの合コンへのチャレンジの退路を断つ意味で、旧来の私の象徴である私の眼鏡を、バッグに入れずに来たのだ。いや。私は出かけるにあたって、眼鏡を一旦バッグに入れたのだ。しかし意を決して、過去の自分と決別をするために、バッグから過去の自分の忌まわしい眼鏡を自ら取り出し、ご丁寧に玄関先に置いて、出かけてきたのだ。
 絶望、という二文字が頭に浮かんできた。涙と鼻水が溢れてきた。無様だった。私は秋葉原の山手線のホームで立ち尽くしていた。さっきから雨が降ってきていて、ホームは雑踏が運んだ雨水で濡れて光っていた。くそう。電車が出て行き、人の群れが一通り過ぎていった。くそう。くそう。私は這いつくばる決心をして、ワンピースの膝を濡れたアスファルトの上についた。ベージュのワンピースが汚れるだろう。それがどうした。ド近眼の私は目の先20cmまでしか見えないんだ。こうするしかないじゃないか。こうして地ベタに這いつくばって落としたコンタクトレンズを探して、それを目玉に嵌め直して視力を回復させる以外に、私が自宅まで帰り着く手立てはない。
 「どうしました」
 後ろの方から声がした。後ろの上の方。
 「コンタクトレンズ、落としちゃったんですか」
 声はそう続いた。
 道行く人が誰も気に留めない、否、気に留めたくないこの私に向かって、声が降ってきた。しかもそれは、男の人の声だったのである。

 「どうしました」
 その声がしたのはわかった。後ろの上の方から。
 「コンタクト落としちゃったんですか」
 そこまで言われて、私に声がかかったんだと改めて自覚した。それは男の人の声だった。
 「はい」
 私は言った。いちいち振り返ったりしなかった。私は這いつくばって地面に落ちたのであろうコンタクトレンズを探すのに忙しいし、第一振り返った所で両目コンタクトが無い今の私には相手が誰なのか、誰であろうとさっぱり見えないではないか。
 「どんなのですか」
 どんなの、って。
 驚いた。
 何に驚いたか。
 その声が発せられた場所である。上からではなかった。横だ。私の横。てことは。そこで私は初めて私の横を見た。草色のTシャツ。這いつくばっている。
 「ハードですか。ソフトですか」
 その人が聞いてきた。こちらも向かずに。その人は探している。地面に這いつくばって探している。私のコンタクトを探してくれている。
 「ハードです」
 私は言った。私のコンタクトはハードタイプだ。そうこうしているうちにホームのアナウンスがあり、次の電車が到着した。電車のドアが開く。
 「すみません」
 とその男の人は叫んだ。
 「すみません、コンタクトを落としました。注意して歩いてください」
 大声を出してそう言っている間も顔を上げない。彼は地面を見ている。コンタクトを探している。
 「どこで落としたんですか。この辺ですか」
 今度は私に聞いてきた。
 「それがわからないんです。気付いたら無かったんです。この辺か、電車の中かも」
 「気付いたのはこの辺なんですか」
 「はい。あそこの看板の下で気付きました」
 「無かったんですか。コンタクト」
 「はい。気付いたら無かったんです」
 次の電車が入ってきた。また彼が叫んだ。コンタクトを落としました、と。電車から降りてくる人達は私達を避けた。遠巻きにするように。その雑踏の遠巻きの円の中で、私たちの捜索は続く。ホームのアナウンスが入る。また次の電車が来る。
 「ごめんなさい」
 私は言った。その草色のTシャツの男の人に向かって。
 「きっと電車の中で落としたんです。見つからないです。ごめんなさい」
 もうこれ以上は嫌だ。耐えられない。と思った。這いつくばるのをやめたかった。遠巻きに眺める群衆の真ん中で地面に這いつくばって必死にコンタクトを探す。その自分の姿がものすごく屈辱的に感じられた。私はこの状況をやめにしたい。この屈辱的な状況から脱出したい。今すぐに。そのためには、隣で探してくれているこの男の人に諦めることを伝えて、捜索を中断してもらわなければ。
 「この辺には無いみたいですね」
 その男の人は言った。言いつつ、まだ探している。探してくれている。
 「ごめんなさい。もういいです。私目が見えなくて。近眼で。だからコンタクトが落ちていてもわからないの。諦めます。ごめんなさい」
 「僕もコンタクトなんですよ。気持ちわかります」
 「そうなんですね。私初めてのコンタクトなんです。一昨日買ったばっかりで。まだ慣れてなくて」
 「この辺結構探しましたけど、無いですね。ハードって踏まれると割れちゃいますけど、割れてもカケラが残るんで。でもそれも見当たらないですね」
 「無いですよね二つとも。どっちか一つでもあるとよかったんだけど」
 「え、二つ?」
 そこで初めてその人を見た。正面から見た。中腰になったその人。草色のTシャツ。Gパン。細い人だな、と思った。
 「はい。二つ。右目と左目」
 「えぇ? 二つ? 二つって、二つともですか?」
 「はい。二つともです。気付いたら無かったの」
 「眼鏡はありますか」
 「それが」
 眼鏡は置いてきた。昔の私からの決別だった。
 「無いんですか」
 「はい」
 「困りましたね」
 次の電車が来た。ようやく彼が腰を上げてくれたので、私も腰を上げた。彼がホームの奥の方へ歩いていく。私も彼の後を追う。私の右足。引き摺ってしまう。どうしても引き摺ってしまう。
 「帰れますか」
 ホームの奥の壁沿いに行き着いて彼が言った。珍しい、と私は思った。私を見て、口調が変わらない。私の歩き方を見て、引き摺っている私の不具な右足を見て、態度が変化しない。
 「はい。大丈夫です」
 「大丈夫って、見えないでしょ?」
 「はい。ド近眼なんで」
 「どうするんですか」
 「えっと」
 どうしたらいいのだろう。ほんとうに。私はどうしたらいいのだろう。
 「どちらですか」
 「え?」
 「家は」
 「あ、あの、家は梅島です」
 「送りますよ」
 「え?」
 「家まで送ります」
 「え、だって」
 「見えないでしょ。僕も近眼なんで、わかるんです」
 ええええ。
 送ってくれるんですか。
 まじですか。
 私をですか。
 がっ。
 がっと来た。
 がっと。
 彼の手が私の右手を掴んだのだ。私は反射的に手を引っ込めてしまう。嫌だという意味ではなかった。これは反射だ。いきなり手を掴まれたら驚いて手を引く。これは私でなくても、誰だってそうなるだろう。
 けれども。
 「こっちです」
 彼は怯まなかった。そのまま歩き始めた。私が手を引っ込めようとしても、彼の手は私を離さなかった。それは強い力という訳ではなかった。決して強引という訳ではなかった。でも、掴まれている。そこには、何か決意のようなものが感じられた。
 その手に引っ張られて、私は歩き出した。

 私たちは日比谷線に乗った。電車はそんなに混んではいなかったけれど、椅子には座れなかった。私は吊革に掴まって横にいるこの人をちらちらと見ていた。近眼でよくは見えなかったし、じろじろ見るのも申し訳ないと思ったし、だからちゃんとはわからなかったのだけれど。若い。それは最初に秋葉原駅のホームで中腰になったこの人を見た時から感じていた。随分若い。二十代かも。吊革に掴まってスマホを眺めている。草色のTシャツ。細い。髪が伸びている。
 「あのう」
 話かけてみることにした。
 「どちらにお住いなんですか」
 「僕ですか」
 「はい」
 「国分寺です」
 「え、国分寺?」
 「はい。国分寺」
 「反対方向ですよね」
 「そうですね」
 「あの」
 「はい?」
 「もうしわけないです」
 消え入りそうな声になっていた。
 「大丈夫です。乗りかかった船ですから」
 さらりとそう言った。感情のようなものは感じられなかった。弱者を助ける正義を遂行する自己満足感や高揚感であるとか、はたまたその反対に、面倒なことに巻き込まれてしまったという諦めや後悔であるとか。またもしくは、自分の親切を恩に着せようとする気持であるとか。私は彼の言葉から彼の心情を読み取ろうとしたが、読み取れなかった。こんなことになって良かったのか悪かったのか、その二択だけでも読み取りたかったのだが。いや。こんなことになって良かった訳がない。悪かったには違いない。どの程度悪かったと思っているのか。それを慮(おもんばか)りたかった。でもだめだった。慮れない。
 彼はまた隣でスマホを眺めている。飄々としている。さらりとそこにいる。まるで隣に私がいないかのように。彼一人で電車に乗っているかのように。ただ単にそこにいる。彼が立っている。
 私の右手の手首に、さっきまで繋がれていた彼の左手の掌の感触が残っている。がっと来た。がっと掴まれた。最初は驚いたのだけれど、そこから後はスマートだった。そう。スマート。スマートで、スムーズ。コンタクトレンズを両眼無くしたド近眼の私は、本当に周りがよく見えなかった。特に陰になって暗くなっている地面がよく見えない。段差がわからない。階段がわからない。しかし私は一度も転んだり躓いたりすることなく、日比谷線のホームまで移動できた。それは彼の左手のお陰だ。彼の左手が私を導いた。多分私は完全に目を瞑って盲目の状態になっていたとしても、安全に日比谷線まで辿り着くことができただろう。それ程彼の左手はスマートであり、スムーズであったのだ。段差の前で彼の左手が少し上がる。私はその動作で目前の段差を知る。下りの階段が来ると彼の左手が階段に合わせて下がる。私はそれに合わせて下がる。上りの階段では彼の左手が上がる。私も上がる。それがわかると、私は彼の左手に全てを任せようという気持ちになった。こういうのを安心というのかもしれない。安心はスマートとスムーズから来る。
 「道案内したことがあるんですか?」
 私は聞いてみた。
 「は?」
 「目の見えない人を道案内したことがあるんですか?」
 「ないです」
 「ないんですか」
 「はい」
 会話はそれだけだった。彼はまたスマホに目を戻した。

 そして北千住がやってきた。ここで乗り換えるんです、と私は彼に言った。電車が止まり、扉が開いた。また彼の左手が私の右手首にやってきた。今度は手を引っ込めない。私は彼を受け入れる。スムーズに受け入れられただろうか。彼の左手が私を導く。そして私は電車から降りる。梅島へ行く電車は、多分一つ上のホームだ。見えますか?と聞くと、四番ですね。21:09発ですね。と彼が言う。
 北千住のホームは結構な人混みだった。多分二十代の彼が、かなり年齢の大きい女性に手を添えて、連れて歩く。しかもその女性は足が悪く、右足を引き摺っている。人混みの、公衆の面前で。なんとまあ恥ずかしく、みっともないことだろう。穴があったら入りたい。私は彼の気持ちになって考えてみた。さぞかしつらいだろう。そう思って再び彼を見た。彼の斜め後ろ姿。飄々としている。恥ずかしいという感じは読み取れない。真っ直ぐ前を向いている。急いでいる感じも、焦っている感じもない。単に歩いている。単に私の手を引いている。私はそのことに少し安心をして、しばらくこの彼の左手のスマートさとスムーズさに身を任せることにした。私は目を閉じた。視覚の情報が無くなった。すると、より彼の左手の感覚が感じ取れるようになった気がした。彼の左手が少し上がる。階段だ。上りの階段が来たのだ。私は彼の左手の感覚を読み取る。そしてその感覚に合わせる。感覚に合わせて足を上げる。私は階段を上ることができる。とてもシンプルでスマート。そしてそれ故にスムーズ。今私が頼るものはこの左手しかない。彼の左手。

 梅島駅に着いた。
 私は今一度彼に申告する。
 「ありがとうございました。ここまでで結構です。後は一人で歩けますので。通い慣れた道ですので」
 改札から出なければ、彼のここまでの電車賃はかからない。だからここまでで帰ってもらうのが一番いい。
 「ここから何分歩くんですか?」
 「十分と少しです」
 「わかりました。行きましょう」
 「いえあの、結構ですから」
 恐縮に恐縮を重ねてみたが無駄な抵抗で、今日三度目の彼の左手が私の元へとやってきた。私の右手首に。そして私は導かれていく。その先に梅島駅の改札があり、駅の出口があり、ちょっとだけ駅前の商店街があって、暗い小道が続く。私のアパートはその先にある。さっきまで降っていた雨は上がっていた。
 ここを右です。ここを左です。暗い夜道に私の道案内の声が響く。それ以外の会話は無かった。だから私はなるべく目を瞑っていようと思った。目を瞑って、彼の左手を感じる。彼の左手のスマートさ、スムーズさを感じ取る。なんて上手なんだろう。と、私は改めて思った。彼の道案内。彼の左手。私は普通の人より歩くのが遅い。時間がかかる。でも急がない。焦らない。手を抜かない。
 「着きました。ここが私のアパートです」
 「そうですか。よかった」
 「あとは自分で行けますので」
 「何階ですか?」
 「二階です」
 「じゃ階段上がりましょう」
 四度目の彼の左手が来て、私たちはアパートの階段を上がった。203号室。ここが私の部屋だ。
 「ありがとうございました。本当に」
 「それではこれで」
 「あの。お茶でも。お茶でもどうですか」
 私は勇気を出してそう言ってみた。
 「いえ。大丈夫です」
 彼の回答に逡巡は無かった。
 それは私を嫌がっているのか。それとも、遠慮なのか。もしくは、この後用事があるのか。彼の返事の理由はその三択だと思ったが、そのうちのどれなのか伺い知れない。
 「あの。お礼がしたいのです。お名前を教えていただけませんか」
 「ジュンペイと言います。タイラジュンペイ」
 「ジュンペイさん。ありがとうございました。お住所を教えていただけますか」
 「大丈夫ですよ。お礼なんか」
 そう言われてしまった。この理由は二択だ。遠慮しているか、私に住所を知られたくないか。ああ。そうだよね。この人には彼女がいて、私から何かお礼の品物が届いたりしたら迷惑になってしまう。すなわち、理由は二つ目。私に住所を知られたくないのだ。そう。私はこんなふうに考える。これが私。この考え方が、いつもの私。
 そこまで考えて、何かお礼になるものは、と急いで考えを巡らす。今すぐに彼に渡せる、お礼になるもの。部屋に何があったかな。お茶菓子か、何か。
 「ちょっとだけ、ここで待っててもらえませんか」
 「いえいえ、大丈夫ですよ。お礼なんか」
 押し問答になってしまっている。このままここで時間をかけさせてしまうのはそれこそ申し訳ない。私はバッグからアパートの部屋のカギを取り出し、扉を開けた。電気をつける。まず眼鏡。玄関先に置いた私の眼鏡。背後で階段を下りていく音がしている。彼が帰っていく。ジュンペイさんが帰っていく。眼鏡は見つかった。私は眼鏡を箱から出し、かける。見える。久しぶりに戻ってきた私の視力。そして私はヒールを脱ぎ、部屋に入る。何かなかったか。何か。お礼にあげられるもの。何か。目に入ったのはかっぱえびせん。カルビーの。かっぱえびせんの袋。でかい袋。私はかっぱえびせんが好きだ。だからかっぱえびせんは私の部屋に常備されている。私は家に帰るとかっぱえびせんをつまみ、缶ビールを飲むのだ。それはいい。それはいいのだが。このかっぱえびせんは駄目だ。なぜなら封が開いている。既に封が開いてしまっている。これは私の食べかけだ。食べかけをお礼にする訳にはいかない。次。次の候補は。戸棚を開けた。あった。封が開けられていない、私の食べかけでない食材。のりたま。のりたまがあった。ふりかけだ。のりたまふりかけだ。ふりかけは好きだろうか? わからない。しかしこれしかない。これ以外にない。私は戸棚にあった封が開けられていないのりたま一袋を掴み上げ、回れ右をした。玄関へ行ってつっかけを履く。早く。私はうまく走れない。右足のせいだ。この私の右足。うまく動かない。走れない。くそう。動け。右足。これまでの私の人生の中で、私は私のこの不具な右足をこんなに呪ったことはなかった。ジュンペイさんにお礼ができないじゃないか。足が遅いせいで。私の不具の右足のせいで。私は必死だった。ジュンペイさん。反対方向なのに、私を送ってくれた。足立区くんだりまで。左手で導いてくれた。目の見えない私を。駅から十分も歩いて、私のアパートの扉の前まで。送ってくれた。お礼をしなければ。ジュンペイさん。ここで追いつけなかったら。もう会えないかもしれない。もう二度と。歩いて、歩いて、歩いて。追いつけない。ジュンペイさん。歩くの早過ぎ。駅まで来てしまった。梅島駅。数段の階段を上がると切符売り場があって。その先に改札。いない。ジュンペイさん。
 いた!
 改札の向こう側。草色のTシャツ!
 「ジュンペイさん」
 叫んでいた。
 よくこんな声が出たものだ。我ながら。私は自分で自分が発した叫び声に驚いていた。
 でも。
 そのお陰で。
 振り向いた。振り向いてくれた。彼が振り向いてくれた。
 伝わったのだ。
 私の声。
 「ジュンペイさん」
 もう一度大声が出た。手を振る。改札の向こう側にいる彼に向かって、私は私の存在を知らせなければならない。
 「ジュンペイさん」
 もう一度。両腕を大きく掲げ、振る。
 「どうしたんですか」
 ジュンペイさん。驚いた顔。改札の向こう側。
 私は初めて、正常な視力でジュンペイさんの顔を見た。
 彼の目が見開かれている。
 一重の目。濃い眉。白い顔。細い顎。
 若い。すごく若い。二十代。前半では。大学生とか。
 しかしそんなことに構ってはいられない。
 「お礼を」
 そこで私は気付く。ジュンペイさんへのお礼はのりたまであって、それは私の右手の先にあり、今私の頭上で大きく振られている。
 「こ、これ」
 ジュンペイさんが改札まで来てくれる。
 「わざわざすみません」
 そう言った。びっくり顔のまま。
 よかった。
 ああよかった。
 間に合った。
 私は改札越しに、向こう側にいる彼の元へと駆け寄った。右足を引き摺って。でもそんなこと気にしてはいられない。とにかく。私たちはもう一度会えた。そして私は彼にお礼を渡すことができる。幸せ。その幸せでいっぱいだ。
 「送っていただいて、ありがとう、ございました」
 息が切れている。情けない。でもいい。お礼が言えた。
 「つまらないものですけど、あの、これ、」
 差し出す。
 彼の一重の細い目が私の右手の先を見る。差し出されたもの。のりたま。
 「お礼です」
 一重の目が弧を描いていく。もっと細くなる。
 ああ。
 よかった。
 ああよかった。
 笑った。笑ってくれた。
 「こちらこそありがとう」
 ジュンペイさん。
 笑ってる。目が無くなっちゃった。
 ジュンペイさんの左手が改札の向こう側から伸びてきて、私のお礼を受け取ってくれた。のりたま。
 軽く一礼をすると、ホームへ続く階段を上っていく。
 私はその後姿を見送る。草色のTシャツ。階段の向こうに行ってしまう。
 よかった。お礼をすることができた。のりたまではあったが。でもお礼はお礼だ。私はやり遂げた。達成感があった。満足だ。
 もう二度と会うことはないだろう。
 タイラジュンペイさん。
 お名前しか知らない。電話番号もメールアドレスも知らない。住所もわからない。国分寺が最寄り駅だということくらいしか。
 それでもいい。
 それでいい。
 満足だ。
 私は踵を返した。家へ帰ろう。私の家へ。
 私の家へと続く梅島駅からの道は、さっきまでの雨に濡れて光っていた。冷んやりとした空気が私を包む。私は小道が真っ直ぐに続いていることと前から人が来ないことを確かめると、目を瞑ってみた。歩きながら。
 右手首の感触。
 彼の左手。
 はっきりと蘇ってくる。
 それが嬉しかった。
 左手の感触。
 ジュンペイさんの左手。
 それを確かめて、私は目を開いた。
 雨上がりの小道。
 ステップがしたくなった。
 できないので仕方なく、身体を揺らした。
 よかった。
 よい一日だった。
 満足だ。
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