第3話 愛は勝つ

文字数 2,566文字

 次の日の火曜日の朝。
 純平さんの洋服は乾いていた。
 外は晴れていた。
 私はいつものように六時に起きて顔を洗い、炊飯器に残っていたご飯に塩を振って海苔を巻き、梅干しを入れてオニギリを製作した。
 純平さんは起きてもぐもぐとそれを食べた。
 「ごちそうさまでした」と純平さん。
 「いえいえどういたしまして」と私。
 七時半になったので、私たちはアパートを出た。
 朝日が眩しい。
 今日は暑くなるのかな。
 私たちは一緒に梅島駅まで歩いた。
 駅から同じ電車に乗った。
 どこに行くんだろう。
 純平さんはどこに行くんだろう。
 私にはわからなかった。
 聞こうかとも思った。でも聞けなかった。
 怖かったから。
 純平さんは国分寺へ戻る。
 国分寺の彼女のアパートへ戻る。
 Akiさんの元へ戻る。
 きっとそうだ、と私は思った。
 Akiさんとは深いやりとりがある。
 Akiさんとは深い繋がりがある。
 私なんかよりも。
 それは仕方ない。
 私にはどうしようもできないことだ。
 仕方ない。
 私は気分を切り替えようと思った。
 でもうまくできなかった。
 笑えない。
 笑顔を作れない。
 そうしている間に秋葉原がやってきた。
 私たちが出会った場所。
 秋葉原駅。
 電車は混んでいた。
 満員の状態だ。
 私たちは降りなければいけない。
 「久美子さん」
 純平さんが言った。
 私の名前を言った。
 私は純平さんを見た。
 すぐ隣の純平さん。
 純平さんの目。
 一重の細い目。
 瞳が私を見つめている。
 「ありがとうございました」
 そう言った。
 「いえ」
 私は言った。
 「じゃ」
 行ってしまう。
 純平さんが行ってしまう。
 「お元気で」
 私は言った。
 なんとかそれだけ言った。
 電車のドアが開いて人が押し出される。
 純平さんが押し出される。
 私も押し出される。
 さようなら。
 純平さん。
 さようなら。

 純平さんは去った。
 本当に去った。
 去って行った。
 たぶん、国分寺へ。
 彼女のところへ。
 Akiさんのアパートへ。

 火曜日が過ぎていった。
 淡々と過ぎていった。
 長かった。
 私は長い時間を過ごした。
 会社の机の前に座って。
 長い長い時間が過ぎていった。
 ようやく終業時間が来て、私は会社から吐き出された。
 梅島へ帰る。
 私は梅島へ帰る。
 右足を引き摺って。
 梅島へ帰る。

 アパートの階段を上がると、私の部屋のドアが見えた。
 そこにいたんだ。
 昨日そこにいたんだ。
 純平さん。
 その姿が蘇ってくる。
 ずぶ濡れでそこにいた。
 そこに蹲っていた。
 純平さん。
 なんだか懐かしい。
 既に懐かしい。
 私は部屋の鍵を開け、ドアを開いた。
 暗い部屋が私を迎えた。
 電気をつけると、ベッドの上に敷布団があった。
 畳まれている。
 その上にペンギンがいた。
 枕になっていたペンギン。
 純平さんの枕になっていたペンギン。
 昨夜の残骸。
 ううむ。
 気分を替えよう。
 TVをつけよう。
 そう思って、TVをつけてみた。
 バラエティ番組。
 賑やかな笑い声。
 クイズ番組か。
 私はしばらくの間ベッドに座って、TVを眺めていた。
 ううむ。
 気分は替わらない。
 傍らにペンギンがいる。
 畳まれた敷布団の上にペンギンが寝転んでいる。
 寝転んだペンギンが私を見つめている。
 純平さん。
 と私は思った。
 ペンギンが純平さんに重なった。
 純平さん。
 純平さんの存在。
 純平さんが存在していて。
 親子丼を食べ。
 ガツガツと親子丼を食べ。
 泣き。
 こらえきれずに泣き。
 すやすやと眠る。
 寝息を立てて眠る。
 純平さん。
 純平さんの存在。
 昨日私は純平さんの告白を聞いた。
 何故純平さんが泣いていたのか聞いた。
 その訳を聞いた。
 彼女のことを聞いた。
 Akiさんのことを聞いた。
 純平さんは泣いた。
 私の先で泣いた。
 私の右手の先で。
 私と繋がって。
 私は。
 純平さんが好きだ。
 改めて思う。
 私は純平さんが好きだ。
 純平さんが好き。
 泣いている純平さんが好き。
 ううむ。
 と私は思った。
 それは結構衝撃的な事実だった。
 私にとって。
 純平さんは私の手を引いてくれた。
 目の見えなくなった私の手を引いて、私の部屋まで導いてくれた。
 そこにはスマートで的確で優しくて、そして暖かいぬくもりがあった。
 それも好きだ。
 勿論好きだ。
 だけど私は。
 泣いている純平さん。
 泣いている純平さんの方が、それよりももっと好きだ。
 好きなんだ。
 いやこの気持ちは。
 好きという言葉では言い表せない。
 好きなんかじゃなく。
 もっと好きなんだ。
 好きよりもっと好きなんだ。
 好きよりもっともっと好きなんだ。
 好きなんか比べ物にならないくらい好きなんだ。
 スマートで的確で優しくて暖かい純平さんも勿論純平さんなのだが、
 泣いている純平さん、
 こらえきれずに泣いている純平さん、
 その泣いている純平さんの方が、もっと純平さんなんだ。
 もっともっと純平さんなんだ。
 純平さんの存在、
 純平さんの核、
 本物の純平。
 私はその本物の純平の存在の核に触れたんだ。
 この右手で。
 純平に。

 その時だった。
 ちょうどその時だった。
 私が私の心の中心に辿り着いた、ちょうどその時。
 玄関のチャイムが鳴った。
 間延びした電子音が部屋に響き渡った。
 おお。
 私は立ち上がった。
 すっくと立ちあがった。
 まだ仕事着のままだった。
 構わない。
 そんなことは構わない。
 私は右足を引き摺って、玄関まで歩いていく。
 玄関の向こうに。
 この玄関の向こう側に。
 わかる。
 私にはわかる。
 確信がある。
 希望だ。
 そこには希望がある。
 希望。
 私の希望。
 私たちの希望。
 私は抱きしめる。
 その希望を抱きしめる。
 そして離さない。
 もう離さない。
 さあ。
 開けるよ。
 玄関を開けるよ。


<END>
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