第1話

文字数 1,010文字

 熊さんは落語の登場人物だ。熊五郎の愛称で、そそっかしくて喧嘩(けんか)っぱやい江戸っ子で、八五郎こと、八っつぁんとともに長屋住まいの職人という設定がほとんどである。

 (2023年)11月の第3週に、当院が所属する医療グループの病院の外来診療に出掛けた。その病院は日本海に面した新潟県の北端、山形県との県境にある。
 病院は羽越本線の某駅前から徒歩1分であるが、その駅は鈍行しか止まらない無人駅である。山が海岸まで迫り、海岸に沿った土地にはわずかな田畑、羽越本線、国道7号線しかない。これといった主産業はなく(←失礼)患者さんの職業は漁業、農業、林業とさまざまである。

 その80歳過ぎの男性患者さんは不整脈と高血圧で通院していた。いつも奥さんと一緒だ。
 彼は以前は漁に出ていた。毎朝、3時前から漁に出て、4時過ぎには帰港して水揚げだ。奥さんと一緒に獲れた魚の仕分けをするが、余りにも魚が獲れ過ぎて体を壊し(おか)に上がった(=引退した)。八つ折りの新聞紙大よりも大きなヒラメが延々と獲れたそうだ。
 引退後、彼は毎朝、山を散歩することにした。血圧手帳に血圧と、毎日歩いた距離(5.0 ~ 6.0 km) を几帳面に書いて受診の際に見せてくれた。
 ところがだ。その日の受診までの約1か月間、山の散歩が途切れていた。
 「あれっ? Nさん、運動はピタッと止めたんですか?」
 「それがの、先生、散歩の山道に熊が出たんよぉ。」
 「ええっ? 熊さんですか?」
 「先生よぉ、熊さんなんて笑ってらんねぇ、怖えぞぅ」
 「成る程…」

 もうひとり、同じく80歳過ぎの S お婆さんが受診した。
 「畑の作物はどうですか? 今年は収穫物は野生の猿に食べられなかったですか?」
 彼女は、家の周囲に家庭農園を作っているのだが、いつも収穫直前になると野生の猿に食べ尽くされてほぼ全滅なのだと嘆いていた。
 「それがの、今年はの、熊が出はったからか、猿が一匹も来なんだんさ。」
 「へぇ~、そうなんですかぁ? 熊さん様様(さまさま)ですね?」

 熊五郎ならぬ熊さんの、僻地医療に及ぼす影響は大であった。

 さて、写真は 2022年11月25日昼過ぎ、その病院のすぐそばの国道7号線から撮影した羽越本線下り特急「いなほ」である。日本海を臨む撮影の名所である。

 海岸線はすぐそこまで迫り、少ない土地には墓地が写っている。
 人はどんな所でも自然の営みの中にいる。

 んだんだ。
(2023年11月)
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