最後の正月

文字数 4,085文字

ここは、天保12年(1841年)閏1月7日の江戸城であった。大御所・徳川家斉は臨終の床についていた。近くにオオタカの悠然とした鳴き声が聞こえている。

「余の人生は、一体なんだったのだろうか…」

家斉はここ数日来、どうしようもない無常観に苛まれている。約50年にわたって天下人として君臨し、権力も女子も酒も山海の珍味も、望むものは全てを手にしてきた。それなのに、心だけが晴れない。


そもそも家斉は、田安・一橋・清水の御三卿の一角、一橋徳川家の嗣子であった。父は2代目一橋家当主・一橋治済である。

ここで、御三卿の位置付けについて説明せねばなるまい。
幕府草創期に、家康から始まった秀忠系統の将軍家を主軸に、尾張・紀州・水戸の御三家を藩屏として、彼らは将軍家の血筋が絶えた場合の「お控え」という性格をもって創設された。
そんな御三家の出番は、7代家継が幼少にして薨去した時に到来した。その際、諸般の事情を鑑みて、紀州藩主吉宗を8代将軍として迎えることになり、ここに将軍家は「紀州による将軍家」へと変貌したのである。
さらに、吉宗はもう一歩踏み込んだ仕組みを勘案した。即ち、紀州の血脈を将軍家に根付かせんとするために、御三卿を創設したのである。御三卿は、御三家と違って将軍家と独立した所領は持たず、「将軍家の家族」という位置付けであった。つまるところ、吉宗はいわば「第2の家康」を志向したのである。事実、8代吉宗から14代家茂まで、将軍職は紀州の血脈が独占した。
そういう性格の御三卿であるから、将軍家の一大事に備えて無事にお控えとして存在すること自体が目的であったのである。
当時、8代吉宗から9代家重、10代家治そして次期11代家基と将軍家の血脈は順調に繋がっていた。であるから、家斉もまた3代目一橋家当主として生涯を終えるはずであった。

しかし、突如その「一大事」が起きる。他でもない、家基が急逝したのである。享年18。赤子が亡くなるのならばいざ知らず、元服も済ませて権大納言に任官されていたのにもかかわらず、家基が逝去したことはまさに将軍家の「一大事」であった。
壮健な若武者である家基は、鷹狩りを行なっていたのだが、途中で体調不良を訴えて急遽江戸城に帰還したものの、数日後には逝去した、というのが事の次第である。
現代の感覚でいえば、18歳の青年がゴルフに出かけたところ、急に体調が悪くなったためにハーフで取りやめ帰宅したものの、薬石効なく数日後に亡くなってしまった、ということである。

「これは、なんだか怪しいぞ」
幕閣の誰もが黒い疑惑を予感した。しかし、家治のひどい悲嘆ぶりもあり、なんとはなしに公に口に出せずにいた。
しかし、噂話ほど伝達が早いものはない。噂話は事が重要であればあるほど、やんごとなき事柄であればあるほど、世人の興味をくすぐるのが常である。それは、江戸の庶民のあいだでもまた同じ。
「おい、今度の家基様の急逝の件、なにやら裏があるらしいぜ」
「ほう、どういうことかね?」
「なんでも、一橋治済様と老中田沼意次様のお2人が通謀していたそうな」
「うーむ、一橋卿と田沼様が謀って将軍家のお世継ぎを?どういうカラクリだね?」
「勘の鈍い野郎だな。つまりだ、一橋卿は権力を欲している。田沼様は彼に否定的な家基様が将軍になれば更迭は必至。そこで次期11代将軍を一橋家から出せば万事めでたい。そのためにはまず家基様を、、というわけさ」

事の真相は闇の中である。
しかし、事実として、これ以上の実子を望めない家治は養嗣子として一橋豊千代を指名し、彼は徳川家斉と改名して江戸城西ノ丸に入った。そして間もなく家治は失意のうちに薨去し、家斉は11代将軍となった。

さて、当の家斉である。
わずか数年のめまぐるしい動きで、一橋家嗣子から将軍家のお世継ぎに、そして11代将軍の天下人へとのし上がった。いや、正確には「のし上げられた」というべきかもしれない。
どういうわけか、田沼は思いもかけず家斉に更迭された。あるいは、「公方様の御父君」として幕閣に隠然たる影響力を発揮するようになった一橋治済に追い落とされたのかもしれない。

ところで、一橋治済は家斉に将軍の心得を説いている。
「上様のなすべきことは一つ。大奥に足繁く通って子女を沢山もうけなされ」
家斉は、父の野心を読み取った。
「父は自分を使って『第3の家康』たらんと欲している。つまりだ、神君家康公は徳川の血脈で、吉宗公は紀州の血脈で、そして父は一橋家の血脈で天下を統べたいのだ」
もっとも、家斉は生来の好色であったから抵抗はなかった。結局、50人以上の子女をもうけ、将軍家や親藩、譜代だけでなく、加賀前田家や仙台伊達家、長州毛利家をはじめ、全国の有力外様大名とも婚姻を交わしていったのである。

家斉は、治世が長かったこともあり、官位の面でも権勢を誇った。
権大納言→内大臣→右大臣→左大臣→太政大臣、それから、右近衛大将→左近衛大将、へと任官した。これが位人臣を極めたと称される所以である。
まず、太政大臣に任官することだけでも凄いのだが、権大納言から大臣職のどれも飛ばさずに太政大臣になることは非常に価値のあることなのである。
例えるなら、幹事長・政調会長の党要職、財務・外務・経産大臣の重要閣僚を経てから総理大臣になるのと、ポッと出て総理大臣になるのとではどちらが重みがあるかは明白だ。
また、左近衛大将は、武家がどれほど権勢を誇っていても、鎌倉時代以来、公家が長年死守してきた最重要ポストの一つである。家斉はついにその左近衛大将に任官した。

それにしても、と家斉は思う。
人生の決定的な場面で周りの人々に舵を奪われてきた生涯であった。己の意思によって舵を取ることができなければ何のための人生なのか。生まれてきた理由がはじめから分かれば、人はあがき、もがき苦しむ必要はあるまい。それは、無いものねだりなのだろうか。
侍医が処方した薬が効いてきたのか、ひどく眠くなってきた。あぁ、もう眠ってしまおう。

家斉は、薄ピンク色のモヤがかかった自然豊かな場所に居た。遠くに川のせせらぎが聴こえる。嘘のようにすこぶる気分が良い。
ーうむ、あの若武者は誰か? あッ!
「家基様、お久しゅうございます」
「おう豊千代か。もうそろそろ来る頃じゃと思うてな、こうして待っておったぞ」
家基は屈託のない表情で笑っている。
「それがしは家基様にお詫びせねばなりませぬ。心ならずもあなた様に代わって将軍となりました」
「もうよいのだ。それに、一橋治済や田沼意次が余を謀殺したかどうかの是非も、最早かまわぬ。余の命日には欠かさず、そなた自身か、もしくは若年寄を派遣して参詣してくれたではないか。それでよい」
「…かたじけのう存じまする」
「そなたは、子女も多くもうけ、徳川将軍家の血脈を磐石にもした。ま、ちと多すぎた気もするがなア。財政の事も少しは考えよ。次の家慶はさぞ苦労するだろうよ」
「恐れ入りまする。家基様、ときにそれがしはあなた様を羨ましく思っております」
「おう、なぜじゃ。位人臣を極めたそなたに言われるとこそばゆいわ。よい、申してみよ」
「はい、あなた様は若くして逝去なされましたが、お父上やお母上から愛され、家臣からも慕われておりました。逝去されたときの皆の悲嘆ぶりがその証左でございます」
「そなたと余とでは何が違う」
「それがしは、父からは政争の具とされ、政権が長く続いたがために嫡男・家慶をはじめ、もはや家臣も心服しておるようには到底思えぬのです」
家基は手元の扇子を開け閉めさせながら、ジッと空を眺めている。
「それでも、大奥に戻ればそなたを愛する者は多く居るのではないか」
「たしかに、それがしは、多くの女子をむさぼり抱き、子女をもうけてきました。しかし、ある夜、いつものように好いた女子を抱き、床についたときに、ふと気付いたのです。大奥の女子たちは『それがし』を愛しているのではなく『徳川家斉』を求めているのだと」
「ほう、何が違う?」
家基が身を乗り出して尋ねた。
「有り体に申せば、それがしの装飾すべてを剥がしてただの男になったら、あの女子たちはそれがしに構いもしますまい。それがしは今、臨終の床についておりますが、大奥の悲嘆の本質は『それがしの死』そのものではなく、『大御所の死』でございましょう」
「なるほどのう…」
「酒も山海の珍味も食してしまえば、あとには何も残りませぬ。官位や金銀とて死ねば何にもなりませぬ。即ち、それがしは、それがしは、空しい…」
「ハハハ、豊千代。人間はの、身一つで生まれ苦しみ、そしてやがて死ぬ。ただそれだけのことじゃ。権力や権威、金銀なんぞはオマケにすぎぬ。煩悩じゃ。それを悟れ」
「は、はい…」
「だがな、豊千代。いや、家斉公。冥土から見ておったがの、そなたは間違いなく大きな仕事を果たしたぞ。我らが祖・神君家康公は、民の平安のために幕府を開かれた。そなたの治世およそ50年間はすこぶる平和で、民の暮らしぶりは格段に良くなった。その証拠が文化の興隆じゃ。経済が安定してこそ文化は栄えるからの。大手柄じゃ。即ち、民の平安を築いたそなたは、その存在だけで素晴らしいのだよ」
その刹那、家斉は、自らを覆い、そして苦しめてきた黒い憑き物が落ちたような気がした。
「さ、そろそろ共に参ろう。皆、むこうで待っておるのだ」
「はいッ」
そうか、これで良かったのだ。そう思えたとき、ふと笑みがこぼれた。最後の最後に良い正月を迎えることができて幸せだ。


「大変だ!大御所様が身罷っておられる!」
「しまった、最期の瞬間に誰もついておらなんだのか!侍医さえも御側におらなんだとは、どういうことじゃ!」
幕閣は血相を変えて大慌てであったが、ひとり家斉の顔は穏やかであった。享年69。

もう何の鳴き声も聞こえてこない。オオタカは遥か遠くに飛び立ったらしい。
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