第2話 沃野行き

文字数 2,447文字

 手の中に収まる青年たちの旅と音楽。わたしは憂いを抱えながら旅をする彼らが大好きだ。『青年は荒野を目指す』は高校生の時から読んでいる愛読書。受験勉強の重圧から逃れるように行った本屋でこの本とは出会った。きっちりと本棚に並べられ、背表紙しか見えない状態なのになぜかわたしの視線を捉えて離さなかった。まずタイトルがいい。青年は荒野を目指す、青年は荒野を目指す、何度でも口ずさみたくなる。裏表紙のあらすじをざっと読んで「ふうん、旅、か」と思わず小さな声で呟いてしまったことも昨日のことのように覚えている。それなりに読書はしてきたけれどこんなに何度も読み返している本はこれだけだ。

 ページを捲る。少し埃っぽい紙の匂いがふわりと、バスに染みついた人間の匂いをかき消してくれる。本を支える指先に表紙のざらりと乾いた感じが伝わってくる。買ったばかりのころは真新しかったのに、何年もかばんに入れて持ち歩いているものだからすっかりぼろぼろになってしまった。それでもこの表紙が痛んだ分だけ、わたしは彼らと旅をしたのだと思うとたまらなく愛しい。仕事に忙殺される日々でも彼らと会う時間だけは嫌なことを忘れることができる。

 ふと、視界の隅で流れていく景色がいつもと違うような気がして、ばっと飛び跳ねるように顔をあげる。なんだかいつもより緑が多い。いつも見ている景色はもっとコンクリートの、灰色だったはず。

 バスの真ん中らへんの乗車口の、すぐ後ろの二人席。その窓から見える景色はやはりわたしの知らない場所だった。そういえばバスを待っている間も本を読んでいて、来たバスに人並みに流されて乗車したのでろくに系統番号を確認してなかった。乗るバスを間違えたのかしら。今日は珍しく早く退社できて、まっすぐ家に帰って好きなだけ眠ろうと思っていたのに。ため息が口からこぼれ落ちる。
 帰ろうにもここがどのあたりだかさっぱりわからない。携帯は圏外。景色を見るに山のあたりなのは間違いなさそうだ。気が付かないうちにずいぶんと遠くに来てしまったみたい。

 窓の外は道幅の広い、ひたすらにまっすぐな道が続いている。濃紺の夜にぽつりぽつりと光る街灯が木々の緑を照らし、するりとわたしの後ろに消えていく。路線バスで行けるような距離にこんなにも緑豊かな場所があったんだ。長年住んでいても知らないことは多い。せめて駅名が分かればと思っても目が悪いのに、眼鏡もコンタクトも苦手なわたしは駅名の表示がぼやけてしまってうまく読めない。突然、郷里を離れる寂しさと流れていく知らない土地への好奇心がごちゃ混ぜになって襲ってきた。産まれた時からずっと同じ街で暮らしているわたしにはとても新鮮は感覚だ。

 がたり、とバスが揺れたはずみに、表紙の破けた所が指先に引っ掛かかる。視線を手元に戻すと、表紙に描かれたトランペット吹きの青年と目が合う。そうだ、いつかわたしも旅がしたいと思っていたんだ。この本を初めて読んだとき、わたしも旅がしたいと成長途中の心を躍らせた。女の子だって旅をしていいじゃないか、と。しかし現実は厳しい。旅などすることもなく、受験戦争に参加し、笑顔を張り付けて就職氷河期を乗り越え、いつの間にか大人になってしまった。時を経て願いをかなえることができそうな予感に、心があの頃の軽さに戻っていく。降りて反対向きのバスに乗り換えようと思っていたけどやめた。ほんの数時間遅く帰ったって、いつもの帰宅時間よりは早いんだから。

 わたしを少女に帰してくれる旅が、始まった。

 ぐるりとあたりを見回す。真ん中の席からは車内の様子がよく見えた。乗客はわたしを入れて四人。制服を着た高校生らしき男の子と、頭のてっぺんが禿げてるおじさん。派手な化粧をしたおねえさん。みんな一様に窓の外を悲しそうな、寂しそうな表情で見つめている。  
  
 こんなに、この世のものとは思えないほど綺麗な景色なのに。どうしてみんなそんな表情をしているのだろう。両手に持ったままの本を閉じて、窓の下の出っ張った所に左肘を乗せる。手のひらの上に顎を乗せると胸元の赤いスカーフが揺れた。わたし、制服なんて着ていたかしら。気が付けばひっつめにしていた長い黒髪も、耳の下できれいに三つ編みになっていた。これはわたしが高校生のときの格好そのもの。心だけでなく体も少女に還れたんだ。思わず口の端がきゅっと上がった。

 バスは街灯に導かれるように夜を駆け抜けていく。亡霊のように浮かび上がったバス停に大きなお腹を抱えた女の人が立っていた。バスは止まり、女の人は乗車する。入れ替わるように制服を着た男の子が、背中に楽器ケースを背負って降りる。
 バスを降りた男の子は振り返って、じっとわたしを見た。窓越しに視線が交わる。ぼやけて上手く見えないけれど、わたしを見る瞳は夜よりも暗い、海の底のような真っ暗闇なような気がした。あなたはわたしのことを知っているの? どうしてそんな、憂いに満ちた目でわたしを見るの? 男の子の薄いピンク色の唇がほんの少し開かれて、すぐにきゅっと固く閉ざされた。目元が光った気がしたけれど、それもきっとバスのライトが窓に反射しただけ。

 バスは再び動き出す。男の子の姿はすぐに濃紺に消えていった。颯爽と駆け抜ける景色を見ているとなんだかすべてがどうでもよくなってくる。男の子のことも仕事のことも、なにもかも。
『青年は荒野を目指す』に登場するプロフェッサーと呼ばれる老人の言葉を思い出す。

「人生は何度でも新しくなる。青春は、その人の気持ちのようで、何回でも訪れてくるんだよ」

 そうだ。人はやり直せる。このまま遠い所に行こう。わたしの人生はわたしの物なんだから。やっとそのことに気が付くことができた。わたしの青春はいまこの瞬間から始まるんだ。 
 旅はいい。心に新しい風を吹かせてくれる。わたしはどこへ向かうんだろう。このバスは、どこへ向かうんだろう。
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