第3話 荒野行き

文字数 2,402文字

 澄んだ空気が頬を刺す。木枯らしがコートの隙間を駆け抜けて僕の体温を奪っていった。両の掌に収めた物語から顔を上げると、曇った冬空の奥で沈みかけの太陽が僕を見ていた。  
 バス停のベンチ。ここはいろいろな人が集まる。買い物袋を提げたおばあちゃん。スマートフォンを熱心にいじる女子高生。仕事帰りのサラリーマン。様々な人が目的地に運んでもらうために集まる。

 バスが止まる。僕はそれには乗らず、乗車する人と、どこかへ走り去っていくバスの後ろ姿をただ見ていた。
 もう何本のバスを見送っただろうか。まだ太陽が南にあった時間からずっとベンチに腰掛けて『青年は荒野を目指す』を読み、バスが来るたびに顔を上げて、ただ見ていた。

 僕はバスに乗れない。高校生の時にバス事故にあって以来、怖くて乗れないのだ。居眠り運転のバスが停留所に突っ込み、死傷者が多数出た。あれから六年たった今でも「バス事故」で検索をかけると上位に表示される程度の大事故だった。僕はそのバスに乗っていて、標識がひしゃげる瞬間も、人がぐにゃりと曲がり、血飛沫が舞う瞬間も見た。そして、あの人が潰れる瞬間も。
 あの人。朝、僕が学校へ行くバスに必ず乗っていた人。

 僕は吹奏楽部の朝練のために結構早いバスに乗っていたのに、あの人はいつも目の下に紫色のクマを作って、スーツを着て朝早くから出勤していた。つまりはただ同じバスに乗り合わせるだけの人。彼女は僕のことなんて知らなかったと思う。だっていつもバスの中で『青年は荒野を目指す』を読んでいたから。

 当時の僕はそれがジャズの道を志す青年の旅物語である、と言うことは知っていたけれど読んだことはなかった。僕はサックス吹きで、ジャズももちろん好きだ。当時は吹奏楽をしていたけれど、卒業したら本格的にジャズを初めて、いつかはジャズミュージシャン。そんな夢すら抱えていた。けれど、いや、だから小説を読む暇があるならサックスに触っていたかった。

 あの人の骨ばった細長い指がぼろぼろの小説のページを捲る。窓越しの朝陽を浴びて青く輝くひっつめの黒髪。手元の文字列を追う少女のような瞳も朝陽を反射して輝いていた。彼女は僕よりも先にバスを降りる。本を閉じてバスを降り、職場へと向かう彼女はまるで自ら墓に向かう死者のようで。そのギャップにも幼い心は興味を惹かれていた。

 友と楽器を鳴らし、語らいあっていた僕の日常。その中の、朝のほんの数十分だけいるあの人に当時の僕は、僕も知らずのうちに恋をしていたのかもしれない。だからあの事故の日、部活を終えて乗ったバスから彼女の姿を見つけた時はなんだか嬉しかった。夜に同じバスに乗ることなんて今までに一度もなかったから。あぁ、あの人は帰りもあの本を読んでいるんだ、とか、もしかして運命なんじゃない? なんて、子供じみた気持ちだった。
 
 バスが妙な揺れ方をしているのにはなんとなく気が付いていた。揺れている、というか蛇行しているような。おかしいとは思ってもまさか、運転手が居眠りをしているだなんて思いもよらなかった。
 止まるべき所に近づいているのにスピードが落ちないバス。停留所に突っ込む瞬間、あの人は笑っていた。自身を押し潰そうとするバスのライトが希望の光だとでもいうように、祝福の光を見つけたかのように。とても嬉しそうに。

 少しずつ事故の記憶も薄れ、赤と黒に染まった世界もぼんやりとしてきたけれどその笑顔だけはいまも脳裏に張り付いて離れない。
 あの人が笑ったまま押し潰されると同時に僕の体も車内に叩きつけられ、視界は真っ暗になった。その時に僕の淡い恋心も、バスに押しつぶされてしまったのだろう。

 次に目覚めた時は病院の集中治療室。被害者は病院へ運ばれたあと次々に亡くなった。結局、集中治療室に運ばれた被害者で一般病棟に移れたのは僕だけだった。亡くなった中には妊婦さんもいたらしい。
 僕が一般病棟に移った頃にはメディアはもう別の事件の報道をしていた。彼女の死亡が報じられたニュースはすでに過去のもので、そのニュース記事で僕は初めて彼女の名前を知った。ニュースに出てきた卒業アルバムの彼女はきれいな黒髪をきっちり三つ編みにして、まだあどけない笑顔をカメラに向けていた。学生の頃の彼女には会ったことがないのに、僕は確かに、胸元に赤いスカーフを垂らしたこの少女に会ったことがある。けれど、どこで会ったのか、いまでも思い出すことはできない。

 僕にサックスを買ってくれた元売れないジャズミュージシャンの父は生きているだけで儲けもんだと言った。ほんとうにそうなのだろうか。あんなに淀んだ瞳をして、本の中の旅にだけ救いを求める。それが大人の姿なのだとしたら僕はなりたくない。

 それでも、時計の針はかちかちと時を刻む。僕は大学生になり、次の春から社会人になる。ずっと乗れなかったバスは会社に通うために乗らなければならない。トラウマ克服のために今日、わざわざ「青年は荒野を目指す」を買って、ここにいる。
 排気ガスをまき散らしながら、再びバスが僕の前に止まる。人々を乗せ、運ぶ鉄の凶器が僕に、乗るのか? 乗らないのか? と聞いてくる。

 オレンジ色の冬空の向こう側からは藍色の夜がやってきていた。今日も、「青年は荒野を目指す」も、終盤に近付いている。主人公はこれからアメリカを目指すための船に乗る。僕も、行かなければ。

 震える足で乗り込んだバスの中は記憶の中よりも狭くて、埃っぽい。乗車口のすぐ後ろの二人席に腰を下ろして窓の外を眺める。動き出したバスは颯爽と黄昏を駆け抜けていく。コンクリートに囲まれた灰色のこの街が、薄茶色の乾いた大地に見える。植物の育たない大地を進む旅が、始まってしまった。僕はどこへ向かうのだろう。このバスは、どこへ向かうのだろう。
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