的士司机
文字数 2,000文字
四月末の広州は大荒れで、連日フライトキャンセルだった。知り合い四人連れは上海の空港で三日過ごしたうえ陸路に変更したらしい。
俺は六時間遅れの羽田出航で済んだ。片道五時間の直行便。窓側だからビールは飲まない。深夜0時過ぎに到着し、1時前には入国できた。現地会社のスタッフであるケイちゃんが待っていてくれた。
「ここで八時間過ごしました」
彼女は日本語で屈託なく笑う。この国の人の半数はピュアな笑みだ。怒りがピュアなのも知っている。
「ホテルまでどれくらい?」
「一時間ちょっとです。コーヒーどうぞ」
海外出張でも痩せない一因である甘い液体を渡される。ビールがよかった。
「明日の朝は何時?」
「八時三十分にしましょうか。ケイは社長さんを送ってから自分のホテルに向かいますので、のんびりしたいです」
「九時半にしない?」
「のんびりしすぎです」
深夜のタクシー乗り場は空いていた。雨もやんでいたけど雲は異様に低い。
「広州の運転手はずるいので、三倍の値段を請求してきます。気をつけましょう」
福建出身のケイちゃんが運転手に聞こえる声で告げる。もちろん日本語。
「昔はもっとひどかったよ。ここに住む朝鮮族の人は、助手席に乗らなかったら知らない場所に連れていかれた。逃げだせたけど、知ってる町へ戻るのに半日かかったらしい。金払えばよかっただって」
誇張ではないだろう。この国は時間と距離と危険への感覚がおかしい。
「スマホがない時代ですね。いまは現在地を発信してますし、緊急を知らせるアプリもありますのでご安心ください」
今年三十の若いケイちゃんが笑う。タクシーが出発する。
この国は来るなりいつも緊張させる。乗車したタクシーがそれを思いださせてくれる。
「メーターを見てください。すごいです」
隣に座る女の子の声にまどろみから覚める。
時速160キロメートルだと?
教えてほしくなかった。道はまだ濡れているのに三車線を縫う。更に加速して低速レーンから追い越す。はずれに当たった。
公道レースはガソリン車に限るねなんて感心できない。中国は管理されているので速度違反できませんと自慢したのは、隣にいる子のはずだが。
「深夜だからです。おかげで早く到着します」
まさに広州の高速道路で大規模崩落事故が起きたのは帰国した直後だった。その間は断続的な土砂降りで、膝ぐらいまで浸水した道を備え付けの傘で走る電動バイクを、食堂から眺めたりした。フライトは麻痺したままで新幹線移動に変更。そこからスケジュールはぼろぼろだった。
*
労働節前日に一旦帰国する。キャンセル全額没収の便なので、これ以上予定変更できない。ケイちゃんとボスと厦門で別れて、単身で上海行き国内便に乗る。行列に割り込むおばさんはどこにでもいる。
空港からホテルへはタクシーしかない。でもスクショと翻訳アプリとニーハオだけでコミュニケーションが済ませられる。便利な世になった。
チェックイン後に時間が余りまくるよな。動物園まで徒歩四十分なら本場のパンダを見に行こうかな……。道路脇に停車したぞ。運転手が振り向いたぞ。
『私は三時間も並んだのに、このホテルは近すぎる。もっと遠くで降りてほしい』
今の時代の上海で、こんな言葉が訳されると思わなかった。
『私は日本人です。帰れないのでホテルに送ってください』
運転手はスマホ画面を確認したあと、あらためて出発する。ずっとため息だらけ。どこに連れていかれるか不安だったけど、無事ホテル前で停まる。
『近いから50元にします』
メーターは倒れていた。上海の相場は知らない。
『40元にしてください』
運転手はため息ながらスマホ決済に応じてくれた。
久々ガチに緊張。昼からビールを飲んでしまう。
翌朝、ロビーにいる白タク運ちゃんと価格交渉。30元で大喜びだった。朝から飲みたくなった。
***
連休明け再度の出張で、江蘇省の奥へとタクシーで向かう。放し飼いの鶏。尾を振ってまとわりつく犬たち。道端でザリガニの皮を剝く親父。まさかの路上の羊。
帰りも同じタクシーだった。遅い昼飯を済ませていたそうだ。
いつしか車窓は延々と広がる小麦畑で、その上を鳥が低く飛んでいる。
「カササギだ」
「知らないです」ケイちゃんはすぐにスマホで調べる。「鵲橋だ。ご存じですか?」
中国の七夕ではカササギが織姫と彦星の橋になると、俺の隣で教えてくれる。……白黒の鳥。お題のネタに使えるかな。
今回のドライバーは運転が荒くないが、ひたすら長くて狭い一本道でも譲りあわない。互いに無理矢理すり抜ける。
「明後日もう帰国ですね。戻ったら何をしたいですか」
「日本酒を飲みたい」
麦畑は続く。地面に腰かけてそれを眺めるお爺さんがいる。犬が隣に座っている。
「お土産はマオタイです。そちらもすぐに飲んでください」
もちろんですとも。
また二人は別々に窓の外を見る。麦畑はまだ続いている。
俺は六時間遅れの羽田出航で済んだ。片道五時間の直行便。窓側だからビールは飲まない。深夜0時過ぎに到着し、1時前には入国できた。現地会社のスタッフであるケイちゃんが待っていてくれた。
「ここで八時間過ごしました」
彼女は日本語で屈託なく笑う。この国の人の半数はピュアな笑みだ。怒りがピュアなのも知っている。
「ホテルまでどれくらい?」
「一時間ちょっとです。コーヒーどうぞ」
海外出張でも痩せない一因である甘い液体を渡される。ビールがよかった。
「明日の朝は何時?」
「八時三十分にしましょうか。ケイは社長さんを送ってから自分のホテルに向かいますので、のんびりしたいです」
「九時半にしない?」
「のんびりしすぎです」
深夜のタクシー乗り場は空いていた。雨もやんでいたけど雲は異様に低い。
「広州の運転手はずるいので、三倍の値段を請求してきます。気をつけましょう」
福建出身のケイちゃんが運転手に聞こえる声で告げる。もちろん日本語。
「昔はもっとひどかったよ。ここに住む朝鮮族の人は、助手席に乗らなかったら知らない場所に連れていかれた。逃げだせたけど、知ってる町へ戻るのに半日かかったらしい。金払えばよかっただって」
誇張ではないだろう。この国は時間と距離と危険への感覚がおかしい。
「スマホがない時代ですね。いまは現在地を発信してますし、緊急を知らせるアプリもありますのでご安心ください」
今年三十の若いケイちゃんが笑う。タクシーが出発する。
この国は来るなりいつも緊張させる。乗車したタクシーがそれを思いださせてくれる。
「メーターを見てください。すごいです」
隣に座る女の子の声にまどろみから覚める。
時速160キロメートルだと?
教えてほしくなかった。道はまだ濡れているのに三車線を縫う。更に加速して低速レーンから追い越す。はずれに当たった。
公道レースはガソリン車に限るねなんて感心できない。中国は管理されているので速度違反できませんと自慢したのは、隣にいる子のはずだが。
「深夜だからです。おかげで早く到着します」
まさに広州の高速道路で大規模崩落事故が起きたのは帰国した直後だった。その間は断続的な土砂降りで、膝ぐらいまで浸水した道を備え付けの傘で走る電動バイクを、食堂から眺めたりした。フライトは麻痺したままで新幹線移動に変更。そこからスケジュールはぼろぼろだった。
*
労働節前日に一旦帰国する。キャンセル全額没収の便なので、これ以上予定変更できない。ケイちゃんとボスと厦門で別れて、単身で上海行き国内便に乗る。行列に割り込むおばさんはどこにでもいる。
空港からホテルへはタクシーしかない。でもスクショと翻訳アプリとニーハオだけでコミュニケーションが済ませられる。便利な世になった。
チェックイン後に時間が余りまくるよな。動物園まで徒歩四十分なら本場のパンダを見に行こうかな……。道路脇に停車したぞ。運転手が振り向いたぞ。
『私は三時間も並んだのに、このホテルは近すぎる。もっと遠くで降りてほしい』
今の時代の上海で、こんな言葉が訳されると思わなかった。
『私は日本人です。帰れないのでホテルに送ってください』
運転手はスマホ画面を確認したあと、あらためて出発する。ずっとため息だらけ。どこに連れていかれるか不安だったけど、無事ホテル前で停まる。
『近いから50元にします』
メーターは倒れていた。上海の相場は知らない。
『40元にしてください』
運転手はため息ながらスマホ決済に応じてくれた。
久々ガチに緊張。昼からビールを飲んでしまう。
翌朝、ロビーにいる白タク運ちゃんと価格交渉。30元で大喜びだった。朝から飲みたくなった。
***
連休明け再度の出張で、江蘇省の奥へとタクシーで向かう。放し飼いの鶏。尾を振ってまとわりつく犬たち。道端でザリガニの皮を剝く親父。まさかの路上の羊。
帰りも同じタクシーだった。遅い昼飯を済ませていたそうだ。
いつしか車窓は延々と広がる小麦畑で、その上を鳥が低く飛んでいる。
「カササギだ」
「知らないです」ケイちゃんはすぐにスマホで調べる。「鵲橋だ。ご存じですか?」
中国の七夕ではカササギが織姫と彦星の橋になると、俺の隣で教えてくれる。……白黒の鳥。お題のネタに使えるかな。
今回のドライバーは運転が荒くないが、ひたすら長くて狭い一本道でも譲りあわない。互いに無理矢理すり抜ける。
「明後日もう帰国ですね。戻ったら何をしたいですか」
「日本酒を飲みたい」
麦畑は続く。地面に腰かけてそれを眺めるお爺さんがいる。犬が隣に座っている。
「お土産はマオタイです。そちらもすぐに飲んでください」
もちろんですとも。
また二人は別々に窓の外を見る。麦畑はまだ続いている。