第1話

文字数 1,989文字

 彼女と私は同じ仕事場で働いていた。豆腐屋。かなりの肉体労働。その時の作業は、私の手が届くか届かないかという高さから、大きな重い大豆の袋を台車に降ろし、水に浸す場所まで運ぶ、というもの。背が低い上に腕力に自信のない身には、無理に思えた。
 私は、ちょうど通りがかった、背が高く、若く、力の強い彼女に「すみませ〜ん、降ろしてもらっていいですか?」と気安く頼んだ。
 けれど、彼女からの返事は
「できるよ。」
 だった。そしてスタスタと行ってしまった。
 私は半ば途方に暮れ、泣きそうになりながら、それでも仕方なく、背伸びしたり、持つところを変えたりして、降ろそうとした。引き摺るような、落とすような、危なっかしいやり方で、その袋は私のお腹あたりを滑りながら、ずん、と音を立て、無事台車の上に着地していた。
 あれ、出来た!と驚いた。出来たことと、自分が力を出したことの両方に吃驚していて、そしてとても嬉しかった。以来、身体がコツを覚えたのか、心が強くなれたのか、高いところも重いものも怯まなくなった。
 子象の頃に杭に繋がれ、何度抵抗しても外せなかったせいで、そんな杭など引っこ抜ける力を持った大きさに成長しても、逃げようとしない象の話を聞いたことがある。学習性無力感というらしい。
 学習性無力感があるなら、学習性有力感もあるはず、との研究が進んでいるそうだ。まさに彼女は、学習性無力感に侵されていた私に、人間には潜在的に力があって、それは出せると、有力感を体感させてくれたのだ。
 彼女は豆腐屋バイトを何年も続けている先輩で、早朝仕事も身体の冷える豆腐切りの仕事も難なくこなしているように見えた。寒い、きつい、揚げを作った時の火傷が痛い、と仲間たちが口々に愚痴を言う中、彼女はいつも風のように素早く担当の部署に行き、確実に終わらせ、そそくさと帰って行った。
 彼女には豆腐屋として独立する夢があったからだ。「大豆は地球を救う」が信念。「人工授精でいつも妊娠状態、せっかく産んだ自分の子牛には牛乳をあげられず、人間のために搾られ続ける牛たちの辛さ、ステーキやすき焼きの美味しさのために殺される牛たちの恐怖を、一匹分でも少なくしたい。」と話してくれたことがある。「牛のお尻の健康的なセクシーさが大好き」と愛おしそうに言っていた。
 その夢のために、コツコツと続けていた生活。社長に頼んで、豆腐屋で大量に廃棄されるおからの一部を譲り受け、仕事後の調理場を借りておから製品を作る。おからクッキー、ケーキ、おからハンバーグ、ペットフードなど作って保存。休日に、自分の車に載せ、ご近所を回って販売する。開業資金は少しずつ堅実に貯金されていた。
 重い大豆袋を首尾よく降ろせた体感は、私に小学校の頃の「逆上がり」を思い出させた。誰かがくるりと上手に鉄棒に上がる姿を見ている。自分もしたくなる、しようとする、失敗する、何度か挑戦する、応援してくれる人やいろいろ教えてくれる人もいる、そしていつか、自分もくるりと回って鉄棒の上に、鳩のように乗っている。景色が違う。出来た!という感覚。
 それまでは知らなかった、初めて味わう瞬間。全身と心が「逆上がり」に向けて集中した結果の出来事。
 彼女が夢を追いかけ、努力している姿を見ていても、彼女は特別だ、私には無理、と思っていた。でも、そう思いつつ、日々影響を受けていたのだ。「できるよ。」に応えたということは。
 「出来ないのはやらないからだ、やってるうちに出来る自分に、身体も心も成長していくんだぞ、面白いぞー」と、口にはしなかったけれど、毎日の努力する姿勢はこちらにちゃんと伝わっていたのだ。彼女だって、落ち込む時や、めげそうな時はあるはずだ。「できるよ。」と自分を励まし、前を向いてきた。その言葉の力は彼女自身ががいちばん知っていたに違いない。
 あれから7、8年経った。私もようやく夢を追いかける生き方を始めている。その最初の体感をくれた彼女は、私には決して忘れることの出来ない友達だ。これから、もしも、自分の価値に気づけず、勇気を出せないでいる友達を見つけたら、タイミングを見計らって「出来るよ」と声をかけたい。あなたは人間っていう可能性の塊の生き物だよ、と。次々つながって、夢に向かって生きる幸せな人が増えますように、と祈りながら。
 
 追記します。彼女の名前は、漢字一文字で“海“さん。ウミではなく、カイと読む。女だからとか男だからという差別や偏見から自由なようにと、ご両親が付けてくださったそうだ。で、海さんは目出度く開業を果たし、海のそばの小さな町で喫茶付きの豆腐店を営んでいる。週に2日は店舗、3日は宅配と、相変わらず堅実に営業している。近い将来、牛を飼って、土を耕してもらい、大豆畑にする計画があるらしい。よろしかったら、ご紹介しますよ。ぜひ、お訪ねください。

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