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文字数 1,238文字

 篤史と再会したあの日を境に、楓は何と言うこともないシデカシをするようになった。

 出掛けるときに車の鍵を忘れたり、ゴミ出しの曜日を間違えたり、ずっと手帳に挟んであった、恩師からもらったブランド物のボールペンをなくしたりした。部屋もよく散らかるようになった。

 部屋の真ん中で膝を抱えて、今までの暮らしは、本当に、成り立っていたのが奇跡だったのかもしれない、とぼんやりと思った。たった一回、偶然にも昔の好きだった人にあっただけで、こんなにも簡単にバランスを崩してしまうのだから。そう思って落胆もしたが、何となく懐かしい気持ちにもなった。

「楓ってホント、おっちょこちょいだよね」

 高校一年生の昼休み。机を三つ隣接させて、弁当を食べる友人の一人が、ふと、そんなことを口にした。

「別に、そんなことないもん」

 と、返しはしたが、もう一人の友人もそれに大いに共感しているらしく、わかるー、そうそう、と笑っている。

 ことの発端は、楓のちょっとした失敗が原因だった。手提げに入れていた弁当を、通学途中に電車に置き忘れてしまったのだ。こんなことは初めてだった。

 しかも今日に限って、購買部には日替わり弁当しか残っておらず、ハンバーグと揚げ物のスタミナ弁当しか選択肢がなかった。友人たちが持ち寄る、カラフルでこぢんまりとした弁当箱の横で、角張ったお重みたいな弁当をガツガツ食べなくてはならず、顔を真っ赤にしながら黙々と箸を進めた。おいしい。けど、はずかしい。

 それに加えて、今日提出するはずだった宿題も、自室の勉強机に置き忘れてきて、教科担当のオヤジに苦笑されたばかりだった。おでこの広い眼鏡のオヤジに、またか、と。こっちはよくあることだった。だから別に気にしてはいないのだけど。お気に入りの弁当箱を失った衝撃は、この上なく大きかった。家に帰ってから、母親に何て言い訳をすればいいのだろう。

「でも大丈夫。あたし、楓のそうゆうとこ大好きだから」

 あたしもー、と続ける。楓は不服そうにしていたが、ちょっとうれしくもあった。この子たちに認めてもらえるなら、別にいいか、とすら思えた。

 ——窓の外は雨が降っている。飛沫を上げて走る車を眺めながら、あの子たちは、今何しているだろう、と結露した窓を指でなぞりながら思い浮かべる。髪、染めたのかな、仕事頑張っているのかな、結婚したのかな。

 夢であってもいいから、また三人で机を突き合わせて、お昼にお弁当を食べられたらいいな、と思った。おっちょこちょいをしても、そうゆうとこが好き、で、許してくれるような、あの時の雰囲気が恋しくなった。当時はケータイなんてなかったから、今となっては、連絡をとる方法もない。思い出だけが、いじらしく、ちらついている。

 楓は自然とケータイをとり、ある人から聞いた番号を押していた。

 受話器を耳に当てて、数回のコールの後、

「はい、森屋です」

 かしこまってはいるが、ちょっと間の抜けた感じのする恋人の声が、雨の降る音と一緒に聞こえてきた。
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