あるデリヘル運転手の話

文字数 4,191文字

 
 健一は定時制高校を二年で中退した後、六年間働いていたホストクラブの店舗が売掛金の問題で閉店に追い込まれ、勤めるべき仕事がなくなってしまったのだ。大した学歴もなく、人に自慢できる経歴も持っていなかった健一にとって、ホスト以外の仕事を見つけるのは中々苦労があった。友人に何かいい仕事は無いかと色々な伝手を辿ると、高利貸しの店で働いている友人の信也が「一つあるぞ」と答えてくれた。
「どんな仕事だい?」
 健一は信也に質問した。
「デリヘルの運転手。知っている人のお店に一人欠員が出たんだ。車が運転できるなら紹介してやってもいいぞ」
 信也の言葉に健一は少し考えた。ホストクラブで働いていたから女の子を目の前にしても緊張することは無かったが、右から左に流すような経験はなかった。
「いいよ。俺やるよ」
 健一はあまり深く考えずに答えた。細かい事を考えて悩むよりも、自分から動いて何かがしたいという気持ちが強かったのだ。

 三日後、健一は信也が紹介してくれたデリヘルの責任者に会いに行った。繁華街の片隅にある小さな雑居ビルの階段を上がって三階の事務所に入ると、四十代半ばらしい小太りの眼鏡をかけた男が出迎えてくれた。
「君が信也君の紹介にあった健一君だね」
「はい。よろしくお願いします」
 健一は恭しく頭を下げた。どんな業界であっても初対面の人間には礼儀正しく挨拶する。それが今まで健一が生きてきた中で絶対と言えるものだった。
「前はホストをしていたそうだね」
「はい。あまり人気があるキャストじゃありませんでしたが」
 簡単に健一が答えると、小太りの男は表情を変えることなく、事務所の壁にかかっていた自動車のカギを手に取った。堅気とは言い難い業界にいた人間だから、余計な説明は不要なのだろうと健一は思った。
「それじゃあ、さっそくだが仕事に取り掛かってもらうよ、表の駐車場に止めてある白いアルファードに乗って、このメモにある場所に向かってくれ。着いたら事務所へ連絡を入れてくれ」
「わかりました」
 健一が答えると、小太りの男は「頼んだよ」と言ってプラスチックの電子キーと行き先が書かれたメモを手渡した。
 キーを受け取った健一は、事務所が入っている雑居ビルの裏にある駐車スペースに向かい、そこに停めてある白塗りの型落ちアルファードに乗り込んだ。車のコンディションからして中古車を業務用に買ったのだろうと思ったが、健一にはどうでも良いことだった。
 運転席に乗り込むと、健一はスマートフォンのナビゲーションアプリを開き、メモに書かれた住所を入力して、エアコン吹き出し口近くのホルダーに取り付けた後、車を走らせた。入力した住所は以前に健一が何回か立ち寄った場所の近くだったのだが、新しい仕事の関係先があるとは思ってもいなかった。
 たどり着いた場所は何の変哲もない住宅街にあるマンションだった。エントランス近くのスペースに車を停めて、事務所に到着した事をLINEで報告する。事務所から既読の文字が付いて「了解です」という返信が届いた。着信が届いたあと、大きな変化もなく十五分の時間が流れた。手持ち無沙汰になった健一は持ってきた電子タバコを吸おうかと思ったが、乗ってきたキャストの女の子にいきなり文句をつけられるかもしれないと思って、我慢した。
 さらに十五分経つと青いジーンズに黒のダウンコートを着た女が一人、車の方へとやって来た。健一は電動ドアを開けて女を中に入れると、女は挨拶もなしに二列目のキャプテンシートに座った。
「あんた、新人さん?」
 女は運転席に座る健一をバックミラー越しに見て、以外そうな表情で質問した。
「今日からこの仕事をすることになりました。これからよろしく」
「私に何かあったらすぐ来てよ」
「了解です」
 健一はミラー越しに写る女を見つめたまま小さく答えると、スマートフォンを使って女の子を拾った事を事務所にLINEで連絡した。
「彼女を**のホテルKまで送ってください。彼女からNGが出たら連れて帰ってきてください」
 事務所からの返事は女の送り先だった。健一は「了解です」と短くメッセージを入れて目的地に向かって車を走らせた。ホストとして働いていた時と違って、最低限の会話で余計な事をしないのは気が楽かもしれないと健一は思った。
 たどり着いた場所は個人経営の居酒屋などが密集する古い歓楽街の一角にある、年季の入った外観のラブホテルだった。健一は車を停めて「着きました」と事務所に連絡を入れて、後ろの席をまたバックミラー越しに見たが、女は席に座ったまま車から降りようとしなかった。
「何をしているの?行かないの?」
 健一はミラー越しに女に声を掛けた。
「知らないの?最初にあんたが部屋に行って、料金を受け取って私に行くように言うの。変な人だとか、おっかない人だとかだったら困るでしょ」
 健一は女の言う事を聞いて、なるほど確かにそうだと思った。するとエアコン吹き出し近くに取り付けたホルダーのスマートフォンが事務所からの連絡を伝えた。
「相手は三階の三五号室に居ます。まず確認に行って料金を受け取ってください。何か問題があれば、キャストの方を連れて、元の場所に戻ってください」
 LINEのトーク画面は今まで一番長い文章でメッセージが綴られていた。健一は言われたとおりに車を降りて、ホテルへと向かった。
 ホテルに入り指示された客室の前に立つと、健一は呼び鈴を鳴らした。「はい」という低い声の返事がすると、六十代半ばの背の低い男がドアを開けた。
「こんにちは。プレイ料金を頂きます」
「頼んだキャストは?」
「下の車に居ます。料金を受け取った後こちらに参ります」
 健一が小さく挨拶をした後右手を差し出すと、相手の男は無言で四万円を健一に手渡した。ホストクラブで働いていた時の金のやり取りはもっと会話に包まれたものだったから、健一は少し物足りなさを感じた。
「女の子は車にいますから、もう少しお待ちください」
 健一はそう答えて部屋から立ち去ると、車に戻った。車の後部座席では、女がやるせない表情でスマホの動画を視聴していた。
「どんな人だった?」
 女が健一に質問した。
「六十半ばのおじさん。怖くもなければカッコよくもない人だよ」
 健一が答えると、女はやれやれと言った様子で溜息を漏らし、車を降りた。ホストとしていろんな女の表情を見てきた健一だったが、終始不満そうな女の顔を見るのは久々だ。ホテルの扉に消えてゆく女の後ろ姿を見つめながら、健一は複雑な感情の中に一抹の虚しさを覚えずにいられなかった。
 健一は車の運転席に戻り、車についているカーナビでテレビのワイドショーを視聴することにした。くだらない内容の番組を公共の電波を使って垂れ流すなんて、お金と資源の無駄遣いだと思っていたジャンルのテレビ番組だったが、手持無沙汰な待ち時間に視聴すると、意外なほどに都合よく時間が潰れるのは小さな発見だった。無駄な内容に無駄な時間を掛け合わすと、有益な事が起きると錯覚するようになるのは、健一にとって小さな発見だった。
 その小さな発見の喜びを感じながらワイドショーを見ていると、スマートフォンが事務所からのLINEの着信を報せた。何だろうと思って確認すると、次のような文章が綴られていた。
「今日のお客様はNGが出ました。利用規約に従いプレイ料金は返金しなくて良いので、キャストの女の子を連れ戻ってください」
 健一はすぐに「わかりました」と返信を送って車を出た。
 先ほどの部屋に行き、扉をノックした。ドアの向こうで人が動く気配がすると、送り届けた女が服を着たまま扉を開けてくれた。
 女が手も持っていたバッグを健一に差し出したので、健一はそっとバッグを引き取った。するとベッドに腰掛けた男の視線が向けられている事に気づいたので、彼はこう言った。
「お客様はNGが出ましたので、本日はこれにて終了とさせていただきます。なお利用規約に従い、プレイ料金は返金いたしませんのでご了承ください」
「なんで?まだ指一本触れていないんだよ。なんで終了なの」
 男は表情を変えずに、不満そうな言葉を健一に投げつけた。眉一つ動かさずに不満の言葉を話せるという事は、過去に大きなトラブルを起こした人間なのだろうと健一は思った。
「キャストの女の子が嫌がる事をした。それだけで十分です」
 健一はそれだけ答えて、ホテルの部屋を後にした。余計な事をせずに早く終わらせるのが、最も潔く不満が残らないというのが彼の持論だった。
 ホテルから車に戻る途中、健一は女の顔を横目で見た。女の顔は先程のやるせない表情から、口元を硬く結んで苦悶の色を浮かべていた。
「何かされたの?」
 不安に思った健一は女に質問した。
「いろんなこと聞かれたんだよ。私の事とか、何をしていたのとかって」
 女は呻くように答えた。これ以上聞き出すのは気が引けたので何も言わない事にした。
 車に戻って女を拾ったマンションに向かって走り出したが、女の表情は曇ったままだった。気晴らしになると思い、テレビのワイドショーを点けっぱなしにしておいたのだが、今の女には効果が無い様子だった。
「ちょっと、途中コンビニに立ち寄ってもいいかな?」
 健一は女に訊いた。
「良いけれど、何で?」
「ちょっとやりたいことがあるんだ。五分もかからないよ」
 女の言葉に健一が答えた瞬間、すぐ前にマンションの一階に入ったコンビニの店舗を見つけた。健一はハザードボタンを押して車を停車させて、降りた後コンビニの店舗に入って行った。
 車に戻ると、健一は後部座席に座る女にコンビニで買ったペットボトルのサイダーを手渡した。頼んだ訳でもないのに飲み物を手渡された女は意外そうな表情になって、それまで浮かべていた苦悶の表情を消した。
「何で買ってきてくれたの?」
 少し戸惑った様子で女が健一に質問する。
「俺、この仕事をやる前はホストの仕事をやっていたんだ。だから女の子の表情が暗いとさ、失敗したみたいでモヤモヤするんだよ」
 健一が理由を答えると、女の表情から笑みが漏れた。そして「ありがとう」と小さく礼を述べて、キャップを開けて一口のんだ。
「それじゃ、戻ろうか」
 健一はそう答えて運転席に戻った。車を再び走りださせると、今日の仕事は及第点かなと勝手に自己評価した。

(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み