雲の上の花

文字数 1,583文字

空は数日前から暗く厚い雲に覆われ昼間でも夕暮れのように薄暗く、止みそうで止まない雨に大地は濡れそぼっていた。僅かな風の流れでもあれば幾分かマシだっただろうか。
まるでその雲が自分の上にも覆いかぶさっているかのように体も重く、立ちあがるのも動くのも億劫になってくる。かといって寝転がろうにも布団も畳も連日の湿気を吸ってどこか張り付くような気持ち悪い冷たさを感じ、結局いつも通りあの子を探して家の中をうろついている。湿った板張りの廊下が歩く度にわずかに軋む音を立てる。
家の中を一周し、結果的にあの子は見つからず自分の部屋の前に戻ってくるとあの子は庭に面した縁側に庭を眺めながらただ立っていた。何か言う気も端からなく、無言であの子の隣に同じように立ち、同じように庭に目をやる。庭はお世辞にも広いとは言えないが、塀代わりの低木や庭の一角に設けられた花壇に色とりどりの花が丁寧に手入れされた状態で鎮座している。しかし、花たちも連日の雨に打たれ飽きたのか、単に辺りが薄暗いからなのかどこかくすんで見えてしまう。
「雲の上の花は何色に咲くのでしょうね」
あの子は庭に視線をやったままただ湧き出た疑問が口をついて出たといった淡々とした口調で呟いた。
「…多分、この雨と同じ鈍色じゃないかな。そうやって地面に落ちて弾けて初めてあんな色とりどりの花が咲いてくれるんだ」
何となく雲の上の方が綺麗な色だと知ってしまったらあの子がいなくなってしまう気がして、でもそう思っていることを悟られてしまうのもいけない気がして、努めて何でもない風を装った。
「もし空を飛べたら雲の上まで行けるのに」
あの子は答えを聞いても視線を庭からこちらに移すことはなく、どこか残念そうに未だ厚みを保ったままの曇天を見上げる。

その日の晩に夢を見た。
どこまでも広がる空の中で純白の雲海を眼下に望んでいる。夢特有のぼんやりとした直感がちょうど真下辺りに自分の住んでいる家があるのだと教えてくれた。
煌々と照らされた雲の上には雲と同じ色の花弁の花が幾千、幾万と数えきれないほどに咲き乱れ、光を受けて降り積もったばかりの雪のようにきらきらと輝いている。地上の花も綺麗で好きだけれど、やっぱりこの透き通ったような白が一番だと思う。
そこへどこからともなく蝶が一匹現れた。忙しなく羽ばたかせる翅は玉虫色で、動く度に色が変わっていく。蝶は純白の花畑を飛んで回り、そのうちの一輪に止まる。翅をゆっくりと羽ばたかせながら蜜を吸い、また飛び立っては近くの花にとまる。それを繰り返すうちに玉虫色だった翅は徐々に色が薄くなり、白くなり、ついには花と同じ色になった。
あの子だ。ふいにそう感じた。あの子が蝶になって雲の上まで来たのだ。蝶は目的を果たしたのか、来た方向とは逆の方向へ飛び去って行く。呼び止めようにも声が出ない。手を伸ばそうにも両手がない。追いかけようにもここから動けない。あの子が行ってしまう、という焦りだけが先走り、結局蝶は遠ざかり、雲に溶けてしまった。

ふ、と意識が夢から覚醒に切り替わる。目を開けるとそこは広大な青い空もなく、真っ白の雲海もなく、ただの見慣れた赤茶けた木目の天井だけがあった。右手側にある障子から透けてきた柔らかな光がうっすらと天井を照らし、上体を起こして目をやると昨日とは打って変わって仄かに温かく、格子状の影が畳に伸びている。
布団から出て障子を開けると遮るものがなくなって部屋が更に少し明るくなり、そよ風が頬を掠める。部屋の前の縁側に出ると空にはあれだけ覆っていた厚い雲は跡形もなく、どこまでも突き抜ける青が広がっている。まだ花弁や葉に残る雨粒は太陽に照らされてより一層それらの色をきらきらと輝かせている。
それでもあの子は行ってしまった。雲の上に咲く花の間を飛び回って、雲と同じ色になって、もうここに戻ってくることはない。
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