蜃気楼

文字数 2,427文字

その花壇には色とりどりの様々な花が咲く。一枚の花弁にさえ色が夥しくひしめき合い、一枚ごとにその色模様も違う。いつ廃墟になったのか分からないほど朽ち果てた木造一軒家の庭の隅。赤茶けたレンガを交互に組み合わせて数段積み上げたようなものではなく、枠を立てセメントを流し込んだだけのようなのっぺりとした味気ない灰色の縦一メートル、横三メートルの長方形。その中に咲く歪なまでに極彩色の花々。

ネットのどこかで読んだのか、はたまた誰かから聞いたのか、幽霊も怪奇現象もなくただ廃墟に佇む花壇の話。話自体の背景も漠然としていて怪談というにはあまりにもお粗末だと言わざるを得ない。中には花壇を見に行った人物がその後行方不明になったという話もあるらしいが関係あるのかどうか判断材料は皆無に等しい。
それでもその家に行ってみようとなったのは能城がその話の家を特定したから行って真偽の程を確かめてネットに書き込もう、と何かの話の流れで何となくそう決まった。
肝試しというよりはネット上でほんの僅かでも注目を集めたいという承認欲求から来たものかもしれない。

電車を最寄り駅で降り、そこから歩いて目的地である家を目指す。道中、一人の老人とすれ違う。能城と戸方は特に気にする素振りもなくどういった形式でネットにあげるかを語り合っていた。二人の後ろを何を考えるでなくついて行き、同じようにその老人とすれ違うことに特に何も感じていなかった耳に、その老人のものであろうしゃがれた呟きが滑り込んでくる。
「……だから花を折ってはならない。折ったらお前を花にする」
今自分たちがどこに、何をしに行くのか知っているかのような言葉に思わず今しがたすれ違ったばかりの老人がいるであろう背後を振り返る。しかし、そこには見晴らしのいい道があるだけで老人の姿はなかった。

「マジで花咲いてんじゃん、すげー!」
「カラフルすぎて目がいてぇー」
どうせなら明るいうちの方が証拠集めも楽だろうと件の家に着いたのは昼過ぎだったか。放置され伸び放題の生垣に囲まれた庭の隅に目的の花壇があった。所詮作り話だろうと高をくくっていた能城と戸方は実在したのだと確認したことで興奮した足取りで花壇に走り寄る。その後ろをのろのろとついていき、二人から少し遅れて花壇の前に立つ。花壇に咲いている花は花を植える際の適正な間隔は全く無視をした過密さで、それぞれの色も相まって遠目にはモザイク画のようにも見える。真夏の空よりも濃い青と自身の茎や葉より濃い緑がマーブル模様を描く花弁のチューリップ、曇天の厚い雲を思わせる暗い灰色の濃淡が水墨画の様に滲んだ花弁のマーガレット、縁から順にピンク、オレンジ、イエロー、グリーン、ブルー、パープルの蛍光色が虹の様に並んだ花弁のバラ。もし、この光景を又聞きしたのなら色水を吸わせたんだろうとか、絵の具の類を塗っただけだろうとか、果てには造花を植えただけだろうとか言えただろう。しかし近くでまじまじと見れば花弁の花脈だけでなく花弁全体が無作為にそれらの色で染まっており、透明感も感触も匂いも生花独特のものであった。

庭に面して向かいに縁側があり、縁側を挟んで障子で仕切られた和室が見える。花壇の前で写真を撮り合う二人を尻目に家の方に近づく。軒先には屋根から落ちて粉々に割れた瓦が、畳の上には劣化によって倒れた障子と一部が剥がれ落ちた天井の木片とが散らばっている。靴のまま縁側に上がると風化した板が今にも踏み抜いてしまいそうに軋む。長い間日光に晒されたせいか障子紙は変色し破れ、畳も日光の当たる部屋の手前側と常に陰になる奥側では色が違っている。部屋の中には持って行ったのか持っていかれたのか家具という家具は何もない。障子の向かいに押し入れであろう赤と白の梅の木が描かれた襖、両側は白い土壁になっている。総じて風化している。
「うわっ!なん…おい、能城!」
背後で戸方の声がして振り向くと花壇の花と花の隙間から二本の骨と皮だけの細い腕が突き出し、能城の脇の下にその手を入れ、まるで幼子を抱き上げるように持ち上げている。能城は声も上げず、身じろぎすらせず、両手足をだらりと垂らし項垂れている。能城の足元には一本のチューリップが手折られた状態で落ちている。両腕は間髪入れず、しかしごく自然な流れる動作で我が子を抱き寄せる親の様に、能城を頭から花壇に向かって引き込む。慌てて花壇に駆け寄る。花壇とはいえ土や細かな石で形成された地面があるはずのその場所に引き込まれる瞬間、地面に体がぶつかる音、無理矢理引きずり込まれる音、物質と物質がぶつかり合った時に物理的に生ずるであろう音が一切なく、あんなに密集していた花も折れるどころか花弁一枚散っていない。
「ここの花たちはあの子が帰ってきてくれるように咲かしているんだよ」
しゃがれた声が背後から聞こえた。

あれからどうやって帰ってきたのか分からない。気が付いたら家の最寄り駅のホームに戸方と立っていた。どうやってあの家に行ったのか分からない。確かに電車に乗って、駅で降りて。駅の名前は何だっけ。どの角を曲がったんだっけ。真っすぐだったっけ。朽ち果てた瓦屋根と天井と土壁と障子と縁側と毒々しいほどに色が寄せ集まった花壇の花。あの家の光景は鮮明に思いだせる。乗った駅も電車に乗っていたことも思い出せる。能城と戸方、すれ違った老人の姿も思い出せる。でも降りた駅やあの家までの道のりがすっぽりと抜け落ちて思い出せない。前を歩く能城と戸方も、前から歩いてくる老人も真っ白の中を歩いている。老人の言葉に振り向いた先は真っ白な空間。白。朧げですら思い出せない。
あの腕は何だったのか。あの老人は何者だったのか。能城はどうなったのか。どこに行ったのか。あの家はなんだったのか。あの子とは誰なのか。

「ここの花たちはあの子が帰ってきてくれるように咲かしているんだよ。だから花を折ってはならない。折ったらお前が花になる」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み