第4話

文字数 10,180文字


 東川署の刑事部屋へと入ってきた大田を、上中は少し興奮した表情で迎えた。
「ああ大田さん、死体の右肩には刺青がありましたよ」
「あったかい? 花か? 梅か桜か?」
「直径1センチほどだから分からなかったのだと、検視官は言い訳をしています。梅でした。ワンポイントというか、体の他の部分には、刺青なんか一つもないんです」
 上着を脱ぎ、大田はイスにドカンと腰かけた。
 その騒がしい音に課長がこちらを向きかけたが、口は開かなかった。
 そもそも課長は大田をあまり評価していないし、大田は大田で、当てにされない員数外の立場を楽しんでいた。
「大田さん…」
 と上中は少し困った顔をするが、大田は気にしない。
「上中君、刺青が梅の花だというなら、死体の正体は田辺二郎だな」
「梅じゃなかったら、誰なんです?」
「田辺二郎には、双子の兄弟がいる。田辺一郎というやつで、こいつは右肩に桜の刺青をしているんだ」
「へえ」
「田辺兄弟といって、東京ではちょっと名の知れたギャングだったそうだ」
「それも半田さんから聞いてきたんですか?」
 と上中は呆れた顔だが、大田は全く気に留める様子もない。
 手柄を立てて出世することに、これほど興味のない人物も珍しいかもしれない。
 半田老人によると、田辺たちは東京生まれで、関西にはあまり縁のない人生を送ったように見える。
 兄弟2人で、ケチな窃盗や小さな強盗事件を繰り返していたが、戦争中は2人とも、うまく徴兵の目を逃れたようだ。
 この2人がある時、ちょっとした噂を耳にした。
 それが昭和20年の夏のことで、すでに戦争は終わっていたが、どこからともなく伝わってきたその内容というのが、

『戦争中に閉鎖されたある銀行支店の金庫の中に、20キログラムの金塊が手つかずのままで眠っている』

 ということだった。
 戦争中から終戦直後にかけては、様々な噂話が話され、社会を駆け巡っただろう。
 その中には、
『ある町で、妊婦の胎内から牛頭の怪物が生まれ出た』
 といった信じがたいものなどもあったが、それはともかく、『金庫とその中の金塊』の話は、利にさとい田辺兄弟の心を強くとらえただろう。
 さっそく2人は下調べを始めたが、その時点で9月の中旬を過ぎていて、街中では米兵の姿をよく見かけるようになっていたが、2人とも情報収集の手を休めることはなかった。
 その結果、噂の内容はどうやら本当らしいと思われるに至ったのだ。
 その根拠はいくつか存在し、まず2人は、トラックを運転したという男を見つけ出すことに成功した。
 金庫の中に隠された金塊というのは、要するに軍の隠匿物資だったのだ。
 この運転手が、
「8月15日の数日後の19日か20日の真夜中、例の閉鎖された銀行支店の前までトラックを運転した」
 と証言したのだ。
 隠匿物資というのはこの場合、戦争中に日本軍が海外から持ち帰った金銀財宝のことをさしている。
 終戦時には、やがてやってくるであろう米軍の目をくらますため、これをあちこちに隠すということが行われたのだ。この話も、その一つだろう。
 トラック運転手の証言以外にも、金塊の存在が事実であることを裏付ける手がかりが、いくつか得られた。
 都合の良いことに、この金塊の存在は、ごく一部の人間の間だけの秘密だったようで、世間からは完全に見過ごされていた。
 もちろん進駐軍も夢にも知らないことだった。
 だから田辺たちは決意したのだ。
「ようし、ひとつ俺たちの手で金庫を開いてやるか」
 ところが問題があった。
 なんとこの銀行支店が建っているのは、警察署のすぐ隣なのだった。大田が勤務する東川署だ。
 閉鎖されて廃墟も同然の建物だが、金庫をたたき破るといっても、大きな音を立てるわけにはいかない。
 昼間はもちろん、真夜中にもだ。
「そこで目をつけたのが、腕のいい金庫破りの男というわけですか…」
 と上中も少しは感心した様子なので、大田も鼻が高い。
「半田さんによると、鮫島玉夫というのは、その世界でも知られた金庫破りだったそうだ。本職はまじめな時計職人なのだがね」
「へえ」
 いつの間にか大田の周囲には刑事たちが集まり、数人の人垣ができている。
 そんな風景、課長には面白かろうはずはないが、幸いにも数分前から席を外しているようだ。
「ああそうだ、上中君。田辺二郎について、府警本部に照会した返事はあったかい?」
 上中は、一枚の紙を大田の目の前にサッと滑らせて寄こした。
「大田さんの言う通り、なかなか派手な経歴の兄弟ですね」
 大田は受け取った紙に目を通しているが、聴衆の一人が声をかけた。
「大田さん、それでさっきの金庫破りの話は、どうなったんですか?」
「うん、それね…。おや待ってくれ。もうこんな時間かい? 外の明るいうちに行かなくちゃならない場所があることを、きれいに忘れてたよ…。上中君は一緒に来てくれ。他の諸君はそれぞれの仕事に戻って、ワシの話の続きはお預けだな…」
 上中を連れだし、大田が向かったのは、C時計店という店。
 東川署からも、市電に乗って遠くはなかった。
 市電の車内で、空いている座席に大田がヨイショと腰かけると、上中はその前に立ち、つり革をつかんだ。
「ねえ大田さん、あんまり秘密にばかりしないで、そろそろ話してくださいよ。僕もだんだんしびれが切れてきました」
 その言葉に大田はニヤリと笑ったが、口を開いた。
 すいた電車で、小声の会話なら、他の乗客の耳に入ることはない。
「君は、鮫島静という娘の噂を聞いたことがあるかい?」
「鮫島静? 鮫島玉夫の娘なんですか?」
「それはいいから、噂を聞いたことは?」
 上中は少しの間、天井を見上げていたが、
「ええ、あるように思います。府警に入って、最初の研修の時だったかな。研修生の緊張をほぐすため、教官がいくつか披露してくれたヨモヤマ話の中にありました」
「そう…、第二次世界大戦が終わった直後、敗戦の責任を取って自害した忠義な娘という触れ込みで、最初は大きな新聞記事にもならなかったが、次第に人々の口に上るようになって、その行動のあまりの激しさから『烈女』とも呼ばれ、美貌も相まって、広く大阪中の噂になったものだよ」
「それが鮫島玉夫の娘なんですね?」
「そうさ。だけど静の死の真相は、噂とはだいぶ違うのだよ。第1に、静が自殺したのは、戦争が終わって2ケ月も過ぎたころだ。戦争に勝てなかった責任を取るにしちゃあ、間が開きすぎているとは思わないかい?」
「…」
「第2にというか、これが決定的なんだが、ちゃんとした自筆の遺書があるのだよ。半田さんが発見し、写しも取ったから、ワシも文面を読ませてもらったがね。戦争ウンヌンなんてのは一言もなかった」
 ここで電車が突然ガクンと大きく揺れたので、体のバランスを崩しかけ、つり革をつかみなおし、上中は姿勢を立て直した。
「じゃあ、自殺の本当の原因は何だったんです?」
「腕のいい金庫破りとして、鮫島玉夫は若いころ、ずいぶんと鳴らしたのだそうだ。誰の支配下にも属さず、フリーの一匹狼だった。仕事のたび、あちこちの盗賊団と組んで雇われてね」
「へえ」
「もちろん戦前の話だよ。本職は時計職人なんだが、金庫破りは裏の顔で、相当に儲けたそうだ。もちろんアブク銭で、貯金なんて殊勝なことはしなかったらしい」
「静は、自分の父親がそんな悪人だと知っていたんでしょうかね?」
「知っていたらしい。静が10歳かそこらの頃、何かの拍子にバレてしまった。もちろんその何年も前から、玉夫は金庫破り稼業はやめていたのだがね。半田さんの話によると、結婚を機に足を洗ったらしい」
 ここで大田は気が付いたのだが、話を聞いている上中の表情が、どうもさえないのだ。
「どうしたね上中君。ワシの話が信じられないかい?」
 居心地悪そうに、上中は何回か咳ばらいをし、
「お話を信じないわけじゃありませんが、服役して罪を償ってもいない者が、たかだか結婚を機に、突然、真面目になるなんてのは…」
「ありえないかい? ところが、そうでもないんだな。半田さんの受け売りばかりで、また君に嫌われてしまうが、玉夫の結婚相手というのが、たまたま腕時計の修理を依頼するために来店した若い令嬢でね。そそとして、いかにも優しげであったそうだ」
「その令嬢に、金庫破りが一目ぼれでもしたんですか?」
「金庫破りだって人の子さ。令嬢のほうでも、玉夫を憎からず思い、数カ月後には、将来を約束する仲となった。その時に玉夫は、自分の裏稼業について彼女に告白し、許しを乞うたそうだよ。『もう二度と金庫破りには手を染めない』とね」
「とんだメロドラマですね」
 その言葉に大田は笑い、
「君のシニカルな物言いには、気が付かなかったことにしようよ。それ以来、玉夫は、悪事はきっぱりと…」
「だけどそれも全部、半田さんから聞いたことなんでしょう?」
「そう言われれば、身もフタもないがね。静の遺書が見つかった時、鮫島玉夫本人の口からすべて聞いたのだそうだ。田辺兄弟の名が出たのも、そのときだったそうだよ…」
 目的の停留所で電車が停車したので、大田と上中は下車した。
 C時計店は電停の真ん前にあり、話をつけるのに何の不都合もなかった。
 鮫島玉夫の職場ということで、すでに別の刑事がここを訪れ、一応の事情聴取は済んでいたが、その時に、
『万が一にも玉夫の写真を持っていないか、同僚や周囲の人々にきいてみてくれ』
 と依頼がしてあり、その返事を聞きにやって来たのだ。
 果たして、玉夫の写真を一枚、発見することができた。
 数年前に、わざわざ店を休業して、全員で花見に出かけたことがあり、その時に撮影された記念写真のすみに、小さく不鮮明だが玉夫の姿を見ることができた。
 中肉中背だが、少しやせている。
 服装は作業着で、クシの通っていない髪ともども、身なりに気を使わないタイプに見えるが、いかにも職人風で、嫌な感じの人物ではない。
 思いがけずカメラの前に引っ張り出され、はにかんでいるのが伝わってくる写真だ。
 大田は、もちろんこの写真を借り受けた。
 C時計店からの帰り道、大田が話し始めた。
「上中君。問題は、玉夫よりも先に田辺一郎を見つけ出さねばならないということさ」
「どういうことなんです? 僕にはさっぱり…」
「ワシは静の遺書を読んだのだよ。その一節を今でも思い出すことができる。
 前半は格調の高い候文で、伝統に従って自分のことを『妾』と書いているんだが、
『もう二度と金庫破りのお仕事はしないという、亡きお母さまとの約束を、お父様にお破りいただくわけにはまいりません。そのための障害になるというのですから、静は喜んで、おそばを離れ、母上のところへまいりましょう』
 と続くんだ」
 どう反応していいやら分からず、上中は困った顔をするが、大田は続けた。
「…と、この部分だけ候文が破れ、現代文に変わっているところなど、静の悲しみを如実に表しているじゃないか」
「…」
「上中君、これは復讐劇なのだよ。金庫破りをやれ、という話を田辺兄弟から持ち込まれても、もちろん玉夫は断った。『結婚以来、足を洗ったのだ』とね。
 だが、そんなことであきらめるギャングたちではない」
「どうしたんです?」
「田辺たちは、静に目をつけたのさ。
『お前の娘はべっぴんだな。もしも娘の身がかわいければ…』とね。
 そうなったら、玉夫も首を縦に振るしかない。なにしろ田辺たちときたら、相当なワルでね…。若い娘を相手に何をしでかすか、分かったもんじゃない。
 もしも君が玉夫の立場だったら、どうするね?」
「娘を守ればいいんじゃないですか?」
「どうやって? 警察へ行って、訴えるかね?」
「それも方法でしょう」
「どうかな? そんなことをすれば町の噂になって、『金庫破りの娘』と言われ、静が一生、後ろ指をさされるのは間違いない。父親として、それは耐えられることじゃない」
「ははあ」
「だから警察には言えないだろ? だけど娘の身は案じられる。ギャングたちは美貌に目をつけているのだから」
「…」
「そういう父親の悩みは、娘にとっても痛いほど感じられるさ。なにしろギャングたちは『金庫破りを再開しろ』と、娘がいる目の前でねじこんだらしいからね…。
 だとしたら、娘はどうする? あの混乱した時代、警察を始め、どこの誰も頼ることはできない。
 もしも父親を悪の道へ戻したくなければ、どうするべきか。娘なりに考え、答えを出したのさ…」
 東川署へ帰り付くと、すぐに若い巡査が話しかけてきた。
「大田さん、トンネル内の感電死体事件の捜査主任は、大田さんですよね?」
 すると、とたんに大田の表情は渋く変わる。
 何かの責任者という役が、嫌でたまらない性分なのだ。
 どうにかして、責任の少ない『その他大勢』の中に埋没する方法はないかと、常に苦心しているような男だ。
 そのあたりは野心に満ちた上中とは正反対で、
『階級の差さえなければ、今すぐにでも捜査主任の座を譲ってやるのだがな』
 と腹の底で、いつも大田は思っている。
 だが、物事はそううまくはいかない。
 警部と警部補、階級の差は1ランクしかないが、例えば逮捕状の請求は警部以上でなければできないなど、職能にはいささかの差がある。
 しかも警察大学校出で、22歳の若さで、警察庁からポンと落下傘のように大阪府警へ降りてきた上中に、巡査からたたき上げてきた一般刑事たちが気持ちよく従うものであるか、という問題もある。
 大田は大田で、悩み多き職業人なのだ。
 大田は答えた。
「ああ、それは多分ワシが責任者だよ」
「面会人です。なんでも死体を引き取りに来たとか」
「死体?」
「例の感電死体ですよ」
 その言葉に、大田と上中は顔を見あせた。
「その人は名前を言ったかい?」
「男です。田辺一郎だとか」
「なんだって?」
 田辺一郎は、大田よりも10ばかり年上に見えた。
 小さく意地悪そうな目がギロリと光っているし、顔つきや髪形も異なるが、中肉中背で痩せているところなどは、鮫島玉夫に似ていなくもない。
 双子ということだから、田辺二郎もこの一郎とそっくりだったに違いなく、感電死体が鮫島玉夫と取り違えられたのも無理はない、と大田は思った。
 同時に田辺一郎は、一目見るだけで大田ですら、
『おっとっと、こういう相手には気をつけにゃあ』
 と感じるタイプでもあるのだ。
 普段は取り調べなどに使う小部屋に入れられ、田辺一郎はイライラと待ちくたびれた風に、何本目かの煙草に火をつけたところだった。
 大田と上中の顔を見るなり、
「おい、どっちが上役だい?」
 と声をかけてきた。
 上中が黙って大田を指さすと、
「そりゃ良かった。若造とじゃ話にならねえ」
 ところが、
「そうでもないぜ…」
 と大田は向かい合う椅子に腰かけ、「…年上でも、ヘボはいくらでもいるぜ」
「へっ、おまえがかい?」
「そうかもしれんね」
「けっ…」
 田辺一郎はしばらく黙っていたが、また言った。
「弟に会わせてくれ。その権利があるはずだ。親もなく、天涯ふたりきりの兄弟でね」
 それを聞いているのか、いないのか、大田は自分も煙草をくわえ、火をつけようとしている。
「弟には、会わんほうがいいかもしれないよ」
「どうしてだい?」
「実を言うと、ワシもまだ死体は見ていない。怖くてな」
「なんだと?」
 と、そのセリフが終わる前に、大田は上中を指さしていた。
「詳しいことは、この上中君にきいてくれるかい?」
 上中は口を開いた。
「死体はひどい状態だよ。高電圧に接触したんだ。実のところ右肩の刺青で、やっとあんたの弟だと分かったぐらいでね」
「二郎のやつは、なんだって真夜中、そんな地下トンネルなんかへ行ったんだ?」
 上中はそれに答えようとしたが、とっさに手を振って大田が止めた。そのしぐさに、
「なんでえ、内緒ごとかい?」
 と田辺の鼻息は荒いが、大田の返事を聞くと顔色が変わった。
「田辺さんよ、あんたは一昨日、やっと刑務所から釈放されてきたところだろう?」
「なぜ知ってる?… そうさ。弁護士の野郎がドジ踏みやがって、同じ罪状なのに、俺のほうだけ一ケ月、懲役が長かった。
 しかも釈放される当日、刑務所まで迎えに来るかと思ってたが、二郎のやつ、来てもいやがらねえ。どこへフケやがったかと思っていたら、死体を引き取りに来いと、やぶから棒に警察から通知だ。何がどうなってんだ?」
「弟はな、あんたを出し抜いて、例の金塊を引き取りに行ったのだよ。全部、独り占めするつもりだったと思うぜ」
「まさか…」
「まさかなもんか。山分けにする気なら、お前さんが釈放されてから、二人仲良く出かければいいじゃないか。それを、なぜ一人で出かけたか」
「くそっ」
「それはそうとさ…」
 と突然、大田の声の調子が変わるものだから、田辺も驚いたようだ。
「なんでえ?」
「あんたと弟は、どうして警察に逮捕されて、10年も服役する羽目になったんだね? 金庫を破ろうって、鮫島玉夫に声をかけてたところなんだろう?」
「そのことか。くそつまんねえ話よ。確かに鮫島に声はかけたさ…。いや、あれは声をかけた、なんてもんじゃねえな。俺と違って、弟は気が短い。おかしなもんだろ? 双子なのにさ」
「そうかい?」
「俺は、弟と一緒に鮫島の家へ行き、とうとうと理性的に説得しようとした。けっ、死んだ女房に義理を立てて、『もう二度と悪事はしねえと決めた』なんて、鮫島が言いやがるもんでよ」
「鮫島の細君が死んだのは、戦争が終わる直前だそうだ。お前さんたちは、まだ喪も明けないうちに押しかけたことになるねえ」
「そんなこと知るかよ。とにかく俺は、冷静に話をしようとした。娘は隣の部屋にいたが、フスマ越しに会話は全部聞こえたに違いねえ。小さな家だからな。ところがだ」
「うん」
「弟の次郎は気が短え。ついに言っちまったのよ」
「どう言ったね?」
「『おう鮫島よ、昔からの仲間だからって、いつまでもナメてんじゃねえ。お前の娘はベッピンだな。そのベッピンが、どうなってもいいのかい?』」
 先の短くなったタバコを灰皿に押し付け、大田は火を消した。
「それはまあ、立派な脅迫だな」
「おいおい、誤解しちゃいけねえぜ。俺と弟は金庫破りをしなかった。鮫島にウンと言わせる前にムショ送りになったんだからな。しかも脅迫的文言を吐いたのは弟だ。俺じゃないぜ」
「弟はもう死んでるから、弁解もできんしな」
「けっ、これだからデカは嫌いだよ。はなっから人を信用しやがらねえ」
 メモを取りつつ、上中はじっと会話を聞いているが、何を考えているのか、大田の表情からは何も読み取ることができない。
 大田は続けた。
「なあ田辺さんよ、それであんたら兄弟は、鮫島が首を縦に振る前に、どうして服役なんかすることになっちまったんだい?」
「鮫島の家へ行き、いろいろと話をしたが結局は断られ、『また来らあ』とその場を後にしてからのことさ。ちょっと景気づけにと、弟と一杯やりに行った。ところがだ…」
「ところが?」
「この一杯ひっかけに行った先で、俺と弟は、変な酔っ払いに因縁をつけられちまって…。こっちは何も悪くないのによ。仕事が近いから、酒量も抑えてたんだ。それが…」
「どうなったね?」
「売り言葉に買い言葉。話をつけようと店の表に出たところが、なんといっても2対1だ。ちょっとこづいただけだが、酔っ払いは頭から倒れ、道路の縁石で頭を打った」
「それで兄弟そろって、10年食らったのかい?」
「まあ、それ以外にもいろいろやってたからな…」
 と会話は続いたが、田辺一郎を長く署に引き留める理由はなかった。田辺たちは金庫を破ってはいないのだ。
 だから、
『死体の引き渡しには、もう少しかかる』
 ことだけを伝え、上中は不満顔を見せたが、大田としても、そのまま帰らせるほかなかったのだ。
 ただその時、大田は一言だけ田辺に警告をした。
「なああんた、弟みたいに殺されないように気を付けるんだよ」
 すると、
「どうしてでえ?」
 と、もちろん田辺は目をむいた。
「あのな、銀行支店だったあの古ビルな。ほら、あんたらが金庫破りをするつもりでいた」
「それがどうしたい?」
「この警察署の隣にあったろ? 数年前に解体されて、今は別のビルが建ってるが、その時には何もなかったぞ。解体中に金庫の中から金塊が見つかったなんて、ニュースにもならなかった」
「だから?」
「あんたら兄弟が逮捕された後で、鮫島は一人で金庫を破ったのだろうよ。腕のいいプロだったらしいからな。無人の廃墟の中でする仕事なんて、朝飯前だったろうぜ」
「くそっ、あの野郎め…。廃墟内部の見取り図も含めて、下調べは全部、俺たちが済ませてたんだぜ。ただ乗りしやがったな…。
 あれ? だけどよ、死んだ女房と約束したなんて言いやがったのに、鮫島のやつ、どうして急に宗旨がえをしたんだ?」
「鮫島の娘、鮫島静が入水自殺したことは知っているよな?」
「ああ、国に殉じた忠義な娘ってやつだろ?」
 違う違う、と大田は目の前で手を激しく振った。
「自殺は自殺だが、あれは国に殉じたんじゃない。父親に犯罪を犯させないために、自ら身を引いたのさ。あの娘がいなきゃ、あんたらも玉夫を脅迫できなくなるもんな…」
「ま、まさかお前…」
「そうさ。静が自殺したのは、あんたたちが一杯ひっかけて、逮捕されたその同じ夜のことだったのさ…」
 田辺一郎が帰っていった後、少しの間、取調室の外へは出ずに、大田はタバコをふかし続けた。
 隣には上中がいる。
「大田さん、それにしても田辺一郎の顔は見ものでしたね」
「うん。だが田辺のやつ、本当に信じたかな?」
「娘の敵討ちとして、鮫島玉夫が二郎を殺したという説ですか?」
「筋が通るとワシは思うよ。刑期を終えてシャバに出てきた二郎に、鮫島玉夫はこう言って接近すればいい。
『娘は死んだ。もう誰に遠慮することもなく、あんたらが刑期を務めている間に、私は金塊を盗み出しておいた。それを山分けにしてやるから、隠し場所へ来い』とね…」
「それで真夜中、例の地下トンネルへ誘い出したんですか? どうかなあ…」
「10年間も刑務所暮らしで、田辺たちは世間のニュースにうとい。すぐに信じたさ。それに戦争中から最近まで、あのトンネルは工事が中止され、中途半端で放置されてたんだ。隠し場所として、うってつけではあろうよ」
「じゃあそうだとして、どうやって二郎を感電させるんです?」
「報告書を読んだが、線路わきの砂利に深く穴が掘ってあり、その中へ上半身を突っ込むようにして、二郎は死んでいただろう? だからさ、
『この穴の下に金塊をうずめておいた』
 とでも言えばすむじゃないか」
「ははあ。ツルハシでも手渡して、二郎にガンガン掘り進めさせるが、その底にあるのは金塊ではなく、高圧電線というわけか」
「そういうことさ…。トンネルの中だ。足元は常に濡れているよ」
「ねえ大田さん、もしそうだとしたら、盗み出した金塊を、鮫島のやつ、本当はどこへやったのでしょうね?」
 珍しくも色めき立っている上中の様子に、大田も思わずクスリと来た。
「おや、君でも気になるかい?」
「そりゃそうですよ。僕だって人の子ですもん」
「ならば、深窓の令嬢に一目ぼれした金庫破りの心情も、同じ人の子として感じてやってくれよ」
 そう言われて、『なんだ?』という顔を上中がするであろうことは、大田も計算済みだった。
「なあ上中君、君は覚えていないかな? これも半田さんの考えなんだが、4、5年前のこと、匿名の誰かさんが、赤十字へとんでもない金額の寄付を申し出たことがあったろう? ちょっと新聞をにぎわせたじゃないか」
「ああ、そういえばそんなことが…」
「赤十字の近くに知り合いがいるらしくて、半田さんは聞いたそうだ。あれって札束が届いたのではなく、銀行口座に振り込まれたのでもなく、丸々の金塊が小包で届いたのだそうだよ…。豪勢なもんだ。差出人の記されていない木箱を開けたら、金塊がゴロンだとさ」
「へえ…、それは知りませんでした。差出人は鮫島ですかね?」
 短くなったタバコを灰皿に置き、大田は大きくあくびをした。
「証拠はないがね…。ああ疲れた」
「それで、これからどうします? 鮫島玉夫を手配しますか? 田辺一郎の身柄はどうやって守ります? 護衛でも付けますか?」
 何秒かの間、上中は返事を待ったが、大田は何も答えなかった。
 それどころか、大田はもう一度あくびをしたのだ。
「ワシは何もせんよ、上中君」
「どうして?」
「鮫島玉夫が殺人犯だなんて、ワシの想像にすぎん。一郎をも殺害しようと企んでいるなんて、証拠もない。ワシは何もせんね。きっと課長も同じことを言うだろう」
「ですが…」
「じゃあ上中君、君は今から課長のところへ行って、説得してごらん。うさんくさそうな目で見返されるばかりだろうから」
「…」
 それは上中にも十分理解できる話だった。
 同じキャリア組ではあるけれど、課長は上中もあきれるほどの凡人で、想像力のカケラもない人物なのだ。
 そんな課長に嫌われてまで、防犯に努める義理は上中にもない。
 しかも大田も認めている通り、全てが証拠のない、ただの想像なのだ。
 あきらめて、上中もこの件は自分の胸にしまっておくことに決めた。
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