幸運なあなたへ

文字数 21,079文字

《幸運なあなたへ》


「幸運なあなたへ」
 目の前に、年老いた女性が座っている。
「あら……」
 しわくちゃな手でわたしから瓶とペンを受け取ると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
 のどかな田舎町の晴れた昼間。静まり返った世界で、太陽はきっと今日の中でいちばん高いところにいる。
 そして、その場で止まっている。
「夢なのかしらねぇ」
「違うわよ」
 とぼける老婆に向かって、わたしは言ってやった。
「全部現実。さっき言った通り、あなたは死んだけどインクをもらったおかげでまだ生きられるの。わかったら早く未来を書いてよ。時間進まないからさ」
「あら。そうなの」
 その人は座ったまま瓶を開けようともせず、じっと手の中を見つめたあとわたしに笑いかけた。
「それなら、お返しするわ。私はもういいの」
 …………は?
「私はもうね、充分生きたのよ。そろそろお父さんに会いに行くわ」
「……ふざけんな」
 言ってから怖くなって、少しだけ後悔した。
「いや、えっと……」
「どうしたの? 妖精さん」
「……あのね。返すことは、できないの。いいから、インクもらったぶんだけ生きればいい話じゃないの」
「でもねぇ……」
 老婆は籐の大きな椅子から立ち上がると、おぼつかない足取りで歩き始めた。
「私はもう、空の上にしか愛する人がいないんだよ」
「あっそ」
「子供も孫も、こんな田舎からは出ていったからねぇ。私もそのほうがいいとは思っているんだけれど」
「……仲悪いの?」
「いいや。毎週のように誰かが連絡はよこしてくれるし、長いお休みには遊びに来てくれる」
「じゃあ生きがいはあるじゃない」
「あなたはそう思うんだね?」
「ええ」
 わたしは、生きられるだけで、それだけで幸せだと思っている。
 なのにこいつは。
「この写真がお父さんだよ」
 老婆が足を止めたのは大きな仏壇の前で、そこにはいくつもの人の写真があった。中には白黒のものもあるが、彼女が指したものには色がついている。
「父親?」
「いいや。私の夫だよ」
「それなら、お父さんじゃないわ」
「そう呼ぶこともあるんだよ。私の父親は右の写真の人だ。かっこいいだろう?」
「よくわかんないわ」
「そうかい」
 なにも可笑しくはないだろうに、老婆はお日さまみたいに笑う。
「妖精さんはまだ小さいからねぇ、これからわかるようになるさ」
「馬鹿にしないでほしいし、そもそもわたしが成長することはないのよ?」
「おや、そうなのかい」
 わたしはますますむっとした。この女から見ればわたしは6つに満たないくらいの子供なのだろう。実際は、わたしは年齢などは持たない。
「今日は涼しいねぇ」
 そう呟き、彼女は深緑の線香に火を点けた。人間じゃないくせして一丁前に匂いを感じる自分に嫌気が差す。
「私は、お父さんやこのみんなに早く会いに行きたいのさ」
 真っ白な髪の老婆は、ゆっくりわたしのほうに振り向いた。
「だからね、これはお返ししたいんだ」
 老婆は藤の椅子に置き去りにしていた瓶のほうを向いた。
 わたしは深くため息をついて、うつむいたまま言った。
「……無理って言ってるでしょ」
 そして、
「インクが空になれば命は終わるから、死にたいならインク捨てればいいんじゃないの?」
 言っちゃいけないことを言っちゃった。
「おや」
「…………っ」
 自分の失言にわたしは、身体を駆け巡る焦りを隠すのに必死だった。
 もしこれで本当に死んじゃったらどうしようと思って、でもそれを望んでるならいいかと落ち着いて、でもやっぱり、怒りが湧き上がってくる。
 せっかく生きられるくせに……死ぬな。
「私にはそんなことはできないねぇ」
「……え?」
「このインキがあれば生きられるんだろう?」
「え、ええ、まあ」
「あなたにお返しして、別の人に渡してもらいたいのだけれど」
「……………………」
 別の人、に。
 わたしはたくさん考えた。()()とか、魔法の限界とか、色々。
 でも答えを見つけられなかったので、小さな声でこう言った。
「……わからないけど、でも、できなくはない、かもしれない」
「本当かい」
「ただ、何をしてもわたしのことはあんたしか見えないから、インクを渡す相手は自分で見つけてもらうことになる」
「ああ、なんだってやるさ」
 老婆はわたしの変な色をした瞳をじっと見つめた。
 わたしの何十倍生きたか知らないような老いた人のくせに、瞳が煌めいていて、眩しかった。
「ほんとにやるの? できるかは、保証はしないよ」
「やってみるだけ価値のあることだろう?」
「……わかったよ、もう」
「お嬢さんも手伝ってくれるかい?」
「あんただけじゃできないだろうし、いいけど。……そう呼ぶのはやめてよね」
「あらごめんなさい。お名前は何かしら?」
「…………名前なんて、ないわよ」
「そうかい、何でもいいよ。これからよろしくね」
「……ん」
 こうやって、彼女の最後の旅が始まったのだ。


「大体さ、あんた身体大丈夫なわけ? ひとりで旅できるような歳じゃないことくらいわたしでもわかるから」
「わたしゃ考えたんだよ。この万年筆で書いたことが現実になるんだろう? それにね、インキがなくなるまでは死ぬことはない。だから、旅の道中で何かあることなんてありえないさ」
「人の生死に関わることはインクの力でも変えられないけど?」
「そのときはそのときさ」
「……あんたって楽観的よね」
「おや、あんたとはなんだい。女の子は可愛らしい言葉遣いをするもんだよ」
「知らないよ。ていうかあんたの名前もわからないし、なんて呼べばいいわけ?」
「おばあちゃん、とでも呼んでくれたらいいさ」
「やだよ。孫でもないんだし」
 ぶつぶつ言っている間にも、老婆は妙にテキパキと旅支度を進めていく。
「……準備早いな。もっと落ち着いたら?」
「ふふふ、お父さんが元気だった頃は旅行するのが大好きだったからねぇ。ときどきは子供家族も一緒に行ったもんだ。今回はあなたとふたりだけど、久しぶりで舞い上がっちゃうわ」
「そわそわして事故って死んでも知ーらない」
「おやおや、言霊というものを知っているだろう。そんなこと言わないでおくれよ」
「……わたしまだ小さいから知ーらない」
 手帳と割れないように包んだインク瓶、万年筆を入れた古びた皮の筆箱、それらを最後にトランクに詰めると、彼女はそっと蓋をして銀色の部品をパチンと閉じた。
 家の中は日差しだけで明るい。時が止まっているわけでもないのに異様に静かで、時折遠くから雑音がする以外は本当に無音に感じた。
「……静かすぎて気持ち悪いな」
「そうかい? 風の音や蝉の鳴き声がするだろう」
「なにそれ、全然聞こえない」
「耳がまだ未熟なんだろうねぇ」
 もう耳が遠くなっていてもおかしくない老婆にそう言われて、わたしは内心いらっとした。
「そういえば、近所の人とかいないの? 旅までしなくても、近場で探せばいいじゃん」
「近所ねぇ、近所とはいえいちばん近くて坂の向こうだわ。それに、わたしと同じような方が多いから、きっと断られてしまう」
「そっ。じゃあ仕方ないね」
「そうさ。すぐ見つかるともわからないし、なるべく長旅の準備をしていかなくちゃ」
「……あんたが旅したいだけじゃないの?」
「最後くらい好きなことをめいいっぱいしてもいいだろう」
 急に彼女が立ち上がって消えたと思ったら、帽子を手に戻ってきた。年寄りがよく被ってるような形のブラウンの帽子を被って、日差し対策のカーディガンを羽織る。ツギハギみたいな変な柄の小さいリュックを背負って、トランクを手にして、老婆は準備万端といったところだ。
「変なリュック。ボロボロなのを修理したみたい」
「おや、これは私の孫娘が見つけて贈ってくれた大切なものだよ? なんて言うものだったっけな、パルチマートみたいな」
「ああ、パッチワーク?」
「それだ。お嬢さんは頭が切れるねぇ」
「その呼び方やめてってば」
 小さな家の各所の戸締まりを確認した彼女は玄関へ向かう。家はどこもが隅々まで綺麗にされていて、なにか穏やかなものが家中にたたずんでいた。
「ていうか、孫って。そういう家族にはどう説明するつもり? 心配されるよ」
「そうねぇ。前まではいつも家の電話にかけてきていたけど、壊れちまってからはわたしのケータイにかけてくれるから、大丈夫さ」
「え、ケータイ持ってるんだ」
「ああ」
 そう言って彼女がリュックのポケットから取り出したのは淡いピンク色のガラケーだった。
「使い方わかんの?」
「電話ならね」
 ケータイをしまうと、ブーツのような靴を履いて、扉の横に置いてあった杖を手に取る。
 引き戸をカラカラと音を立てて開けると、爽やかな夏の風が玄関に吹き込んだ。
「涼しくて良いねぇ」
「夏も終わりだからって日が当たるところは暑いし、あんまりなめないほうが身のためだよ」
「妖精さんも気温はわかるのかい?」
「わかるよ」
 そう、暑さや涼しさを感じるたび自分の身体に嫌気がさす。
 人間じゃないくせに。そもそも実体を持たないくせに。
「それじゃあ、旅の途中でアイスクリームでも一緒に食べようか」
「……アイスクリーム? 知らないけど、わたし食事は多分できないから」
「そうなのかい、それは残念だねぇ」
「多分だけどね」
 外からしっかりと戸を閉めて鍵をかける。そして彼女は、すぐ横の壁にあるポストになにやら張り紙をした。
「え、なにそれ」
「これかい? 『しばらく旅行に行っています』って書いているんだよ。新聞の人やたまに来る町の人を心配させないためにね」
「ふーん。泥棒に空き巣し放題ですよーって教えてんのかと思った」
「はっはっは。うちにはなにも盗るようなものはないから、来ても諦めて帰っていくさ。なんなら同情してなにか置いていってくれるかもしれないねぇ、ふふふ」
「いや、そんな貧乏じゃないだろ」
 老婆はさらに笑うと、家の敷地の外へと足を向ける。広い庭にはいろんな植物が生えていて、どれもきちんと手入れをされているようだった。
「花たちにはちと申し訳ないね。世話ができんくなる」
「植物に感情はないから大丈夫だよ」
「草花だって立派な生き物なんだから心があるのよ」
「そうは思えないな」
「まだお嬢さんは小さいからね。いつかわかるさ」
「はあ」
 田舎道を歩く老婆の後を追う。杖の必要性を疑うくらい、彼女は自分の足でしっかり歩いていた。
「転ばぬ先の杖、さ」
 よくわからなかったので無視していると、老婆は軽やかに笑う。
 細い道を歩く中では本当に誰とも合わなかった。平日の昼下がり、この辺は年寄りだらけらしいから、みんな昼寝でもしているのかな。
 一本道を歩いていくと、やがて小さな古ぼけた無人駅に着いた。周りの木々に埋もれるような形で存在するそこは、まるで別の世界に繋がっている列車が来る駅みたいにも見えた。
「とりあえずは街中のほうへ行こうと思うんだ。人が多い場所のほうが渡せる人を見つけやすいだろうからね」
「そう。お金はあるの?」
「電車代くらいお嬢さんのぶんまであるさ」
「……わたしのことは見えてないから払わなくていいよ」
「あら、そうだった。お得だねぇ」
 そう言うと彼女はちょっとだけ悪そうな顔で笑う。ふん、と顔をそらしたわたしだけど、正直電車に乗るときにお金が要ることすら今初めて知った。街中はお金がたくさん必要そうだけど持ってるのか、と訊いたつもりだった。
「次の電車は40分後だね。それまで待ちましょう」
 幸い、壊れかけの駅にもベンチが置いてあった。すぐそばの木の陰になっているのでとても涼しいから熱中症の心配もない。
「そうだ、他人がいるところではわたしに話しかけないでよ? 会話して頭おかしいやつだと思われても知らないからね」
「ああ、わかったよ。しかし他の人にあなたが見えないのは残念だ。こんなにかわいらしいのに」
「どこがだよ」
 ()()上で身につけている変な色のふわふわした服、常人なら染めないと絶対に出せない色の髪の毛、そしてなにより、異常な模様と色をしたこの気持ち悪い瞳。
 どう見ても普通の人間ではないから、気味悪がられるか珍しがられるか、どっちにしろ他人に姿が見えても悪目立ちするだけだ。
「とても綺麗でかわいらしいじゃないか。特に目なんて、まるで雨上がりの虹みたいだ」
「気持ち悪いでしょ」
「全然だよ」
 なんか嫌になって見上げた空は淡い青。木の葉がつくる深い色の影がわたしの白い顔に落ちていた。
「……電車来ないね」
「まだあと30分後さ。散歩でもしてきたらどうだい?」
「嫌だ。面倒だし」
「そうかい。それならおしゃべりでもしようかねぇ」
「……はあ…………」
 老婆は、近くのある低木をすっと指差した。
「ほら、あれは紫陽花だよ。今は咲いていないからわかりにくいけれど」
「紫陽花……?」
「梅雨になるとね、小さな花びらが集まって大きな花が咲くのさ。いろんな色があってねぇ、ここに咲くものはちょうど妖精さんのお洋服の色に似ているよ」
「……よくわかんない。花なの?」
「ああ。梅雨になったら見てみるといい」
「わたしはインクを受け渡しできたら消えるよ」
「そんなことを言わずに、梅雨まで待ってみなさい」
 いや、本当に存在ごと消えるんだけどな。だってそれが()()だから。
 でもそんなことを老婆が知るはずもないから、わたしは「はぁ」とため息をついた。
「少し昔は、ここらへんの道に沿ってずーっと紫陽花が植えられていてね、紫陽花ロードって言われていたよ。今はもうさびれた田舎町になった。それものどかで良いけどね」
「前はもっと人がいたの?」
「そうさ。少し先のほうに行くと海があって、その辺りが観光地として人気だったからこの集落も栄えていたのさ。もう私が若い頃の話だけどね」
「へぇ」
 無言になると、やっぱりわたしにはなにも聞こえない。でもきっとこの人には、木々のざわめきや風の音やらが聞こえているんだろう。そんな顔をしていた。
 しばらくずっと黙っていると、わたしにも聞こえるなにかの音がした。
 リズミカルなその音は、段々こっちに近づいてくる。
「な、なんの音? これ……」
「おや。もう来たのね」
「ちょっとあんた、初っ端からこれやばいんじゃ……!」
 老婆はわたしを見てきょとんとすると、大きな声で笑った。
「そんなに怖がらなくてもいいわ、はっはっは。これは電車の走る音だよ」
「は、はぁ……」
 彼女はゆっくりと立ち上がる。やがて、目の前の駅に2両の電車が止まった。
 老婆よりも遅れて、わたしはあの音が完全に止まってからその電車に近づく。
 中はとても空いていた。ハンチングを被ったおじいさんがひとりと、中年の夫婦、スーツを着て文庫本を手にしている男性。見える範囲にいた乗客はたったそれだけだ。
 そこに乗り込んだ彼女は、すぐに座席に座ると足元の床にトランクを置いてリュックを膝に下ろす。迷惑する人なんていないから席に荷物を置けばいいのに、と言うと、老婆は少しだけにこりと笑うだけだった。
 それから、駅で待っていたのよりずっとずっと長い時間この電車に揺られていた。途中で人が降りたり乗ってきたりしたけれど、誰も挨拶を交わしたりなどしない。この世界の人は誰かに会ったら必ず挨拶をするものだと思っていたが、実際はこういうものなのだろうか?
 車内は終始静かで、ガタンゴトンというあの音だけが響いている。老婆はあたたかい眼差しのまま、反対側の窓から見える景色を眺めていた。
 やがて窓の外に大きな建物がよく流れていくようになると、電車の中はどんどん人が増えていった。制服を着た男女、やけに姿勢の良いサラリーマン、ヘッドフォンをした小柄な少女。小さな子供の手を引く母親を見つけて、わたしは唇を噛んだ。
 狭い電車は満員とまではいかないがもう座席は空いておらず、こんなに人が乗るのになんで2両なんだろうなぁとわたしは思った。人に触れたくないので、今はつり革が下がっているパイプの上に座っている。
 また次の駅で電車が止まった。すると、お腹の大きな女性が乗ってきた。
 小さい子や家族連れが多いな。そういう街なのかな。
 きっと、あの優しそうな母親のもとに来た赤ちゃんは大切にされていて、これからもずっと元気に生きていくんだろう。そう思って、どうしようもなく悔しくなった。
 混んできた電車には座る場所がない。妊婦は困っているようにも見えたが、今はもう立つしかないだろう。わたしみたいに重力を無視できるわけでもないし。
 でも、わたしの真下でなにやら動きがあった。
 老婆だ。荷物を持って立ち上がると、穏やかにその女性に声をかける。
 わたしが無表情で眺めていると、しばらく優しい押し問答を繰り広げたのちに妊婦が席に座った。
 わたしは、車内の柱につかまる老婆に頭上から話しかける。
「なんであんたが譲ったの? 老人でしょ、座らないと」
「……………………」
 彼女はわたしと目を合わせてふふふと笑った。いらっとしたわたしが畳みかける。
「もっと元気そうな人も他に座ってる。あんたが立つべきじゃない、おかしいでしょ」
 ずっと黙っていた老婆だが、人差し指を口元に当てると小さな声で言った。
「しーっ、静かにね」
「……わたしの声はあんたにしか聞こえないよ」
 彼女は声を押し殺して笑う。結局、電車を降りるまでわたしに返事はしてくれなかった。
 やがて到着した目的の駅は、乗りこんだあの無人駅とは比べようもないくらいに大きかった。たくさんの乗客はほとんどがこの駅で降りた。
 人の間をすり抜けてわたしも降りる。うじゃうじゃと人がいて、中にはお店やらなにやらがずらっと並んでいる。
 老婆の家周辺とのあまりの違いに怯えていると、彼女が耳元でささやいた。
「迷子にならんよう気をつけるんだよ。お空を飛べるなら、そうしたほうがいい」
「……言われなくてもそうするよ」
 わたしは老婆の頭より上まで浮かび上がる。ほほ笑む老婆の上でぐるっと逆さまになって、彼女に聞こえるように言った。
「そういえば、さっきなんであんたが席譲ったの。教えなさいよ」
「そうねぇ、お嬢さんはまだ小さいからわからなかったかな。あの女の人のお腹には赤ちゃんがいるからだよ」
「それくらいさすがに知ってるよ。なんで年寄りのあんたが若い人に席を譲ったのかって訊いてんの」
「後先短い老婆より、未来に溢れる子供を育てる方のほうが大切だから、それだけ」
「……はあ?」
「それに、私の健康はあのインキに保証されているから大丈夫だろう? ふふふ」
「それもそうか」
「妊婦さんのことは助けてあげないとねぇ。……私の孫のようになると可哀想だから」
「…………………………」
 小さなその呟きにありったけの悲しさがこもっていたので、わたしは深追いせずに体勢を戻す。
 空中からはたくさんの黒い頭がうごめく様子が見えて、ちょっと気持ち悪かった。
「賑わっていていいね。久しぶりだ」
 わたしに話しかけていたようだけど、声をまったくひそめていないからただの大きな独り言だ。周りから頭のおかしいやつ扱いされるんじゃ、と少しひやひやしていたが、そんなことは全然なかった。もしかすると、老人というのは独り言が多くても不思議がられない生き物なのかもしれない。
 広い駅の構内を老婆はゆっくりと歩いて外に出る。駅の外にある広場ではなにかのイベントが行われていた。
「さて。これからどうしようかね」
「インクを受け取ることができるのは、()()上だとそのとき死んだ人。死んだ瞬間にわたしたち妖精が現れて、あのインクとペンを渡すの」
「わかった。それじゃあ、命を失いそうな人を探せばいいのね」
「そう上手く行くかは知らないけどね。第一、ただの人間が第三者にインクを渡せるのかもわからないし」
「冷たいことは言わずに手伝っておくれよ」
「やる気はないよ。ていうか、命を失いそうな人なんてどうやって見分けるの。わたしにそんな能力はないよ」
「病院に行くわけにもいかないしねぇ……」
 老婆は青い空を見上げてにっこりと笑った。
「とりあえず、街を歩いてみようか。なにか発見があるかもしれない」
「……わかったよ。好きにすれば」
 そして、杖をつく老婆と宙に浮くわたしは街へと繰り出していった。
 駅の敷地を出るとすぐ、電車から見た大きな建物が立ち並んでいる。珍しいものばかりで、わたしはついいろんなものをじろじろ見て老婆に置いていかれそうになった。
 彼女はというと、すれ違う人々のことをよく観察しながら歩いているようだった。
「死神でもあるまいし、顔見ただけじゃ死にかけてる人なんてわかんないよ」
「いや、もしかしたらっていうのがあるじゃないか」
「ないよ」
 それでもなお老婆はにっこりとしている。人も比較的少なくなってきたので、わたしは道に降り立った。
 硬いブーツとコンクリートの道が当たって、こつこつと音がする。体重すら持たないくせに。
 老婆はそんなわたしの全身をじっと見た。
「ところでお嬢さん、その肩下げカバンには何が入っているんだい?」
「ポシェットのこと? ……別に空っぽだよ。あんたのインク瓶と万年筆を入れて来ただけ」
「そうかい。おしゃれなカバンだと思ってね」
「あっそ」
 変な宝石みたいな飾りがゴテゴテと付いていて正直邪魔なポシェットなのだが。まあ捨てることはどうしてもできないので仕方なく肩に下げている。
「あんたさ、こんなにあてもなく歩きつづけてたらインクなくなるまで旅が終わんないよ」
「それまでにはどうにかして渡す相手を見つけるさ」
「見つけられるとは約束できないけどね」
 しばらく歩いてから、老婆は疲れたのかバスに乗った。バスの中も、いろいろな人生を抱えた人々でいっぱいだった。
 短い時間バスに揺られて、老婆が降りたところは総合病院の前だった。
「いや、まじで病院来たんかい」
「病院に出入りする人が通るからね。ここらで座って待ってみよう」
「そんなんじゃなにも進まないよ」
 わたしがなにを言っても聞かず、老婆は病院前にあるバス待合室のベンチに腰を下ろす。家から持ってきていた水筒の麦茶を飲んで、通りすがる人たちをひとりひとり眺めていた。
「命が危なそうな人なんてなかなかいないねぇ。そのほうがいいのだけれど」
「だから見た目じゃわかんないでしょ」
「そうねぇ……」
 それから老婆は、ほんとうにずーっとそこに座っていた。ここにあんな長時間じっとしていられるのってもはや才能だと思う。まだ完全に明るいけれど夕焼けの気配を感じられる時刻になった頃、ようやく彼女は立ち上がった。
「満足した?」
「そうね、やっぱりこの地域じゃ人が少ないから見つけにくいわね」
「はぁ、めちゃくちゃいっぱいいるけど」
「おやおや。ここは全国の中で見たら全然人が多くない県だよ」
「へー」
 県、がわからなかったわたしは生返事をして続けた。
「じゃあ何、もっと人がいるところに移動すんの?」
「そうしようかね。お嬢さん、駅に戻りましょうか」
「はいはい。その呼び方やめて」
 わたしたちは今日の道のりをそのまま遡るようにして駅へ戻った。駅構内は来たときよりもさらにごった返していたので、わたしは天井近くまで浮かび上がってやり過ごす。
 もちろん、老婆のことは見失わないようにあの帽子をずっと目で追っていた。いろいろ動いていたけど、この距離じゃ何をしていたのか詳しくはわからなかった。
 やがて、彼女がこちらに手招きのような仕草をしているように見えたので下まで降りた。
「なに?」
「これから新幹線に乗るよ。時間まで少しあるから待ちましょう」
「…………は?」
 新幹線。わたしの知識が正しければそれは、とんでもなく遠くまで行くときに乗るやつだ。
「え、ちょっ、どこまで行く気?」
「ふっふっふ」
 老婆の不敵な笑みに、わたしは人間でも鳥類でもないくせに鳥肌が立ってしまった。


「うわぁ…………!!」
「どうだい、すごいだろう」
「こ、これやばいって……!」
 電車に比べると驚くほど快適な新幹線の旅を終えて到着した先。駅の広さ、騒音の密度、なにより、人、人、人。すべてが老婆の地元とは桁違いだった。
 こんなにすごい量の人間が生きているのなら、死にかけてる人なんてすぐに見つかるんじゃないかとわたしでも思った。
「とりあえず今日は宿を探さないとね。はぐれないように気をつけるんだよ?」
「……わかった」
 このものすごい人の波じゃあ、あまり上まで浮かび上がるとすぐに老婆を見失ってしまう。彼女のできるだけ近くで飛んでいたわたしは、なんども駅内の店の看板にぶつかりかけた。
 外はもう暗くなっていた。慣れた様子の老婆についていくと、いつのまにかもう民泊にいた。
「あんたの行動力なめてたわ……」
「なめてもらっちゃあ困るねぇ。これでも働きながら子供を4人育てた女なんだから」
「あんまり調子に乗って死なないようにね」
「おや、どっちなんだい」
 笑いながら、老婆は先の未来を手帳に書いていく。インクはまったく減っているようには見えない。
 当然だ。彼女のインクは平均に比べとても大容量なのだから。特に工夫しなくても平均寿命ほど生きられるくらいに。
「明日も街に出るからね、ちゃあんと休みなさいよ」
「わたしに休むとか寝るって概念はないからね。……あと身体が汚れないからお風呂も入らないよ。誘っても一緒に行かないから」
「あらあら、先読みされてしまったねぇ」
 そして、老婆がすでに寝静まった真夜中。わたしは窓の外をずっとずっと見ていた。


「あんたさ……疲れないの……?」
「全然だ。これがインキの魔法の効果なのかね」
「はぁ……」
 この街は、やはりとんでもない。人外であるわたしですら人酔いというものをしてしまった。
 そんなわたしに相反してピンピンした老婆は進む。たまに座って道行く人を眺める。それの繰り返しだった。
「着いた。緑はやっぱり良いねぇ」
「やっと人が少なそうなところだ……」
「人は多いよ。ふふふ。ただ広いからそんなに混んではいないさ」
 そこは、とてもとても広い公園だった。噴水がある石畳の広場の横に芝生がはてしなく広がっていて、木がまばらに生えている。小さい子供やその親、散歩に来た老人などで活気づいていた。
「まずは座ってひと休みしようか。おや、出店が来てるね」
「なんか食べるの?」
「アイスクリームが売ってるよ。一緒にどうだい?」
「え? ……ああ、この前言ってたやつか。だから、わたし食事はしないの」
「挑戦だけでもしてみましょうよ」
「嫌だよ、自分の分だけ買ってきな」
 そう突き放すと、老婆は残念そうに出店のほうへ歩いていった。
 キッチンカーと呼ばれているカラフルな四角い車。それの前に古臭い服を来た老婆が立っている様子は、ちぐはぐすぎて少し笑えるものだった。
 やがて、カップを手にした老婆が戻ってくる。中には綺麗な丸の団子みたいなものが入っていた。
 淡いピンクのとクリーム色のでふたつ。ピンクのほうに透明なスプーンが突き刺さっていた。
「これがアイスクリームだよ。いちご味とバニラ」
「へぇ。冷たいってやつよね?」
「そうだよ」
 食べられないけど少しだけ興味が湧いて、顔を近づけて観察する。表面はざらざらしていそうな感じで、匂いはなにもない。カップにちょっとだけ触れると確かに冷たかった。
「さて、溶けてしまう前に食べないと」
「溶けるんだ」
「そうだ、溶けたら美味しくなくなっちまう」
「それって不便だね」
 ひと口食べると、老婆はにっこり笑顔になった。
 食事とは不思議だ。知ってる範囲だと、いとも簡単に人を笑顔にして、「生きる」を支えているもの。
 わたしには消えても理解できないんだろうな、とアイスクリームを頬張る老婆を見ながら思っていると、目の前にスプーンが突き出された。
「…………なに?」
「食べてごらんよ、甘くて美味しいよ」
「……どうせ無理だよ」
「良いから、お口を開けなさい」
「誰かに見られたらどうすんの、超やばいやつだよ」
「出店も遠いし誰も見てないわ。ほら」
「…………………………」
 観念したわたしは、だめ元で口を開けてアイスクリームを入れた。
 どうせだめだ、身体がはじくか、味を感じられないか、そんな結末だろう。
 ――と、思っていた。
「……ん、なにこれ!」
「どうだい?」
「…………美味しい」
 それは酸っぱくて甘くて、とっても美味しかったんだ。
 老婆が言ってた通りにひんやりしていて、ざらついてそうな見た目に反してなめらかで、口に入れるとすっと溶ける。甘くて幸せな味が口の中に残る。
「ほら言っただろう! 食べられるじゃないか、ふふ」
「…………もっと……」
「なんだい?」
「…………もっと、もらっていい?」
「もちろんさ。わたしはもう食べたし、全部だってあげるよ」
 老婆がカップごとわたしの手の上に置いてくれた。嬉しくなったわたしは、さっそくスプーンを突き立てる。
 クリーム色をしたほうは、またピンクのほうと違う味だった。バニラ、と老婆は言っていた。甘くて濃厚だったけれど、わたしは爽やかさのあるいちご味のほうが好きだった。
 見ると、老婆はわたしを見て幸せそうに笑っている。
 急に恥ずかしくなってきたわたしは、ぶーっと唇を尖らせて言った。
「……なに見てんのよ」
「いやぁ、改めて、美味しそうに食べる人を見るのは幸せだと思ってね」
「わたしは人じゃない」
「食べ物を美味しいと思えるなら、立派な人間じゃないのかい?」
「違うよ」
 わたしは自分の膝に視線を落とした。
「……違う。わたしは、妖精とかいう化け物」
「そんなことは言わないでおくれ」
「…………………………」
 しまった。つい浮かれていた。
「……ありがとう、あとはもういいよ」
「全部あげるよ?」
「ううん、もういい」
 わたしははずみをつけて立ち上がる。
「食べたらさすがに探さないと、いつまで経っても終わんないよ」
「そうだね。行こうか」
 それでも結局、その日もまったく進展がないままにまた同じ宿に戻ってきた。
「公園ははずれだったと思う。健康なやつしかいない」
「良いことなんだけれどねぇ」
「明日はもっと不健康そうなところに行こう」
「はっはは、そんなところってどこだろうね」
 また夜が来る。老婆が風呂に入っている間、わたしは部屋でひとりぼーっとしていた。
 突然だった。
 突然、目の前と頭の中が霞んできて、やがて真っ暗になる。
 はっと気づいたときには、わたしの顔を穏やかな笑みの老婆がのぞき込んでいた。
「おや、おはよう」
「…………今の、なに……?」
「どうしたんだい?」
「今、なんか、目の前が真っ暗で、さっきまでいなかったあんたが急にいて」
「ああ。なにもそんなに怯えることはない。お嬢さんは寝ていただけさ」
「……そんなわけはない。だって、妖精が眠るわけ」
「アイスクリームも食べられたんだから、寝たって不思議ではないよ」
「…………………………」
「怖いことじゃあないわ。安心しなさい」
「でも…………」
 そうだ。なにもかもおかしい。わたしが食事できたのも、居眠りなんてしたことも。
「あなただって疲れたんだろう。寝られるなら寝なさい、いいね?」
「……でも…………」
 なにかがおかしいと思いながら、妖精になって初めて靴を脱ぎポシェットを下ろす。
 そして老婆の布団に潜り込んだら、果たしてなにか考える時間があっただろうかというくらいすぐに、意識が消えてしまった。
 それを「眠る」と言うのだと、起きてからちゃんと理解した。


 翌朝、わたしは初めて「眠い」を知った。
 眠い、眠い。考えが上手く回らない。
 しかし、老婆がわたしのポシェットを手にしているのを見て、一瞬で目が覚めた。
「ちょっとなにしてんの! それ触っちゃだめ!!」
「あら、すまないね。踏んでしまわないように移動させてただけだよ」
「もうっ…………」
「……このカバン、中になにか入っているね?」
「………………っ!」
 わたしは老婆の元に寄ると、ポシェットをひったくって自分の肩にかけた。
「絶対に中は見ないで」
「ああ、わかったよ」
「早く支度して、行くよ」
「そうせかせかしなさんな」
 今日は、観光向きではない地区をひたすら練り歩く計画を立てていた。観光地にはどうせ健康な人間しかいないだろうという理由で。
 通行上仕方がないので、また人混みに突っ込む。しかし、わたしは浮かび上がらずに老婆のすぐ横を歩いていた。
「おや、飛ばないのかい?」
「……浮かぶことができないの。なんか、身体が重くて」
「あらまぁ……」
 起きたときから身体に違和感はあった。どうして、どうしてこうなったんだ?
 ――まさか、人間らしいことをしたせいで人間に近づいている?
 なわけない、それはありえない、とわたしは脳内をかき消す。
 だって。
「はぐれないように手を繋ぐかい?」
「……嫌だ。触れないで」
 だって、わたしはもう、一度死んでいるんだから。
 それなのに意識を持って動き続ける、化け物なんだから。
「わかったよ。気をつけてね」
「はぐれないから」
 そう言ったときは、迷子になるなんてありえないと思っていた。
 つまり、そう。
 浮かべなくなったわたしは、その後、人混みの中であっさりとはぐれてしまったのだ。
「ど、どうしよう……!」
 とてつもなく大きな交差点に溢れた人々、そのほとんどはわたしよりも背が高いから先がまったく見えない。
 視界にいるのは、何人ものスーツ姿の男性と作業着のおじさん、派手な格好をした女の子、手にスマートフォンをずっと握りしめている若い人。
 どこにもあの老婆の姿はない。
 空高く浮かび上がって探せばすぐ見つかるのに。何度も挑戦しているが、足は地面のアスファルトから5センチも浮かばずにまた降下してしまう。
 そうしているうちに段々と疲れてきた。疲れる、なんて現象はありえないはずなのに。
 すると、辺りにポップで単調な機械音が鳴り響いた。
「な、なに?」
 そして人混みが一斉に道路へ流れ出す。
「うわっ、え、ちょっと!」
 逆らえずに押し出されたわたしは、やがて老婆とさっき通った場所へと流れ着いてしまった。
 彼女がわたしを捜してくれていたとしても、一度行った場所に戻っているとは思わないだろう。きっとわたしから捜さないと見つけてもらえない。
「……………………」
 流れ着いた向こう岸には人の少ないエリアもあった。そこに逃げこんだわたしは、必死に辺りを見回す。
「いない……」
 仮に老婆がいたとしても見つけられなそうなくらいの人混み。はぐれてしまえばもう出会えないような気しかしなかった。
 どうしよう、もう、無理なんじゃないか。
 急に、わたしは心細くなってきた。
 寂しくて、焦って、怖くて、怖くて、走り回って老婆を捜す。
 わたしの姿は老婆にしか見えない。それを良いことに道路へ飛び出して反対側に渡っても、見つからない。いない。どこにもいない。
「どこにいるのっ……」
 はっ、と気づく。空の色が変わっている、もう、橙色が混じり始めている。
 そんなに時間が経っていたの?
「どこなのっ!!」
 声で気づいてもらえるかもしれないと思ったけれど、それも虚しい。
 どうしよう。このまま、夜になっても見つからなかったら。
 彼女にしか見えないわたしが、ずっとひとりで……。
 そんなの、さすがに怖いよ。
 ――そのときだった。
「……あれ……?」
 恐ろしく大量の人の波が、ぴたりと静止した。
「なにこれ……」
 死んだような無表情のまま、道のすべての人が動きを止めて、騒音が一気に消える。
「……時が止まってる?」
 地面と空を交互に見渡して、わたしはあることに気がついた。
「これって、まるで……」
 インクの未来が切れたときみたい。
 ――あ。
「あ、そうか!」
 そうだ、インクの未来が切れて時間が止まれば、動けるのは妖精(わたし)持ち主(老婆)だけ。
 だから今捜せばきっと見つかる!
 わたしは駆け出してそこらじゅうを捜し回った。
 すると、視界の端でなにか動くものを見つけた。
 必死に走って、ぴくりともしない人々をかき分けてそこへ向かう。たどり着いた先は、街路樹の下にあるベンチだった。
「はぁ、はぁ……」
「あら! 見つかったわ!」
 驚いたようすの老婆は急ぎ足でわたしのもとへ来る。立ちつくしたわたしを眺め回して、心配そうに言った。
「大丈夫かい? 怪我はない?」
「…………………………………………」
「見つかって本当に良かった。ちょうど未来を書いていなかったから、あなたが見つかる未来を書こうと思っていたところだったの」
「…………………………………………」
「……お嬢さん、大丈夫?」
 ありえないことが、起こった。
 わたしの頬を伝って、足元へぽつりと落ちたしずく。
 ぽつり、ぽつりと、降りはじめの雨のように落ちていく。
「あらあら、もう大丈夫だから安心なさいね」
「……怖かった」
「もう大丈夫よ、今度ははぐれないようにね」
 わたしは、怖かったのと会えて安心したのがぐちゃぐちゃになって泣いていた。
 ありえない、はずだった。妖精が泣くなんて、化け物が、泣くなんて。
「もうお宿に帰りましょうね。未来を書くから待ってなさい」
「っ………………」
 しばらく待っていると、時の流れが再生される。動き出した人混みを見ながら彼女が立ち上がった。
「さあ、行こうか」
「…………おばあちゃん」
「うん、なんだい?」
「手、繋いで」
「ああ」
 宿に戻ったわたしは、今日もぐっすりと眠った。


「ところで、お嬢さん」
「なに?」
「お嬢さんは、どうして私なんかにこのインキ瓶をくれたんだい?」
 翌日、歩きながら彼女はそう訊いて来た。わたしは、ちょっと迷ったあとに答える。
「……そういう()()だからよ、そうやって決められているの。わたしの意思じゃないわ」
「そうなのかい。理由がわかれば、私が誰にこれをお譲りできるのか考えられると思ったんだけどねぇ」
「……もともとは」
「うん?」
 わたしは一瞬言うのをためらった。でも、心の下の方から言ってしまいたい気持ちがせり上がってきて止められなかった。
「もともとは、あれはわたしのインクなの」
 化け物のくせに、感情を制御できないなんて。
「……おや?」
「わたしのインクだけど、おばあちゃんにあげるっていう()()なの。絶対」
「……そうだったのかい」
 おばあちゃんはいつもの笑顔のまま言う。
「その規則は誰が決めたんだい?」
「知らないよ。わたしが存在し始めたときにはもう決まってたの」
「そうなのねぇ……」
 優しくて穏やかで、何を言っても丁寧に受け止めてくれる彼女。もう、あのことも言ってしまいたいなと思った。本当はだめだけど。
 だから小休憩で座ったときに、わたしは肩にかけたポシェットを開けた。
「ほら、見て」
「なんだい?」
「これが、わたしの……」
 彼女に渡したインク瓶と万年筆を入れてきたポシェット。彼女に中を見られないよう必死になっていたそれには、実は他にも物が入っている。
 そう、それが、
「おや…………」
 わたしの瓶だったものだ。
 尊いたったひとつの瓶が、真っ二つに割れてしまった日。
 忘れられない。
「……お嬢さん? 大丈夫かい?」
「……うん、ごめん、やっぱなんでもない」
「わかった。少し休んだら行こうね」
「うん」
 やっぱり、冷静に話すのは無理そうだった。
 元々は、この瓶の中にもたっぷりインクが入っていたんだ。
 それが、不慮の事故で割れたせいですべて零れてしまった。零れたインクをまた戻そうにも、割れた瓶には入れることができない。
 それなら、割れていない瓶にまた入れればいい。
 ――それが、()()の始まり。
「今日もインクを渡せる相手なんて見つかりそうにないねぇ。どうしたものか」
「……インクが尽きそうな人なんて、誰が見てもわかんないもんね」
「おや、妖精さんたちの間ではそういう言い回しをするのかい?」
「さあ。……他の妖精に会ったことなんてないし」
「お父さんやお母さんは?」
「妖精に家族はいないよ。そもそも生きているものじゃないし」
「幽霊のような存在なのかい」
「まあ、それがいちばん近いかもね」
「そうかい」
 おばあちゃんが暖かく笑う。
 ああ。
 なんだかもう、()()とか本当にどうでもよくなってきた。
「……妖精っていうのは元々、本当はそのときに死ぬはずじゃなかった人間」
 ぽつりと零した真実に、彼女は少しだけ目を見開いた。
「この世では、ひとり一瓶分だけ物語を生きられる。空の上で誰かが書いている物語を」
「物語……」
「人が死ぬときはインクが尽きたときだけだ。それなのに、空ではどっかの馬鹿が瓶を落として割ることがあるんだよ」
 そうやって命を落とした人間は、「本当はそのときに死ぬはずじゃなかった」ので特別扱いになる。
 それが、わたしたち《妖精》だ。
 そして妖精の規則として、零れた自身のインクは回収して誰かに受け渡さねばならない。
 この世で真っ当にインクが尽きた誰かに。
「……そうなのね、そうだったのね……」
「…………本当は教えちゃだめなんだけどね。だからいつか死んでも大妖精様には黙っててよ」
「ああ、言わないよ」
 彼女の優しく柔らかい笑顔を見て、わたしも自然と笑顔になった。
「ま、ちゃんと寿命をまっとうした人は大妖精様には会えないから大丈夫か」
「それはちと残念だね」
「会わなくていいよ、めっちゃ怖いから。おばあちゃんは天国に行って神様に会うほうがいい」
「はっはっは。もしかしたらお空から今もその大妖精様が見ているかもよ?」
「え、やだっ! 逃げよう!」
「冗談だよ、ふふふっ」
 彼女は空を見上げると、今まであまり見なかったような切ない顔をした。
「早く空の上に行って、お父さんに会いたいねぇ」
「…………ごめんね、インクなんか持ってきて」
「いや、いいんだよ。最後に楽しい旅ができたし、お嬢さんに出会えたから」
「…………………………」
 暖かく清々しい声で、彼女は言う。
「この旅が終わってからでいいんだ。お父さんに会って、兄弟や友達と話して、それと……」
「他にもいるの?」
「……ああ。私はひ孫の顔を見ることができなかったからね。ひ孫ちゃんに会わないと」
「ひ孫?」
「私の孫娘夫婦の子供だよ。産まれてくる前にお空に帰ってしまったんだ」
「へぇ…………」
「もし元気に大きくなっていたら、お嬢さんみたいに可愛かったんだろうと思うと寂しいねぇ」
「…………………………」
「……悲しい話をしてすまないね。さあ、今日はもう戻ろうか」
「……うん」
 ――そうか。
 その話でわたしは、気づいてしまった。
「………………っ」
 産まれてくる前に亡くなったひ孫。
 産まれる前に瓶を割られたわたし。
 そして、まだおばあちゃんにも話していない、妖精のもっとも重要な()()


 大妖精様は、涙をこらえる彼女のことを空の上から見ていた。


 次の日。昨日とまったく同じように当てもなく歩き、それぞれの物語を生きる人々の波から死にそうな人を探していた。
 でも、実はずっと、この旅が無駄足だって、わたしにはわかっていたんだ。
 それなのに言えなかった。この()()は絶対。言えるわけがなかった。
 肩から下げたポシェットを押さえる。かたい瓶の感覚が布越しに伝わる。
 言わなくちゃいけないことを言えないまま、もう夕方が近づいてきていた。
「ここの先に展望台があるんだ、景色が良いから行ってみようじゃないか」
「……そんなことしてたら暗くなるよ?」
「まだ大丈夫だろう」
 それからは、あまり口を開くことなくその展望台へ向かった。もうわたしはまったく飛ぶことができなかったから、はぐれないようにちゃんと手を繋いで。
 柔らかい手の感触が、今日は悲しかった。
 彼女は大丈夫だと行っていたけど、展望台へ続く階段を上っているときにはもう日が落ち始めていた。今日の夕刻はオレンジ一色ではない。明るい藍色のような空に、少し赤みを帯びた雲が流れている。それでいて、これからやって来る黒の気配がする。
 時間が時間だから、展望台の上には誰もいなかった。そもそも観光地らしくなくて、本当にただの崖っぷちを展望台に整備しただけみたいな感じだった。
 でも、すごく遠くまで見えた。
「綺麗ね」
「ああ。もしかしたら私の住む家まで見えるかもしれない」
「それはないよ」
 立ち並ぶビルは白銀色にきらめいて、緑は夕日に映える。空はまだ青さを持っている。
 その色がわたしに染み込んで、どこか心を軽くする。素直になる。
 言うならもう今しかない、と思った。
「……おばあちゃん、ごめんなさい」
「どうしたんだい?」
「……他にも、黙ってたことがあるの。大事なこと」
 わたしは、きちんと彼女に向き合って、目を見て話す。
「あのインク瓶はね、妖精と血の繋がりがあった相手にしかあげられないことになってる。少なくとも()()ではそうなんだ。だから、いくら捜しても、おばあちゃんの家族じゃないと渡すことはできないかもしれない」
「……あら…………」
「こういうの、人間に教えちゃいけないって厳しく言いつけられてたんだ……ううん、言い訳はしない。本当に、言わなくてごめん」
 そう、彼女の旅は、初めから無駄足だとわたしにはわかっていたんだ。
 最初は老婆の気が済むならなんでも良いって思ってた。
 でも、もう、そうは思えなくなった。
「家族だとしても、もうじきインクが尽きる人――死にそうな人、じゃないと、きっとあげることはできない。だからもしそういう人がいるんだったら、すぐに向かってあげて」
「そうねぇ……」
「死にそうな人なんていないなら、自分の人生に使ったほうがいい。もし本当に死にたくなったらインクを捨てることもできる。どうするかはわたしが決めることじゃないから、おばあちゃんの好きにしたらいいと思うよ」
 言い切って、わたしは大きく息を吸った。
 夕方の心地いい匂いがする。本当は、ずっとずっとずっと、この匂いがある世界にいたい。
 でも、妖精なんて化け物がわがまま言っている場合じゃない。消えてしまう前に彼女に真実を伝えて、幸せに生きてもらわなきゃいけない。
 ()()を破って長居して、多くのことを話しすぎてしまったんだ。責任はとらなきゃいけない。
 彼女の瞳に光が入って、透き通るように輝く。
「どうする? 渡せる可能性のある家族のもとに行くか、旅を終わりにするか」
「……妖精さん、ひとつ訊いていいかしら」
「なあに?」
「あのインキ瓶は、血の繋がりがないと渡せないのよね?」
「ええ」
 そうだ。だからわたしがインクを譲渡した相手は、わたしの血縁者。
 つまり、彼女はわたしの――。
 彼女のことをじっと見つめる。優しくて暖かいあなた。
 ――わたしの、本当のおばあちゃん。
「…………………………」
 彼女は何かをじっと考えていた。血縁者の中で命が危ない人がいるか思い出しているのだろうか。
 彼女が静かに口を開く。
「……私の知る親族で、本当はそのときに死ぬはずじゃなかった人」
 その目に何か、特別な光が宿っていた。
 はっとする。
「え……?」
「私にはひとりしか思いつかないんだ」
 彼女が、泣きそうな顔で笑った。
「あなた、私のひ孫さんなのかい?」
「……………………………………………………」
 その瞬間、わたしの中で記憶と感情が駆け巡った。
 安心するあたたかさ、感じた鼓動、母と父の声。そして産まれる前に、わたしのインクを管理していた誰かさんが瓶を割ってしまった音。
「……おばあちゃん…………」
 気づかれてしまった。
 もう、終わりだ。


 大妖精様は、絶望する彼女を空の上から見ていた。


 「あらまあ、こんなに近くにいたなんて……」
「………………………………」
 彼女がわたしの頭をそっと撫でた。くすぐったくて笑う。
 でも、果てしなく、悲しくなった。
 もう終わりだ。
 人間に正体を見破られた妖精の末路は知っている。嫌と言うほど教え込まれている。
 正体を知られた妖精は、世界のどこからも完全に消えてしまう。
 だから血縁者にしか渡せないことを秘密にするという()()は、最重要だとされているんだ。
 それでも仕方ない。彼女に近づきすぎて、伝えすぎたわたしが悪いんだ。その責任だ。
 悔しいけれど。悲しいけれど。
「……そうだわ!」
 ふと、彼女がひらめいたような声を上げた。
「どうしたの?」
 あの変な柄のリュックを下ろす。彼女の孫ということは、これはわたしのお母さんがプレゼントしたものということか。
 そして、彼女は中からインク瓶を取り出した。
「……なにするの?」
「見つけたわ。これを渡すお相手をね」
「…………まさか」
「インキが尽きた人で、私と血の繋がりがある人」
「……何を言ってるの」
「あなたの命をお返ししたいわ」
「無理よ!」
 わたしは叫ぶ。
「瓶は世界でひとりひとつだけ、他人の瓶で生きることは絶対にできないの! わたしのはもう割れてしまった、もう……もう、無理なの!」
「わからないよ」
「なにがっ……」
「お嬢さん、瓶を見てみたらどうだい」
 おばあちゃんの目がおかしい。
 瞳の色が、揺らいで。
「は……?」
 わたしは焦りながらポシェットを開く。
 そこには、真っ二つに割れた瓶の破片が――。
「……んなこと」
 破片、じゃない。
 そこに入っていたのは、蓋のない空っぽのインク瓶だった。
 それは割れているどころか、傷ひとつなくつやつやとしている。
「なんで……!」
「……うふふ」
 おばあちゃんが優しく笑う。
「大妖精様が教えてくれたわ」
「…………そんな」
 夕刻の展望台。ただの少女のように立ち尽くす妖精。
 大妖精様は、空の上から見ている。
「じゃ、じゃあ」
「……そうね。これでもう大丈夫」
「ま、待って!」
 わたしは、自分の瓶をとられないように必死にポシェットを押さえた。
「だめっ、だめ!!」
「良い子だから。その瓶をおばあちゃんにおくれ」
「だめなのっ!」
「……どうして?」
「……だって…………」
 わたしの変な色した瞳から、ぼろぼろと涙が零れる。
 わたしは生きたかった。世界を見ずに死んでしまったことが悔しくて悔しくて、何がなんでも人間として生きたかった。
 でも、その願いをそっちのけにできるほどに。
「だってっ……わたし、おばあちゃんのこと大好きになっちゃったんだもん!」
 泣きながら、唇と手足が震える。
 震えるほどに、わたしは、おばあちゃんが大好きになってしまった。
「インクを受け渡してしまえば、今度はおばあちゃんのほうが死んじゃう! 嫌だよっ……!」
「でもね……」
「……もう、おばあちゃんがいない世界なら、わたしは生きなくてもいいっ」
「そんなことを言わないでおくれ。老婆よりも新しい命のほうが大切だと決まっているんだよ」
「嫌だ!」
「瓶をお出し」
 涙でぐしゃぐしゃになった目でおばあちゃんの目を見る。優しさはそのまま、暖かさもそのまま。でも、色が、違う。
 違うでしょ。
 それは、妖精(わたしたち)の色でしょ。
「嫌だよ……」
「……本当は、お母さんやお父さんに会いたいだろう?」
 その言葉は、わたしをぐらりと揺らがせた。
 お母さん。
 お父さん。
「っ………………」
 もう一度おばあちゃんの瞳をじっと見る。そして、もう後戻りはできないことを悟った。
 わたしは、空っぽで透明の瓶を取り出す。
「よし、偉いね。さあ」
「……嫌だ…………」
「大丈夫さ。いつかお空の上で絶対に会える」
「…………………………」
 彼女は自分の瓶の蓋を開けると、少しずつわたしの瓶に注ぎ始める。その様子をぼやけた視界で見ながら、わたしは泣きじゃくっていた。
「やっぱりやめようよっ…………おばあちゃんがいなくなるなんて……!」
「だーめ」
「なんでっ……」
「大丈夫、いつでもそばにいるからね」
 わたしの瓶に入れられたインクは、揺らめきながら不思議に色を変える。どこまでも透き通るような藍色が、夕日の強い光で金銀に煌めく。
 その光が、わたしの中に未来への希望をぱっと灯した。でもそれも、やっぱりおばあちゃんへの想いにすぐかき消される。
 もう、もう、おばあちゃんの瓶が、空っぽになっちゃう。
「おばあちゃん……!」
「ああ。大丈夫だよ」
「…………ありがとう……」
「ふふ、そうさ、感謝を忘れない子になるんだよ」
 そして、最後の1滴が、彼女の瓶からわたしの瓶に注がれた。
 蓋のないわたしの瓶に、彼女のインク瓶の蓋を付けてしっかりと閉める。
「さあ、幸せになりなさい」
 彼女は美しい笑顔で、インクに満たされた瓶をこちらに差し出した。
「幸運なあなたへ」


 大妖精様は、空の上でほほえんでいた。


 END
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