君とずっと

文字数 9,727文字

《君とずっと》


『朝8時を回りました。都心は爽やかな晴天が広がっています』
 ニュースの天気予報を聞き流しながら、机を丹念に吹く。
 我が家の掃除要員である僕は、今日の仕事が休みだから家の大掃除をしていた。
 開け放した窓から風が入り、どこかのお土産屋で買った風鈴が軽やかな音を立てる。
『日差しは強いですが湿度が平年に比べ低く、涼しい風により過ごしやすい日になっています』
 そんな気候も、今日を大掃除デーにした理由のひとつだ。
 ちなみに我が家の清掃は、年末の特大掃除を除いて全て掃除要員の僕の担当である。理由は、同居する彼女は掃除が苦手だからと、肌が弱くて洗剤にも埃にも触れられないから。だから僕は洗濯要員も半分は担っている。そして彼女は最強の食事要員。
 そんな彼女は、平日はいつもお仕事でいない。小柄ながらカジュアルスーツが似合う彼女は毎日忙しそうに、楽しそうに働いている。
 リビングの掃除が一通り終わると、彼女の部屋にお邪魔した。彼女の部屋に勝手に入って掃除すること、あけすけな彼女からちゃんと許可はとっている。実家の家族からはもっと恥じらいを持てとかなんとか言われるらしいが、やましいことがなくて心がオープンなのはいいことじゃないか。
 今日は大掃除デーだから、隅々まで掃除することにしよう。
 上から掃除して最後に下、ということで、まずは棚に並べられた小物類を全てどかして埃を払う。謎のマスコットやアクセサリーの定位置は大体覚えているし、多少変わったって彼女は文句言わないから大丈夫。
 雑多なものを棚から下ろし机に並べていると、不思議な色をしたインクの瓶も置かれていることに気が付いた。
 香水瓶のように装飾が入っていて、インクの変わった色と相まって万年筆のインク瓶には見えない、綺麗な瓶。
 この瓶、置き場所変えたんだ。前までは写真を並べているほうに置いてあった。
 そのインク瓶とは、彼女が僕と出会った高校時代からずっと大事にしているものだ。だから手に入れたのはだいぶ前なはずなのに、まだまだインクが残っている。よほど大切に使っているのだろう。
 インクは不透明なシルバーで、見る角度によってほのかにピンクや空色、レモン色に変化する。持ち手が七色のガラスで出来ている綺麗な万年筆と併せて彼女は使っている。
 しかしこの色のインクじゃ紙に書いても見えづらいだろう。そう思っていたら、黒や紺の紙に書けば星みたいに綺麗になるし見えやすいんだ、と教えてくれた。僕はそのとき、彼女の日記帳のページが全部黒の紙である理由を知った。彼女は律儀にちゃんと日記を書いている。
 インク瓶の隣に置かれた、これまた謎の砂時計をひっくり返しながら移動させていると、我が家の3人目のメンバーであるネコさんの声が向こうから聞こえた。程なくしてこの部屋に姿を現した彼女は、今日も小さな茶色い身体にいっぱいの躍動感を湛えている。
 ご飯の催促かなと思ったが、水を替え忘れていたことを思い出した。我が家のやんちゃ要員である彼女は、ご飯よりもおやつよりも水にうるさいのだ。
 でも棚のものを全部どかしてからにしよう、と思い、美しいインク瓶を手に取る。
 その瞬間だった。
 やんちゃ要員の名に恥じない彼女が、大きく俊敏に飛び上がって僕の背中に強烈なキックアタックをお見舞いしたのだ。
「うわっ!!」
 油断していた僕はとっさに椅子を掴んだが、キャスター付きのその椅子は凄い勢いで滑り、僕はさらに体制を崩す。
 ドダンッ。
「ミャッ」
 彼女の憤慨する声が遠のいていくのを感じた。


 ふと目を覚ますと、辺りが大変なことになっていた。
「しまった……」
 戦犯のやんちゃ大将の姿は既に無く、そこにあるのはひっくり返った椅子と、頭を強く打ったときの痛みと、あと、
「どうしよう…………!!!」
 手が滑って転がり、割れてしまった彼女のインク瓶だった。
 もうとっくに、インクは一滴残らず床に流れてしまっている。
 キラキラと虚しく光を反射する、零れたインク。
 脆そうな薄いガラスでできた装飾の入った瓶は、硬い床に落ちて、卵が潰れるように一部が粉々に砕けていた。
「………………………………」
 ごくり、と唾をのむ。
 これはもう、覚悟を決めるしかない。

「ほんっとうにすみませんでした!!」
 玄関ドアに続く廊下に正座した僕は、帰ってきた彼女に向かって誠心誠意頭を下げた。元凶のネコさんはというと、僕の後ろでのんきに毛づくろいをしている。
 彼女の部屋は、すでに掃除要員の手によってやりすぎなほどに完璧に綺麗にされている。もちろん零れたインクや割れたガラス瓶の処理も。瓶は一応まだ捨てていない。
 事後処理をきちんとしたけれど、いやそんなのまじで関係なく、いくら優しい彼女だとはいえこれはさすがに怒るだろう。
 むしろ直接怒ってくれないと困る。ここで誤魔化してしまうときっと、あとからひとりで抱えてしまうから。
 そう、そんな彼女だから、最初は無理にでも笑うか、わざとらしく頬を膨らませるかと思っていた。
「…………………………」
 でも、違った。
 状況説明する僕の前で、彼女は、見たことがないほどに青ざめていた。
 説明と謝罪をした僕が黙り込んでいると、彼女は直立したまま震える唇を開く。
「ペンは……ま、万年筆は、無事?」
「え?」
「あ、でも……生きてるってことは、無事なんだよね……」
「ど、どういうこと?」
 混乱していると、彼女は「ちょっと待ってて、ね……」と言い残して靴を脱ぎ、自分の部屋へふらつきながら入っていった。
 僕は、待っててねと言われたままに呆然と正座していたが、彼女がなかなか戻ってこないので心配で立ち上がる。
 部屋を覗くと、彼女はうつむいたまま床にへたり込んでいた。
「だ、大丈夫……?」
 弱々しい動きで振り向いた彼女の顔は、どんな酷い貧血のときよりも真っ青だった。
「どうしよう……」
 そばに寄ると、彼女の手にはひとつのペンが握られていた。
 僕が割ってしまったあのインク瓶と共に大切にされていたものだ。
 キャップと持ち手が不思議な半透明のガラスでできていて、容量の半分ほどインクが入っているのが見える。虹色のガラスと銀のインクが、照明を反射してキラキラと光る。
「本当にごめんなさい……」
 もう一度謝ると、彼女はゆるゆると首を横に振った。
「大事にしてたよね、ごめんね……。そうだ、もちろん弁償はするけど、似たのを買えばいいってもんじゃないよね……本当に」
「……ううん。よかった、ペンだけでも……」
「いや……。ごめん、本当に……」
「……そうじゃないの」
「え?」
「ごめんっ。えっと、えっと、あの……」
 彼女は、泣きそうな瞳で僕を見上げた。
「あのインクは……特別なの」
「……そうだよね……」
「そうじゃ、ないの」
「……そうじゃない、って?」
「本当に、本当に特別なの」
「特別……?」
「あのね」
 彼女が震える唇を一度ぎゅっと結ぶ。そして、意を決したようにぽつりと言った。
「黙ってて、ごめん……」
 それから彼女は、あのインク瓶と手の中の万年筆の話を始めた。

 それは、高校2年生に進学して間もないころだったようだ。
 下校中に突然、胸に強く痛みが走り、一瞬だけ気を失った彼女。
 目を覚ますとそこには、不思議な容姿の『妖精』がいた。
 その妖精に渡されたのがあのインク瓶とペンだ。
 それらを使って自分の未来を書いていかないと時間が進まないし、もしインクを使い果たしてしまえば、命も果てると言われて……。

「そんな…………」
「瓶かペンの中に少しでも……少しでもインクが残っていれば、大丈夫みたい」
「……………………」
 なんてことだ。
 僕は、僕は、なんてことを。
「本当に、もう、僕……謝ることも、できないっ……」
「ううん、ごめん……私が悪かった。もっとちゃんと、安全なとこに置いとけば。それよりも……隠さずにちゃんと、このことを伝えておけば……」
「いや......完全に僕のせいだよ」
「違うよ…………」
 この場でもなお優しすぎる彼女。
 僕はすべてが嘘であってほしいと願ってしまった。


 翌朝。早くに僕が起きると、すでに彼女はベッドから出ていた。
「おはよう」
「あ、おはよう……あのさ」
「なに?」
「ペンに残ってるあの量のインクって、実際どれくらい持つの?」
 昨晩は、ふたりとも現実逃避するように寝てしまった。
 でも、今日になっても目をそむけているわけにはいかない。インクの効果が切れて時が止まってしまえば、残ったインクでどうするかを彼女ひとりで考えるはめになる。
 ひとりで考えるには、あまりにつらいことだ。
 僕と話せるうちに、考えないと。
「そうだね……この日記帳の、見開き1ページ分くらいかな」
「そっか…………」
 彼女が持っている、紙が黒い風変わりな日記帳。今までのページには、銀色の文字で彼女に起こった出来事、いや、彼女が起こした出来事が書き連ねられている。
 彼女はだいたい片方1ページで1日分の未来を書いているようだ。日記帳のサイズからしても、それくらいが妥当なのだろう。
 となると、残りは2日。
「時間が止まっちゃうのは……?」
「えっと、今日の夕方くらいかな。いつもは夜の分まで書いておくんだけど、そのとき時間なくて、あとで書こうと思ってて……」
 おとといの寝る前のことだろう。急に実家から電話がかかってきて彼女は対応に追われていた。
「ねえ……どうしよう」
「……大丈夫、一緒に考えていこう」
 とは言っても、僕は午前中に仕事がある。帰ってくる3時頃まで、仕事がお休みの彼女をひとりにするのも……。
「ネコさんいるから私は大丈夫だよ。お仕事頑張ってね」
「でも…………」
「大丈夫だから、ね。待ってるね」
 力なく笑う彼女に見送られて、家を出る。
 仕事中ずっと考えていたけれど、やっぱりどうしていいかなんてさっぱりわからなかった。
 残りの2日を、精一杯過ごすのか。
 なんとかして生き長らえる方法を探すのか。
 とにかく早く仕事を終え帰宅して、彼女と話した。
「書く量を減らせば、2日分より多く書けたりしないかな?」
「どうだろう、上手く調節できなかったときが怖いな……それに、伸ばせても1日くらいかも」
「そうか……そうだ、願いごとを書いたら叶う、みたいなのあったよね。あ、でも……」
「うん、人の生死に関係することは叶わないんだ。あと、言われてはないけど、魔法のランプ的な感じで……インクに関する願いも叶わないような気がする」
「そうか、インクを増やすって願いも無理そうだよな……」
 薄暗い部屋でふたりして頭を抱える。ネコさんはそばにじっと座って、なんにもわかっていなさそうな顔で首をかしげていた。
 彼女がその頭に手をそっと伸ばして撫でる。気持ちよさそうなネコさんを見て、彼女の張り詰めた表情もちょっとだけ和らいだような気がした。
「……もし、さ」
「うん?」
「私があと2日でいなくなっちゃうとしたら、どうしたい?」
「……え」
 彼女がネコさんを見つめながら言ったことがすぐに飲み込めず、思考が止まってしまる。
 彼女は顔を上げて、そんな僕の目を見た。
 彼女は、柔らかくほほえんでいた。
「聞けるうちに聞いておきたいなって思って」
「いや、でも……」
「もうお日さまも降りてきたし、そろそろインクの使い方の覚悟を決めなきゃ……」
「でも……!」
 僕は思わず彼女の手を握る。
「でも、嫌だ……」
「……………………」
「ごめん、でも、嫌だよ。やっぱり、そんなの……」
「うん……」
 彼女の頬を伝って一粒、涙が落ちた。
「私も嫌だ……」
 ――現実を受け入れたようなふりをして、無理に笑顔を作る。
 そんな癖があるせいで生きづらそうな彼女も、今日ばかりは壊れてくれた。
「嫌だよ、絶対にやだよ、私……」
「……一緒に考えよう。やっぱり、このままは嫌だ。きっと、絶対、なにか方法があるよ。なにか……」
 僕が泣いている場合じゃないと思い、ぐっとこらえて彼女の肩に触れる。
「大丈夫だよ。落ち着いて考えていこうね」
「…………………………」
 またうつむいていた彼女が僕の顔を見上げる。
 そして、少し安心したのか、小さくて自然な笑みを浮かべた。
「……うん」
 その瞬間だった。
 ふっ、と右手の感覚がなくなる。
「え」
 空を切った手、その先にはなにもない。
 なんにも。
「は……」
 彼女の肩に置いていたはずの右手は空中でぽかんとしていて、そこに彼女の姿はない。
 まばたきの一瞬で、彼女が消えた。
(あや)っ!!」
 立ち上がり部屋中をぐるぐる見回す。
「嘘だろ、なんでっ……」
 焦りに焦って取り乱したが、一旦冷静になって部屋を見渡すと、彼女が食卓のテーブルの前に座っていることに気がついた。
「わっ……だ、大丈夫っ!?」
 椅子に座り、膝に両手を置いた彼女は、微動だにしない。
 急いでそばに駆け寄り、見ると、テーブルの上には日記帳と、さっきまでここにはなかったはずのあの万年筆があった。
 そして、彼女は震えながら泣いていた。
「……………………」
「どうして……」
 はっとして、彼女の万年筆を凝視する。
 インクが、減っている。
「まさか……!」
 彼女が、小さくうなずいた。
「……止まってたの」
 震える悲痛な声が、夕刻の薄暗い部屋に吸い込まれていく。
「時間……止まってた。もうずっと、永遠なんじゃないかってくらい……ひとりで、考えて……」
「…………そんな」
「そっちからは、どんなふうに見えたの?」
「いきなり消えて、机のほうに……瞬間移動したみたいに」
「そっか……」
 彼女の決断が気になって、開きっぱなしの日記帳に目を落とした。
 小学生が使うようなチープで可愛らしい日記帳。黒い紙のページには銀色で丸っこい字が並んでいる。彼女の字だ。
 そんな愛らしい字も、今回ばかりは見るに耐えなかった。
「…………………………」
「……残り、1日だよ」
 彼女との静寂の間に、時計の針の音だけが響く。
 残り、1日。
 彼女が新たに書いた未来は、明日の夜には切れる。
 インクの残量は、そこからさらに1日分だけ。
 その使い道を考えるための猶予は、
「残り、1日……」
 彼女の熱い涙が、膝の上で握られた手にぼたぼたと落ちる。
「……ごめんね、私、私……ひとりになっちゃうと、なんにも……なんにも、思いつかなくて。ずっと泣いてるだけで、なんにも……」
「うん……」
「結局、普通に時間を進めるしか……」
「……ごめん、ひとりで考えさせちゃって……」
「…………怖かった」
 子供みたいに泣きじゃくる彼女をなだめながら、もう嫌だと叫ぶ脳内を無理矢理に回転させて考える。
 どうしよう。
 残りこれだけのインク。
 考えることができるのは残り1日。
 時間切れになってしまえば、また、命の選択を彼女たったひとりですることになる。
 それだけは絶対にだめだ。
 どうする。でも明日も仕事だ。
 本当は休んでずっと彼女のそばにいたい。
 そもそも事の発端は僕なんだ。僕のせいでこれ以上、怖い思いをさせるのは。
 でも仕事は、そう簡単にはいかない。
 僕が帰宅する頃にはもうとっくに暗くなっている。
 どうしよう。
 そんなので、間に合うのか。


 その日の真夜中。
 僕らはふたりとも、眠れるわけがなかった。
「願いが叶うインク……」
 希望があるのは、それだ。
 このインクは、書いた願いを叶えてくれる。
 ――しかし、人の生死に関すること以外。
 そして恐らく、インクについてもだめ。
 現実離れした願いもリスクが大きい。例えば、時間を戻す、とか。
「あの、彩さん」
「なに?」
「今までさ、どんな願いだったらインクで叶った?」
「え? んー……」
 記憶を辿っている彼女の横で、僕も過去に思いを馳せる。
 彼女が何か、願いが叶って喜んでいたこと。色々あるけれど……。
 僕は、彼女の大きな笑顔を思い返していく。
 また記念日を迎えられたとき、一緒に出かける日が晴れたとき、捨て猫だったネコさんを飼えるとわかったとき、大学を卒業したとき。
 高校時代に付き合ったときもあんな笑顔で喜んでくれたけど、あれは関係ないか。
 ん? いいや、違う。彼女の話だと、インクを手にしたのは付き合い始める前だ。
 そうそう、告白してきたのは彼女のほうだったな。
 ……あれ。
 もしかして。
「彩さん、高校のとき……」
「……?」
 僕らの関係も、いちばん最初は彼女の片想いだった。
 もしかして。
 ……嫌だな。
「僕と付き合ったのってさ」
 もしかして、僕の恋心は、
「……そんなふうに、書いた? そのとき」
 インクに操られていたのか?
「……………………」
 彼女は、うつむいたまま黙ってしまった。
 ……つまり。
 そういうことだったのか?
「違うよ」
 見ると、彼女が僕を見つめている。
 泣きはらした目が、ちょっとだけ怒っているようだった。
「さすがにそんなことはしない。あなたの気持ちをインクの力で変えてまで……しないよ」
「じゃあ、どうやって……」
「……どうやって、って?」
「あの日、告白してきた日の分の、未来って、どうやって書いたの?」
「……えー」
 彼女が、片手で反対のひじに触れる。迷っているときのいつもの仕草だ。
 そして、はにかんで小さく笑った。
「恥ずかしいな」
「………………」
 言いたくない、と拒否されたと思った。
 このとき一瞬だけ、彼女が嘘をついていると疑ってしまった僕を、誰か投げ飛ばしてほしい。
「あなたと付き合う、とは書いてない。もしもあなたが私のこと好きなら、付き合えるって書いたの」
「……え」
「もしあなたが私のこと恋愛的に好きじゃないなら振られる、とも書いてた。あのときは初期だったし、いっぱいインク使ってたなぁ」
「彩さん」
「ん? なに?」
「……………………」
 僕の視界いっぱいにいる、彼女。
 ふわふわした髪、綺麗な瞳、可愛らしいその顔立ち。
 そして何より、身体から滲み出て見えるような、優しくて清らかな心。
「ありがとう」
 そうだよ。
 ごめん。
 インクの力なんかに操られるまでもなく、大好きだよ。
「わっ」
 ぎゅっと抱きしめられて驚いた彼女も、すぐに身体の力を抜いてくれた。
 明日には未来の選択を迫られる人だとは思えない、甘くて安心する匂いがした。
「大好きだよ……ごめんね、こんなことになっちゃって……」
「いいよもう。あなたと一緒にいれば私は大丈夫だから……」
「……………………」
「……私も、大好きだよ」
 なんとも言えない柔らかくて優しい彼女の声。
 でも、すぐに、その声に涙が混じった。
「でも、でもっ、やっぱり」
「…………」
「もう、もう終わりなんてっ、絶対に嫌だ……!」
 彼女がぎゅうっと僕の身体を抱き締める。
「そうだね……」
「絶対やだよ……」
「うん……」
 彼女は声を抑えて泣いていた。
 でも。
「……よしっ」
「……ん?」
 しばらくして、そう言っていきなり僕から離れた彼女は立ち上がる。
 そのまま、きびきびした動きでキッチンへ向かうと、冷蔵庫を開けた。
「なんだなんだ?」
「お腹すいた!」
 泣きはらした目を拭って僕のほうを見た彼女。やけに気合の入った目をしている。
「腹が減っては戦はできぬ! とりあえずなんか食べてから考えようよっ」
「ふふっ」
 これぞ最強の食事要員だ。
 彼女特製やみつきトーストをふたりで食べていると、ちょっとだけ心の向く方向が明るくなったような気がした。
 そばでやんちゃ要員がすやすや寝ているのを見つめていると、僕らにもだんだんと眠気がやって来た。
 それからいつのまにか眠ってしまった僕と彼女。
 目覚めたのは僕が先だった。
 朝日の差す窓を見上げる。
 さあ。
 あと1日だ。
 彼女がもっと生きられる方法を探し出すんだ。
 絶対に。


 そんな僕の朝の気合いも、虚しいものだったかもしれない。
 夜。こんなに頑張ったのに、今日はいつもより仕事を上げるのが遅くなってしまった。
 暗い、混んだ道を、人にぶつからないよう気をつけながら走る。
 どうしよう。
 結局なにも、わからないままだ。
 願いを叶えるインク。
 日々未来を書き続けた律儀な彼女。
 残り1日分。
 どうする。
 帰宅ラッシュでごった返す駅に駆け込む。僕が乗るべき次の電車は、あと5分で――。
 いや、待てよ、なんだこれ。
 やけにたくさんの人が見上げている、駅内の電光掲示板。
 事故で遅延……!?
 そうか。人が多すぎると思ったら!
「嘘だろ……!」
 間に合うのか。
 こんなので……!!
 そうだ。そうだ、今のうちに考えよう。
 そう思って必死に頭を回転させるのに、こんなときに限って周りの声が気になって気になって仕方がなかった。
 ピリついた構内。愚痴が飛び交っている。
「遅延とかさぁ」
「ただでさえこの時間って満員なのに……」
「駅もすごい人」
「なんの事故だよ、自殺?」
「次の電車絶対ぎゅうぎゅうになるし何か対処してよほんと」
「なんでもいいからもう早く帰りたい」
「やだな……」
「遅くなったらお父さんに怒られる……」
「なんとかしてこの人混みどうにかしないとまたスリとか出るわ」
「暑すぎるだろもう……南極行きたい」
「律儀に時間通り来れんなら車両2倍とかにすりゃいいのに」
 ん?
「すみませんっ」
「え?」
 人の熱気と騒音に溢れる駅構内で、僕の近くに立っていた中年男性。
 僕が声をかけると、いかにも不機嫌そうに彼は振り向いた。
「何?」
「あの、今……今なんて、言いましたか?」
 思い切り顔をしかめた男性は、僕を頭から爪先まで見る。
「何、撮ってんの?」
「え、いや、撮ってませんっ」
 迷惑な動画配信者かなにかと勘違いされたようで、慌てて手を開いて弁明する。
「あの、そうじゃなくて、さっきの言葉がその、気になって……」
「はあ」
 呆れたような男性は、だるそうにさっきの愚痴を繰り返した。
「だからさぁ、10分おきとかで律儀に電車が来てるからこのとんでもねえ人数もさばかれてるわけじゃん? もしそのリズム通り律儀に来られないんだったら、まとめて運べるように車両の数を増やせって話。わかる?」
「………………車両の数」
 そうか。
 男性の破茶滅茶なクレーム。まあ、駅員に直接怒鳴りつけてるあっちのおばさんよりは断然ましだろうが。
 でも。
 そうか。
 わかった。
 真面目で律儀すぎた僕らがいけなかったんだ。
「ありがとうございますっ!」
「はい?」
 僕は人をかき分けながらその場を離れる。あの男性は人混みに紛れて、どこにいるのかもうわからなくなった。
 できるだけ速く進む。もうちょっとだけ人の少ないほうへ。
 そうか。
 わかったぞ。
 別に、毎日未来を書く必要はないんだ。
 まさか、こんなところで気づくなんて。笑ってしまう。
 少しだけ人がいないところに出てスマホを取り出す。彼女にメッセージを送るが、既読がつかない。
 まあでも、誤解がないように直接話したほうがいい。失敗は許されないから。
 腕時計をちらっと見る。
 間に合う。まだ間に合う!
 ――律儀に1日分ずつ未来を書く必要はない。
 そうだ。きっとそうだ。
 でも、彼女はずっと律儀に書いてきたから、ためらうかもしれない。
 もしかしたら上手くいかないかもしれない。
 でも、もう、これしかない。
 一か八かでもやるしかない。
 やがて電車が来て、人の波に揉まれながらもなんとか乗り込む。
 超満員の電車も、今日だけはそこまで苦に感じなかった。とにかく早く最寄り駅についてほしい。それだけを考えていた。
 そして到着。僕は周りと同様に急ぎ足で駅のホームを抜けた。
 名残惜しそうな蝉の声が響く道。もう真っ暗。でも、まだ、間に合うはずだ。
 僕は走った。全力で。
 いい大人がスーツでダッシュして、周りに不審がられてたかもしれない。しかもこの暑さでとんでもなく汗だくだ。
 でもなんにも気にならなかった。
 僕らの住むマンションにつく。階段を駆け上がった2階。
 息も切れたままに、いつものドアを豪快に開けた。
「彩さんっ!」
 僕の大声に驚いた彼女が、廊下に姿を現した。
 間に合った。
 でも急げ。
 ――僕の作戦は、こうだ。
 残りわずかなあのインクで一気に、
「一生分の未来を書いてしまえばいい!」


 END
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