爆弾列車

文字数 13,368文字

『ダイナマイトを仕掛けられた列車が、大阪市内を無人で走っている』
 というニュースを聞かされ、市民は大騒ぎをしたし、パニックにもなりかけた。
 だが本物のパニックにならなかったのは、
「まあ、しゃあないわな」
 という大阪人独特の気質のおかげか。
 その列車は、海軍に納入する弾薬を満載した貨車を連ね、電気機関車が引っ張っていた。
 そういう物騒な列車に、あろうことか何者かの手でダイナマイトが仕掛けられ、車内は無人のまま、丸いループ状になった大阪環状線を、止める方法もないままグルグル走り続けていたのである。
 昭和初期のある日…。
 深夜、大阪府警に匿名の電話が入った。
 府警庁舎のすぐ前には公衆電話があるが、今すぐその中を見ろという内容で、それだけを一方的に言って、すぐに電話は切れた。
 上司に言われ、若い巡査が雨の中を駆けていった。
 歩道を横切り、電話ボックスにはすぐに着いた。ドアを開けて、中をのぞきこむ。
 薄暗い電球に照らされ、電話機の上に封筒が置かれているのが見えた。
 巡査は手に取り、眺めた。宛名は書かれていない。
 中身は書類らしく、大きくかさばる封筒だ。
 巡査は雨を避けながら、庁舎に引き返した。
 上司に手渡され、封筒はすぐに封を切られた。
 中からは2枚の紙が出てきた。インクで手書きされたもので、最初の一枚にはこうあった。


貨物列車が爆発するのは、下記のいずれかに該当する場合である。
1、モーターに流れる電流が30パーセント以上増減したとき。
2、ブレーキ管圧力が半分以下に減少したとき。
3、時刻が、8月15日午前零時を打ったとき。
(参考までに、爆破装置の構造図をそえる)


 もう一枚はもう少し大きな紙で、折りたたまれていた。
 広げるとこれも手書きで、何かの設計図だった。
「何だね、こりゃあ?」
 警察官たちには意味がわからない。
 だが貨物列車という単語から、何かしら鉄道に関係あることは想像できたので、鉄道省へ人をやって、説明を頼むことになった。
 この役目を言いつけられたのが、大田刑事だった。
 大田刑事は大阪府警に勤めてちょうど20年目。若くはない。
 中堅というよりは少し古株で、本人もわかっていたが、押し出しも貫禄もない男だ。とりえもなく、刑事として可もなし不可もなしというところ。
 野心や野望など何年も前に失い、こういう伝令的な役割にはうってつけだった。
 大田は封筒と書類を手に、若い巡査が運転する自動車に乗って、すぐに鉄道省へ向かった。
 外はまだ雨が強く降っていた。
 鉄道省大阪局の建物は、警察庁舎から見て大阪駅の反対側、すぐ北にあった。
 スピードなど出さなくても、自動車はすぐに着いた。
 午前2時だというのに、鉄道省の建物には電灯がついていた。
 もちろん府警から電話を入れてあったが、いかにも普通でない出来事が起こっている感じだなと思いながら、大田は自動車を降りた。
 雨を避けながら、玄関に駆け込んだ。
 数分待たされ、大田は河井田という男に引き合わされた。
 鉄道省の技官だと紹介された。
 河井田はまだ若く、30歳を少しすぎたぐらいだ。
 いかにも裕福な家の出という感じもする。髪は短く切り、きちんと左右に分けて、黒いふちのあるメガネをかけている。
 こんな時間なのに、ちゃんとヒゲをそってあることに大田は感心した。
「こんな時間なのに、何かあったんですか?」
 刑事の悪い癖で、自分がやって来た用事も忘れ、気がつくと大田は口にしていた。
「ええ、一時間ばかり前のことですが、ある貨物列車が何者かの手で乗っ取られました。犯人から電話があり、鉄道省の玄関前に封筒を置いておくから、すぐに中身を見ろと言うのです。宿直員が封筒を拾いに行き、中身を見たら書類が入っていまして…」
「これと同じ書類かい?」
 大田は封筒を出し、河井田に見せた。
 河井田は目を丸くした。
「同じものです。どうして持ってるんです?」
「同じ犯人から、府警にも電話があってね。でも何が書いてあるのかチンプンカンプンだから、説明してもらおうとやってきたのさ」
 大田が書類を差し出すので、河井田は受け取ろうと手を伸ばしたが、途中でやめた。
「触ってもいいんですか? 指紋は?」
 大田は笑った。
「もう調べたさ。指紋は一つもなかった。犯人は注意深く手袋をして書いたのだろう」
「ははあ」
「それでだ、ここに書いてある内容を、素人にもわかるように説明してくれるかい?」
 書類を手にし、小さな声でつぶやくようにして、書かれている文言を河井田はもう一度読んだ。
「これは要するに、『へたに列車を止めようとしたら爆発するぞ』という脅迫です。機関車のモーターのスイッチを切ることができないようになっています。へたにスイッチを切ると、貨車の床下に仕掛けたダイナマイトが爆発します。スイッチを切らないかぎり、機関車は走り続けます」
「ブレーキをかけたらどうだい?」
「同じです。ブレーキをかけるには空気管圧力を下げる必要がありますが、それでもダイナマイトは爆発しますね」
「うまく作ってあるわけだ。しかし、ただの脅かしという可能性はないかい?」
「犯人は運転台の中に入ったわけでしょう?」
「なぜわかる?」
「平野貨物駅そばの暗がりで、運転手が手足を縛られ、地面に転がされているのが見つかりました。機関車に乗り込んだのなら、犯人がダイナマイトを仕掛けるのは簡単です」
「そのダイナマイトだが、具体的にどうやって仕掛けたと思うね?」
「機関車の電流計と空気圧力計に感知器をつないだのでしょう。そこから電線を伸ばし、貨車のおなかにぶら下げたダイナマイトに接続する。難しい仕事じゃないですね」
 翌日になって、犯人からの二度目の手紙が大阪府警に届いた。
 郵便で届けられたのだが、前日にポスト投函されたものだ。
 この手紙の内容は、下記のようだった。


日本国政府に告ぐ。過去3年間にさかのぼって、課税徴収されたすべての相続税を免除し、一人の例外もなく全額を払い戻せ。そうすれば、爆弾列車の安全な解除方法を教えよう。よい返事を期待する。回答期限が8月15日の午前零時であることをお忘れなきよう。


 これが新聞に発表されると、国民の一部は大喜びをした。
 一部とはつまり、過去3年以内に何がしかの財産を相続した者たちのことだ。
 そういう連中の中には、犯人を昭和の義賊と呼ぶ者まで出る始末だった。
 もっとも大多数の国民は、相続などとは無縁な生活を送っており、そういう連中にとっては義賊でもなんでもなかったが、税金の払い戻しを強制されて日本国政府が大損をするのは明らかだから、多少の溜飲が下がりはした。
 犯人は、過去3年間に何らかの財産を相続した者だと考えられた。
 だがそれでは数が多過ぎ、捜査の手がかりにはならなかった。
 世間では、自分は犯人ではないことを証明するためと称して、
「私は税金の払い戻しは受けない」
 と公言する者もいたが、ごく一部だった。
 大多数の該当者たちは、このタナボタを両腕を広げて受け入れるつもりでいた。
 世間がそうやって騒いでいる間も、日本国政府、大阪府警、鉄道省の内部では対策が進められていた。
 爆弾列車は、もう2日近くも環状線をグルグル走り続けていた。
 何かの手違いでいつ爆発しないとも限らないので、環状線の両側一キロメートルは、一般人の立ち入りが完全に禁止された。
 環状線と交差する道路も、細い道は警察の手で閉鎖され、大きな通りだけが通行を許された。
 だがそれも、爆弾列車が遠くにいる間だけで、近づくたびに閉鎖されたから、市民は不便な生活を強いられた。
 総延長が24キロメートルある環状線を、爆弾列車は一時間で一周した。
 環状線沿いの駅はすべて閉鎖され、東海道本線、西成線、片町線、関西本線、阪和線の列車に影響が出た。
 和歌山方面から北へ抜ける旅客のために、城東貨物線を走る臨時列車が運転された。
 梅田貨物駅に旅客列車を停車させることも検討されたが、大阪駅にあまりにも近いので、あきらめるほかなかった。
 もちろん爆弾列車に関して、日本の全員が迷惑を受けたわけではない。
 一部の新聞は、こんな懸賞広告を出した。


時間切れになって爆発するか、当局の手によって処理されるまでに、爆弾列車は環状線を何周するでしょうか? 皆さんの予想をお寄せください。100周か150周か、はたまた200周か。みごと的中した方の中から抽選で、12名様を温泉旅行にご招待!


 これが大評判になって、新聞社には応募ハガキが殺到した。
 その爆弾列車への対応だが、役所の年長の堅物たちが何一つまともなアイディアを出せない間に、ある若い男が鉄道省で声を上げた。
 それがあの河井田だ。
 河井田が言い出したのは、ある作戦だった。
 とっぴではあるが、それ以外は誰も何も思いつかず、結局それが実行に移されることに決まった。
 最初の夜に鉄道省の局舎で会って以来、大田は河井田とは頻繁に顔を合わせていた。
 大田は引き続き警察官として爆弾列車の捜査に関わったが、捜査の中心からは離れる形になった。
 大田は、府警と鉄道省の間の連絡係を命じられたのだ。
 捜査本部へは一日に一度、夕方顔を出すだけでよかった。誰と会って、どんな話をしたかを、上司に簡単に報告するだけだ。
 だから大田は、同僚の警察官たちよりも、河井田と一緒にいる時間のほうが長かった。
 河井田の計画を聞かされた時、正直に言って大田もあきれた。
 まず河井田は言った。
「爆弾列車からダイナマイトを取り除くのは不可能です。かといって相続税を払い戻し、みすみす犯人に得をさせるのもつまりません。だから考えたんです」
「どんな計画だい?」
「爆弾列車をこのまま爆発させるんです。でも大阪の町中でじゃありません。海軍の話では、積んであるのは本当に強力な爆薬で、一キロメートル四方を簡単に吹き飛ばすほどです。爆弾列車を、人気のない場所まで誘導するんです。人家も何もない山中で爆発させるんです」
「そんな都合のいい場所があるのかい?」
「大阪から神戸を越えて、山陽本線をずっと西へ行ったところに七川という町があることは知ってますか?」
「名前を聞いたことはある。よくは知らないがね」
「明治時代に山陽本線の建設が始まったとき、線路は本当は七川を通らずに、神戸からまっすぐ西へ進んで、比丹という町を通る予定だったんです。そのつもりで測量もすませ、工事も始まったんです」
「ほう」
「ところが比丹の手前にある岩山が邪魔になり、線路は行く手を阻まれました。固く大きな岩の壁で、そこに線路を通す計画は途中で放棄されました。工事はすでに大半が済んでいたのに、突然ルートを変えて、南の七川を通る形になったんです」
「へえ、知らなかったよ」
「工事が中断された場所はウナギ峠というんですが、今でも草ぼうぼうの山の中に、作りかけの線路を見ることができますよ」
「それと爆弾列車が関係あるのかい?」
「ウナギ峠は本当に山の中です。家なんか一軒もありません。あそこなら、爆弾が爆発しても影響はないでしょう」
「しかし山陽本線はそのウナギ峠じゃなくて、もっと南の七川を通るんだろう?」
「ウナギ峠の線路工事は、明治時代にほとんど完成しているんです。今から臨時に補修工事をして爆弾列車を走らせるのは、難しくないはずですよ」
 だが大田は半信半疑だった。
 明治時代から工事なかばで放置されている線路だって? 子供が畳の上におもちゃの線路を敷くのとはわけが違うのだ。
 しかし日本政府も鉄道省も、他に何の解決策を思いつかなかった。だから河井田の計画は実行に移された。
 それは大田の目にはとても奇妙に映ったが、お役所仕事とはそういうものだ。
 線路工事は、翌日から始まった。
 日本中から作業員が集められ、それだけでは足りず、軍隊まで動員された。
 資材や重機もかき集められた。
 大田は河井田に連れられ、あちこち様子を見て歩いた。
 大きな工事現場は2つあった。一つはもちろんウナギ峠だが、もう一箇所は大阪駅だった。
 大阪駅には、環状線と東海道本線が来ている。
 爆弾列車を環状線から東海道本線へ移し、そのまま西へ進ませて山陽本線へ入れる計画だ。
 ところが困ったことに、大阪駅では、環状線と東海道本線の線路が直接つながってはいない。
 これは大きな工事になった。
 ホームを取り壊し、線路を敷き変え、信号機を取り外した。
 2日間の突貫工事で、一番南にある環状線と、北側にある東海道本線の線路をつなぐことができた。
 急カーブでS字を描き、いかにも危なっかしい線路だった。
 ウナギ峠の工事は、大阪駅よりも2日遅れて終了した。
 ウナギ峠には、短いが鉄橋もあったのだ。
 しかしその準備も済み、とうとう爆弾列車を環状線から出す日がやってきた。
 大田は河井田と一緒に、七川の少し手前、ウナギ峠へ行く臨時の線路が山陽本線から分かれる分岐点で待っていた。
 そばには鉄道省や警察の同僚、軍人まで姿を見せている。
 軍人たちは軍服姿で、いかめしく立っていた。まだ第二次世界大戦が始まる前のことだ。
 ここには、臨時の電話が設営されていた。
 暑い夏の午後で、みんなしきりに汗をふいた。
 目の前には線路があり、ポイントで分岐している。
 手前の分岐はそのまま南へ進むが、もう一つの分岐は山の中へ向かって伸びていく。
 予定時間近く、ついに電話のベルが鳴った。
 河井田が受話器を取り、耳に押し当てた。
 しばらく黙って聞いていたが、河井田は受話器を置いて顔を上げ、全員に聞こえる大きな声を出した。
「爆弾列車が来ました。あと3分で姿を見せます」
 実を言うと大田は、この時までまだ爆弾列車をその目で見てはいなかった。
 あまりに忙しく、環状線まで足を運ぶ暇がなかったのだ。
 大田たちのいる場所から、やがて遠くにポツンとその姿が見えた。
 ヘッドライトが点灯したままなのがよく目立つ。
 あれから10日以上、何もかもスイッチが入りっぱなしだったわけだ。
 爆弾列車は大田たちに近づき、なんでもない顔をして、カランカランと目の前を通り過ぎた。
 確かに機関車の運転台は空っぽで、黒い貨車を5両引っ張り、機関車からその貨車に向かって電線が伸びているのも見える。
 貨車の床下には怪しげな木箱がくくりつけられ、あれがダイナマイトだ。
 もし爆発すれば、積荷に誘爆して、大変なことになる。
 カタンコトン。
 ポイントを通って、爆弾列車はウナギ峠へ通じる線路に入っていった。
 急造だから立派な線路ではなく、車体は大きく左右に揺れた。だが、それで爆発が起きることはない。
 やがて爆弾列車は、カーブの向こうに見えなくなった。
 大田たちは、古い木材を使って臨時に作られた小屋の中で待機した。
 この小屋は、ウナギ峠に向かって丈夫な壁を持ち、爆発にともなって飛来する欠片をよけるためのものだ。
「もうそろそろかい?」
 いい大人たちが狭い小屋の中で押し合いへし合いする中に大田も加わり、河井田に話しかけた。
 河井田は、腕時計の秒針を目で追った。
「もうすぐですね」
 その瞬間には、空が明るくなった。
 晴れた夏の日が、ほんの一瞬だが太陽よりも明るくなったのだ。
 そして何秒も遅れて、爆発音がやってきた。
 別の場所にいた目撃者によると、ウナギ峠の方角にまぶしい光が見え、まるで100人の写真屋がいっせいにフラッシュをたいたかのようだった。
 続いて、きのこ雲がもくもくと上がった。
 それから音がやってきた。
 でもそれは、音というよりも、硬い空気の固まりが襲いかかり、大田たちの小屋に体当たりをしたというほうが近かった。
 小屋は激しく揺すぶられた。
 小石と砂ぼこりが降って、コツンコツンと屋根にぶつかる。
 強い風が吹き付けて、砂ぼこりで目が開けていられない。
 でも風も砂ぼこりも、何分かで治まった。
 大田たちは小屋から出て、ぞろぞろ列を作って、ウナギ峠へ向かって、線路の上を歩き始めたのだ。
 大げさでもなんでもなく、本当に応急に作った感じの線路だった。
 松林を大雑把に伐採して線路を敷いてあるが、砂利はつき固めておらず、レールもくねくね曲がっている。
 架線を支える柱もなんとなく斜めになっているが、きちんとやっている余裕はなかったのだ。
 線路はゆっくりカーブしながら、林を抜けていった。
 短い鉄橋を渡ると、木々の向こうに岩山が見えてきた。
 明治時代に線路のルートを変更する原因になったという岩山だが、爆発のせいで今では半分に割れ、割れ目は新しく、ぎざぎざにとがっていた。
 このあたりでは、空気中をまだ砂ぼこりが舞っていた。
 さらに進むと、枝が折れている木が目立つようになった。
 もう少し行くと、幹が折れたり、根こそぎになって倒れている木まで見かけるようになった。
 架線を支える柱も倒れ、大木が線路に覆いかぶさるところまで来たので、またいで進んだ。
 突然、大きな機械部品が地面に転がっているのが目に付いた。
「電気機関車のパンタグラフだ」
 と河井田が言った。
「じゃあ、あれは何です?」
 と警察官の一人が言った。少し向こうに落ちているドラム缶のように丸い金属の塊を指さしていた。木の幹に引っかかり、重みで木がへしゃげている。
「あれは…、機関車のモーターのようですね」
 その少し先で、ついに線路は行き止まりになった。
 レールが引きちぎられて空を向いて尖り、突然終わっていたのだ。
 そこから先は何もないむき出しの土で、地上にあったものはすべてはぎ取られていた。
 湿った土と木の根の匂いがし、そこに火薬の匂いが濃く混じる。
 穴が見えた。
 直径は150メートル。
 ここまで来るとよくわかったが、かつて線路の邪魔をした岩山は、もうただのガレキの塊に変わっていた。
 大田はつぶやいた。
「弾薬の威力について海軍が言ったのは、大げさじゃなかったんだな…」

 爆弾列車の騒動は、これで終了した。
 環状線も運転を再開し、大阪市民の生活も以前と同じに戻った。
 犯人が捕まるどころか、どんな人間だったのか、警察にもめぼしがつかない状態だったが、それ以上犯人が何の動きも見せないこともあって、新聞に記事が書かれることもなかった。
 世間では事件は落着したものと思われたが、どうも大田には納得できなかった。
 犯人は誰だったのか? 金を得ることに失敗したのに、なぜ次の手を打ってこない? たった一度の失敗であきらめたか?
 捜査本部はまだ解散していなかったが、数週間たつうちには誰もが情熱を失い、その後いろいろな事件が立て続けに起こったこともあって、大田も別の事件の捜査に従事するようになった。
 ちょうどこのころ、ある新聞の社説が書いたのだが、山陽本線はウナギ峠を通ると、現行の七川ルートよりも7キロばかり距離が短く、かつ直線なので列車もスピードが出しやすい。
 そろそろ軍国主義が濃くなった国内の空気に敏感に反応して、軍用列車のスピードアップが国防の要になるという主張に続き、この社説はこう締めくくられた。

『確かに、先人たちがウナギ峠ではなく七川を経由するルートを選択したのには、それなりの理由があったろう。我々はそれに敬意を払うべきではあるが、時代の要求に合わせた勇気ある変革も、時には必要ではないだろうか』



 ある日、休日を利用して、大田は列車に乗って西へ向かった。
 列車は走り続け、ウナギ峠への線路の分岐点を通り過ぎ、その次の七川駅で大田は下車した。
 そしてバスに乗り換えた。
 バスは駅前を発車し、北へ進んで山道に入る。
 ぐねぐね曲がる細く長い道だ。
 そうやってウナギ峠をぐるりと迂回して、バスはついに比丹町へ入った。
 バスの車窓から見ると、比丹の町は、何もない山中に本当に突然現れた感じがした。
 ある角を曲がると不意に前方が開け、家々が見えてくるのだ。
 山中とは思えない大きな町だ。家々も一つ一つが大きくて、町全体が非常に豊かな感じがする。
 その豊かさに、どこかほころびが見える感じもする。どこがどうとは指摘できないが。
 終点で下車し、帰りのバス時刻を確かめてから、大田は比丹の町を歩いた。
 本当に山中とは思えないほど道が広く、立派だ。
 むろん舗装などないが、粒のそろった細かい石が敷かれ、一歩進むたびに足の下で音を立てる。
 馬車や自動車が通るとこの石は乱れるはずだが、きれいに敷き詰められているから、人を雇って常に整備しているのだろう。
 人通りは少なく、大田が町にいた間に10人ほどしか見かけなかった。
 黒い瓦を乗せた家々が、通りの両側に並んでいる。
 鬼瓦が、他では見ないほど大きく、細工も細かい。
 でも、やはりひとけはない。
 まるで昔話に出てくる隠れ里のようではないか、
 と大田は思った。
 そういう家々の中でも、ある一軒がとてもよく目立った。
 表通りから引っ込んで、奥まった門がある屋敷だが、左右を見回しても、目に入るのはその巨大な門と、長く続く黒い板塀だけだ。
 つまりその屋敷は、丸々一ブロックを一軒で占領していたのだ。敷地の幅は100メートル以上ある。
 大田は門の前に立ち、見上げた。
 本当に大きな門で、黒い瓦を乗せた屋根がのしかかってくる。
 大田は表札を探した。風雨にさらされているが、字ははっきりと読むことができた。
『河井田』
 ため息をつき、大田は再び歩き始めた。
 少し行くと小さな駐在所に出くわしたので、大田は立ち寄った。
 のぞき込むと、いかにも定年直前の巡査がいて、机の上で書類を記入していた。
 大田は話しかけ、自分も警察官であると明かした。巡査は立ち上がり、大田にイスをすすめた。
「この町へいらしたのは、何かの捜査ですか?」
 大田は頭をかいた。
「捜査といいますか、半分趣味のようなものです。上司に愛想をつかされましてね、やるんなら一人でやれと言われました」
「どんな事件です?」
 良心が痛まなかったといえばウソになるが、大田は適当に作り話をした。
 ちんけな詐欺事件があって、犯人をこのあたりで見かけたというあやふやな情報があるというような。
 真面目な顔で、巡査は首をかしげた。
「このあたりでは、おっしゃるような風体の者を見かけた記憶はありませんが」
「そうですか。じゃあ間違いだったのでしょう…」
 息を抜き、大田は安心した顔をした。
「お茶でも飲まれますか?」
 と、人の良さそうな巡査は、にっこりと大田を見つめ返した。
「ありがとうございます」
 巡査は立ち上がって、茶の用意を始めた。
「はじめて来たんですが、ここは大きな町ですね」
 と大田は言った。
 急須を手に、大田に背中を向けたまま巡査は答えた。
「昔から、この地方で一番大きな町でした。山陽本線ができる前は、七川よりもにぎやかだったそうです。このあたりに見える家も、みんな土地持ちや山持ちでしてね、結構な羽振りだったそうですよ」
「見たところ、今はそうでもないようですが」
「山陽本線のせいなんです。駅が七川にできたものだから、人や物の動きが変わって、この町は急速にさびれたんです」
「どうして駅は七川になったんですか?」
 巡査は、かすかに笑った。
「表向きの理由は、ウナギ峠の岩山が邪魔になったからと言いますが、本当は違うんですよ」
「どう違うんです?」
「本当は、この町の有力者たちが、こぞって反対したからなんです。駅ができるとよそ者が入ってくるだの、汽車の煙で迷惑するだの言って」
「本気だったんですか?」
「そのようですよ。あの時代には、どこの地方でもよくあったことです。この町の有力者たちは、県知事のところへ陳情もしました。その後すったもんだあって、結局線路はこの町を避けて、七川に駅ができました」
「線路は、七川を通るほうが回り道になるんですよね?」
「この町を通るほうが近道になります。ウナギ峠の例の岩山は屏風岩というんですが、名前の通り、背は高いが本当に薄っぺらい壁のような山です。切り崩して線路を通すのは簡単だったでしょう。実際、先日の爆弾列車の爆発で見事に吹き飛びましたし」
「ところで…、あそこに大きなお宅がありますね。この町には大きな家が多いけれど、あの家はひときわ立派だ」
「河井田さんのお屋敷でしょう。この町一の金持ちです。鉄道反対運動の中心になったのも、当時の河井田家の当主でした。もう亡くなりましたが、そのお孫さんが鉄道省にお勤めというのも皮肉かもしれませんな」
「ああいうお宅なら、かなりの財産をお持ちでしょうなあ」
「すごいものですよ。この町から七川まで、自分が所有する田畑や山林だけを通って、他人の所有地は一歩も歩かずに行けるそうですから」
「その河井田家の先代はいつ亡くなったんです? 相当な額の相続が発生したと思うんだが」
 巡査は少しのあいだ考えた。
「亡くなったのは、もう5年も前になりますか」
「本当に? ここ3年以内のことだったのではありませんか?」
「いいえ、間違いありません。大きな葬式になって、近在の名士が全部集まったから、よく覚えています」
「そうですか」
 正直に言うと、大田はひどくがっかりしていた。
 爆弾列車の犯人を見つけたような気がしたのだ。
 もちろん大田は、巡査にそんなそぶりは見せなかった。
 バスの時間が近づいたので、大田は礼を言って駐在所を出、大阪へ戻った。

 一週間後の朝早く、また大田は七川駅に降り立った。
 そのまま駅の外に出たが、今回はバスには乗らなかった。
 踏切を渡って線路の北側へ出て、ウナギ峠の方向へ歩き始めたのだ。徒歩でウナギ峠を越えるつもりでいた。
 駅のそばは家が多かったが、だんだんまばらになり、田や畑が目立つようになった。
 透き通った水が勢いよく流れる小川に沿った小道を歩き続けた。
 この川は、前方に見える山地から湧き出すのだ。
 大きくはないが、険しい山地だ。
 その中で一カ所、少しだけ低いのがウナギ峠で、そこを越えると、すぐ向こうに比丹の町が開ける。
 歩き続けると、道はさらに細く険しくなった。
 いつのまにか、小川はどこかへ消えた。
 大田は上着を脱ぎ、汗をふきながら登った。
 やがて木々の向こうに線路が見え始めた。
 爆弾列車を走らせるために臨時に作られたあの線路だ。
 レールがさび付いているほかは、様子はまったくあの日のままだ。
 大田は、河井田やその他の連中と一緒に、おっかなびっくりであそこを歩いた日のことを思い出した。
 道はやがて、爆発現場までやってきた。
 ここもあの日とまったく同じ風景で、あちこちに雑草が生えていることと、穴に雨水がたまっていることだけが違っていた。
 一度大田は何かの本で、アメリカの砂漠の真ん中に隕石が落ちてできたクレーターの写真を見たことがあるが、あれと本当によく似た形だった。
 おわんのように丸く、地面が深くくぼんでいる。地下の赤土がむき出しになっている。
 穴のへりに立ち、しばらくのあいだ眺めたが、大田は再び歩き始めた。
 ここから先は道がなく、崩れた岩山のガレキの上を歩くしかなかった。
 尖った岩を苦労してよけ、注意して大田は進んだ。
 まだ工事は始まっていないが、いったん始まれば、こんな場所に山陽本線の新線を通すなど簡単なことだ。
 ガレキの間を歩きながら、大田は奇妙なものを見つけた。
 岩山が砕け散ったカケラの一つだが、不審に思って拾い上げたのだ。
 見た目は普通の花崗岩だ。
 人の肌のような薄い黄色がかった色をして、その中に白や透明の小さな粒が混じっている。
 爆発のせいで、岩の割れ目はギザギザに尖っている。
 だが不思議なのは、この岩にはドリルで人工的に穴が開けてあったことだ。
 直径5センチほどだが、指を入れても届かないほど深い。
 大田はそれをポケットに入れた。気をつけると、同じような穴の跡が残る岩をいくつも見つけることができた。
 大田は満足を感じた。
 数日前、府警の資料室で調べものをしたのだ。
 比丹町にある河井田家は、以前から手広く商売をしていた。
 地元の雑貨店や食料品店、郵便局や材木問屋、バス会社、機械商、運送店の経営。
 それと、少し前までは鉱山も持っていた。しかし鉱床が枯渇したという理由で、一年前に閉山していた。
 だが閉山の直前、その鉱山はちょっとしたトラブルを起こしていた。
 鉱山だからもちろんダイナマイトを日常的に使用したが、それが大量盗難にあったのだ。
 鉱山が無人になる真夜中、複数の賊が忍び込み、ごっそり持っていった。
 被害者の立場ではあるが、盗品が盗品だけに、警察からは厳重に注意を受けた。
 そしてその後、鉱山は閉山した。
 山の中を歩き続け、30分後には、大田は比丹の町についていた。
 前回とまったく変わらない風景が広がっていた。
 再びあの駐在所の前を通りかかると。あの巡査は同じように中にいたが、大田に気づいて立ち上がり、軽く敬礼をした。
 大田も黙って会釈を返し、歩き続けた。
 大田の足の下で、砂利がカサコソと音を立てた。
 気がつくと大田は、河井田の屋敷の前にいた。
 だが大田は一人ではなかった。待ち受けるかのように一人の女がいて、知らない顔だが門の前で大田と目が合うと、深くお辞儀をした。
 地味だがきちんとした着物を着て、いかにも金持ちの若い主婦という感じがする。
「大田警部さまでしょうか?」
 と女は言った。
「はい」
「河井田の家内でございます」
「はあ」
「お越しになるかもしれないと、駐在さんからお電話をいただきました。何のおもてなしもできませんが、お入りになりませんか? 河井田がお待ちしております」
 3分後には、大田は広い日本間に通され、座卓の前に座る河井田の顔を眺めていた。
 どうやら河井田は、もう鉄道省は退職した様子だ。
 河井田の細君は茶と菓子を置いて出ていったが、大田はまだ畳の上に立ったままである。
 細君の足音が遠ざかるまで待ち、大田は口を開いた。
「河井田君、これは犯罪だよ」
 大田の語気は、思わぬ強いものだった。しかし河井田は、眉も動かさなかった。
「何のお話です?」
 大田は、岩のかけらをポケットから取り出した。
 河井田の目の前に置かれ、岩はコトンと小さな音を立てた。
「河井田君、私がこれを上司に見せたらどうなると思う?」
「どうもなりませんよ。証拠にはなりませんから」
 と河井田は笑った。
「いいや、この穴はダイナマイトを仕掛けた跡だ。岩盤にドリルで細長い穴を開け、筒状のダイナマイトを差し込んだ跡だ」
「それはそうですが、明治時代の工事のときに開けられた穴だと反論されるだけですよ。屏風山を切り崩す準備がされたことは記録に残っています。実際の爆破が行われる直前に、工事の中止が決定されたのです」
「やれやれ」
 体中の力が抜け、大田が畳の上に座り込むと、河井田が静かに言った。
「私は、祖父が犯した間違いを修正しようとしているだけですよ。そのためにラッパが必要だったんです」
「音のでかいラッパだな。あの爆弾列車には、はじめからダイナマイトなど仕掛けられてはいなかったのだね?」
「そうです。貨車にくくりつけてあったのは、空っぽの木箱です。機関車へ伸びていた電線も見せかけです。あの日、ウナギ峠は早朝から立ち入り禁止になりましたから、屏風岩にダイナマイトを仕掛けるところを誰に目撃される心配もありませんでした。そのダイナマイトが爆発した衝撃で、貨車の積荷も爆発したわけです」
「ああ…、なんてことだ…」
「大田さん、そんなにおっしゃる必要はありません。友人に新聞記者がいて、あさって掲載される記事の予定稿を送ってくれました。ごらんになるでしょう?」
 予感を感じつつも、大田は手を伸ばした。
 予定稿はこう始まっていた。

『鉄道省 山陽本線の一部付け替えを発表』
鉄道省は、山陽本線「七川」付近で新線を建設すると発表した。この区間は現在、ウナギ峠を大きく南に迂回する形で走っているが、所要時間短縮のため、短絡線を建設する。距離にして、約7キロメートルの短縮となる。
新たに建設される区間には「比丹駅」が設けられる予定で、完成後は、現行の「七川」経由の線路は支線の扱いとなる…

 読み終わると、思わずため息が出た。
 河井田が口を開いた。
「それで大田さん、これからどうします?」
 大田はふてくされた顔をした。
「どうもこうもあるかい。すべて君の計画通りに運ぶだろうよ」
 河井田は、鷹揚に笑った。
「ええ、今日はその前祝いです。大いに飲もうじゃありませんか。大田さんもいける口でしょう?」
「いける口どころか、今日はやけ酒を飲んでやるさ。酒蔵を空っぽにしてやるからな。覚悟しとけ」
 それでも河井田は表情を変えないのだ。
 手を伸ばし、大田は岩のかけらに触れた。
 ヒョイと投げると放物線を描き、開いたままの縁側から、岩のかけらは庭へと飛び出た。そして池に落下する。
 この屋敷と庭にふさわしい人造の大きな池だ。水音と大きな波が立ったが、結果は鯉を驚かせるだけに終わった。
 波紋は周囲を囲む石をほんの少し洗うだけで、すぐに弱って消えた。
 一時は驚き騒いだ鯉たちも、すぐに平安を取り戻したのである。
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