オルプネー、買い物に行く。──極拉麺道──【山岸マロニィ】
文字数 5,428文字
魔界からの使者を迎えるとあって、冥府には緊張が走っていた。
冥府の扉番ヘカテー、冥府軍隊長テネブライの間を通り過ぎる、黒いフードを被った女。彼女を冥府の王ハデスの元へと案内するのが、オルプネーの仕事である。
──こんな時に何の用かしら。今日も仕事が忙しいのに。
オルプネーは言葉を飲み込んで、はぁと小さくため息を吐いた。
玉座に座すハデスの前に、使者はひざまずき畏まった。
「七罪の使者とは、一体何用だ?」
ハデスの問い掛けに、使者はフードから顔を覗かせた。
「ボクちゃんはねぇ、ネルガルって名前なんだよぉ。ベルゼ様のお使いで来たんだよぉ」
その言葉遣いに「は?」という表情をしたのは、オルプネーだけではないはずだ。ハデスの表情に険が走る。
しかし、ネルガルは構わず続ける。
「なんかねぇ、ルシファー様が最近元気ないんだって。だからぁ、元気付けるために、パーッとパーティーをしたいんだよねぇ」
「だから何だ?」
苛立ちを隠せないハデスの口調は、冥府の者たちにとっては震え上がるほど恐ろしいものだ。しかし、ネルガルは全く意に介さず、ニヤニヤと薄笑いを浮かべて答えた。
「盛り上がった方がいいからねぇ、パーティーを一緒にやらない? っていう、お誘いなんだよぉ」
「断る」
目を細めたハデスは、強い口調で続けた。
「七罪で勝手にやればいいだろう」
「七罪と言ってもね、半分どっかに行っちゃって連絡が取れないんだよぉ」
「そんな事は知らん」
「もしかしたら、ルシファー様が、自分が嫌われてるからみんな魔界に寄り付かない、とか思ってるといけないから、大勢が集まった、賑やかなパーティーで励ましたいんだよねぇ」
「冥界には関わりの無い事だ」
ハデスは立ち上がった。
「準備が面倒だから、我々に手伝わせようとしているのだろう。確かに、我が配下の者たちはこの上なく優秀だ。パーティーの準備など、あっという間に済ませるだろう。しかし、我々は魔界と違って多忙なのだ。そんな児戯に付き合う暇などない!」
「あら、パーティーですか。よろしいんじゃありません?」
そこへやって来たのは、冥府の妃ペルセポネだ。
「たまには賑やかに楽しみたいですわ」
「今まさにそう言おうと思っていたところだ」
ハデスの発言にポカンとしたのは、オルプネーだけではない。ネルガルまでもが呆気に取られた表情を浮かべている。
「冥府軍総力を挙げてパーティーに協力する」
「……はぁ」
「パーティーの成功は確約された。安心するがいい」
「…………」
ハデスの過剰な愛妻家ぶりは、今に始まった事ではない。それが彼の長所でもあると、冥府の者たちは理解していた。──血気に逸るテネブライやアレスなどは、それを些か不満に思っているようだが。
だから、ハデスの気変わりはいつもの事だと、冥府の面々は粛々と準備に取り掛かった。
そして、事務を仕切るオルプネーが計画書の作成や人員配置を担当するのは、自然な流れだった。
「はぁ……、パーティーですか。しばらく参加した事がありませんので、どのような計画を練ればよいのやら……」
事務所にやって来たネルガルが、白紙の計画書を眺めながらニヤリとした。
「ベルゼ様はねぇ、サプライズでルシファー様を喜ばせたいんだって」
「サプライズ、ですか」
オルプネーはあごに手を当てた。
「プレゼント、という事でしょうか?」
「そうだねぇ、特別なプレゼントとか、いいんじゃないのぉ?」
オルプネーは窓の外を見た。冥府軍は会場の設営の準備、ヘカテーとガルムは会場に掲げる看板を描いている。
「買い物は、私がやらなければならないようですね」
オルプネーははぁとため息を吐いた。
買い物先は、スー商会が経営する巨大ショッピングモールだ。食品から衣料、雑貨に至るまで、何でも揃う。
……しかし、黒の大地に於いてこの物資はかなり貴重なものであり、価格も高価なため、ここで買い物ができるのは、ごく限られた階級層のみだ。
シャドウワームとエレシュキガルをキッズルームに預けて、オルプネーとネルガルは煌びやかに飾られた通路を進む。
「たまにはショッピングもいいものですね」
流行りのファッションや可愛らしい雑貨を眺めていると、ウキウキした気分になる。けれど、今日の買い物は自分のためではない。ルシファーが好みそうな物を選びに来たのだ。しかし……
「魔界の殿方が喜びそうな物など、私には想像がつきません」
「ボクちゃんねぇ……」
ネルガルがニヤリとオルプネーを見た。
「スパイだから、ルシファー様の大好きなモノ、知ってるんだよぉ」
「なら、早く教えてください」
「でもね、スパイだから、タダじゃ教えてあげられないんだよねぇ」
さすがのオルプネーもイラッときた。
「お金は依頼人のベルゼブブ様に貰ってください」
「そう言わずに……ねぇ?」
ネルガルは視線で、通路の先のカフェを示した。オルプネーはため息を吐いた。
「このくらいなら、領収書を切ってもいいでしょうか」
パンケーキとフルーツパフェとクリームソーダを前にして、ネルガルが満面の笑みを浮かべた。
「お腹が冷えますよ」
オルプネーは紅茶にミルクを入れてかき混ぜる。
「で、ルシファー様の好きなものとは?」
「あのね……」
ルシファーが『ルシフェル』と名乗っていた頃の話。
現在もだが、天軍には、四大天使をはじめ、女性の天使が圧倒的に多く、男性の天使というのは、些か肩身の狭い思いを強いられていた。
天軍の長という立場にはあるが、プライベートな事となると、天使たちの輪にはどうにも入りにくい。
そして、そういう思いをしている天使がもう一人。──ファヌエルだ。
特に気が合うという事もないが、何となく、二人で顔を合わせる事が多かった。
そんなある時。突然、ルシフェルが自宅にファヌエルを誘ってきた。
驚いたファヌエルだが、上司の誘いを断る訳にはいかない。私用との事なので、エスペランサたちを撒いて、ルシフェル宅に向かうと……。
「ラーメンだ」
ファヌエルは差し出された麺料理を見て戸惑った。
「……ラーメン、とは?」
「所用で東方に赴いた時に口にして、あまりの美味さに心を奪われた。しかし、天界にはラーメン屋がない。だから作った」
食べろ。言われてファヌエルは、ラーメンに箸をつけた。──味がない。ふにゃふにゃした麺はふやけていて、決して美味いと言える代物ではない。
「どうだ?」
感想を聞かれ、ファヌエルは迷った挙句、正直に答えた。
「私は、もう少しの濃いめの味付けで、固めの麺が好みです」
怒らせるかと思ったが、ルシフェルはニコリと微笑んだ。
「私もそう思う」
「…………」
「何度か試してみたが、あの味の再現には至っていない」
試食をし過ぎて味覚に自信がなくなったため、ファヌエルを呼んだらしい。
「おまえの舌は信用できる。どうだ? 一緒にラーメンを作らないか?」
──こうして、『天軍ラーメン部』が地味に発足した。
「……それで、どうなったの?」
七罪の長の思わぬ素顔は、オルプネーにも興味深かった。
「かなりいいとこまで完成させたらしいんだけどねぇ。ルシファー様が堕天しちゃったから、ラーメン部も廃部になったらしいんだぁ」
そして、黒の大地である。ただでさえ食糧に限りがある地域であり、ラーメンの材料など容易く手に入らない。
「じゃあ、ラーメンを用意すれば……」
「ルシファー様は歓喜されるんじゃないかなぁ」
パーティーの方向性は決まった。オルプネーはミルクティーに口をつけた。
すぐさま、スー商会を通して材料や器具を発注する。
「どうせなら、会場もラーメン屋の雰囲気にしちゃおうよ!」
ガルムの提案で、パイプの折り畳みテーブルと丸椅子も大量に注文した。
ヘカテーはその達筆を生かして、メニュー表を作成する。それらを経年と脂で汚れた雰囲気に加工するこだわり様だ。
その頃、計画書を見たサタンがやって来た。
「何? アタシがラーメンを作る係?」
「料理は火加減が重要なんです。ですから、サタン様が適任なんですよ」
「責任重大じゃないの」
憤怒の魔王の前で、講師となるラーメン屋の店主が震え上がっている。
「準備は進んでいるようだな」
ベルゼブブも監督に来た。
「ハデス様には感謝の言葉もありません」
殊勝に頭を下げるベルゼブブに、ハデスは注意した。
「蠅取り紙に、お主の眷属が引っかかっているぞ」
「あらあら」
にこやかに笑うペルセポネを見て、ハデスは満足そうだ。
──こうして、パーティーの準備は着々と進み、当日──。
会場に入ったルシファーは目を輝かせた。
「これは……」
「ルシファー様が以前行かれたラーメン店を調べ、その様子を再現いたしました」
ベルゼブブが恭しく席へ導いた。……その店を探すのに苦労したんですよ、オルプネーは心の中でため息を吐いた。
「らっしゃっせー! 何にします?」
カウンターの向こうで、『極拉麺道』のロゴの入ったTシャツをキメたサタンが前掛けで手を拭く。
「……濃厚豚骨醤油コーンバターをひとつ。ネギ抜きニンニク増し、キムチをトッピングで」
「かしこまりぃ~!」
サタンは手際よく寸胴に向き合う。その様子を、厨房の隅で店主が見守る。弟子を仕込む師匠の顔だ。
「へい、お待ちー!」
差し出された丼を見て、ルシファーの表情が緩んだ。細麺を包み込む濃厚なスープ、艶めかしく彩る背脂、肉汁を湛える焼豚、そして、食欲を刺激する匂い──。
「いただきます」
ルシファーは箸を付け、麺を啜った。
「……この味だ」
その言葉で、会場は歓喜に沸いた。サタンと店主は抱き合い、ベルゼブブとヘカテーはハイタッチをし、オルプネーとネルガルは固い握手を交わした。
「まだまだあるわよ! みんな座んなさい」
サタンと店主が腕を振るう。
「忙しいんだけど」
「あたしなんかが運ぶとマズくなるわよ」
サタンと同じ格好のベルフェゴールとレビヤタンが、文句を言いつつトレイを運ぶ。
「アンタたち、何にもしてないんだから、そのくらいやりなさいよ」
オルプネーの前にも丼が運ばれてきた。豚骨ベースのクセのある風味をバターの滑らかさが中和し、コーンの甘みとキムチの辛さの反比例が、絶妙な味わいを醸し出している。これまでの苦労が吹き飛ぶ美味さだ。
「何これ、美味しい」
隣でネルガルが素になって麺を啜る。
「──さて」
突然ルシファーが立ち上がった。
「ラーメンはそれだけでも完成した料理だ。だが、これにあるものを合わせると、更なる高みへ昇華する。それを披露しよう」
ルシファーは厨房に入り、恐れ入る店主から材料を受け取ると、何やら作り始めた。ジュージュー焼ける音と香ばしい香り。
皿に盛られて運ばれてきたのは、餃子と、ご飯。
「麺を食べ終わり残ったスープにご飯を入れる。おじやにすれば、スープも無駄なく楽しめる。餃子と合わせれば、まさに無敵だ」
会場に歓声が上がる。
「ルシファー様……、最高です……」
夢見心地のベルゼブブの箸が止まらない。
「おかわり!」
「はーい。……って、アタシにも残しときなさいよ。売り切れたりしたら、店ごと燃やすわよ」
会場に笑い声が飛び交う。
──こういうのを、楽しいと言うのかしら。オルプネーは穏やかな気持ちで箸を置いた。
「ご馳走さまでした」
──その頃、ファヌエルは空を見ていた。
常に青く輝く空は、白い雲を穏やかに浮かべている。
このように平和で満たされているのに、何かが足りない。
今でも、ふと思い出す。……あの味。
『ラーメン部』などという児戯に等しいものだったが、彼が熱中するには充分な魅力があった。
エスペランサたちの目を盗み、ルシフェル宅のキッチンに通った。あり合わせの材料でいかに目的の味に近付けるか。試行錯誤に熱中する時間は、全ての虚しさを忘れられる貴重な時間だった。
ファヌエル自身は「ラーメン」というものを知らないのだが、ルシフェルの熱意でそのイメージが伝わり、一度でいいから本物を食べてみたいと思いながら、その思いは叶えられないでいる。
「……ファヌエル様」
振り向くと、エスペランサたちが畏まっている。
「どうしたのです?」
「近頃、お元気があられないご様子が気になりまして……」
「調べさせていただきました」
「……ラーメン部の事を」
ファヌエルは猛烈に照れ臭くなった。
「あ、あれは、当時の上司であったルシフェル様の付き合いで仕方なく……」
しどろもどろなファヌエルの前に、エスペランサたちが何かを差し出した。
「……こ、これは!」
「東方より特別に取り寄せました」
「カップラーメンでございます」
「しかも、〇ちゃん製麺の本格中華食堂シリーズではないか!」
「塩、醤油、味噌、豚骨、全て取り揃えてございます」
早速湯を沸かし、注ぎ入れて三分待つ。この時間が実にもどかしい。思わず手を伸ばし、エスペランサにたしなめられる。
「まだ二分二十秒です」
「このカップラーメンは二分三十秒が最高のタイミングなのだと聞きました。……もういいでしょう」
蓋を開ける。強い主張の香りが嗅覚を刺激する。
「いただきます」
箸に絡む縮れ麺を口に運べば、ルシフェルの笑顔とあの時の味を思い出す。
「美味しいです」
私は幸せ者だ。良い部下を持った。
ルシフェルは、今頃どうしているだろうか? 日の当たらない大地で、日々、鬱屈とした心持ちを持て余しているのではないか。
また一緒に、ラーメンを作りたいものだ。