バイクと納豆チャーハン

文字数 3,474文字

 日曜の朝に目を覚ます為にインスタントコーヒーをお湯で溶いて飲んでいると、机に置いていたスマートフォンが電話の着信を報せた。手に取って確認すると、女友達の小田睦月からだった。彼女とは同じ小学校に通っていた同級生だったが、卒業後は疎遠になっていた。しかし数年前に世話になっているバイク屋が一緒である事が判明し、昔馴染み兼バイク仲間として互いの電話番号を交換したのたが、それ以外に特別な関係にはなっていない。
「もしもし」
 僕はスマートフォンを手に取り、電話に出る。
「もしもし桑野?あたし、小田」
 振り込め詐欺の電話のようなセリフで、睦月は答えた。
「今さ、暇にしてた?」
 僕は睦月の無神経な言葉にすぐ答えなかった。確かに今日の僕は何の予定もなく、モーニングルーティーンとなっている朝のコーヒーを一杯飲んだだけに過ぎない。しかしだからと言って、「今日は何の予定も無いよ」と即答するほど、僕は空虚で意地の無い人間ではなかった。
「どうかしたのか?」
 僕は睦月の質問を質問で返した。そうしないと彼女が僕に電話をかけて来た理由が分からないと思ったからだ。
「あたしが乗っているYZF-R6さ、車検に出していたのだけれど終わって引き取に行きたいのだけれど、こなさなければいけない仕事のせいで行けないのよ。だから悪いけれど引き取りに行ってくれる?」
 僕はまた黙って考えた。去年の夏ごろにどこかの文芸賞を受賞し、その本が単行本化されて、今はその作品の続編と、別の出版社の文芸誌に載せる作品を執筆している話は聞いていたが、車検に出したバイクも取りに行けない程忙しい物なのだろうか。
「自分で取りに行けない事情でもあるのかい?」
「今、書いている作品が良い所で余計な事でテンションを下げたくないんだ。それに仕事の都合でいつまでもお店に置いておくのも申し訳ないじゃん」
 睦月の持論を聞いて、僕はこっちの都合の事は無視しているのかよと口にしたくなったが、言わない事にした。今日は予定の無い空白の一日だったし、異性を呼び出しを食らってその下に行くというのは、考えてみれば悪い話ではない。
「いいよ。お店には君の方から俺が取りに行くと連絡しておいてくれ」
「ありがとう。連絡しておくから」
 睦月は素気ない言葉を返して、電話を切った。僕も通話を終えると、ベッド脇にある白いOGKのフルフェイスを見て、バイク屋に向かう決心をした。


 僕の家からお世話になっているバイク屋さんまでは、歩いて二十分程の距離にあった。地元では比較的有名なお店で、カワサキやヤマハの大型バイクの改造から、配達用のスーパーカブやお買い物用のスクーターのメンテナンスまで引き受けてくれる懐の深いショップだ。以前バイク雑誌に『フルカスタムのカワサキ・Z1とクリーニング店のCD125が同じ人に診てもらう店』と紹介された事もある。店の社長はその事を誇りにしていると、以前店を訪れた時に口にしていた。
 グローブを中に入れたフルフェイスヘルメットを片手に、四車線の国道を超えて、商店街外れのバイク屋のある通りまで来ると、車検を終えて少し綺麗に見える睦月の十五年落ちの黒いYZF-R6が店先に置かれていた。店先まで来ると、社長は不在で事務所には社長の奥さんとメカニックの篠崎さんが事務作業をしていた。
「こんにちは。桑野ですけれど」
 事務所のガラス戸を少し開いて声を掛けると、奥さんが声を掛けてくれた。
「ああ、クワちゃんどうも。睦月ちゃんのバイクは全部用意できてるよ」
「ありがとうございます」
 僕は自分のバイクを受け取る訳でもないのに、礼の言葉を口にした。
「お金の方は睦月ちゃんから貰うから、大変だねクワちゃんも」
 社長の奥さんはそう続けたが、僕は苦笑いでごまかした。
 メカニックの篠崎さんからキーと領収書を受け取り、睦月のR6に跨る。僕が普段乗っているスズキのGSF1200はバーハンドルだから、セパレートハンドルのR6は前傾姿勢がきつかった。
「それじゃまた。何かあったら僕のバイクもよろしくお願いします」
 フルフェイスを被った僕は篠崎さんに礼の言葉を述べて、セルを回しエンジンを掛けた。
 ギアを一速に入れてクラッチを繋いで走り出す。ハンドル形状とポジションが異なるので、交差点をゆっくり曲がるのには気を付けなければならないだろうが、それ以外は大丈夫なはずだ。
 睦月の家は、バイク屋さんのある商店街から離れた。別の国道を十五分ほど走った場所にある。通らなければならない国道は東京と埼玉県南部をつなぐ主要な道路の一つで、多様な車に溢れ交通量が多い。その道路を暫く埼玉方面に進み、大きな都立公園に向かう道路に左折してコンビニと地下鉄の駅の近くに、睦月が住んでいるワンルームマンションがあった。
 僕は睦月の住むワンルームマンションの前で停まり、エンジンを切って睦月に「着いたよ」とLINEを送った。するとすぐ既読が付いて「ありがとう。今行く」という返信が来た。
 睦月はワンルームマンションの入り口から部屋着のまま出て来た。執筆に没頭し部屋から出ていないのだろうか、髪も表情も服装も、すべてが澱んで鈍くなっているような印象だった。
「ありがとう。バイクはこっちに運んで」
 僕は睦月に促されるまま、彼女が契約しているマンションの駐車場にR6を運んだ。盗難防止用のロックを掛けて銀色の保護カバーをかけ終え、別れの一言のあと僕は帰ろうとした。
「帰るの?」
 呼び止めたのは睦月の方だった。
「ああ、特に残る理由も無いし」
「せっかく来たんだから、飲み物の一杯くらい飲んでいきなよ。運んできてくれたお礼にさ」
 断る理由も無かったので、僕は睦月の提案を受け入れる事にした。考えてみれば睦月の家にお邪魔するのは人生初の体験だった。
 睦月の部屋に通されると、換気をしなかったせいで空気が様々な匂いと共に澱み、病的な何かが充満しているのが分かった。僕は締め切りに追われる日常、己の中から言葉を吐き出す行為がどんな物か想像できないが、かなり自分を追い込む行為なのだろう。一度何かに自分から取りつけば、車検に出したバイクを引き取る事など大きな事ではなくなってしまうのかもしれない。
「自分がすべきことは、もう終わったのかい?」
「一応ね。書き上げた原稿をメールで送り終えると、桑野君が来たの」
 僕の質問に睦月はテーブルを片付けながら答えた。睦月がテーブルから退かした物はコンビニ弁当の容器や空のペットボトルなどで、過酷なスケジュールに追われているのが想像出来た。
「インスタントコーヒーでいい?」
 睦月が訊いてきたので「ああ」と僕は応用に答えた。キッチンに向かう睦月の背中を追うと、炊飯器に炊いたご飯があるのに気付いた。
「あんまり気の利いたものはないんだ。ごめんね」
 睦月は独り言のように僕に詫びながら冷蔵庫を開けた。中にはエナジードリンクの缶と、納豆のパックと四個の卵。睦月は納豆のパックを見ると、「今日までだ」と小さく漏らした。その漏れた声が、ある事を僕に閃かせる。
「お昼ご飯は食べたの?」
 僕の声に睦月は振り返り、ううんと小さく首を横に振った。
「納豆チャーハン、作ったら食べるかい?」
 

 僕は睦月の部屋のキッチンを借りて、卵と残り物の白飯、納豆を使って納豆チャーハンを作った。本当はラードかごま油があれば良かったのだが、無かったのでサラダ油で代用した。僕も昼食は食べていなかったので、ついでに自分の分を作って一緒に食べた。
 出来上がった納豆チャーハンを見て睦月は「ありがとう」と小さく呻いた。誰かが作った料理を口にするのは久しぶりの事なのだろう。
「男の人に何か作ってもらうなんて、もしかしたら初めての体験かも」
「俺も同級生に料理を作るのは初めてだよ」
 僕の言葉に睦月は安心したような笑みを漏らす。彼女にまとわりついていた何かが消えて、身軽になったようだ。
 食事を終えると、気が緩んだ僕達はリビングでインスタントコーヒーを飲んだ。睦月が立ち上がって部屋の空気を入れ替える為に窓を開けると、冷たく乾燥しているが爽やかな空気が流れ込んできた。
「今日はありがとうね。バイクを運んできてくれた上に納豆チャーハンまで作ってくれて」
「いいよ。今日はヒマしてたし」
 僕が鷹揚に答えると、睦月は僕の方を見てこう訊いた。
「帰りは何、バス?地下鉄?」
「まだ決めていないけれど公共交通機関の予定」
「私も今日これから暇だから、二人乗りで家まで送ろうか?」
 僕は睦月の提案を受け入れる事にした。

(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み