第1話

文字数 1,999文字

 全てが定かではない。
 僕は小さい頃、僕にしか聞こえない声を聞いていた。気づいたのは物心ついた頃で、その声はノラと名乗った。そして誰にも言うなと言うから、ノラのことは誰にも話さなかった。それに、成長するにつれ、こんなこと、誰かに言えば頭がおかしいと思われる、ということも理解していた。
 最初、僕とノラはそれなりに仲が良かった。けれども次第に僕とノラの違いは明らかになっていく。僕はノラのことを隠さないといけない。だから、いつも後暗く、おどおどするようになった。一方のノラは誰彼はばかることはない。体を動かしているのは僕なのだからと、好き勝手に宣うようになった。ノラのできることは、ただ喋ることだけだった。
 けれどもその『喋る』ということが問題だ。
 ノラは僕の意図せぬところで突然喋り始める。しかも脈絡のないことを。だからいつしか、僕は両手で口を塞ぐ癖ができた。何やらムズムズとしてきたら、無意識に口元にきつく手を当てる。そしてノラが喋りだしても、なるべく聞こえないように強く隙間を塞ぐ。口というものは開かなければ明確な音を発することはできない。ただむぐむぐという曇った奇妙な音が出るだけだ。

 小学校6年の頃には、結局、僕は周囲に変な目で見られるようになっていた。
 外ではもう、ずっと口を手で塞ぎっぱなしだ。そんな僕に友達なんて出来るはずがない。虐められもしなかった、というか、気味悪がって素行の悪い奴らすら僕に近づこうとしなかった。つまるところ、僕にとってもノラは唯一の友達といえる存在だったわけだ。
 だから家ではノラに好き勝手に喋らせている。
 けれどもその頃には、そもそもノラの言う事は支離滅裂すぎて、わけがわからなかった。ランダムに並べられた言葉と叫び声、そんなものばかりだ。思い返せば僕こそがノラを抑圧していた。まともに喋ることも出来ず、というか喋るしか出来ないノラをずっと喋らせないままいたからか、ノラはすっかり狂ってしまった。
 だから。
 そう。僕はノラとの関係を続けることはもう不可能だった。その声を聞いているだけで、頭がおかしくなりそうだった。
 だから。
 僕は包丁を取り出して、左の手のひらを刺した。途端、激痛と、断末魔の声があがった。その音がどこから出たのかはわからない。僕とノラ両方かもしれない。
 僕の左手のひらには物心ついたころから口がついていた。それは深い縦じわのようにも見えるけれど、ノラが喋るときはそれが開いて音を出す。其の内側には僅かに歯も見えた。
 一体ノラがなんなのか。小学校の時に見た妖怪図鑑では人面瘡というものがあり、ひょっとするとそのようなものなのかもしれない。本では削ぎ落とすなどしていたが、膨らみもせず手のひらの皺のように存在するノラを、削り取ることはできなかった。だから包丁を貫通させ、僕はノラを殺した。

 叫び声を聞いて両親がかけつけ、入院した。僕の左手首から先の神経が壊れてしまったらしい。けれども僕は心底ほっとした。思わず笑い声が出た。神経が壊れている、ということは、僕の左手にノラが宿っていても、もはや喋れはしないということだ。手のひらの骨は変形していたとだけ医者から伝えられた。その変形というのはおそらく、歯の形になっていたということだろう。
 それが小学6年の冬休みだ。以降、僕はずっと登校しないまま家族ごと引っ越し、随分離れた中学校に入学した。ノラがいなくなった。そのことによって、僕はもうノラが喋るのを防ぐ必要もなく、口を塞ぐ必要もない。だから普通に友達ができた。随分久しぶりのノラ以外の友達だ。やっと本来の自分を取り戻せた。左手は事故で動かないことになった。
 そうだ。事故だ。
 僕はそんな風にいいわけする。僕はノラを殺したんじゃない。小学校6年の頃の僕は少し病んでいた。イマジナリーフレンドというものがいると思い込んで、それが左手にいると思いこんでいたんだ。全ては気のせいだ。けれども僕の10年ほどのノラとの記憶が僕を苛む。唯一の友達。僕はノラを殺した。いや、殺していない。気のせいだ。第一、そんなもの、いるはずがないじゃないか。きっと心が少し、おかしかったんだ。
 そんな風に自分を説得しようとした。一刻もはやく、ノラのことを忘れたかった。忘れて、普通の暮らしがしたかった。それがずっと、僕の望みだった。
 けれども。
 最近右手のひらの真ん中に小さな亀裂があるような気がする。それでいつか、また声が聞こえるんじゃないか。そんな不安が心の底から湧き上がる。
 違う。そんなはずがない。ノラなんていなかった。僕がおかしくなっていただけだ。
 いいわけ。いいわけだ。それはいいわけだ。
 違う。そんな馬鹿なことがあるはずがない。
 けれども、恐る恐る、その右手のひらの亀裂を見る。それがもぞりと動いた気がする。
「やあ。久しぶり」
 そんな声が聞こえた、気がした。


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