前編

文字数 2,241文字




 その少年と交流が始まったきっかけは、放課後の自転車小屋で交わしたささやかな会話だった。

 そして、そのきっかけを、自分自身が生み出すことになろうとは、晶には思いも寄らないことだった。

 何故ならば、平素から、人見知りの激しい性分だったからだ。

 ところが、この時ばかりは、頭で色々と考えて躊躇する前に、唇の方が先に動いていた。

 「その帽子に付けてるピンバッジ、いいね。

 凄くイカしてる。

 もしかして、銀の風で売ってたかな?」

 晶が思い切って声を掛けたのは、隣のクラスに在籍している少年で、顔だけは見知っている間柄だった。

 彼は臙脂色をしたキャップ式の帽子を被っていた。

 その左側面に、伸びやかな翼を象った白銀色のピンバッジが、さりげなく煌めいていたのだ。

 そうしてそれは、少年達の微笑ましい懐事情でも、無理なく購入出来る範囲の雑貨や文房具を取り扱っている『銀の風』という店舗に、置いてありそうな品だった。

 『銀の風』では、例えば、次のような品を取り揃えている。

 銀色の砂を用いたシックな砂時計。

 掌に乗るサイズの硝子製の地球儀。

 セピア色の古びた世界地図が表紙デザインになっている洒落たノート。

 ミニチュアの鳥籠に閉じ込められている、卵形をした小粒のラピスラズリ。

 価格は安価でも、こだわり抜いたセンスの光る品々ばかりだった。

 それだけに、この辺りに住む少年達の間では、何かしらの持ち物を『銀の風』で購入したのかと問い掛けることは、最高の褒め言葉として機能した。

 けれど、晶が少年のピンバッジを褒めたのは、それだけが理由ではなかった。

 ごく稀にではあるが、まだ自分の知り得ない重要な何かを、既に知り得ているのではないかと思える人物に、出くわすことがある。

 それゆえに、その人物が一段高い場所にいるように感じてしまい、彼の言動や仕草、持ち物などの全てが特別に良い物のように思えてしまう。

 そういった意味合いで、その少年は、晶にとっては密かに憧れの対象であったのだ。

 晶が声を掛けた時、少年は、ひしめき合う自転車の列の中から、自分のそれを引き出そうとしているところだった。

 けれども途中で手を止めると、顔を上げ、晶の方を眩しそうに見遣った。

 その時、幾本もの金色の矢が、晶の身体を刺し貫いて届いていたからだ。

 未だに夏の名残を色濃く留めている、九月半ばの眩しすぎる午後の陽射しだった。

 「…‥ああ、これかい? 良く気付いたね。

 銀の風で買ったわけじゃないけど、気に留めてくれて嬉しいよ。

 僕も特別に気に入ってるバッジなんだ。

 それで、ええと、きみは確か、隣のクラスの…‥」

 「晶。話すのは初めてだね」

 「晶! 僕は蔦彦。

 お互い趣味が合いそうだし、これからは話す機会が増えそうだね。

 じゃ、また明日」

 蔦彦と名乗った少年は、メタリックグリーンの自転車にひらりと跨がると、風のように颯爽と走り去っていった。

 晶もその後ろ姿を見送った後、自転車を駆って帰宅の途に着いた。

 先程の呆気なく終わってしまった会話に、一抹の物足りなさと寂しさを感じながら。




        ★☆★




 校庭の一隅に、菩提樹の巨木がどっしりと根を下ろしている。

 枝葉が勢いよく豊かに生い茂っている様は、それ一本だけで、小さな森を形成しているのかと思うほどだ。

 そして明くる日の昼休み、晶は菩提樹の枝葉が差し掛ける木陰の中にいた。

 幹に軽く背をもたせ掛けて座り込み、立てた両膝でスケッチブックを支え、一心不乱に鉛筆を走らせる。

 この年ふりた菩提樹の傍にいると、インスピレーションやイマジネーションが湧きやすいと感じる。

 それはもしかしたら、宇宙のアカシックレコードに繋がりやすいパワースポットのような場所だからかも知れないし、あるいは三千年以上の樹齢を誇る菩提樹の荘厳なる記憶に、無意識のうちに繋がってしまうからなのかも知れない。

 いずれにしろ、非常に心地好いエネルギーに身を任せられる、稀有な場所だった。

 この日は風が殆ど起こらず、明るい天空を渡っていくもつれ雲の一団の足並みも、殊の外緩やかに感じられた。

 それにもかかわらず、豊かに生い茂った菩提樹の枝葉が、突如として、ざわざわと鳴り始めた。

 しかし、絵を描くことに没頭していた晶は、そのことに気付かない。

 作業に集中することによって創り出された真空地帯が、晶の周囲を取り巻いていた。

 その真空地帯に侵入するための方法はただ一つ、絵を描く行為を中断させることだけだ。

 絶え間なく鉛筆が走り続けるスケッチブックの上に、縁がギザギザしている松葉色の幅広の葉っぱが数枚、立て続けに降ってきた。

 そして、それを追い掛けるようにして、聞き覚えのある声も降ってきた。

 「ふうん。結構、奇想天外な絵を描くんだな、晶は」


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 ・・・ 少年宇宙へようこそ~絵の中の宇宙〈後編〉へと続く ・・・

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