後編
文字数 2,353文字
そこで意表を突かれた晶が、驚いて頭上を振り仰いだ時には、声の主である少年は既に、地上へと着地している。
敏捷なことこの上ない。
「蔦彦! 一体ここで何してるんだ?」
「何って、瞑想を兼ねた昼寝に決まってる。
ここは特別に、宇宙と繋がりやすい場所だからね。
晶だって、そのことに気付いてるんだろう?
そうでなきゃ、そんな絵は描けないよ」
晶はそろそろと立ち上がると、スケッチブックを後ろ手に回しながら、軽く後退りした。
それを目敏く見て取った蔦彦は、逆に一歩踏み込んで、ぐいっと左手を差し伸べた。
「見せてくれよ」
「嫌だ」
「どうしてさ」
「だってさ! …‥まだ、全部、仕上がっていないし」
「そんなの関係ないだろう。約束するよ。
絶対に批評はしない。
それに、そもそも下手くそな奴の絵なんて、最初から見たいとも思わない」
そこまで説き伏せられた晶は、不承不承といった体で、スケッチブックを差し出した。
その中に描き溜めていた絵を、それが誰であろうとも、自分以外の他者に披露するといった発想は、晶の中にはまるでないものだった。
何故ならそれは、誰にも見せないことを前提としている日記帳のようなものだったからだ。
そうしてそこには、誰にも触れられたくないナイーブな心理状態の時に描いた絵や、マグマのように煮えたぎる感情をもて余しながら描いた絵なども含まれていた。
だからこそ、蔦彦が、スケッチブックの画用紙をゆっくりと捲っている間、丸裸にされた上に、腎臓を摘出され、それを仔細に検分されているような、何とも居たたまれない心持ちに苛まれていた。
今まで誰にも見せたことのないスケッチブックの中には、例えばこんな世界が展開されていた。
二つに割れた卵の殻の中から現れた黄身の部分に、緻密な描写で描き込まれている、銀河の渦。
華麗に咲き綻ぶ薔薇の花心の部分に描かれた、妖艶な女神の裸身像。
鬼気迫る形相をした白竜と黒竜が、雲を突く高い塔にそれぞれの長い身体を巻き付けて、互いに牽制しあっている姿。
水玉模様の傘を差したドードー鳥の大群が、大中小と大きさを違えて描かれ、空から降ってくる光景。
美しい羽根を優雅に広げた孔雀が、頭に王冠を乗せ、毛皮の縁取りのある豪奢なガウンを身に纏い、宝石をちりばめた立派な玉座にゆったりと腰掛けている姿。
自らの背丈ほどもある大きな翼を広げた少年の天使が、森の中に涌き出ている泉の淵に屈み込み、その澄んだ水面を覗き込んでいる姿。
しかし水面から見つめ返してくるのは、醜悪なガーゴイルの姿だった。
蔦彦は、鉛筆で描き込まれたページを全て見終わると、スケッチブックの表紙を丁寧に被せて戻した。
それから、晶の心情を思いやる言葉を添えて、持ち主へと返した。
「晶の大切にしている物を見せてくれて、どうもありがとう。
これは…‥その、単純な感想なんだけど、僕はきみの描く世界観に凄く惹かれるし、好きだなって思う。
だから、また新作が描き上がった時には、見せて欲しいな」
すると、晶の表情に、一瞬陰りが横切った。
それを敏感に感じ取った蔦彦は、慌ててこう付け加えた。
「勿論、晶が良ければの話だけどさ」
そこで気遣われたことに気付いた晶は、ばつが悪そうに口を開いた。
「ごめん、蔦彦。
別に、きみに見せるのが嫌なわけじゃないんだ。
ただ、誰かに見せるつもりで描いたわけじゃなかったから…‥。
もし、そこを意識していたら、また別の作風になったと思うんだけどさ」
「晶、それは違うと思うよ。
いつだって、感じたままに、心のままに、表現するべきなんだ。
だってさ、本来、表現者って、そういうものだろう?
だからこそ、人の心に響く絵が描けるんだよ」
蔦彦から与えられた表現者というアイデンティティーに、晶の心はふわりと浮き上がった。
晶が敬愛してやまない表現者とは、ルネ・マグリットやポール・デルヴォー、エロール・ル・カインやビネッテ・シュレーダーなどだった。
自分が表現者として未熟であるのは百も承知だが、蔦彦からそう呼ばれた瞬間、ルネ・マグリット達が晶に向かって手を振っている姿が、見えるような気がした。
晶はそこでにやりと笑うと、親指を立てて、こう言った。
「表現者って、粋な響きだね。
今、グッと来たよ」
「そうかい? 気に入ってくれて嬉しいよ」
蔦彦も得意気に片目を瞑り、親指を立ててみせた。
その時、昼休みの終了を告げる鐘の音が、校舎から鳴り響いてきた。
蔦彦は怠そうに伸びをする。
「やれやれ。また放課後まで籠の鳥だな。
気は進まないけど、戻るとするか。
僕らの愛すべき、カオスの…‥宇宙に!」
「カオスの宇宙! いいね、それ。
今、グッと来たよ」
少年達は、声を立てて笑いながら、その場から走り去っていった。
後に残された菩提樹の豊かに生い茂った枝葉が、そよとの風もないのに、再び葉擦れの音を響かせる。
それはもしかしたら、晶の情熱が生み出した絵の中の宇宙から吹き寄せた風の、ささやかな悪戯だったかも知れない。
~~~ 完 ~~~
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