第1話

文字数 90,480文字

「蝶の夕暮れ」

 私は二十歳にまで生きられないかもしれない。ぼんやりと公園の芝生に横になり空を見上げる。風が吹き草木が波のように囁く。私の名前は藤原伊織、あと数ヶ月で二十歳になる。性別はない。男性でも女性でもない、いわゆる中性だ。二十歳になるまでに男性か女性になれない中性は自身の細胞を喰い最後は命を奪う。たいていの人は中学、高校までに男性か女性かの道を歩む。親友の有賀雄平は男性へ、幼なじみの三樹日和は女性になった。雄平は私より一回り背が大きくなり、筋肉質に、日和は丸みをおびた体になり甘い匂いがする。彼女は猫目でふんわりとした髪、触れるとその軽さがわかった。
携帯の着信音がなった。私はポケットから取り出し、仰向けになって応じる。相手は去年美大生になった雄平からだった。
“もしもし”
“伊織、今日デッサンするからさ、モデルになって”
私は一瞬、悩んだ。今日はこのあと、病院に行き検査があったからだ。
“すぐ終わるから”
雄平が必死にいうものだから私は“わかった”と答える。
さて、どうしたものか、昔から雄平は私をモデルにしたがってお願いしにくるのだ。時間かかるかなー、っと逡巡し、日和も連れて行こうと決めた。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと雄平が待ち構えたように扉を勢いよく開けた。
「あれ、日和も来たの」雄平の目が点になり固まった。
「悪い?」
日和は意地の悪い表情でにこりと頬笑む。
「悪くはないけどなぁ」
雄平の言葉は歯切れが悪い。そんなことはお構いなしに日和は玄関へと入っていった。
雄平の部屋は至る所に飛行機のプラモデルやらオモチャに溢れている。昔と変わらないなーと思った。
カランとコップに入れた氷が動く音がした。
私は雄平の部屋へ行く前におもうことがある。雄平の姉である時雨さんについて。扉を開けそうになったけれど、寸でのところで思いとどまり足早にその場を去った。心のこりと、後ろめたさ、その気持ちに蓋をした。
私が部屋に戻ると、日和と雄平がにらみ合いの喧嘩をしていた。雄平は苦笑いで、日和は満面の笑みで。
「ふたりとも仲良いね」
雄平と日和の関係は昔からこうだった。しみじみと感じる。
「そうだよー、仲良しだよー」
日和は棒読みで答えた。
雄平は死んだ魚の目をしている。私は雄平のベットの上に腰を下ろした。
「それでどうするの?」
私は雄平に尋ねた。
「うーん」
雄平は気まずそうに日和をちらりと見た。
「一枚上着脱いでもらっていい?」
「ダメにきまってるでしょ!」
日和は声を荒げて怒った。
「いいよ別に、上着だけでしょ」
私は日和を必死になだめる。
「いおりも、いおりよ。男には注意しなくちゃ」
「雄平だよ?」
「ダメなものはダメです」
「俺ってそんなに信用ないかな」
「ありませんよ。そんなの」
日和は痛烈に批判した。
「いおりも、隙が多いから心配なの、男はオオカミだからね」
「だって、雄平だよ?」
「ダメです」
日和は頑なだった。
「ごめん、これでいい?」
私は手を広げ用意された椅子に座った。
「いいよ」
雄平は優しく頬笑んだ。
私は日和のギリッという歯ぎしりの音が聞こえたような気がした。しばらく静寂が訪れる。雄平の鉛筆が擦れる音が聞こえてくるだけ。私はチラリと日和を横目で見る。暇そうに髪をいじっていたが、突然口を開く。
「雄平、この間、女性と一緒にいたけれど、彼女?」
「はっぁ、そんなわけないだろ、大学の先輩だよ」
「ほんとかなぁ」
「違うっていってるよ?」
私は日和の袖を引っ張った。
私は立ち上がり日和のほうへ歩み寄るが躓いて転びそうになる。そこに雄平が間に入って抱きしめられる形で手が腰にまわった。
「あっ、ぶな」
雄平の顔が間近にある。息が顔にかかるほど近い。私は目を見開くと、雄平の目から私の顔が写る。永遠ともとれる時間を私は感じた。実際には2,3秒だったと思う。雄平の手に力がはいったのがわかった。私は思わず言う。
「もう大丈夫だから……」
「あっ、そう」
雄平は気まずそうに私から距離を取り顔を背けた。雄平の耳が真っ赤になっている。私も心臓の鼓動を抑えるのに必死だった。
「私帰る」
日和は冷たく言葉を放って飛びだしてしまった。
「まって、ひより」
私は手を伸ばしつかまえようとしたが間に合わなかった。
どうしよう、とても気まずい。恐る恐る後ろを振り返ると雄平は口ごもる。こればっかりはしかたない。私は観念して椅子に戻った。
「追いかけなくていいのか?」
「雄平に付き合うっていったから」
「そうか」
雄平は少し微笑み鉛筆を動かした。


 私は中性だから、奇異の目で見られることになれていた。なにせこの世界では、男性、女性でしか分類されていないから。トイレだって、銭湯だって、仕事だってすべて男女わけられている。私はそんな中、肌身離さず中性認可証をもっていなければいけない。そんな時、相手の困惑、悲壮感、同情のような顔をされるはめになる。だれもが知っている。二十歳までに男性か女性、どちらにもなれないと死んでしまうなんて。私はシャワーを浴びながら鏡にうつった私の体を見る。男性にしては小柄で、女性にしては大きい、顔は女性っぽくて、女性に間違われることのほうが多い。肌は白く、髪は肩まで伸びている。あの時から少しは成長しただろうか。タオルで濡れた体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。扉を隔てて母親の悲愴の声が聞こえてきた。私はドライヤーを切り、耳をすませる。
「先生、…………それではどうしたらいいでしょうか?」
母親の震える声、私は耳を塞ぎ、二階へ駆け込みドアを勢いよく閉めた。濡れた髪が私の肩に引っ付いて気持ちが悪い。
しばらくすると、二階に上がってくる足音がし、ドアをノックした。ドアが勝手に開いた。
「伊織、明日、先生が中性だった人を紹介してくれるって………」
私は髪をいじくり答える。
「わかった会うよ」
私は将来のことより母親の悲しみにこたえたかった。親不孝な子どもだ。少しでも恩返しがしたかった。


 待ち合わせ場所は名古屋大学の研究室だった。私は地下鉄鶴舞線にのり、日差しが強いなかキャンパスの中を歩いている。夏休みの期間だからか、大学生の姿もまばらでほとんど見られない。たまにすれ違うくらいだ。大学の関係者だという話は聞いている。私は研究室の扉をノックすると、中から“はい”という声が聞こえてきたので扉を開けた。
彼女は椅子から立ち上がると頬笑んだ。とても綺麗で見とれてしまう。
「藤原伊織さん?」
優しそうな表情で私に椅子をすすめた。彼女の名前は長谷川紗妃さん。二十歳寸前まで中性で、夫と結婚し女性になった人だ。世界的に見ても珍しい。母親は私に希望を持たせようとしている。彼女のような例があるのだと。私は手持ち無沙汰でおろおろとしてしまい視線を泳がせた。
「綺麗ね、幼さのなかに美しさもある。私が失ったものかな」
「えっ」
私は初めて彼女と目があった。私と背丈は変わらないけれど、丸みをおびた体と主張した胸は私にはない。
「珈琲飲む?」
紗妃さんは立ち上がり、珈琲をコップに注いだ。私はコップに口をつけると甘い匂いと苦い味がむかってきた。
「ブラックでよかった?」
「はい」
「私も2年前まで中性だったの。幼なじみで仲の良かった男性がいて、突然プロポーズされてとても驚いたわ。けれどそれだけだったら私はかわらなかったとおもう、だけど、彼は結婚してくれなきゃ死んでやるって言われて、まぁ大切な人だったからそれから付き合うようになって私は女性になった。感謝してるわ。その人はいまの夫だけれど。彼がいなかったら私はとっくに死んでいたから」
「それは幸せなんでしょうか?」
私は口にしてしまったとおもった。それは人から好意を向けられることに対して、戸惑ってしまって、私は引いてしまっていたからだ。中性は男性や女性からアプローチを受けることが多い。なぜかわかっていないけれど、わかっていることはフェロモンで人を惹きつける何かがあるのではないかということだ。でも私はその全ての告白を断ってきた。どういう目的なんだろうかとおもってしまうからだ。私にはわからなかった。一緒に過ごすだけじゃだめなんだろうか、それって友達とはちがう? 私の質問に、たくさんの人が僕、私だけを見て欲しいと言った。どうしてだろう? それは束縛じゃないだろうか。それともその束縛を愛というのだろうか。
「男女には固有の特徴がある。男性は筋肉質でゴツゴツとした体。女性は丸みをおびて子供をつくる体に。人は生まれてきたときは中性だった。神様だったの。伊織さんが中性のままなのは、神様から選ばれたからね。だってそうでしょ。中性のままでいることは、多くの人から愛され求められる。伊織さんを責めているわけじゃなくて実際そうだから。もちろん、伊織さんが神様の子のままでいるのもいいわ」
「私は………」
私は言葉に詰まる。この人には本音ではなさなくちゃ失礼だとおもって意を決して話す。
「最近、親友だとおもってた男性に告白されて、怖い、手も足も自分のものじゃないみたいに動かなくて、なにより真剣だったから、それが怖かった」
いままで誰にも話せなかったことだ。
「伊織さんがその男子をいまは異性としてみれなくても、付き合うとなにか変わるキッカケになるかもしれないわ。それを選ぶのはあなた自身」
「想像できないんです、私が変わることに、それと同じよう彼がそういうことを考えていたことに」
紗妃さんは見守るような瞳で私の話を聞いてくれた。
「伊織さん、終わらない関係なんてないの、いつかお別れの日が来る、変わることを怖がらないでどちらかを選ぶことはあなたを救うことになるから。告白してきた人のことを怖がらないで向き合って、大切な人なら尚更、真剣だから怖いのよ」
雄平はどうして、私を好きになったんだろう、それって私にことが好きなんじゃなくて、中性の何かがそうさせるのだろうか。そう、結局、私は自分を信じることができてない、好きになれてないのだ。だから好きという言葉も私は戸惑うばかり。
私は俯き、室内の床を見る。
「私の連絡先を書いてあるからいつでも連絡してきて」
紗妃さんは私に手帳の切れ端の紙を私に渡した。


 帰り道、私がふと携帯を見ると着信がはいっていた。鳥遊楓先生だった。私は気分が重くなる。検査の日だからだ。正直、私はもういつ死んでもおかしくない体だけれど、検査は嫌なのだ。毎回服を脱がなくてはいけないから。
「長谷川紗妃さんに会ってどうでしたか?」
鳥遊先生は椅子にもたれながら言った。
「綺麗な人でした。数年前まで中性だったなんて信じられません」
「そうですか。変わるキッカケになればいいんですが」
「先生、私最近、体がおかしいんです、体が硬直したり、ところどころ記憶が抜け落ちたり。胸が苦しくなったり」
「記憶ですか………調べてみましょう。そこに服を脱いで横になってください」
鳥遊先生はバスケットを指さし聴診器を耳につけた。
私はいつものように、上着を脱いで、全身裸になってベットに横になった。私はこんな時、時間を指折り数えて早く過ぎるのを待っているのだ。鳥遊先生の温かい手が私の体に触れる。俯きになって私は目を瞑る。しばらく体を触られた後、「仰向けになってください」鳥遊先生の声は冷静だった。こんな時くらいタオルで隠したい。天井の染みをぼうっとして眺める。足を開いて、息を止める。きついのも痛いのも私は嫌いだ。
「はい、もういいですよ」
永遠ともいえる長い時間を過ごした私はなにか、喪失感を抱く、数秒して、すぐに私はいそいそと服を着始める。私はシャツのボタンを閉めている間。先生が話す。
「変化はみられませんでした。しかし胸が痛くなったり、記憶が一部失ったりというのは、もしかしたら誰かと恋愛感情を抱いたものに起因するかもしれません」
私の頭のなかに浮かんだのは親友の雄平だった。そのたびに私の胸は痛くなる。でもそれは、罪悪感や脱力感であって恋愛のそれとは違うような気がした。もちろん恋愛をしたことがないからこれを恋愛といっていいのか判別できなかったけれど。
「心当たりはありませんか?」
先生は眼鏡を上げて尋ねた。
「あっ、その、最近、親友から告白されて。その時、とても嫌でした」
いまの関係が壊れるのを私は恐れていたからだ。
「たとえば、私が伊織さんのことを好きだといったらどうしますか?」
鳥遊先生は真剣な表情で私を見つめて言った。
「鳥遊先生も冗談をいうんですね」
私は目をそらした。
「冗談ではありませんよ」
私は一瞬笑顔を見せたが、この感じや雰囲気は何度も経験している。告白してきた相手を振るのは残酷だ。どうしたって相手を傷つけることはわかっているのだ。それでも答えないといけない。そんなとき私はどうやって相手が私を諦めてくれるのだろうかとそんな自己保身まで考えはじめて嫌になるのだ。相手によってはなかなか諦めてくれなくてため息がでてしまうのだけれど、雄平や日和がいたから私は安心していられたのだ。その心配が私をさらに不安にさせた。
「そんな泣きそうな顔をされては傷つくではないですか」
鳥遊先生は心底落ち込んだ顔をしていたが、気を取りなおして。「嘘です。心配しないでください」
私はほっと胸を撫で下ろした。どっと疲れがでた。
「こんな風に、その親友もわかっていたとおもいます。それでも伊織さんに告白したということはその覚悟をしていたとおもう、伊織さんが一つも興味がないのならその人も傷つくでしょう」
「わかっています」
私は顔を逸らして言った。だからこそ、私はなんでもないように振る舞って顔に出ないようにいつも通りにしようとしていたのだから。私がもとめているのは何でもない日常と変わらない風景だから。窓の外から木の葉が舞っている。私は思い返したかつて私を好きだといってくれた人達のことを。


 中学2年の頃、日和が女性になった。それと同時期に日和と雄平、私との関係も変わったように思う。日和は女性の友達と一緒にいることが多くなった。自然と雄平と私ふたりで帰った。ある日の下校時、日和に女性友達と一緒に帰ってもいい? と相談された。私は「いいよ」と答えた。その女性友達の名前は西条華奈、明るい髪質で丸顔。良く笑う女性だった。

「伊織くんはどういう女性が好みかな?」
西条さんはきらきらと輝く瞳で私に問いかける。
私は答えに詰まった。
好きな女性は日和だ。猫目でフワフワしていて、シャンプーの良い匂いがする。他の女性は正直わからない。
私が答えに困っているのに気づいたのか、西条さんはそわそわしている。
「あの、わたしはどうかな?」
西条さんは体を私の体にひっつけて言った。スカートの裾を短く折り白い足が際だっていて、熱いのか、胸元のボタンを三つ開けていた。
「可愛いとおもう」私は素直に言った。
西条さんの顔がぱあっと明るくなった。
「嬉しい」西条さんは顔を赤らめ下を向く。
遮断機が下がり電車が通過すると風が彼女の髪をかき上げた。西条さんと私は目が合う、時が止まった気がした。彼女の口元が動く、しかし電車の音でかき消される。
電車の音が遠ざかり遮断機が上がる。
「なんていったの」私は西条さんに問いかける。
彼女はくるりと振り返りひまわりのような笑顔を私に見せた。
「また明日」そういって手を振り、風のようにかけて行った。

翌日、日和が女子のグループから離れ、私の元へ向かってくるのが見えた。
「いおり、その、花火大会があるじゃん。その時にさぁ、一緒に行かない?」
日和はためらいがちに言った。
もちろん私はOKした。
「その、西条さんと一緒なんだけどいい?」
「西条さん? いいよ別に」
私は日和の後ろにいる西条さんとばっちり目があった。慌てて目をそらす西条さん。多少の気まずさと日和の戸惑い。
「雄平もいい?」
私は日和に尋ねた。いい、とのことだ。
もともと日和と雄平は仲が良いし。一緒に行動することも多かった。最近では、日和はもっぱら女子のグループへ行動を共にすることが多いから私と雄平で帰ったりするけれど。

雄平と私は電車が来るのを待つ。風が吹き私の袖を通して涼しい。
「雄平、つきあってくれてありがとう」
「どうして、俺も伊織といきたかったし」
「そう」
雄平の掌が私の掌に触れる。私は少し雄平と距離を取った。
「逃げなくてもいいだろ」
「逃げてない」
私はまだしばらく待ちそうだから取り付けのベンチに座った。すると雄平は私の隣に腰を下ろす。雄平は物怖じげに私に問いかける。
「伊織は誰が好き?」
ああ、また雄平のお巫山戯がはじまったとおもった。だからいつものように返答する。
「雄平も日和も好きだよ」
「そっか、それじゃ、西条さんは?」
「西条さんは………」私は眉をひそめて考える。あまり話したこともないし、日和の友達だから、友達なのかなぁ。
「伊織は西条さんのことなんともおもってなくても、向こうは好きだとおもう」
「それは、………なんとなく気づいてる」
「明らかに、西条さんはそのつもりだよ。告白されたときさっきみたいな事いったら傷つくとおもうけどな」
「どうして?」
私は首を捻る。
「伊織、たとえば、いまむりやり伊織にキスしたとするじゃん」
「えっ、なんで?」
すると雄平はさらに顔を暗くし落ち込んでいる。
「たとえば、だよ。そうすると、伊織はどうおもう?」
考えたこともなかった。雄平は私の親友だしなんでも話せる仲だとおもってる。だけど、肉体的にキスとか考えられない。でも想像してみる雄平と付き合ってそういうことをする光景を。もやっとした。
嫌じゃない……とおもう、だからどうしてもだったら私は雄平とキスできると思う。
「できるよ。キス」
「えっ、いいの?」
雄平は目を見開いて私と向き合った。そっと肩を掴まれて。
「だめだよ」
「さっきいいって」
「たとえばでしょ」
私は雄平の胸を押して距離を取った。
最近なんだか、雄平が私をからかうことが多くなった。
電車が轟音とともに風を運び雄平の髪を靡かせた。
「のろう」
私は雄平より先に電車に乗り込んだ。
徐々に電車内は混雑し賑わいを見せる。浴衣をきている女性も結構いて、カップルが多い。私は隅っこのほうに押し寄せられぎゅうぎゅう詰めにされた。
「これ全員、花火かな?」
「そうだろ」
雄平は息苦しそうに答える。私と体が引っ付かないように抑えてくれていたからだ。
「いいよ、もたれても」
「もうすこしがんばってみる」
雄平はすでに汗をかいていて苦しそうだ。私はゆっくりと雄平の腰に手を伸ばし抱える。
「力抜きなよ。キツイでしょ、そのかっこ」
すーと雄平が私と密着する。嫌じゃない。私の親友だ。ただでさえ電車内は熱いのに余計蒸し暑くなった。はやくも後悔してしまっている。あとどれくらいだろう。上を見上げ現在地を確認しようとして雄平と目が合う。そしてすぐに雄平は目をそらした。
「さっきいったこと気にしてる?」
私は雄平に尋ねる。測らずも至近距離になる。
「気にしてるさ、あんなこといわれたら」
「雄平が聞いてきたんだろうに」
電車はカーブにさしかかり、全体の体重が隅の私へ寄りかかってくる。恋人より近い距離で身動きがとれない。雄平の熱さが私とあいまって、縛り上げた。
「………おもい」
私はぽつりと言葉を漏らした。
「後もう少しだとおもう」
雄平も私と同じでキツイのだろう、空間をつくろうとしてもがくが余計密着して肌が擦れるばかり。
「うぅ」
私は早くも後悔してしまっていた、もう少し早くに乗っていれば空いていたのに。私はちらりと顔を上げ雄平の様子を眺める。ちょうど肩に私の頭が乗る形になっていてよく見えないけれど雄平のワックスのような匂いがした。
「ワックスつけてるの?」
「つけてない、………臭いかな?」
「ううん、良い匂い」
私はこの匂いをどこかで嗅いだことがある。そうだ、父親の匂いにそっくりだった。どこか懐かしく忘れていた薫り。このときほど雄平を男性とおもったことはない。私は徐々に密着の度合いが強くなったと感じた。密集ではなくて、押しつぶされそうだ。なんだか腰に手を回されているし息も苦しい。電車内のアナウンスが流れ、ようやく到着し私は安心した。人混みは扉から徐々に流れスペースが空いた。それでも雄平は動かない。腰に手を回したまま体重を預けてくる。
「雄平、ついた」
「あっ、そう」
私は足を動かそうとしても雄平は抱きついたまま。
「雄平?」
私は体調でも悪いのかと心配になった。
「いこうか」
雄平はさっと私から離れると先に歩いて行ってしまう。なんだったんだろうか、ためらったように見えたけれど。
私は雄平に触られた体が熱くなるのを通り過ぎさって行った。

「すごい人だね」
私は雄平の後についていくのに必死だった。混雑していてはぐれないように。すこし息が切れる。
「ねぇ、」
私は雄平が一向に私に構ってくれないのにちょっとだけ苛ついた。だから肘で雄平のお腹をつく。
「なんか怒ってる?」
「怒ってるよ」
「どうして」
私が中性だからだろうか、いままでもこういったことが何度もあった。日和と雄平がカバーしてくれたから私はここにいられたんだ。
「昔からそうだけど、伊織は隙がありすぎるんだって、抵抗しないし、されるがままだし。簡単に人を信じるし、なんだったらあのままできそうだったし」
「何にたいして怒ってるのさ」
「いいよ、べつに、こっちの問題だし」
私はすこし雄平を睨みつけ、そっぽを向く。勝手に怒って、私に八つ当たりしているだけだ。私は雄平に自責感をもってもらいたくてわざと怒ったふりをした。
「悪かったよ、なんか自分に怒っただけだった」
「いいと」
私は神社のコンクリートブロックに背を持たれ、日和と西条さんを待つ、雄平も私の隣に移動する。
「遅れてるのかな」
時計を見ると約束の時間より15分くらい過ぎている。
「はい、これ」
雄平は私に向かって林檎飴を渡してきた。
「買ってきた」
「ありがとう」受け取り、表面の飴の部分を舐める。周囲から視線を浴びていることに私は気づいた。何人かがヒソヒソと話しているのが聞こえてきたからだ。ああ嫌だな。私はこの視線には慣れない。移動しようか、と声をかける前に、雄平は自分が被っていた黒の帽子を私に被せた。
「これで少しはいいだろう」
「あっ、ありがとう」
私は少し大きい帽子を前にかぶり顔を隠した。
ざわついたところは私とその心だ。私は男女問わず絡まれることが多いのだ。こういう人が多い場所では尚更で、私は一人では行動しない。
ガリッと飴を噛む。
「西条さんとつきあうのか?」
「どうして?」
「向こうはそのつもりだとおもう」
林檎の芯が見え、それにがりがりと私は噛みつづけた。もうなくなってしまった。
「同じだよ。いつもみたいに断るから」
私はゴミ箱に食べ終わった林檎飴を投げ捨てる。考えると不安になったりする。でもしょうがない。私には興味がないのだから。
「だったらどうして、ここに?」
私は雄平の横顔しか見えない。
「日和の友達だから、私は答えなくちゃ」
「なぁ、ほんとに興味ない?」
「ないよ」
「俺からみて、西条さん可愛いとおもうけどなぁ、ふわふわしてて、甘くて良い匂いして、柔らかそうで女子っぽい」
「それは、雄平が男性だからでしょ。授業でならったでしょ、中性はどちらにでもなれるよう性的な興味をもたないって。その代わり、中性は男女どちらか一方の道を選ばせるように薫りを出すって。西条さんが私を好きだったとしてもそれは私のことが好きじゃなくて、薫りで錯覚しているだけなんだよ」
「ほんとうかもしれないだろ」
雄平が西条さんをかばう理由がわからなかった。
「ほんとうじゃないよ、確実にわかってること」
私には言えないことがたくさんある。人から好意を持たれるということは求めていることもわかってしまう怖さがある。誰も私のことなんて見てない。私が中性だからこそ近くによってくるのだとわかっている。雄平や日和だって。そうだ。でも私が日和や雄平といると楽しいから一緒にいる。理由はそれで充分。「俺たちもそうなのか? 伊織に告白したら終わる関係か?」
私は帽子を下げた。こんな顔誰にも見せたくないから。
「………そうだよ。もし雄平に告白されたら元にもどれないから」
私はとてもずるい、絶対的に不可分の境界線のための楔をあらかじめうったのだ。顔は見せない、残酷で冷酷だから。私は失望されただろうとおもっていた。雄平や日和には嫌われたくない、私の“友達”だから。
「いいよ、………それでも、俺は見返りが欲しくて伊織を好きになってるわけじゃない。俺じゃなくて別の人でもおなじさ」
そんなの偽善だ。
私の薫り、中性であることの証、そして私が変わればいずれいなくなってしまう。わかっていても悲しい。
「ありがとう、雄平」
私はいまも雄平の顔を見ることができず足下を見ている。
「ちゃんと顔みろって」
雄平に肩を掴まれ、顎を上げられた。
「泣くなよ、どこにもいかないから」
「泣いてない」
私は雄平のことを恨めしく思う。簡単に私の領域に足を踏み込んでくるから。もしかしたら信じてもいいのかもしれないと思わせてくれる。私は再び帽子を深く被り、顔を隠した。
「わかったから、はなして」
雄平は私から一歩離れてブロックにもたれた。誰よりも私は雄平や日和に甘えている。こう答えてくれるだろうとわかって言っているのだから。私が欲しい時に欲しい言葉をくれる。とてもずる人なのだ。離れてほしくないと思う、独占欲かな。中性はこの世界の特権。数例しかない事例、しかし長くは生きられない。その数例の人はみな、なにがしか人から崇められる。いやおうなく、人ではなく神様の子なのだと。マスコミに追われ生活が困難になることもあり、政府から守られる存在。積極的に中性だと公表する人もいるけれど、私はそういうタイプじゃない。誰にも知られずになんてことは不可能だけれど、私は陰に隠れることを選んだ。だからフェロモンを抑える薬を私は毎日飲んでいる。それでも微かに残る薫りは隠すことができない。考えてもみてほしい、興味のない相手から告白されることの憂鬱を。本当に心許せるのは雄平と日和だけなのだ。
しばしの述懐と退屈。
外はこんなにも明るい雰囲気で賑やかなのに。私はこの雰囲気が好きだ。
「ごめん、おくれた」
日和が少し小走りで近寄ってくる。その背後に、遅れて西条さんがついてきた。日和も西条さんも綺麗な着物を着ている。
「いいよ、いまきたとこ」
私は日和と西条さんに微笑みながら言った。
「着物を着るのに手間取って」
「ひよちゃんは悪くないよ、私が選ぶのに時間がかかったから」
「えっ」
西条さんは潤んだ瞳で私を見た。
日和は苦々しい顔をしていた。
「二人ともはいろう」
ぼんやりと浮かぶ光りの粒が道のようになってつながっている。私たちはそのなかに入っていった。
以前、日和が言っていたことを思い出す。

“いおりぃ、女子ってとってもめんどうなのよ”
“なにが”
“いろいろ、めんどうな派閥とか、いおりにはなしたらどうしたとか、何が好きなのかとか、一緒につれていってとか、とってもめんどうなの”
“だったらはなれれば”
“それはできないのっ、集まらないと仲間はずれにされちゃうから”
私は日和からそんなことを気にしているのに驚いた。いままでだって、私や雄平と一緒に遊んでいたのだ。表面だけの関係なんていらないと思っていた。
“わたし、かなちゃんをいおりに紹介してちょっと後悔してる。いおり嫌でしょ。そういうの”
“あぁーうん、まぁ”
“いおりは優しいから付き合ってくれるけどさっ”
日和は私の肩に体を預けもたれ掛かる。日和の柔らかそうな顔を見ていると頬を触りたくなる。ためしに私は日和の顔を掌で触ってみた。
“んっ?”
日和は私を上目遣いで見つめる。耳たぶの感触がモチモチで気持ちいい。しばらく私はいじっていた。日和がうっとりとした顔をしているピンク色の唇が微かに震えていた。私ははっとして、撫でるのを止めた。日和はしばらく自分の髪を撫でていた。部屋のなかごろごろとしている日和をみていると猫のようだと常々おもってしまっている、口にはださないけれど。その毛並みを撫でている感覚になる。
“西条さんとはこういうことしちゃだめだよ”
“しないよ”
“もう一回して”
日和は頭を差し出してもたれ掛かる。
うーん。そうか、私は長い間、撫でることになったのだ。

日和と西条さんの複雑な人間関係、私には理解できなかったけれど、つなぎ止めておきたいものだとはわかっていた。
 西条さんが私の側へやってきて、言う。
「似合う?」
「とても」
私は微笑み返した。
「ねっ、あっちのほう行ってみようよ」
西条さんは私の手を掴み、屋台から離れた場所へ連れていこうとする。
「だめだよ、日和も雄平もいるし」
「はけよぉ」
私は先を歩いている雄平と日和を見る。楽しそうに口論をしている最中だ。こうして遠くから見ていると雄平と日和はお似合いのカップルに見える。嫉妬だろうか、独占欲かな。
「ねぇ」
「いこうか」
私と西条さんは神社のほうへ向かっていった。直前の雄平からの言葉、それが私の頭のなかで響いて、揺れ動いていた。私は断ることを前提として念頭に置いていた。そこには隙間なんてなかった、だけど雄平の言葉で自分の残酷さに気づいてしまった。なんて言おうか、ただそれだけだった。
「けっこうカップル多いね」
神社の階段をのぼる最中でも男女が腰に手を回していちゃついているのをチラホラ見かける。私は一歩一歩が重く、上を見上げれば暗く心臓がおもい、それでも空は星が輝いていた。
「あのさっ、やっぱり下りよ、日和が探してるとおもうし」
急に怖くなって私は途中の階段で足を止める。
「あとでひよちゃんには謝っておくから、ねぇ、いこうよ」
西条さんは懇願するようにして私に縋ってくる。どうしたって避けられないのだ。私はおもい足を再び上げ、階段をのぼる。
境内からは、すでに花火が打ち上がり、綺麗な花を咲かせていた。私はずっと花火を見ていたかった。その瞬間、言葉は置き去りにされた。
「いおり君知ってる? 男女問わず好かれてること。隠れファンっていうのかな、でもいつも雄平さんや、ひよちゃんと一緒にいて声をかけづらかった。完成された世界みたいで、でもひよちゃんが女性になって話せるようになってからチャンスだっておもった。だからひよちゃんと仲良くなったのも伊織くんと関係をもてるっておもったからだよ。どうしていまこんな話をするの? って顔してる、知って欲しかった、構って欲しかった、振り向いて欲しかった。伊織くんは私のなかで特別な存在だから。伊織くんの隣に居るだけで心臓バクバクするし、手に汗もかくし、変になっちゃうけれど、伊織くんの体温を感じられて、あぁ同じ人なんだっておもったり、だから正直に言うね。私は伊織くんのことが好き。私の醜いところも受け入れてくれる神様みたいな存在だから、欲しいって思った、独占したいとも。伊織くんが中性だからじゃないよ。みんなが欲しいっていう理由もあるけれど、水みたいに透明で包み込んでくれるから。伊織くん私を選んで、ひよちゃんや雄平くんの次でいいから。邪魔とかしないようにするし、毎日会いたいとか連絡したりとかして困らせたりしないし、伊織くんが望むなら、そういうのだけでいい」
西条さんの瞳は潤み、それでいて花火の光がうつてとても綺麗だった。純粋な想い、西条さんは私のことを美化しすぎている。本性の私を知ったら失望するだろう。それも私の弱さ。
「私はそんなんじゃないよ」
「しらないもん。いおり君が壁をつくるから」
トクンと心臓が鼓動する音がした。勢いよく西条さんが私に抱きついてきた。
「ちょっと西条さん」
「かなって呼んでじゃなきゃ離さない」
西条さんの体は熱く、対して私は冷えていった。
「かな、はなれて」
「うん」
あっさりと西条さんは私から離れる。それでも西条さんの顔は満面の笑みで嬉しそうだった。私は手を何度か開いて閉じた。
「その…………」
「でもいいんだ。ひよちゃんや雄平さんと同じように扱えなんていえない。だから断らないでください」
西条さんは涙声で頭を下げた。
「ちょっと西条さん」
西条さんは頭を上げず左右に振った。花火の光に瞬間照らされて、金色の髪が揺らいで私は日和にするみたいに西条さんの頭を撫でた。猫の毛のように細い髪と柔らかい肌質、日和とよくにてる。顔を上げた西条さんと日和の顔が重なって見えた。
「わったしは…………」
その言葉を言おうとしてポケットの中に入れていた携帯が震動した。私は視線を下に投げ、そして携帯を取り出す。
日和からだ。
凄い数の着信が入っている。
「出ないで」
西条さんは私の腕を掴んだ。何も言わずポケットにしまい込む。縋るようなその瞳に私は動けない、
「ひよちゃんが言ってた、いおりは神様みたいに優しいって。側にいるだけで支えてくれる、優しさをもらえる、触れると温かい、だから同じ人間なんだってわかるって、でも本当は恐ろしい、あまりにも好きな人には話しかけられないし、近くにもよれない、ものすごく勇気がいることなんです。がっかりした顔は見たくないし、傷つくのも苦しいのも嫌。大抵の子は告白できたことで諦めがついて満足する、それは私なんかが手が届かないでいてほしいとおもってしまっているから。断られることが嬉しいのは変だけれど、自分だけじゃなくて他の子もそうだし何よりいおりは孤高だと思っていた、ひよちゃんや雄平くんがいなければね。ひよちゃんや雄平くんは他の子と違う?」
私はハッとおもわず胸を掴んだ。何が違うんだろう。他の子と雄平や日和と。
私は日和に伝えたようにとてもずるい人なのだ。世間一般で言われる神の子なんかじゃなく、損得勘定で動くタイプなのだ。日和も雄平も私の絶対領域には入ってこないっていう確信がどこかにあって、その線引きを彼らは理解している………とおもってる。日和や雄平は私が嫌がることはしないからだ。もし仮に雄平や日和が告白してきたらどうなるんだろう。その時、私はいままで通りの関係のままでいられるだろうか。胸が苦しい。身勝手に味方でいてくれる人の善意を私は失いたくないとおもっていた。私は独善的で木の葉の揺れる木々の道を歩く、川のせせらぎと音の薫りはいつまでも私の心をいやしてくれていた。結局私はいざとなったら一人のことしか考えていない、日和や雄平のようにはなれない。独りで歩く道しか見えていないのだから。
私は口に出す言葉を堪えた。本当の事とは真逆のことを口にした。
「一緒だよ。西条さんも日和も雄平も」
西条さんの瞳は一瞬目を細め、潤んだ瞳へと変化した。
「わかった。そう言うしかないよね」
花火が空の色を飾りたて、連続した絵画よりも美しい情景に私は空を見上げた。
「同じなら良いよね、私もはいって」
私は断る言葉が見つからない。一度目を閉じ、自分の胸を掴む。「いいよ」
胸がつかえそうになる、重苦しい西条さんの気持ちを私は背負うことができるだろうか、問題の先延ばし、私の未熟さ、好かれなくてもいいと思う気持ちと嫌われたくない気持ちの狭間で私は揺れ動いていた。
「それじゃあ」
西条さんは頬を私の肩に押し当て私の手をがっしりと胸に挟んだ。
「動きづらいよ」
「いいの、嫌なの?」
西条さんは猫の様な瞳で私を探るようにしていた。
「そっ、んなことはないよ」
さっきまでの涙目はなんだったんだろうと不思議になる。携帯の震動が止まらない、日和には迷惑かけっぱなしだな。
「ひよちゃんとはなんでもないんでしょ」
「なにもないよ」
「そっ、安心した」
しばらく夜空を二人で見ていた。しなだれかかってくる西条さんはとても幸せそうで私は避けることができなかった。
「こんな日が来るとはおもわなかったなぁ」
西条さんがつぶやく。
「いおりくん、良い匂いがする、なんていうのか酔いそう」
西条さんの体が私の体と重なって熱をおび私は勘違いしそうになる。私が好かれているのは中性だからだ。それがなくなってしまったら元の私。自分では自分の体の匂いがわからない。薬を飲まないと私は群像の中で生活ができない。囲まれてしまうし否応なく目立ってしまうからだ。私は自分の腕を鼻に近づけクンクンと匂う。大丈夫、怖くない。老若男女問わずモテテいいだろうとうらやましがられる傾向があって、実際それらすべてを得られるただ性差をもたない中性にとってそれらの好意はただ恐ろしく歪なものに感じた。だから避けてしまう。中性であることを利用してたくましく生きていた人もいるけれど、どちらにせよ長くは生きられないしお金で手に入るものは衣食住だけだと見ていて理解した。中性にも権力志向を持つ人もいるみたいだ。異性として認識していない事実は、犬や猫などの動物から抜け出せていない事と一緒で、特別じゃないのだ。愛着は湧くし、好意も持つ、けどそれだけ。
「かなちゃん、いまはまだ私は中性だけど、それって中性の私が好きなのそれとも私に男性になって欲しいの?」
「もちろん、中性のいおりも好きだし、男子になっても好き。将来的には結婚したいよ。子供は男の子と女の子のふたりになって欲しい」
「わからないよ、私が中性のまま死ぬかもしれないし」
「いおりが死んだら私や隠れファンの子も悲しむよ」
「ファンって、私は物珍しいだけ」
「ねっ、ひよちゃんとはキスした?」
西条さんは耳元で私に囁く。
「かなちゃん、やめよう私はそういうの好きじゃない」
体の熱さを感じ私は西条さんと距離を取った。西条さんの絡みつくような視線と体温は私には異質すぎた。
「ひよちゃんはすごいね、いおりくんがこんなに近くにいるのに冷静なままなんて考えられないわ」
再び西条さんは私との距離を詰めると愛おしそうに頭を私の胸に預ける。西条さんを見ていて私はうっかり薬を飲み忘れ学校へ行ってしまったことがあった。周囲の子が男性か女性へと変化していくなかで、私だけが遅れそして正式に中性として認可された。私はその怖さを知っていなかった。通り過ぎる人が私を注視する、日和と待ち合わせ場所へ行くと彼女は私の姿を見かけた途端嬉しそうに手を振り顔をほころばせた。私が日和に近づくと日和は顔を紅潮させ、息が荒くなった。
「いおり、ごめん近づかないでしんどい」
日和はそう言って地面に手をついた。
私はしゃがみ込み日和の顔を覗き込んだ。潤んだ瞳と紅潮した頬。私は日和の額に手を当てて熱を測った。
「ものすごい熱い、家に帰ろ」
私を見る目が普段の日和と違っていた。うっとりするような白昼夢を見ているような目。
「いおり、わたし、あたまがおかしくなりそう、少し離れて」
私は日和から拒絶されたことがショックで茫然としていたけれど、このままの状態にするのは嫌だった。私は日和を背負って日和の家まで連れて行くことにした。日和の体は異常なくらい熱くて大粒の汗が私の背中に伝わっている。
「がんばって、あともう少しだから」
日和の家の呼び鈴を鳴らす。
「は~い」
玄関から日和の母親、栗色の髪で日和のような柔和な笑顔をもって出迎えてくれた。
「どうしたの?」
「日和の体調がよくなくて、」
「中にはいって」
日和の母親は一際、瞳孔を開いて私をじっと見た。
日和の額に冷たいタオルと敷きソファの上で横にさせた。
「ひより、どうしたのかな」
私は日和の苦しそうな顔を見て心配になる。
「藤原伊織さんよね、日和からよく話は聞いてるわ日和がとてもお世話になっています」
丁寧に頭を下げられた。でも私は気になった。私を見る目がとても子どもを見る目ではなく、恍惚とした表情だったからだ。まるで恋い焦がれている恋人を見るようなそんな顔だった。
「どうしました?」
日和の母親は手に持った冷え冷えのタオルを自分の顔に当てていた。その瞬間、私は勢いよく抱きしめられていた。
「えぅっ、どうしましたか?」
私はごそごそとじれったく、体をくねらせ脱出を試みていた。するとさらに強く手に腰をまわされ身動きがとれない。
「あのっ」
私はしだいに恐怖を覚えた。何をするつもりなのだろうと子どもながら殺されるのではないかと妄想してしまった。
「日和………助けて」
私は声にならないくらい小さい声で呼びかける。頼みの綱の日和は眠気眼になっていながら、私が陥っている状況をいち早く察知した。
「お母さん!」
日和は強引に母親を引きはがすと「ごめん、いおり、帰って!」
大声で私に向かって玄関を指さした。私はひどく傷ついた。こんなに嫌われることが嫌だなんてしらなかった。とくに日和には。
「早くして!」
日和は紅潮した顔で私に怒鳴った。
私は逃げるようにして玄関を飛びだし扉を閉めた。すごすごと私の足取りは重い。どうしてこうなったんだろう、私は声にならないため息をついた。私は行きかう人の視線が私に注視していることに気づいた。それは下を見つめ項垂れていたのに、陰が私の周囲を覆ったからだ。スーツ姿の男性が早足で歩きピタと足を私の前で止まる。その人の顔は日和や日和の母親と同じ表情で私はこわばった。ひとりだけじゃない、大勢の人の群れが私を取り囲んでいた。私はわけがわからず逃げられずにいた。逃げ場所は背後の通路。私は駆け足で走った。路地裏は汚く、ゴミバケツからゴミがはみ出し、生ものの異臭がした。普段こないところだから違う世界に迷い込んだみたい。
「こっち」
壁際から突然、手を掴まれ引き寄せられる。帽子を深く被った女の子だ。
「走って」
私は女の子の手に引かれながら息を切らしずっとまっすぐ走って行った。そのうち光が表に溢れ出た。私もだけど彼女も息を切らして大粒の汗を流していた。
「ここでもう大丈夫ね」
女の子は伏し目がちに言った。
「あのっどうして?」
「中性でしょ? 普段から薬を飲んでない? 無防備すぎるわ、それとも注目されたいタイプの人?」
私を指さしすごい剣幕で叱られた。
「あっ」そういえば薬を飲むのを忘れていた。
「こんなことになるなんてわからなかったから」
「あっそう、それじゃ」
踵を返し女の子は歩き出す。
「待って、どうしてあなたは」
彼女は後ろを振り返る。
「身内に中性がいるから、私は慣れているの、といってもできるだけ目線は合わせられないけれど」
「その人は」
「ごめんもう私は行く、長く持ちそうにないから」
急に離れていってしまいその子と私の距離にはとても離れているようでとても近い。私はそっと女の子に掴まれた腕の匂いを嗅いだ。
 私は学校にも行かず、自宅に帰り母親に事情を説明する。すぐに薬を飲み時間をおいて待機したのだ。いまになって思う、恐怖を自覚していなかった。自分が襲われるなんて考えもしない。痛みや恐怖を知ることでしか学習しないなんて私は間抜けだ。この一件から日和や雄平に対しても私は一歩引いて見るようになった。

「いおり! 何処に行ってたの探したでしょ」
日和は腰に手を当てて怒っている。
「ごめん、はぐれちゃって」
「ちがいますよぉ、私がいおりくんを連れて行ったんです」
「えっ」
日和は目を細め私のことを追及する構えを見せた。あからさまに先ほどから西条さんが腕をからめてくる。
私は周囲の人の視線を気にしていた。さらに帽子を深くして存在感をなくす。この場から消えてなくなってしまいたい。
「いおり、あっちのほう行こうか」
雄平は手に持った焼きそばを持ちながら人気がない場所へと誘導していく。
「ちょっと雄平っ、どこまでいくのさ」
「なんかよくない気配がした」
私は周囲を見渡し、誰も居ないのを確認していた。
「誰もいないし」
「そうじゃない、匂いが強くなってるから」
雄平は顔を逸らし顔を赤らめた。
「そっ、んなこといわれてもしょうがないじゃん。私のせいじゃないし」
「わかってる、んっ」
雄平は私の姿を体で隠した。通り過ぎていく人がこちらのことを訝しげに覗いて過ぎ去っていった。
「前からおもっていたけど、雄平は平気なの?」
「全然、いまだって頭おかしくなりそうだけど、ひっしに堪えてる状態だし、襲いそうになる」
「えっ、それはひく」
私は胸を両手で押さえ後ろに下がった。
「あんまし、肌身せるな、髪も無防備に見えるその視線も。だからそんな風につけこまれるんだ」
「西条さんのこと? 怒っているの」
「いいや」雄平は首を横に振った。
「そうなることはわかってたし、いおりは付き合うのだろうともわかってた、西条さんはそういうタイプの女性だから」
「しょうがないこともあるよ、なりゆきだし、それに付き合うわけじゃないよ」
「そうなのか………てっきり様子をみてるとそうだと」
「ふたりとも急に走っていかないでよ」
日和と西条さんが二人して小走りでやってきた。
「いいや、この場所から綺麗な花火が見えるんだ」
雄平は空を指さして言った。
空を見渡すと木々に覆われて、微かに花火の雫が見えるだけで遠ざかっている。
「どこがよ」
日和はイライラした様子で雄平に詰め寄るがため息をつきそっぽを向いた。
「もうぅ早いよ、みんな、どうしたの?」
温かい空気が私が来た道に風に乗って運んでいった。そのあと西条さんは私の腕から離れようとしないし、雄平はそっぽを向いたまま、日和に至っては、ぶすっとして不機嫌を隠そうともしない。雰囲気は最悪だった。
鳥遊先生に相談しようか、薬が効いていないんじゃないか。誰とも会えないかもしれない。気づいたら駅のホームに立っていた。西条さんは名残惜しそうに私に潤んだ瞳を見上げていたが日和に引きはがされ違う方向の電車へ乗った。雄平はポケットに手を入れ、喧噪と花火が終わった淋しさを噛みしめているように見えた。雄平の横顔を眺めていたら雄平とふとした瞬間に目が合った。
「いおり」
「なに」
雄平の手が伸び私の頭を撫でた。私はすぐにその手を払いのける。
「触るのはダメ?」
「ダメ」
一指し指をクロスして口元へ持っていった。
「その、丸くて潤んだ瞳が好きだ。中性だからじゃなくて、さらさらの髪も」
「そうありがとう」
私は平然と答える内心は激しく乱れていた。頭がくらくらする。今日だけで二人から好きだと言われた。告白に慣れている私でも親友からそんな言葉をいうなんて信じられない。もう潮時かもしれないと私自身冷酷に見ていた。それと同時に私は親友から告白されただけでいまの関係を終わらせようとしていることに驚いた。
外はもう真っ暗で電車の中からは自分の顔しか映し出されていない。
「もしかりに、私が女性になったとしても私のことを好きでいてくれる?」
雄平に尋ねた。
「もちろん中性だからじゃないからな」
欲しいものってなんだろう、私は何が欲しい? きっと中性じゃない私を好きでいてくれる人。ううん、ちがうただ側にいてくれる人。それは日和だったり、雄平だったりするわけで求められても何も返すものがない。体だろうか、私は思い切って口にしてみる。
「雄平は私となにがしたいの?」
「なにも」
平然と雄平は答える。
その態度がおかしくて笑ってしまう。
「なにもってなにさおかしいよ」
「むかしさ、いおり、すごいフェロモンまいてた時あったじゃん」
「そんなスカンクみたいにいわないで」
「なんていうか理性がふっとびそうになっていおりのことしかかんがえられなかった。でもそれって俺が理想としていることで自分の存在がないかのようにおもえた」
「麻薬?」
「そうかもしれない、けれど我を忘れるほど強烈だった」
「それじゃ、好きかどうかわからないよ、私の嫌なところもしっていないと好きになれないもの」
「伊織の嫌いなところか…………」
雄平は夜空を見上げクスッと笑った。
「バーカ、おしえてやらねー」
「はっ!?」
私は喜色万遍の笑みを浮かべる雄平を追いかけて走っていった。

「すごいメールの量……」
私は家に帰るなり、西条さんのメールに悩まされていた。
“おやすみ”と私が強制的に終わらせると瞬時に返ってくる。ベットに寝転び頭をしたたかに打つ。
(いったぁ)
ピロンッ、
“いおりの家に遊びに行っていい?”
(もう、このこは…)
私は眠い眼を擦り、携帯の電源を落とした。

「伊織くん、私と付き合ってください」
私は学校へつくと、下駄箱の中に手紙が入っていた。西条さんだろうと私は鑑みていたけれど、ちがった。
だれだろう、知らない名前だ。
校舎裏に呼び出されてみたら、いきなりこれだった。
私はきょうの朝、薬を飲んだことを自分で思い起こし確認した。うん、確かに飲んだ。もしかして効かなくなってる?
「あの……、」
目の前にはふわふわしてやわらかそうな髪をしたかわいらしい女性。
西条さんの友達だったかな………、記憶のなかの片隅にある。
なんか、デジャブ。
最近こういうの多いな。
「あっ、ごめん、その……」
私は西条さんの時とはちがい、すらすらと言葉が出てきた、これはいつのまにか私が身につけた防衛術で、定型文でもあった。相手も傷つかず、私も身を守れる。
「……………ごめんなさい、いまは誰とも付き合う気はないから」
「でもそれだったら、華奈ちゃんは? いいの?」
彼女からは強い嫉妬の目をかんじた。
私はやんわりと笑顔でかわした。
「西条さんは友達っ、付き合ってないよ」
「でも西条さんは、付き合ってるっていってるよ。そんなのズルい」
顔を赤らませ下を向き肩を震わせている彼女を見て、私はその肩を支えて上げたくなって、手を差し出しそうになる。けれど手を自分で抑えこんだ。
「西条さんはとてもズルいんだ。クラスでもつい最近まで彼氏がいたクセに、伊織くんに鞍替えするなんで信じられない」
それは初耳だ。
そっか……、そうだよね、彼氏いたんだね。
私は妙に納得がいってしまった。というのも、垢抜けていて日和や雄平を扱いかたも、私の心情も理解して接してそうなってしまっているのだから。
「私でもいいじゃん!」
えっ、突然飛びかかってきた彼女を私は抱きかかえる。
あっ、やばいかも………、
鳥遊先生から、言われていたことがある。
むやみに人と体を触れあわないでください。
中性のかたのフェロモンに一度酔ってしまうとクセになってひとによっては人生を失うかもしれません。大切な人と触れあうのは良いですが……、伊織さんの身に危険が及ぶ可能性もあります。どうかお気をつけて。

私は急いで私の体から彼女を引きはがし乱れた服を直した。
はっとして彼女の顔を正面から見た。
長い睫毛、幼い顔つき、瞳孔が開き、再び私に抱きつこうとする彼女を私は必死でとめる。
「もぅ、好き、好きだいすき」
「ご、ごめんっ」
私は彼女を置いていき、その場から走り去った。
「まって!」
彼女が私の後を追ってくる、それでも私は振り返らず逃げるように風を切った。
「どうしたの、血相抱えて、誰かに追われてるみたい」
日和は冷たい視線を私に投げかけていた。
そういえば、この間のことを謝っていなかった。
「いま告白されて、…それで、わたし、その、体に触れられて怖くなって逃げてきた」
「はぁ! この間もそうだったじゃん、なんでこう、無防備なんだかぁ」
日和はあきれて首を横に振ったが真剣な目で私を睨むと、こっち。と言って手を引っ張り保健室の扉を開き私を押し込んだ。
「しばらくここで隠れて、私もアブナイ」
顔を逸らし、勢いよく扉が閉まった。
取り残される、私ひとりが、
風がたなびく部屋でカーテンが揺らいでいる。
その中に妙齢の女性が座って本を読んでいた、こちらに気づくとゆっくりと顔を上げた。瞳孔が少し開くと納得したように口を開いた。
「そう、あなたが藤原伊織さんね」
私はコクリと首を縦に振ると保険医に近づく。
「そこまでにして、あまり距離が近いと私も危険だからね。あなたが悪いわけじゃなくてそういうルールだから」
私は促されるまま椅子に座った。
「きょうはどうしたの?」
「大学病院の鳥遊先生に薬をもらっているんですけど、もしかしたら効かなくなってきてるのかなっておもって……」
「どうしてそうおもうの?」
「えっと、最近とくに、告白されることが多くて」
「うーん、身の危険があったりする?  中性は特にそうだから」
私は保険医の人の言葉に棘があるのが気になったけれど、気づかないで無視した。差別と軽蔑、そして嫉妬、中性であることは異分子であって決して交わらない、けれどその奥底の感情は憧れもあると鳥遊先生が言っていたからだ。
「薬が効かないと、私、みんなに迷惑をかけてしまいます」
「いまでも充分迷惑をかけています、担任の羽田先生だって特別、注意していますし、他の生徒にも支障がないように距離だって離していますから」
私は肩を小さくし下を向いた。
それだって私のせいじゃない、向こうが勝手に好きだって言って、近寄ってくる。どれもこもわたしじゃない、すべて向こうからだ。不満が胸のなかで渦巻く。あふれ出さないように私はコップに蓋をして閉じ込めた。
どれもこれも、私の悩みや苦しみは他人では理解できないと幼いころからわかっていたから。
日和や雄平だってわたしの心根はわからない。
「迷惑をかけているのはわかっています、だから私だって距離をとって、みんなと一緒に遊ばないようにしてますし、薬だってのんでる」
「そうね、あなたは悪くないわ、ごめんなさいね。おばさんだからゆるして」
そう言って軽々しく頭を下げる。
少しも悪いとおもっていない、私は不満におもう。
だったら言わなければいいのに。
「で、薬の件は、担当医は知っているのかしら?」
「いえ、まだ伝えてなくて……」
「それはいけないわね、私が電話して伝えておくわ」
「それは………」
わたしは言葉に迷う。
鳥遊先生はなんと言うだろうか、わたしは検査が嫌いだった。ひんやりとしたベットで横になって時間を潰す。あの空白が世界から拒絶されているみたいで、自分を否定されているようでイヤだった。
「あらっ、伝えられるのが嫌かしら?」
「いえ、わたしが直接伝えます」
「そう、それじゃ、ここの用紙に記入して」
バインダーに挟まれた用紙を私は渡された。
私は用紙に書かれた文章を読む。
どうやら中性のための特別事項のようだ。
密室で二人きりには本人の了承がいる。
わたしは、はい、に○を囲み、あとは適当に書いておいた。
中性であること、私は自分の運命に弄ばれているような不快感を持ち続けていた。
中性は狙われやすく保護されなければならない人種だといわれている。
それは真理であり、わたしは息を殺し生活するのに苦しい。それに悩みを共有できる中性もいない。そもそも世界に数十例しかない特異な存在。見世物のパンダの気持ちだ。私はしられてはならない秘密を抱えている。それでも公にならないのは私が中性認可を受けているにすぎない。
バインダーを手渡すと私はうんざりした。
「しばらくここで休憩させてください、それから大学病院へ行きます」
「そう、カーテンを閉めてね」
私は気づいていた、一度もこの人とは目が合っていない。たとえそれがマニュアルだとしても傷つく。
ポケットに入れた携帯が震動する。
パカッと開くと、日和からメッセージ。
“強引に引っ張ってごめん、理性をたもっていられなかったから、いおりを守るのに、襲ったら世話ないし、あともしかしたら漏れてるかもしれない……”
 漏れてるって、わたしは、日和が言うんだからそうなんだろう。あの事件があってからわたしは危険が身近にあると知っていたから。
 しばらくここで寝てサボっちゃお。
目を閉じ、現実逃避。
よくなるだろうか、わたしがいなくなったら。
日和や雄平は悲しんでくれるだろうか、それとも数日したら忘れられてしまう存在かな、願うなら跡を残さずいなくなりたい。鳥みたいに足跡をつけないように。

 その日は学校を早退し、大学病院へ向かった。病院の受付でこっそりと中性認可書のカードを女性に見せると、すっと息を吸い、奥の事務所へ向かった。
「少々お待ちください」と言われ。
私は待合室の隅のソファにフードを深くかぶって座った。
すぐに私の前に白衣姿の鳥遊先生が立っていた。
「こちらへ」
少し伏し目がちに私を見た先生に私は黙ってついていった。長い廊下、私はいつもの個室に向かっていた。
「あっ、いえ、こちらの部屋にきてください」
鳥遊先生はいつもとはちがう部屋に案内した。
「ここは?」
鳥遊先生は口元に手をやり、シッといった。
部屋に入ると。
私は鳥遊先生と距離を取った。
「電話で話をきいた限りですと、いまの薬では効かなくなっているというはなしでしたが」
私は頭を縦に振った。
「そうですか………、成長とは早いものですね。こちらへ」
私は何も言わず差し出された本を受け取る。
「これは?」
「中性のかたの研究成果です」
私は一ページ目をめくると、目鼻がスッキリとした男性でも女性でもない写真があった。知らず知らず引き込まれるその魅力に私は初めて同性を見たことに震えていた。
「この方はフィンランドで生まれ二十歳になる前になくなりました。そのかたの成長記録です」
淡々と鳥遊先生は私の前で言った。
二十歳になる前に亡くなった。
とても残酷な宣告だ。
私もあと数年でこうなる運命だと、余命宣告されたみたいに。瞬間、わたしは頭に血が昇った。
わたしのせいじゃない、こうなる運命も、人から好かれるのも自分で選んだんじゃない。ぜんぶ、そうなるように生まれてきた神様が悪い。
「落ち着いてください、伊織さん。まだそうなると決まったわけではありません。一緒に考えていきましょう」
考える、いったいなのを?
ずっとかんがえてきた、わたしがどういう人生を送りたいか、どうなりたいか、それでも私が二十歳より先を生きているイメージだけ抜け落ちて、行く道がない。真っ暗闇、もうない。
「中性のかたは独自のフェロモンをだし異性を虜にし情欲をかきたてる。これはずいぶん前にお伝えしましたが、初期段階です。次の段階は自身だけでなく他の対象に対しても“恋い”を発生させることができる」
鳥遊先生があまりにも真剣に言うものだから私はおもわず笑ってしまった。
「ほんとうのはなしですよ」
私は今度は首を傾けた。
「このかたはアネルマという名前です。中性のかたの情報は極秘ですが、このかたは有名ですよね」
私はもう一度写真に目を通した。
「えっと、知りません」
「うーん、そうですか、一時期テレビでも取り上げられ話題になっていたんですが………」
「わたしはテレビを見ないので」
母親が中性に関する情報や日々起こる事件をとても嫌がるのでついにはテレビを捨ててしまった経緯がある。
鳥遊先生は顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「アネルマさんは中性としての特異性と公開性の広さからすぐにフィンランドのスターとなりメディアにも多く出演していました」
どうやら私とは別次元の人だということがわかった。私は目立ちたくないし、スターにもなりたくない。目立ったりしたら襲われたりするだろうし、それにお金だって生活していければそんなに必要ないだろうし。
「中性のかたも千差万別ですよ。けれど大人しくて、口数が少ないという共通点はありますが」
鳥遊先生は私にむかって言った。
「アネルマさんはどうして、有名になってしまったんですか?」
わたしは日々の生活を守りたかった。そこが心配だった。
「アネルマさんはスカウトされて、自ら中性として活動していました。注目を引く容姿ですし愛されていた」
「あの………それとどう関係が?」
「失礼しました。伊織さんも薬を飲まず抑えていなければ、アネルマさんと同じ状況になっていたでしょう、しかしアネルマさんはその情欲をコントロールすることができたとあります」
「薬は使わずにですか?」
「ええ、そもそもアネルマさんは薬の投与はしていません」
私は息を飲んだ。薬を飲まずに生活できるなんて………、飲むのを忘れてあんなに大変な事になったのに、どうやって。
「そもそも、フェロモンが抑えられる薬はアネルマさんの研究によって作り出されました。信じられないことに彼女は好きな相手に恋をさせることができ、女性と婚約していました」
「それは…………、アネルマさんが望んだことなんでしょうか」
私は不安に思う、中性の特性によって得られた特権は人を幸せにするのだろうかと、
「アネルマさんは望んでいましたよ、少なくとも自由奔放な人だとわかります、婚約者の他に男性の恋人が3人いたそうです」
「えぇ~、婚約しているのに」
「そうですねぇ、彼女は生きようともがいていましたよ。だからこそ実験にも参加し、生き残る道を模索していました」
「生きようともがくことが恋人を沢山つくることなんですか?」
「アネルマさんはそう考えていたと僕は考えているよ。実際、この世界には男性、女性、中性、どれかに含まれているし、中性はその大元。アネルマさんは交わることで、どちらかの道にすすみたいとおもっていたみたいだ」
「でも、結局だめだったんですよね」
「彼女が残した研究結果は活かされているよ。それは彼女がいきようと願ったからだ――――、はなしがそれましたね。アネルマさんは意図した相手とだけではなく、波及させることができたんです」
私は時計の針を気にしていた。
鳥遊先生とは一定の距離をとって近づかないようにしているけれど、そろそろ学校が終わる時刻だ。日和は心配してるかな。
「伊織さんに薬が効かなくなってきたということは、つまりより強い保護観察に置かれる可能性があります」
私ははじめてここの部屋にきた意味を知り立ち上がった。
「伊織さん、最後まで聞いてください」
鳥遊先生はそう言って、私を呼び止めた。
「私はモルモットにはなりません、普通の生活がしたいんです」
「その生活が出来なくなるかもしれない、ですので伊織さんの身になにかあっては遅いのですよ」
扉に手をかけ、横に開けようとするが、鍵がかかってあかなかった。
「私をだましたんですか?」
私は辛辣な言葉を浴びせた。
鳥遊先生は悲しそうな顔をし、
「伊織さんを騙したりなんてしませんよ」
「だったらどうして、」
私の目の前には透明なプラスティックのボードで遮られており鳥遊先生とは接触できないようになっている。これをわたしを傷つけないためととるか、監視の対象としているかわからない。「わかりました、でもお母さんに連絡させてください」
「もちろんです、ぜったいに危害を加えたりしません。私は伊織さんの味方です」
私は冷めた目で鳥遊先生を見ていた。このアクリル板のように鳥遊先生と私の間には大きな壁がある。
いままで、私が築けていた関係はあくまで医師と患者との関係だけだった。
どれくらい時間がたったんだろう、わからない、この部屋にはトイレがあって、お菓子も置いてる、女性物の雑誌も置いてあった。鳥遊先生が言っていたことを思いだす。
もしわたしに、相手に恋に落とすことができたら雄平と日和に恋愛感情を持たせることも可能? ってこと、うーん、それはありなのかなぁ。
いがみ合っているように見えて、傍目から見ていて似合ってるし。
プリントアウトされたアネルマさんの写真をもう一度見た。優しそうに頬笑む彼女、私とそっくりで、けれど長い睫毛の奥にある瞳は濃い翡翠のような色だった。数年先、わたしはもうこの世界からいないかもしれない、いまはまだ想像もできないけれど、確実にどう生きて死ぬかを選択するには、ほかの人よりずっと早い。このときが、私にとって分岐点なのかもしれない。
「伊織さん、お母さんから電話です」
鳥遊先生は小さく切り取られたアクリルの穴から携帯を私に向かっておいた。
「もしもし」
「伊織、先生のことよく聞いていなきゃだめよ。会いに行くから心配しないで」
「うんうん、わかってる心配いらない」
私は心配かけたくないと適当に終わらせようとする。
「もう切るから」
「あっ、ちょっといおり……」
私は適当に電話を切った。
私のせいで心配をかけるのはうんざりだ。この部屋で私は生活することになるのだろうか、不安や孤独に疲労が重なった。
「ここで泊まることになるんだろうな…………」
鳥遊先生が携帯と一緒に書き残したメモがあった。
「心配しないでください、学校には連絡をしておきます、数日の間、経過を見る必要があります。それまで頑張りましょう」
鳥遊先生の残した文字が空々しく通り過ぎていった。
簡易のベットに消毒の匂い、硬い枕もわたしには合わなくてなかなか寝付けない。息が消えるように、わたしは存在さえも見通せない。それでも味方にしなくちゃいけない人はいて、切らしちゃいけない。日和、雄平は絶対にはなしたくない。はなれたくない。もし私に二人を恋に落とす力があるなら、それを使うだろうか。答えがでないまま夜は更け、いつのまにか眠っていた。

気づいたら朝で、日差しが顔に当たっていた。眠気眼で顔を洗う。いつもと同じ顔、鏡のわたしにむかって無理矢理笑みをうかべてみる、すぐに真顔に戻り濡れた睫毛から涙が零れる。かけてあったタオルで顔を拭く、答えなんかみつからない、一生かけて探し続ける。それだけはわかった。
扉からノックする音がした。
「はい」
「朝食をもってきました」
鳥遊先生は、アクリル板越しに顔近くにトレーをもって笑みを浮かべていた。
「一緒に食べましょう」
私は黙って頷いた。
鳥遊先生は口いっぱいにサラダを頬張りむしゃむしゃ食べている。無言の時間がつらい。
「病院の朝食は味気ないですね」
「そうですか、あっさりしてておいしいですけれど」
「そうかな」鳥遊先生はポケットから塩のボトルを取り出しまぶしていた。
「病気になりますよ」
「私はいいんです、医者なので」
「こどもみたいなことをいわないで」
鳥遊先生はバツが悪そうな顔をして頷いた。アクリル板を通して、わたしたちは一緒に食事をする。こうした状況は私を守ると同時に、動物園のトラのような捕食されないようにつくられた柵みたいだ。
私はスプーンを皿の上に置き、じっと鳥遊先生を見つめる。
「どうしました? カボチャスープよりコンソメのほうが良かったですか?」
「このアクリル板どけてもらってもいいですか? 見張られてるみたいで不快です」
鳥遊先生はスープを一気に飲み干すと、肩を落として言った。
「こういう風にはかんがえられないかい、見張っているのではなくて、保護しているのだと」
私はムキになって言い返す。
「それは言葉のちがいだけです、本質は一緒です、わたしのことを信頼していないからここに閉じ込めているんです」
「信頼してない………か、本音ではなそうか、僕がもしこのアクリル板をどかして伊織さんと対峙したとき、冷静でいられるかわからない、襲うかもしれない、その可能性があるなら、僕は自分を許せない」
「いままでだって至近距離で接していたじゃないですか、薬を飲んではいましたけれど………からだにもいっぱい触って」
鳥遊先生ははっとし、口を噤んだ。
「それは………診察です、本当です、イヤらしい気持ちになったことは一度もありません」
鳥遊先生はあからさまに動揺し箸の先が震えている。
そのことにわたしは触れない。
そのさきの真相をしったら私は心が傷ついて足下が揺らいでしまうから。世の中、知らなくても良いことが多すぎる。
「それはそうと、これからはどうなるんです?」
いつまでここに?
それともずっとこのまま?
不安な顔を出してしまったのがわかったのか鳥遊先生は笑ってみせた。
「幽閉するわけではありません、いまの段階で伊織さんを外にだすと混乱してしまうためです。何度もいいますが、伊織さんを守るためです………きょうはその検査をします。けれど、私のことがいえ、やはりなんでもありません」
鳥遊先生は言い淀み途中で会話を止めた。
「紹介したい人がいます」
扉の向こうに、一人の少女が、
「あっこのまえの」
ムスっとして立っているのは以前助けてくれた女の子だった。「彼女の名前は月城小春さん。彼女のお姉さんが伊織さんと同じ中性だよ。そして彼女には中性への耐性がついていることがわかっている」
「へー」
耐性って、病気じゃないんだから。
自虐的に頭のなかでつっこみをいれる。
「べつに、助けなんてならないわ、耐性っていっても怪しいものね」
そういって彼女は顔を背けそっぽを向いた。
「そんなことありません、同じ境遇の家族をもった人でしかわからない苦しみ、その理解が大切なのです」
「それでは、二人で」鳥遊先生はそう言ってトレーをもって席を立った。
鳥遊先生はそっと扉を閉め、あとに残された私たちは沈黙だった。
「そっちにいってもいい」
小春さんがアクリル板を指さし邪魔そうにしている。
「いいけど、とれるの?」
「鍵をかしてもらってるわ」
小春さんは簡単にアクリル板を外し、こちらの世界にやってくる。
彼女は私の下へかがみ込み見上げるようにして私の瞳を直視した。
「ほんと、にてる、イヤってくらい、雰囲気も匂いも、その仕草も」
私はついクセで一歩後ろに下がって距離をとった。
小春さんはハンカチを鼻にあてがっていた。
私は絵画品か。
「大丈夫、わたしは襲ったりしない、姉が中性でしょちゅうこまらされているから」
私より年下なのにしっかりしているのはそれだけ経験してきているからか。
「あのそれで………」
「まだわからない、あなたはためされているの、わたしがおかしくならないか」
「あぶないよ、薬飲んでないし」
「問題ないわ」
一歩、また一歩と小春は私に近づく、私も一歩下がり、壁際に追い込まれた。私は壁に手を当てた。
小春さんの顔が間近にあり、キスされるのかとおもった。すると額と額が重なっていた。1,2秒くらいだったかな、精確な時間はわからないけれど、すっと彼女は離れた。
「ほらね、あなたの刃は私には届かない」
肉親よりも近い距離、私は誰ともこんなことをしたことがなかった。ほっとして私は胸を抑えた。誰とも共有したことのない痛み、苦しさを理解してくれる初めての人。
「よかったぁ。傷つけなくてすんだ」
膝を抱え目を隠す。こんなかっこわるい姿は見せたくない。
小春は椅子に腰掛け、足をクロスさせていた。スカートなのにいいのだろうか。
「べつに気にする必要はないわ、お金はちゃんともらってる」
「もぉー、聞きたくなかったぁ」
「ほんとだもの、お金のためにここに来たの、じゃなきゃこないわ」
嘘だ、見ず知らずの私を助けてくれたことがある、今日だってそう、赤の他人にどうこうしようだなんて人は滅多にいないことを知っている。
「それじゃぁ、お金の分は働いてもらいましょ」
「あなたからはもらってない」
「おなじようなものじゃない」
「いずれにしても、はやく終わらせましょ」
小春さんはポケットからハート型の瓶を取り出し私の前に見せた。中は透明に近い白色。
「これは、凪沙の唾液」
「えっ、なにそれ」何の冗談?
「姉が中性だってことは知ってるでしょ、凪沙は人の情欲をコントロールさせることができる、それには彼女の体液が必要なの」
「それをどうしろと?」
私は眉をひそめ、そうならないことを願った。
ハート型の瓶を私の前に無言で差し出した。
「飲むの?」
「ここから出たいなら飲んで」
「でも………、ほんとう?」
「飲んで、嫌ないい、帰るから」
小春は鞄に瓶を仕舞う。
「まってっ、てば、そうじゃなくて」
「ほんとにほんと?」
小春は無言で頷く。
手にした瓶を私はじっと見つめる。
もしかしてすべて嘘かもしれない、私は騙され笑われる。
でもそうじゃない、小春さんは私を助けてくれた。だから信じる。嘘じゃないって。
瓶の蓋を開け、目を瞑って一気に口の中に流し込んだ。

 何の味もしなかった。当たり前だろうか、わからない、でもかすかに残る女性のようなフレーバーは口の中にいつまでも残った。
小春は、私が飲んだのを見届けると。立ち上がって言った。
「じゃ、もう帰る」
「まってよ、もっともっとはなしをしたい。これからも」
「あのね、あなたも中性だったらわかるでしょ、接触はできないし、危険なの。ここへ来るのも極秘、鳥遊先生に頼まれてここへ来たの、感謝することね」
「そうだったんだ………」
ごめん、先生のこと疑って。変態だとおもって、
「それじゃあ、もう会えないの?」
私は彼女の袖を掴み言った。
「ええそうね、会うなと言われているから」
「凪沙って、あなたのお姉さんでしょ、もっと知りたいよ」
「それもダメ。言うなと言われているから」
「どうして、アネルマさんのことは教えてくれたのに」
「そうね、彼女は死んじゃったし、過去の人だからかもね。だから凪沙も死ねば伝わるかもね」
あまりにも軽々しく小春が言うものだから私は言葉がでない。
「中性同士が一緒になれば、よくないことが起きる、って考えるひとがたくさんいる、ここでの会話もすべて録音されているし、あなたの一挙一動を、どんなものが好きなのか、友人関係は? 興味をしめしたもの、失いたくないもの、苦手なもの、好きなひと、すべて記録に残される、………軽々しく言葉にしないほうがいいわ」
小春はポケットに手を入れて、私の耳元に顔を近づけて囁いた。「それじゃ」
私は後ろ姿の小春が手を振っている所で、呼び止めることはできなかった。また会える、そんな予感がした。
数日の間に、ぐるぐると時間は巡る。
私は鳥遊先生にいつもの身体検査をし、数値を測定していた。
「検査は問題ありませんでした。正常値です。頑張りましたね」
鳥遊先生は私のスマホや鞄を差し出した。没収されていたものだ。
「お母さんや学校には風邪ということにしておきました、伊織さんも真実を話さないようにお願いします」
鳥遊先生は念押しに私にサインをするように用紙をさしだした。私は紙を受け取り署名し返す。
「友達にもですか?」
「もちろんです。守れますね?」
「………はい」
苦虫をすり潰した表情で答える。
日和や雄平に風邪ってことで納得する?
しないかな。
「気持ちはよくわかりますよ」
私は会釈をして、鳥遊先生から遠ざかる。この息苦しい部屋から逃れたかった。
「ああ、ちょっとまってください」
「なんですか?」
「これを」
手提げ紙袋にはいったお菓子のようなものだった。
「羊羹の詰め合わせです」
「はあぁ」
「みなさんで食べてください」
「ありがとうございます」
私は紙袋を受け取り立ち去った。
スマホの電源を入れると日和と雄平、西条さんからの着信が20件くらいはいっていた。
母親が用意した車に乗るやいなや、質問攻めにされ困ったけれど、友達に連絡すると言って会話を断ち切った。
「あっ、もしもし?」
「伊織! インフルエンザって聞いたけどもう大丈夫なのか?」
雄平は私がかけたらワンコールで返ってきた。
「もう大丈夫、心配かけてごめん」
「日和には伝えた?」
「ううん、まだ」
「そっか、来週から学校に来る?」
「たぶんね」
「そっか、元気で」
運転していた母親が聞いていたのか、「雄平くん? 同じクラスの?」
「うん」
「今度、家につれて遊びにくればいいのに」
「そうだね」母親がいないときにね。とてもリラックスして遊べないじゃん!
とても精神的に疲れた。
車から差し込んでくる斜光に目を細め、流れる景色に時の早さを感じる。
たったの三日、それだけだった。でも私は嫌になるほど心配になって不安になって、心が落ち込んだ。
「帰ってっから、いおりが好きな、天ぷらうどんにしようか」
「うん」
何気ない日常はあと何日残っているだろうか?
小春さんの姉、凪沙さんと言っていた。
少なくとも私と同じ境遇で、私より先の人生を歩んでいる。
会ってみたいな、

「月曜は学校にいくよ」
「駅で待ち合わせしよう」
日和と私が文面でやりとりしている時、西条さんからも連絡がきた。
「ひより、西条さんも一緒でいい?」
「いいよ」
文面からではなんともないけれど、数分遅れで返信してきたところをみると、悩んでいる様子が目に浮かんだ。
言ってはいけないそのちぐはぐな私の表情と仕草で日和にはすぐにバレた。
「いおりには言えないことがあることも知っているし理解しているつもりだったけど、………傷つくよ。それは」
日和の落ち込んでいる様子を見るのは忍びないけれど、契約だからしょうがない。西条さんは私のそんな様子に気づくこともなく腕を絡めて引っ付いている。
「西条さん、わたしってなにか変わった?」
「え~、なにそれ、う~っん、しいていうなら匂いかな?」
クンクンと私の胸辺りの匂いを嗅ぐ。
「なんとなく…………かなぁ」
西条さんは難しい顔をしていたけれど、あっけらかんとした笑顔を私に見せた。
そのあと、日和や雄平に尋ねてみても同じようなことを言っていたので確実にフェロモンが抑えられていることがわかった。
情欲をコントロールできる、――――か。
鳥遊先生は私が第二段階に進んだと言っていたけれど、何をするのかは知らない、唾液が関係しているの?
日和の薄いピンクの唇を眺め、すぐに顔をそらした。
いつかこの想いが消えてしまうとしても、正常に私を見つめられないとしても、きっとどこにでもありふれていて、おこりうること。はなれたくはないと想いながら私がいない世界を想像し悲しんで欲しいと願っている私がいた。
 体育の時間、今日は運悪く男性のほうへ組み込まれた。
雄平と一緒にキャッチボールをする。なんともなしに、突き刺さる視線が痛い。わたしは男性に比べると力も身長もないし、足手まといになってしまう。
高く打ち上げられたボールがわたしの方へ飛んでくる、日差しが強く目を細める。手を上げたミットにすっとはいった。予想外にうまくいって胸をなで下ろした。私は前方にいるクラスメイトの男性にボールを投げ返す、しかし腕力がないので、途中で落ち転がった。すこしだけため息をつけられるのはいつものことだった。雄平はピッチャーで楽しそうにはしゃいでいる、こういうとき、クラスメイトの男性たちが雄平を囲んでいるところを見ると、人気者なのだ。わたしと一緒じゃないほうが雄平は自由にいられるのではないかと疑念をもつ。もしわたしが雄平に恋に落とすことが出来たとするなら、私はもうやっているのだろうか、無意識のうちに。
“これは恋の上塗り、凪沙の体液を摂取することであなたの力を抑えただけ”
小春はそう言っていた。会ったことも触れたこともない人。それでも何かが変わったことはわかった。中性同士は会ってはならない。聞かされない事実。私がそれだけ危険視されているということ。鳥遊先生は第二段階にはいったと言っていたけれど、何一つ実感はない。神の子なんて言われていることが恥ずかしいくらいだ。強い疎外感と孤独を味わう、ひとりでいるときはなんともないのに、集団の中にいるともうダメだ。気持ち悪くなってしまう。焚き火の周りには人がいて手を差し出すと温かいのに、私だけその輪の中にははいっていない。だれとも共有することなんてできない。
「伊織、なあって」
突然目の前に雄平が手を腰にあて立っていた。
「つぎ、伊織がバッターだって」
ニッシっと笑う雄平が眩しかった。
私に光を示してくれる。

授業中の風景、体育終わり、私は疲れてウトウトし、2階の窓の外の風景を見る。きっとこんな毎日、ありふれていて温かい日常が続くなんてことない。終わりがきてもうだめな日もある。それでも永遠のようにおもえた日常を見つめていた。
 校門の入り口、黒い帽子を被った女性が立って携帯をいじっている。
あの女性。一瞬、私と目があった気がした。気のせいか、これだけの距離がある。手で頬杖をし、しばらく眺める。スポーツバックからカメラを取り出しこちらに照準をあわせた。私葉思わず目をそらし授業の風景に戻る。気のせいじゃなかった。みたび私は横目で確認したけれど同じだった。前の席で寝ている日和をこづいてノートの切れ端を渡す。
日和は切れ端に気づき開いてそっと閉じ、振り返ることなく切れ端を背中越しに渡した。
“きょうは一緒に帰ろう、雄平もつれて”
ありがとう。
私は心の中でつぶやいた。

「それで? ほんとうにいるのか?」
「いたの、嘘じゃありません」
私は慌てて手を振った。
下校時、心配になって雄平と日和、そして西条さんがどうしても切り離すことができなくてついてきてしまったのだ。
事情をしらないのは西条さんだけで、でも、下校時にはその女性はもういなかった。
私はこういうとき、雄平を独占したくなる。
「家までついてきて」
「いいよべつに」
雄平は照れくさそうに顔を背ける。
「ちょっと、どうしてですか、わたしだっているのに、ずるいです、卑怯です、抜け駆け禁止!」
西条さんは雄平に人差し指をさして言った。
「華奈ちゃん、ごめんね、雄平と帰るね」
「どうしてですか? 雄平さんじゃないとダメなんですか?」
「華奈ちゃん、男同士はなさないといけないから」
「へー、男同士」
西条さんは私と雄平を交互に見つめ、うんと頷き納得した様子。「そっか、じゃ、しょうがないですね。帰りましょひよちゃん」
「えっ、わたしもなの」
日和が予想外といった顔で私を見たが、私は苦笑いしかできない。
「あーそう、わかったわ、そういうこと」
意味深に日和は眉をひそめると西条さんと一緒に私の帰る自宅とは真逆の路線に乗った。
ごめんなさい、押しつけて。
「つけてきてる?」
雄平は私の隣で小声で言う。
「うん、たぶん、そんな気配がする」
「手、つなごうか?」
「なんで」
「そっちのほうが恋人っぽくていいかなって………」
私は何も言わず、雄平の手を握った。
私より大きくて、ゴツゴツしている。汗もかいていた。
体液か、それって汗でもいいんだろうか?
舌が乾く、雄平を自由にできたらどんなにいいだろうか、なんて空想を。
実際にはそんなことはしない、してしまったらこの関係を自ら破壊することになるから。
「あのね、雄平、本当は…………」
言葉の途中で、はたと止まる。
言ってはいけないこと。
それとわかっていて打ち明けてしまいそうになる。
「なに?」
「ううん、やっぱりなんでもない」
「そうか、まあいえないこともあるよな」
雄平はそういって優しく私の手を握る。
こういうとき、ぜったいに雄平は追及したりしない彼の優しさにつけいっているようでつらい。
「ここで降りよう」
私は雄平の手を引き、地下鉄から表通りへ出た。
「なあ、ここって」
ゲームセンターだ。
私が一度も来たことがなくて、気持ち悪くなってしまう場所。でもいまの私だったら大丈夫だとおもう。
「いいのか? 気持ち悪くなったら言えよ」
「ありがとう、来てみたかった、とくにあれ」
私はプリクラ部屋を指さし雄平を引っ張る。
「どうしたんだよ伊織」
暖簾をくぐって私はカップルシートへはいった。
「あまり騒がないで、目立ってる」
もごもごする雄平を問答無用で横に立たせお金を入れた。
「恋人どうしってことにして隠れよう」
「おぉ」
雄平は柄にもなく私の肩に手を回しピースサインをする。
「古くない?」
「これしかしらない」
はたとおもう、私もまったくしらない、
「知らない者、同士だね」
眩しい画面に私と雄平の引きつった笑みが見えた。これがプリントアウトされるとおもうと胸が張り裂けそうだけど、
「なぁ。これ日和が見たら………恐ろしいな」
「うん、見せないでおこうか」
私はプリントを半分こし雄平に渡した。
けたたましい音と軽音なリズムが鳴り響く。
「せっかくきたし、遊んでこう」
雄平と私のこの距離感、肩がぶつからないように、私を他の人の視線から守るようにさりげなく庇う姿勢も、目が合うと照れくさそうに逸らす仕草も、ずっと同じ。変わらない姿勢。
私は胸を押さえる。
心臓の鼓動は変わらない、こんなにも好いてくれているのに。すこしの波風だっておこらない。異性だったらときめくのだろうか。それともべつに恋愛対象じゃなかっただけだろうか…………。
私は手を繋ぐ、こんどは縋るように。
「雄平、わたしと手をつないでドキドキする?」
「あー、まあ、すこしは………」
「こんなに手汗かいてるのに?」
雄平の手を開き、目を細める。
「熱いからだよ」
シャツをパタパタさせて暑がるフリをする。
「それにしてもやっぱ、………移動するか……」
「そうだね」
少し立ち止まっていただけなのに遠目から人がチラホラ集まって足を止めだしてた。足早に私たちはこの場から離れようとする。
私の目の端に注視している女性と目があった。視線をそらさずまっすぐに。直感的に、ああこの人だ、そうおもった。
「雄平、ごめん、ここまでっ」
「えっ」
私は顔の前で手を合わせ笑顔で謝る。
「ごめん、ほんとうは雄平と遊びたくてついた嘘っ」
「そうだったのか、それだったらいいんだけど」
「うん、ごめんね」
私は雄平の肩に触れ、この場所でお別れをした。
結構強引に雄平を帰してしまった。また家に帰ったら謝りのメールを打っておこう。
「さてと………」
私はひとりでスターバックスへ入った。目立たない隅っこの角の席、その人が来るのを待った。
10分ほど時間が過ぎて私は背後に気配を感じた。
「すみません、となり座ってもいいかしら?」
黒いパーカーに身を包んだ女性は私が想像していた年齢よりずいぶん若そうだった。
「もうすこし目立たないようにしたほうがいいとおもいますよ」
「あら、そう、わざとよ。こうしたら会ってくれるとおもって」
女性は悪びれる様子もなく言った。
「どうして、監視しているんですか」
「私はこういう者です」
女性は、胸ポケットから名刺を取り出して私の前に置いた。
「中性科学研究所 研究員 真島蒼」
あからさまに私は訝しむ。
「こういうのって、禁止されていますよね」
許可なく中性への個人的接触、及び密室での会話。
「鳥遊先生の許可はとってあるんですか?」
わたしは珈琲のカップに口をつけて言った。
「あら、ずいぶん大人びているのね。それは性格かしらそれとも中性によるもの?」
失礼なひとだな。
私を観察している目。一挙一動をみて楽しんでいる目だ。
はなすのも時間の無駄。
私は何も言わず立ち上がり、その場を離れようとした。
「あっ、ちょっとまって、ごめんなさい、そういうつもりじゃなくて、気分を悪くしたなら謝るわ。つい興奮して………」
私は再び椅子に腰を下ろす。
話し合う意志はあるようだ。
「その、…………許可はとってあるわ」
あきらかに目が泳いでいる。
嘘だ、とってないんだろう。
「嘘はやめてください、許可、とってないんでしょ」
彼女は観念したように頷いた。
「でもちがうの、わたし中性にもの凄く興味があって、寝ても覚めても、だから知りたい、あなたのすべてを。聞かせて欲しい何が欲しいのか」
彼女は目を爛々にひからせて目を見開いた。
その純粋な目をみて私はおもった、
この人、ヘンだ。普通じゃない。
「あっ、またわたし、はぁー、でも生だし、やっぱりもっと知りたいな。さっきまで一緒にいたのはボーイフレンド?」
「まだわたしの問いに答えてもらっていません」
「あーうん、そうです、許可はとってません………」
彼女は観念したように告白した。
「でもあなたにとってもメリットがあるとおもうの、どうかしら?」
「どんなメリットです?」
「そうね、たとえば、あなたと同じ中性を一人、知っていて紹介できるかもしれないわ」
「えっ、中性同士は会うことは禁止されているはずですし、そんな情報、どこから?」
真島さんは顔の前で手をパチッと合わせ喜んだ。
「やっぱり、興味あるんでしょ。そうよね、同種だもの、それに、あなたの先輩でもあるし」
「ちょっと、声が大きいです」
「あらごめんなさい、興奮してしまって」
この人、大丈夫だろうか…………、もしこの人の言っているこっとが本当で会わせてくれるのだとしたら私は聞きたい、この不安と死の付き合い方。
「…………でも、もし本当に会わせてくれるなら」
「できる、わたしなら、彼女の名前は月城凪沙 19歳、あと数ヶ月で二十歳になるわ」
やっぱり、こんな偶然あるのだろうか、でも小春のお姉さんに私はどうしても会ってはなしがしたい。
「会わせてください」
彼女の目が怪しく光った。
「ええ、もちろん」
真島さんは珈琲カップを持ち上げると、ついてきてと言った。
私は飲みかけの珈琲を一気飲みし彼女の後ろをついていった。私は帽子を深く被り、存在を消した。
抑え消えないほど強い欲望、私はもしかしたら会ったこともない凪沙に恋をしているのかもしれない、もしほんとうなら……………。
どんどん、人通りが少なくなっていく、夕日に沈む街のなか、私は黙って彼女の後ろをついていく。
彼女が一歩、足を止めた。
さびれたボロいアパートだった。2階へ続く階段も錆びていて昇るたびにギシギシと軋む。
騙されているのだろうか?
不安が胸を支配する。
「ついたわ、ここ」
真島さんは204号室の扉の前を指さした。
「ここですか………」
イメージとだいぶちがった。
無意識に自然と私と同じだと勘違いしていた。
けれどあらためて現実は、ボロボロになった204号室の紙が霞んでいた。
「大丈夫、彼女と約束しているから」
そう言って真島さんは呼び鈴を鳴らした。
えっ、ちょっとまって、こころの準備がまだ。
「はーい」
扉がガチャリと開き、肩まである髪が揺らいで良い匂いがした。大きな瞳が揺らいで輝いて見えた。この瞬間わたしは恋に落ちた。この人に会うために生まれてきたのだとさえおもった。永遠ともいえる短い時間。私は彼女に見惚れていた。いつまでも見ていたい、私は膝をついて彼女と一緒にいたい、それだけでいい。私は彼女のために尽くして生きる私のすべてを彼女に捧げたい。初めてそう思えた。何をしてでも彼女と一緒にいたい。何をしたら良いだろう。どうしたら振り向いてもらえるのだろう。どういう趣味で、どういう人が好きで、普段どんな生活をしているのだろう。瞳に吸い込まれそうで、ショートカットの前髪が睫毛にかかって揺らいでいた。私は次に唇に目がいった。淡いピンクの唇が、その皺が、すべて美しさには必要だったんだ、触れてみたい、もっと見たい、もっと知りたい。彼女のすべて。生きてきた記録、鼓動を、息づかいを。もっと。
ゆっくりと足を玄関へ近づける。
触れてはいけない何かを求めるように。
近づけば幻想ではないか揺らいでしまう夢のよう。
会うことで失われるものがあるとしたら憧憬を抱く心……上回る神がかっている。
不安定で、ぐらついているいまの私、精神の拠り所、やっと出会えた光の通り道。神の使徒。
ここにずっといたい、いれたらいいのに。
彼女の瞳に私が写り込む。
大人になったら今よりもっとしがらみが増える。人間関係、家庭、自尊心、きっと私は二十歳まで生きられない。
おかしいな、いままで感じたことのない幸福感、悩みや中性であることの鎖さえ些細なことに感じるのだろうか。
目標ができた、私は彼女のために生きよう。
家では私がご飯をつくって、洗濯して、あっでも料理はまだまだ勉強中だからものすごく頑張らないと………、彼女も私を受け入れる同じ中性だから柱になれる。私の体も、想いも利用されてもいい、打算も情欲もうけいれる。私と彼女なら欠けた部分を補える。二人なら、私を選んでくれたなら。
「うん、藤原伊織さんね、蒼から聞いてるよ。はじめましてだね」
なにげない会話に、髪を耳にかける仕草に、心動かされるなんて。言葉が置き去りになってはやる気持ちだけ先走る。
「はいりましょう、伊織さん」
玄関の奥へ彼女は行ってしまう、真島さんが立ち尽くしている私の手を引き奥へ呼んだ。
部屋には等身大の鏡があって、その周辺にメイク道具が散乱している。
「あっ、適当に座ってて、お茶だすから」
「どうしたの? あぁ、そうそういうこと………」
真島さんは納得したように頷いた。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出してガラスに注ぐ。
わたしはうっとりと眺め、潤す。
「あの………」
彼女はお茶をもって私と真島さんの前に差し出しスカートを折り座った。
「存外、平気そうで、もっと驚くのかとおもったわ」
「じゅうぶん、驚いてますよ、蒼さん。とっても可愛い人だし、なにより同種ですから、どうしたって好きになってしまいます」
「ほんとですか! わっ、わたしを好きって!」
心臓が飛び跳ねた。
顔が熱い、熱でもあるみたい。
「あぁ、そっか、小春から私の唾液飲んだって………そっか」
彼女は私から目をそらし頬を掻いた。
難しいか顔をして天井を見上げていた。
「その……伊織さんが私に感じているものは恋じゃなくて、恋愛でもなくて、憧れでもない………よ、ごめんね」
「嘘です! 初めてなんです、好きになったってわかったの、その、だからこの気持ちは本当ですし、本物です」
凪沙さんは困った表情で瞼を閉じる。
「いままで告白してきた人にも同じこと言える?」
凪沙さんは私と目を合わせた。
目の前がくらっとしてぐらついた。
「告白してきた人はどうだった? 好きって言葉を言われて、その人の息づかいや、瞳の揺らぎ、瞬間は本物で本当の恋だったよ、伊織さんはその告白に第三者で居られたのはどうして? あなた自身がわたしが中性だからだって、距離をとってそれで断ってきたんでしょう? まがい物だって冷めてみてた」
私がどれほど熱烈に告白しても、彼女には通用しない、わたしが断ってきたように平然とするだろう。脅しもだめ、私は彼女に心底惚れているのだから。困らせたくない。私が自らナイフを突き立てても平然としているだろう。なにより、わたしは凪沙さんに恋をしているのに信じてくれてないことがつらい。
「信じてもらえなくてもかまいません、いまはまだ………」
私が凪沙さんのフェロモンで恋に落ちているのだとおもわれているうちはどうしようもない。深呼吸して高まる鼓動を必死で抑えた。熱は冷めない、冷めようがない、すべてを捧げたいんだ。
無言の空間がこの場を支配する、しかし私は凪沙さんと二人っきりになりたかった。そうなることを望んだ。
「なんだかわたし、邪魔みたいね―――ごめんね、立会人がいないと規則に反するから」
「蒼さん、それをいうなら、会ってしまっていることもすでにダメです」
「お互いが黙っていれば問題ないの。どうなの? 変化あったの!」
真島さんは鼻息を荒くして凪沙さんに詰め寄った。
「もぉ、つめよらないでよ蒼、まだわかんないよ~。効果が持続してるし、一ヶ月くらいはまだまだ」
「あーそう、そうよね、急だし―――、小春ちゃんは? 学校?」
「あー、うん、たぶん」
ずいぶん歯切れの悪い言い方だ。
「喧嘩したの? どうして」
「うーん、まぁねぇ、複雑怪奇、思春期なのかなぁっておもったりおもわなかったり」
真島さんはふんふん、と熱心に頭を振る。
「中性の血縁関係は、仲が悪くなるようになっているのかしら」
「こ、はるさんはいまどこに」
「わかんないんだ、相談してくれないし、最近家に帰るのもおそいし、………心配なんだ―――、そうだ、小春と友達になってよ!」
凪沙さんはきらきらした瞳で私の手を取った。
綺麗だな。なんにせよ、凪沙さんの頼みは断ることができない。嬉しい、役に立てるのならなんでも。
「やらせてくださいわたしに」
「よかったぁ。あっ、でも悪戯したらだめだよ?」
「わたしにとって凪沙さんがすべてです」
「そんなこと言わないで―――、夢は近づけば溶けるから、醒めたときこんなものだったんだって、おもわないで欲しいから」
「夢があるから生きていけます、凪沙さんはその星。希望を与えてくれました」
「うぅ、ごめん、蒼、一瞬だけ席を外して頂戴」
「それはできません」
真島さんはきっぱりと断る。
「お願い」
凪沙さんが耳元で囁くとすこし痙攣し、無言で頷き、玄関から外へ出ていった。
「何をしたんです」
「お願いしただけだよ、なにも」
「そういう風には見えませんでした、まるで………」
「そう、お願いしただけ」
私は口を噤んだ。
「時期がきたら自然と解けるはずだとおもうけれど………伊織さんはそうじゃない、私が嫌なんだとおもいます、だから………近くに来て」
私は甘い蜜に引き寄せられる蝶のように疑いもなく、彼女の胸に顔をうずめた。彼女の体温が温かくて安らぎを感じた。腰に手を回す。
「ごめん、さきに謝っておくから……………」
ああ、キスされるんだ、睫毛がかかる瞳をうっとりと吸い込まれるみたいに止まって雪崩れて、呼吸がとまる。
ガタガタと、玄関のほうで物音がした。
凪沙さんの目が私からはなれ、玄関へ目線がいった。
雑多な足音、鋭い目つきをした小春さんが息を切らしていた。
「どういうこと………どうしてあなたがここにいるの、そしてどうしていまにもキスしそうなの」
「小春は一度会っているのでしょう、挨拶しなさい」
「なんで? 真島さんって、怪しい人でしょ。そんな人と付き合わないでって!」
「小春、落ち着いて、伊織さんが驚いてるわ」
小春さんの顔が紅潮し明らかに怒ってる。彼女は大きく息を吸って吐いた。
「いつか会うんじゃないかっておもってたけど、ここででなんて、…………もういい、出ていくから知らない」
小春さんは足を翻した、風のように舞って、すぐに消えてしまいそうな存在。
私は小春さんの手を無意識に掴んでいた。
「小春さん、私が会いたいって言ったんだよ」
「知ってる、それを促したのは凪沙だよ。魔法をかけられていることにも気づいてないの? 気づいていても信じられない? もういい、かかわりたくない、うんざりしてるこれまでもこれからも………」
「どうしてそんなこというの、同じ姉妹なのに」
「そうね、赤の他人だったら怒りもないし、無関係でいられたのに………家族だから許せないの」
ごめんね、あなたのせいじゃないから…………
小春さんはそう言って肩に乗せた私の手を振り払った。
「小春! だったらこれもってって!」
凪沙さんは小さいキーホルダーを小春さんに手渡した。
「イヤ、ぜったいにイヤ、凪沙の匂いがついているものなんて」
「小春これだけでいいから」
凪沙さんはそういって小春さんのポケットに無理矢理つっこんだ。
小春さんは凪沙さんを睨み付け、走るように去って行った。
「追わなくいいの?」
「いいの…………、追うと余計嫌がるからね」
彼女は髪を耳へかき上げため息をついた。
「わたしなら話を聞いてくれるかもしれません」
「………そうだけど、いい?」
「そういってください、役にたてるなら本望です」
私は走っていた小春を追いかける、扉の前に真島さんとすれ違ったが、声をかけることなく過ぎ去った。
小春さんは案外近くに鎮座していた。
「待っていたわ」
彼女はそう言うと、薄暗い路地裏へ私の手首を掴み強引に引きずり込み、そのまま壁に押しやられた。
「わけを聞かせなさい、…………どういう目的? 凪沙に当てられて、操り人形?」
「操られてなんていません。あなたを助けたくて………」
「震えて動けかなかったあなたに? 出来やしない、自惚れないで」
「だったらどうして、そんなに悲しそうなんですか」
小春さんは肩を震わせ、俯いた。
「あなたが………あなたじゃなくなったから」
わたしがわたしじゃなくなった。
「目を覚まして、快楽に身を堕とさないで、自己を失わないで」
「それって?」
私はキーホルダーを指さした。
小春はポケットから取り出し上へ向け透かした。
琥珀色に輝くそれを彼女は見てため息をついた。
「あなたに上げるわ」
「凪沙さんに預かったものでしょう?」
「いらない?」
小春はそれを投げ捨てる構えをした。
手首を掴み私は受け取る。
「いらないなら、頂戴」
「そう」
「凪沙の命は、私の監視?」
「監視だなんて、私と友達になってください」
そういって頭を下げた。なんだか告白みたいだ。
じっとりと小春は腰を下げ、私のことをまじまじと見つめる。
「いいわ、いまは、乗って上げる、その代わりに付き合ってよね」
「はい」
私は満面の笑みでこたえる。凪沙さんの期待にこたえられそうだ。
彼女は悲しそうな顔をして、頷いた。

待ち合わせまであと20分、雄平や日和いがいの人と遊ぶのは久しぶりだった。
どぎまぎしながら彼女を待った。
目があうと全身黒ずくめの一際目立つ女性が一直線に私のほうへ向かってきた。伏し目がちに彼女とは視線を合わせない。小春ではないことは確か。
まずいな…………、逃げた方がいいかな。
胸を交差している鞄のヒモをぎゅっと掴む。
「小春から聞いているわ、怯えなくてもいいのだけれど………」
「小春さんがですか………」
あからさまに警戒心を強める。
「彼女はあとでくるわ、先にあそこに行ってましょ」
珈琲ショップに彼女はツカツカと歩き先を行ってしまう。
人混みの息苦しさに触れて、ここではもう苦しい。
「単刀直入に言うわ、うちで働かない?」
「働く? 中性は禁止されていますよ」
「知ってる、だから金銭は渡せないけれど………、凪沙はあげられる」
ピタリと空気が止まった。
「どういう意味ですか」
「凪沙とつきあえるかもしれないわ」
ただ虚空の一点を見つめ動揺を隠した。
「彼女はモノではありません、もらえません」
「わたしだったらできる」
「何を根拠にそんなこと」
「凪沙は私の店で働いているの―――F1。値段は法外、とてもあなたが買える値段じゃないわ、政府要人、経営者、大企業幹部が利用してる」
「性を売り物にするなんて、小春さんは知っているんですか。そもそもそんなはなしをされることが…………不快です」
足が震え、私は黒々とした染みが心を支配するようでしにたくなった。嘘だ、この人の話はぜんぶ。
「小春こっち」
彼女が手を振った。
小春さんは暗い顔をしてこちらへ寄り私の隣に座った。
手を頬に置いて小春は私と彼女の両方を見た。
「でっ、もうはなした?」
「ええばっちり」
小春は私へ視線を向けた。
「小春さん、あなたはそれでいいんですか、家族がそういう仕事をしていること………」
「あなたに凪沙のなにがわかるっていうの、会ったばっかの人に、あなただって凪沙がいなかったら外にも出して貰えない、一生閉じ込められていた人生、救ったのは凪沙でしょ、わたしだってそんなことして欲しくなんてない」
私は口を噤む、言ってはいけないことだった、私は怒りを小春にぶつけただけだ。
これじゃ、小春のほうが大人だ。
「どうして、でもだって、おかしいよお金は政府からもらっているはず……………」
「もらってないの」
小春は淡々とした表情で答えた。
「凪沙は存在していないことになっているから――薄紅からきいているでしょ、凪沙は試験体として生きている。中性は希少価値が高いし、なにより政府要人から強い要請があって、彼女を欲している人が山のようにいて、そのための仕事。わたしたちは逆らえない。情欲を欲しいままにできる彼女は彼らの欲望を満たす道具。24時間監視されている。あなたにわたしたキーホルダーは電波障害を引き起こす物、まぁ、どこまで使えるかわからないけどね………凪沙は身動きがとれない、私も監視対象、こうしているのもわかっている、ねっ、薄紅」
黙って聞いていた薄紅さんは静かに目を開いた。
「私もその一人だからって八つ当たりしないでね小春。仕事だからしょうがないのよ………」
「そうね、息苦しいのも、生活がカツカツなのも、凪沙を酷使するのもしかたがないのね。いっそのこと自殺でもしたら解放されるの?」
「そんなこといわない、いまはまだ暗いトンネルだけど出口は明るくなるって信じられない?」
「このまま生きていても希望はないわ」
「そんなことない、だって彼女がいる」
そういって薄紅は私を見た。
私抜きにはなしが進んでいく。
「中性同士の交配、政府はこれに関心を示している、次のステップに移れるかもしれないと期待しているのよ」
「――――だから凪沙を差し出す………のですか」
「あなたのためもあるのよ、それを望んでいることも了承している」
言い返す言葉がない、嬉々として彼女のために行動しているのだから。
喉から手がでるほど欲しい存在、私にとって彼女は初めての異性。
「それも観察ですか」
「ええ」
ちらりと小春を見やる。
彼女は目線を合わせようともしない。
スウッと彼女は息を吸い、言った。
「お願いするわ、凪沙と付き合ってください」
小春が頭を下げていた。
「どうしてそこまで?」
「凪沙の寿命を延ばすためだったらなんだってやる、私があなたを利用するのと同じようにあなたも利用すればいい」
小春の本心は優しさ。
凪沙のために、犠牲を差しだそうとしている。
犠牲? ってなんだっけ、私の体ひとつ、心ひとつ、どうこうできやしないのに。
欲しい、彼女が、でもほんとにいいの?
簡単に手に入れてしまって。
心通わずに、ただお客さんのような形で、しこりと私の偽善。
易きに流され身を任すのか、……………それとも彼女はモノじゃないと拒絶するのか。
(小春の友達になってあげて)
声が聞こえた。
「お願いします」
言葉とは裏腹に元には戻れない。
取り返しはつかない。
踏み切って、倒れ込んで、罪悪感を大切に抱きしめて。
「早いほうがいいわね―――2日後、車で送るわ」
「えっ、どこに?」
「…………」


 小春は答えない無言で私の腕を掴んでいる。
とても逃げられるような状況じゃない、黒塗りの車がすでに用意してあって、運転手の人が扉を開いた。
私は縋るように小春を見る。
「いって頂戴」
扉がバタンと閉められ、窓越しに手を当て覗く。みるみるうちに小さくなる彼女たちは私を心細くさせた。
「運転手さん、これからどこへ…………」
「…………」
彼はなにも答えない。
私は薄暗くなるこの名古屋の街をほこりっぽくおもう。
数十分ほどして、車が止まり、扉が開かれた。
「ここでお待ちください」
車から降りた私は時計を気にしている。
午後7時、母親にメールで連絡。きょう遅くなるよ。
私は証拠のため、いまいるところの写真を撮った。
門限までに帰れない時や、遊びに行くときは写真を送ることになっていて、とてもめんどう、送らないと母親が心配して迎えに来たりするからだ。
ツカツカとヒールの音がやけに響く。紺色のスラックスにテーラードジャケット、白色のセーターを着ている。優しい笑顔で
「ハロハロー、まった?」
「いいえ、ぜんぜん早すぎるくらいです、……………心の準備もないしぃ」
「入ろっか…………」
「はいるって、ここですか?」
私は前方を見上げた、高くそびえ立つ高層ビルは私とは別世界の風景。肩が凝りそうだ。
室内に入ると思わず見入ってしまった。
クローゼットや障子は竹の素材、座椅子や掘りごたつなど、和室がスタイリッシュに、部屋に内風呂、露天風呂があって。
ガラスの器にはマカロンが盛り付けてあった。
「これって食べられるんですか?」
「どうぞ」
彼女はそういって手にとり私に手渡した。
黙々と私は半分食べる。
口の中がカラカラで喉が渇く。
顔が熱くて凪沙さんを見れない。
この空間そのものが私を酔わせる。
「ありがとう小春の友達になってくれて、薄紅から聞いた」
「友達…………とはちょっとちがいます」
「どこが」
「小春さんはとても大人です、取引だって言われました。凪沙さんも納得の上ですか……………」
凪沙さんは疲れた笑顔で言った。
「そんなにおかしいかな………、楽しいことが好き、気持ちいいことも好き、享受したいこれからもずっと、でも時間だけない。わたしおもうんだ………、どんなに才能があろうと容姿が優れていても、人気者でも、お金をもっていても、健康であっても、残された時間がなければすべて意味がないって――――伊織は、私と同じだから理解できるでしょ?」
「……………理解は、できません。凪沙さんのかわりにはなれませんし、真にあなたにはなれません。でも凪沙さんを助けたいとおもっています。痛みを分かち合うことはできると…………おもう。だからきっと生きれる未来はあります」
どんな言葉より、きっと触れあうことがまさることがある、わたしは望んでいた。
手を広げ彼女を迎え入れる。凪沙さんは私の肩に頭を乗せ体重をかけた。支えきれなくなった私はベットへ倒れ込む。体温が熱い、すべすべして手に吸い付く。匂いも眠たくなる。ふかふかのベットは体重に沈み浮いているような感覚。幸せの感情を味わった。肌と肌を合わせ眠りに落ちていった。


「雄平、ちょっと話があるんだけど」
雄平はゆっくりとこちらを見て、納得したように頷いた。
学校の屋上、もうずっと前から鍵が錆て簡単に開けられるようになっているひとりで居たいとき私はここへ来る。将来のこととか、主に伊織のこととか。
扉が軋み、風圧で重い。
髪がかき上げられ木の葉が上空へ舞う。
私はスカートが捲れないように手で抑えた。
「西条さんだけじゃなくて、他の女子グループも伊織で色めき立ってる…………、どうにかしたいの」
「…………西条と伊織を近づけたのはお前だろ」
「ええその通り、伊織に変化して欲しくて、結果的に良かった面もあるし、悪くなったこともある。なので私は間違ってない」
「強情だな」
「ええ」
「それでどうしろって?」
「伊織の近辺で怪しい動きをしている人がいる。別の組織なのかも………だとしたら伊織があぶない。私が調査するから、雄平は騒ぎ立てている女子たちを黙らせて」
「了解」
雄平は振り返りもせず手を振って言った。
「さてと…………」
私は空に向かって背伸びをして風を切って走りだした。


○月×日(火)
 伊織が2週間学校を休んでいる。中性へのステップが第二段階へ進んだと鳥遊楓先生から伝えられた。動揺が見られ、私のフォローが必要となるだろう。このまま退院できないのではないかと心配したが、どのような条件下で許可されたのかが不明なのが気がかりだ。さっそく取りかかる。
○月×日(金)
 伊織につけていた発信器が途絶えた。見つかり取り外されたか、妨害電波がなされているか。どちらにせよ、私は途中で足取りがつかめなくなった。こんなこと初めてで焦った。誘拐でもされていないだろうか。鳥遊先生と会うことにする。
○月×日(土) 
 鳥遊先生よりはなせないと言われる。つまり私たちと情報を共有するつもりはないということだ。
「伊織のためをおもって?」との問いに。
鳥遊先生は「それいがいなにがあると」
私は鳥遊先生を疑っている。
なにか隠している。
私には言えない何か、口は割らないだろう。
「わかりました…………、ではこれでどうですか?」
私は日頃から集めているコレクションを鳥遊先生へ一部、チラリと見せた。
鳥遊先生の目の色が変わった。
「僕はそういうのには応じませんよ」
「いいんですか?」
「……………………、これから言うことは独り言です、伊織さんは中性の方と一緒に行動しています。それは政府も容認するところ」
中性、会わせてはいけないことになっているのに…………大きな組織が認めている………私は知らされていないのに。
「ありがとうございます」
私は伊織の写真を鳥遊先生に渡した。
こっそりと内ポケットの中に彼は閉まって去った。
みんな同じだ。
伊織を食い物にしているという点。
根幹にあるのは恋なのか、利権なのか、私は恋だと信じたい。
情欲なんて言葉は嫌いだ。
肉体とかそういうんじゃなくて、ずっと一緒にいたいから。
私はそういう奴らとは違う。
私とは別の組織の人。
もっと上。
私たちは最初から信頼なんてされていないのだ。
改めて認識してしまった。
切り捨てる、ううん、そんなんじゃない、もっと別の。
電話が鳴った。
非通知だ。
「はい」
「中性科学研究所所長の赤松だ。三樹日和であっているか?」
年配の男性の声にさらに警戒心を上げる。
「はい」
「余計な詮索はするな、与えられた仕事だけしていればいい、こちらですべてやる」
私の仕事について知っている、しかも動きも見られている。
「藤原伊織の生活全般のサポートおよび精神面でのフォローが私の仕事です………、これは与えられた仕事の範疇です」
「聞こえなかったか、余計なことをするな、これは忠告ではなく命令だ――――」
そう赤松は言って電話を途中で切った。
虚しく機械的な音が響く。


私は思わず、携帯を投げつけたくなった。
私が伊織にしてきたこと、それをたんなる仕事なんだと喉元にナイフを突きつけられて、苦しい。もうとっくの昔に、あるいは伊織と初めて出会った時から守りたいとおもってた。
壊したくない、伊織が真実を知った時、どういうだろう。
笑顔をみせてくれるだろうか、きっと壊れてしまう。
この気持ちを共有できるのは雄平だけ。
この牢獄から解放される日はくるのだろうか?
私の夢、物語が、遠くにあって、手が届かない、
いまはまだ。

教室に伊織がいる。
雰囲気が柔らかくなった。
どういう変化だろう、話しかけようとして、雄平が手で私の前を遮った。
雄平が目線で合図を送っている。
西条さんが伊織にはなしかけている時だった。
「どうなのよ?」
「大方の通りさ、西条は伊織と接近したことで脚光を浴びている、その反面、嫉妬、憎悪の感情も裏にはある。だから他の女子にけしかけることにした」
「具体的には?」
私と雄平は人目につかない場所へ移動し小声でしゃべる。
「西条と伊織が仲良くなったことで、伊織とはなしをするキッカケが女子にできるようになった。西条とその女子との対立させるようにした」
「それで…………女子たちが伊織に告白しているのね」
「それで、焦った西条はどうするか?」
「より親密になろうとする…………」
「その通り―――伊織は密着するのを嫌がるし、なにより告白にも興味がない…………」
「私たちを頼る…………と」
「ああ」
雄平は表面上快活で爽やかそうに見えて、その実、黒いところがある。長い付き合いだからわかる。
「余計に華奈ちゃんは、伊織に執着するとおもうけれど…」
「伊織がそうさせないだろ、そのために俺たちがいる」
それもそうか、
「こちらも調べてわかったことがあるの、――――――――」
「余計なことはするな……か、俺たちいがいに伊織を支配しようとする勢力があってもおかしくないけどな―――」
「だからこそでしょ、私が会わないといけない」
私はとうの昔にその覚悟はできている。
「了解」
雄平は何のこともなしに当然のように言った。

ひとまず、伊織のフォローは雄平がしてくれる、私は一呼吸おいて電話を手にしボタンを押した。
「三樹日和です、お話したいことが――――」


「藤原伊織が月城凪沙と接触いたしました。協会監視課としては見過ごせない事態です。中性科学研究所も関与しており特定機密事項の面でも許されることではありません」
「しっている、三樹から報告があったからな、こちらかはらなにもできん」
「なぜです」
「止められているからな」
「つまり局長クラスが関与していると………」
「そうだ――――月城凪沙、彼女は別格だ。次々と政府要人が籠絡していき操り人形になった。局長ですらこのザマだ。もしかしたら中性でも二十歳を越えて生きることができるかもしれないと、中性同士の交配をさせようと考えている――――この危険性がなぜわからんのか…………、ホモサピエンスを越える人種は駆逐せねばならんのだ」
「それは…………三樹は知っているのですか」
「知るわけないだろう、あの子はすでに藤原に落ちている、有賀にもしてもそうだ。一目見ただけで魅了されてしまう危険人物なのだよ。まだ浅い芽のうちに摘み取らねばならん」
「あまりにも惨いのでは、三樹も有賀も藤原を守るために行動しています」
「なにもわかっとらんな、守るのではなく監視だ。そのための護衛。藤原伊織は二十歳になるまでに亡くなってもらわねばならん、少なくとも中性のまま、成長してみろ、それこそ人類滅亡もありうる」
「そうは、……………おもえませんが」
「なぜわかる? 見た目に騙されるな。劉深緑(リューシェンリュ)事件を知っているだろう」
「はい――――23年前、王雲山(オウウンザン)国家主席に寵愛された中性。実権を握り政治にまで介入するようになり次々とライバルを粛正していった、国内は動乱し、民は餓死し戦争へと発展する手前………」
「そうだ、あと数年遅かったら取り返しのつかない局面まできていたが、寸でのところで劉深緑の寿命が来て亡くなった。王雲山は失脚し投獄された。のちに彼は夢から覚めたと言った――――忘れてはならん、牙を向いたやつらを止めるのは誰一人としていないのだ、わかるか、もうすでにその兆候は出ている、速やかに実行しろ」
「…………本当にやるんですか」
「そうだ」
私は深刻な表情を浮かべ扉をゆっくりと閉めた。


「伊織っ、あのさ一緒に帰ろう」
「電車真逆だけどいいの?」
「うん、寄りたい場所あるからさ」
「あー、そのやっぱりごめん、わたしもその行く所があって…………」
「どこに行くの?」
私は日和の満面の笑みをちょっとだけ怖かった。
絶対怒ってる、内緒にしているの。
日和にはこういった嘘は通じないことはわかっている。
「日和にもあって欲しい人なんだ…………」
「嬉しいな――――喜んで」
胸の前で手をパンッと叩いて喜ぶ日和。
仕方ないな、どっちにしても日和に隠し事なんてできない。
電車に揺られながらなんて言おうか言葉を選んでいた。
「どうしたの、急に無口になって」
「なっんでもないよ……………」
「ふーん、へー、わたしにも言えないことなんだ」
「ちがうよ、ただ言いづらくて」
「紹介してくれるんでしょ」
「あーうん」
やけに笑顔を振りまく日和が私は恐ろしくてたまらなかった。
凪沙さんに会わせるわけにはいかないよね。
遅かれ早かれ気づかれるのはまちがいないし…………。
「ねぇ、そのキーホルダーって買ったの?」
日和が私のスクール鞄を指さした。
「ああこれ、もらったんだ」
「私が知らないその人に?」
「……………うん」
「見せてもらっていい?」
「いいよ」
私は鞄からリングを外し日和に渡した。
日和は目を細め裏と表をまじまじと見つめていた。
「ありがとう、かわいいね」
「うん」
日和はあっさりと私に返した。
なんだったんだろうか。

「ここだよ」
私はボロボロのアパートの前で立ち止まって言った。
「えっ、ここ?」
「うん、そう」
階段は昇るたびに軋むし、所々錆びている。
呼び鈴を鳴らし、彼女が出てくるのを待った。
玄関扉の隙間から小春が顔を覗かせていた、猫のようだ。
チェーンがかかっており彼女は警戒している。
「隣にいるのは?」
「私の友達で日和っていうの、小春には知っていて欲しくて大切な友達だから」
「わかったわ、ちょっとまって…」
小春は一度扉を閉めた。30秒ほど待つと再び扉があき、瓶を手に私に手渡した。
「これって…………」
見覚えがあるガラス瓶。
「伊織、友達にこれを飲ませて、そうじゃないと開けれない」
「日和は大丈夫だよ、ずっと友達だったんだから…………」
小春の目は厳しくなるばかり。
「なんなのそれ? これを飲めば良いの」
日和は私が手にした瓶を手に取った。
蓋を取り一気に流し込んだ。
「えっと、どうして?」
「伊織の友達でしょ、問題ないわ」
「……………」
小春はゆっくりとチェーンを取り、玄関扉を開いた。
「入って」
「お邪魔しまーす」
日和は靴を脱ぎ後ろで揃え、上がった。
「まだ来てないの?」
「ええ、仕事で…………」
「誰のこと?」
「小春のお姉さん」
「ふーん、」
日和は私に目を配らせ合図を送っていた。
「鳥遊先生に紹介されて、ほら、一週間くらい入院してて、それで……………」
しどろもどろになって伊織の目が泳いでいた。
「私の姉が中性なの」
小春は伊織の言葉を遮りしゃべった。
「ほんとなの…………」
「あーうん、そうなんだ」
「どうして私に内緒にしてたの? ――――ってすでに怒ってるか……………」
日和は言葉を閉じ、冷静だ。
「頭が良いのね、あなた、とても普通の学生とはおもえないわ」
小春が日和に向かっていった。
「当たり前でしょ、誰だって伊織の側にいるかぎり、大人にならざるおえないの」
「自覚はあるんですね……………」
「もちろんです」
日和は顔をプイと背けた。
「伊織、良い友達ね、私も入れて欲しいわ」
「ほんとっ、よかったー。喧嘩するんじゃないかってひやひやしてた」
「喧嘩なんてしないよ、伊織が傷つくじゃない」
「それを聞いて安心したわ、疑ってごめんなさい」
「いいえ、警戒を持つのは当然でしょ、私だってそうだから、これからよろしくね日和さん」
「ええこちらこそ、もうそろそろ凪沙が帰ってくるころですから」
しかしその後、午後7時を過ぎても凪沙さんは帰ってこなかった。
おかしい…………、事前に約束したのに。
小春さんも顔色を変えている。
「遅くとも、この時間には帰ってくるのだけれど……………」
スマホをポケットから取り出し小春さんはいじっている。
「薄紅がこっちへ向かってるって……………」

ガチャガチャと玄関扉のノックが回される音が聞こえた。
私は立ち上がり扉を開けようとするが小春に手首を掴まれた。
「私が見る」
レンズ越しに小春は様子を伺い扉を開いた。
「薄紅、慌ててどうしたの?」
口を開こうとしたが小春がいるのに気づき口を閉ざした。
「彼女は?」
「私の友達です」
私が答える。
「あのね…………機密事項だって言ったよね――――いまはそれどころじゃないか、こっちへ来て」
薄紅さんは小春だけを呼び寄せ、扉を閉めた。
「どうしたんだろうね」
私は日和に尋ねた。
日和は何も答えず、無言で空になった瓶をコトリと机の上に置いた。
「これって、毒か何かな?」
「……………毒じゃないよ」
「じゃあ何?」
私はため息をつくと正直に話した。
「凪沙さんの唾液だとおもう」
「……………」
「何もいわないんだね」
「聞いているわ、ただ驚いただけ、そんな汚いものを飲まされるなんてね」
「汚くないよ、日和も凪沙さんに会えばわかるよ、高揚感、羨望、運命だってことが」
私は煌々と言った。
「伊織、――――なんでもないわ、いまはまだ伝えることができないけれど…………なんで唾液?」
私は受け入れそうになったが、受け止めきれなかった事実だ。
伊織は目線を私から逸らし言った。
「中性の人の体液は飲むことで、その人を好きにさせることができるって、鳥遊先生が言ってた………」
「会ったこともないのに?」
私は首を捻る。
「会えば、わかるよ人目みて、この人だって気づくから」
日和はため息をついて言った。
「飲んでないよ、実は飲む振りして服に吐き出したから」
「えっ」
「そうだよ、私だって変なもの飲みたくないもの」
日和は抜け目がない。
再び玄関扉が開いて、重い顔つきの小春と薄紅が席についた。
ゆっくりと薄紅が目を開いた。
「凪沙の行方がわからないの…………つけていた発信器も壊されていて受信できない。何かあったのだとおもうわ」
「誘拐されたってことですか?」
日和は薄紅に問いかける。
「わからないわ…………、ただ彼女から届いたメールにこう書いてあった。“月城凪沙は預かっている、藤原伊織と交換だ”
「私……………ですか」
私は戸惑いながら、それでも役に立てて嬉しくもあった。
「ダメ! 伊織おかしいよ、交渉にのったらダメ!」
「日和落ち着いて、まだ決めたわけじゃないから」
日和は何かを口にしようとして閉ざし小春や薄紅さんの様子を窺っている。
「協力してくれるかしら?」
「私にできることなら」
静けさが残響するこの部屋で、私は薄紅さんの指示を聞いている。小春はずっと何か言いたい表情をしているが黙ったままだ。「ちょっと待ってください外に出てもいいですか……………息苦しくて」
「そうね、すこし休憩しましょうか」
薄紅さんが立ち上がり冷蔵庫へ向かった。
「日和は?」
「一緒にいくわ」

「伊織、いますぐここから逃げましょう、信じちゃだめ」
「どうして…………?」
「ただでさえ、中性には監視がついていて守られている、なにより中性に危害を加えようだなんて人はいないからよ。伊織が一番よくわかっているはずでしょ!」
「わからないよ! 中性、中性って! いつも、ふつうだよ、なにもかわらない、日和と雄平と同じだよ」
「……………ちがうよ、伊織は、私たちと同じじゃない、特別だから、危害を加えるはずない…………、加えられない」
「……………わかった、日和はいい、私が勝手にやるから」
「待って! ……………伊織」
私は振り返らず玄関扉を乱暴に閉めた。
日和の悲しむ顔が頭に浮かんだ。
部屋に戻ると小春と薄紅が黙って座り込んでいた。
「友達は返したのかしら」
「はい……………心配かけたくないので」
「そう、できれば彼女も一緒にいてくれたほうがありがたかったのだけれど、しかたないわ、いまから事務所にきて欲しいわ」
小春は俯いたまま、顔を合わせもしない。
黒塗りのワンボックスカーに揺られ、外を眺めると窓ガラスが反射して私の顔をうつしだす。
不安はある、凪沙さんになにかあったら私は生きていられない。
「ついたわ、降りて」
人気が少ない漁港の倉庫、潮風が私の髪をかき上げる。
「小春……………」
私は彼女の手を無意識に掴んだ。
するとパッと彼女は私の手をほどいた。
小春は猫のように手をポケットにつっこみ、背を丸くした。
薄紅さんがまず入り、そのあとに私と小春が入った。電灯の明かりがぼんやりと周囲を照らしている、古い倉庫なのか、ところどころ点いたり消えたりを繰り返している。
真ん中にある椅子に一人の男性が足を組んで座っていた。
「おや、話でだともうひとりお嬢さんが来るはずでは?」
「その子は帰ったわ」
「帰った? 連れてくるべきだろう、あとあと面倒なことになるのはそっちだぞ」
「問題ないわ、凪沙の体液を摂取したから、悪くはならない」
「ほー、そうか、まあ、その頃には終わっているか……………」
私は薄紅さんを見る。
「知り合いですか?」
「ええ、あなたをここに連れて行くまでが私の仕事」
扉はすでにしまっている。
「小春?」
助けを小春に求める。
「いまから凪沙のいる場所へ移動し、そこで生活してもらいます、――――この服に着替えてください」
男が手渡したのは男物のズボンとシャツだった。
ここで……………。
着替える場所なんてどこにもないのに。
この男性、サングラス越しに私を見て、命令……………というより脅迫に近い。
私は涙ながらに目で訴える。
「危険ですねその目は……………いいでしょう、タオルで隠せ」
男はタオルジャケットを渡し椅子に座った。
ため息をつきたいのを抑え込み、服を脱ぎ始める。
一枚ずつ脱ぐ、服の擦れる音が、闇につながっているようにおもえた。
……………嘘つき、恨めしそうにその顔を私は投げかけるが絶対に視線を合わせない。
「着替えたか?」
シャツのボタンをつけている最中に男が投げかける。
「……………はい」
私はだぼだぼでズボンがずり落ちそうなのを抑えていた。
薄紅さんは胸元に私を抱き寄せ耳元で囁く。
「我慢して悪いようにはしないわ、天国を味合わせてあげる」
「凪沙さんはいるんですか?」
「いるわ」

「これで目を隠して」
小春が私に黒いタスキをかける。強制的に巻かれ視界が真っ暗。どこに向かうのかもわからなくなった。
しばらくしてようやく視界が解放された。
ゆっくりと目を開く、光が眩しく視界がぼやける。
小春が私の目の前にいておにぎりを食べていた。
「どこ?」
「まだ途中、食べな」
小春はコンビニで買ってきたのかレジ袋を机の上に置き、中身をばらけさせた。
私は胸元を手で抑え、サンドイッチを手に取る。
「凪沙さんが誘拐されたっていうのは嘘?」
「答えられない」
「私はなんのためにこんなことになっているの?」
「答えられない」
「そればっかり……………」
いま頃、日和はどうしている? 
私のこと心配してくれているだろう。
母親は?
携帯から洋服まで私の持ち物はすべて没収されてしまっていて確認のしようがにない。
震えてる、
小春は私の前に冷蔵庫から出したペットボトルを無言で置いた。私は小春の肩を掴んで目を合わせていった。
「小春、私だけの教えて、これからどうするつもりなの?」
小春の瞳が揺らぎ、口元を抑えみ唸った。
「その目で私を誘惑しないで……………」
「小春……………こんなことしたくないけれど――――話して」
私は小春を逃がさない、力を使うこと、生きるために私が危害を加えられないためにするための処世術だ。
「わ…………たし知らない、本当よ。薄紅が凪沙のために実行に移している計画。伊織を誘拐して凪沙専属にすること……………すべて凪沙のためごめんなさい」
「本当のことを話してくれたなら許すよ、こんな形じゃなかったら……………協力? できたかもしれないかも、凪沙さんのことは好きだよ、ほんと、心から……………恋なのか愛なのかわからないけれど、どきどきする。触れたいとおもう、数日しかたっていないのにすごいな~、って何度でも果実を味わいたいって。それだけなんだ。だから小春はこれからも私の味方でいてくれるよね?」
「私は……………そうだよ」
小春は言葉をつっかえながら言った。
「それは、凪沙さんよりも?」
私はさらにつめよって小春の瞳をうつす。
「……………好きだよ」
よかった、嘘はない。
小春は真実を言っている。
足音がコツコツと聞こえてきて、私は小春と距離を取った。
「小春、伊織の様子は?」
薄紅さんは私には問いかけず、小春に尋ねた。
小春は頭を横に振った。
「何も話さないから」
「そう。警戒してね、―――凪沙の体液を飲んでいるから大丈夫だけれど……………彼女は私たちとは違うのだからね」
「大丈夫。大人しいから」
薄紅は納得したのか扉をしめ再び去って行った。
「ありがとう庇ってくれて」
「薄紅には気をつけて、彼女は計算で動くから…………伊織や凪沙のことを好きというわけじゃないわ」
「凪沙さんでも?」
「そう」
おかしいな、私はまだともかく、凪沙さんでも落とすことができない人。うーん、いるかもしれないかな。
「ごめんもういかないと怪しまれる」
「わかった、おやすみなさい」
小春はいっちゃうのは心細いけれど大丈夫。
いままでだって、怖いことは沢山あったけれど、傷つくことはなかった。

(どこだろうここは?)
丸一日たって、私は古い屋敷に連れてこられていた。
男の人はあれ以来見ていない。
長い廊下の先に大きな扉、私は小春や薄紅さんを交互に眺め、扉を引いた。
丸いテーブル、白い靴、ドレスを纏った凪沙さんがティーカップを片手に飲んでいた最中だった。
「その恰好……………はぁ、丁寧に扱ってって言ったのに、二人っきりにさせて、あと扉しめて」
凪沙さんは薄紅さんと小春にそう言った。
「30分後に夕食よ」
凪沙さんは頷いた。
「さて……………なにから話しましょうか。どうして伊織さんがここに連れてこられたか、その理由からにしましょう――――中性は崇拝されるのと同時に、殲滅の対象でもあります、私や伊織さんが監視されていることはご存じでしょう。中性科学研究所では人類を越える存在を作り出すことを裏の目的にしているのです。そのために私を利用していることも……………、どうしてもできなかったのです、だから伊織さん、あなたの存在が必要だった。しかし監視課の日和さん、雄平さんがつねに一緒にいる―――あなた自身で来て欲しかったの」
「……………まってください、日和や雄平は私の親友です、監視課なんて知りませんし、関係ありません」
「知らされていないの?」
凪沙さんは薄紅さんへ向かって問いかけた。
薄紅さんは頷いた。
「純粋…………というより、私とは育った環境がちがうのかな……………命を狙われたりされたことがないのかしら」
凪沙さんはどんな風に育ったんだろう、あの家、お金にこまっている、どうして。
「不思議だったんです、どうして凪沙さんは私とはあまりにも違う環境なんだって」
「いったでしょ、私は中性科学研究所のために存在してるって――――私は国籍がないの、存在していないし認められていないから。だからお金には苦労してる……………」
「そんな! 役に立つとか立たないとか、関係ない! 私と一緒に来てください。凪沙さんだけおかしいです」
「彼らからは逃げられないの、言ったでしょ、私は薬がないと生きていけない、純粋な中性じゃないから」
「つくられた存在なんですか? それじゃあ小春さんは?」
「小春は違うわ、人工的じゃない。――――私の替わりはいるのよ、たくさん」
(どういう意味?)
「人工的につくられた私は次の命を繋ぐためにただ存在している私の死が次の生へつながる。伊織さんには協力して欲しいの、私が生きるために、――――あなたのために」
凪沙さんは手を差し出す。
紅に染まる彼女の瞳が、私の心を惑わす。
「日和と雄平に関しては絶対にちがいます」
「薄紅、資料持ってきて」
薄紅さんは鞄のなかからクリアファイルを2枚凪沙さんに渡した。
私はそのファイルを受け取った。
日和が監視課に所属していることが書かれており、さらに日和と私だけしか知らないことも情報として記載されていた。
「わかりましたか?」
私だけが、何も知らされていない。
守られた世界の中にいて、だとしたら私が知らないところで雄平や日和が傷ついていたかもしれない……………。
「私はどうしたら……………」
「伊織、私を助けて」
どういうこと?
真意を測る。
いままでずっとはなさなかった薄紅さんが口を開いた。
「凪沙はこのままだと殺されることになるわ―――処分命令が下っている。凪沙が生き残るには一つだけ、研究所のために伊織が協力すること、それだけよ」
「協力って」
「あなたが死ぬまで実験になってもらう」
「小春もそれは知っているの?」
小春は頭を横に振った。
よかった、それだけが救いだったな。
「来てくれるわよね」
薄紅さんは私の肩に手を乗せて言った。
私は目を閉じた。
結局、私は何もできない、無力で守られるだけなのか……………。
私は強制的に手を繋がれ背中を押される。


どうしてあなたは、そんな人達の言うことを聞いているの?
友達だから、
あなたをだましていたのよ? 命までも狙われている。
凪沙さんが好き。
あなたは好きではないわ、まやかしのまじない。いつだって解放可能よ。どうして解かないのかしら? 居心地が良い? 人間だって、そう思えるかしら。誤魔化してはいけないわ、あなたは誰のことも好きじゃない、あなたが一番可愛いもの。
睨み付けることも、無視することもできない。
だって、本心だから。
もういいよね。だってここには雄平も日和もいないんだから。
車に押し込まれる私は手をふりほどき、薄紅さんの目を合わせる。
直接語りかける。
その人の心に。
落ちるのは一瞬、私がそうしたい相手だけに。
(私を解放して)
彼女の瞳が赤く染まる。
1秒……………。
薄紅は体を硬直させ、私から解放した。
あとは……………
「どうしたの薄紅?」
凪沙さんが車から顔を出し尋ねた。
「見て」
凪沙さんは一瞬こわばった顔をし、顔を逸らそうとしたが口元を抑えると、息が止まった気がした。
引き返せない、私は人の気持ちを踏みにじった。
いいじゃん、利用すればあなたのために生きるの、素敵でしょ。ひとつ感情が消えた。

「私の家に向かって」
薄紅さんに向かって言った。
「?」
小春は何が起きたのかわからないように、振り返る。
「もう遅いんだよ小春」
小春は次の瞬間気絶したかのように倒れ込んだ。
私はため息をつく、扉は開かれた。
平坦な日常を歩みたかった。
私を利用しようとする人がいる、凪沙さんはその被害者だ。
なぜそうしなかったのか、私は力がないとおもっていた、弱いままだって、そうありたかった。
殺されたくない、日和や雄平も。


「薄紅さん、お願いがあります、私のことを殺害しようとしていた人を連れてきてくれませんか?」
「わかりました、――――危険ですよ」
「その時はお願いします。守って」
「ええもちろん」
「凪沙さん、――――私はあなたのことが好きです、本当の気持ち、違う形で会いたかった。小春や凪沙さんが生活できるように私も動いてみたい。協力してください」

車から降りると母親の心配している顔が出迎えた。
「伊織! どうしてこんなに遅く……………」
「ごめん、友達と遅くなって、もうこんなことないから」
「そう、だったらいいのだけれど」
「また明日」
私は手を振っておやすみを言う。

「日和、昨日はごめんね」
「ほんとうにそう、…………何もなかった?」
「心配しすぎだよ、なにもない」
日和は私の体を上から下まで眺め、うんと頷いた。
「日和、私に話してないことあるでしょ」
「話してないこと……………?」
「中性監視課とか」
日和は暗い顔をし、私の顔を直視していた。
「…………誰に聞いたの?」
「薄紅さんから聞いた。日和や雄平が監視課に所属しているって」
「だとしたらどこまで……………」
「日和や雄平が私のことを守ってくれていたんだね、ありがとう、でも大丈夫だから……………もう」
「どういうこと?」
「私は日和を信じていた、私を守ってくれるのも一緒にいてくれるのもすべて、いいんだ、そんなことしなくて…………もう」
「まって、……………」
私は1歩、2歩、日和から言い訳を待っていた。
私と同じだと想いたかった。
ただそれから先、日和は何も言わずに立ち尽くして、私は声をかけられるのを期待してしまった。
「あっ、伊織くん!」
前から西条さんから話しかけられた。
「ごめんね西条さん 急ぐから」
私は彼女の目を見て言った。
力が抜けたように私のことをずっと見続けていた。


「それで研究所への引き渡しはどうした?」
「明日、連れて行きます」
「計画通りじゃないのはどうしてだ?」
「監視課の邪魔がはいりました」
「まあいいだろう、監視課の局長は買収済み。藤原には薬は飲ませてあるだろうな」
「はい、摂取させております」
「ならいい」


「連れてってくれるの? 薄紅?」
「ええ、劉深緑が亡くなった本当の理由を知っていますか?」
私は頭を横に振った。
「寿命だと聞いていますが」
「ちがいます、王主席の母方に殺されたのです」
「なんでも鵜呑みにするわけにはいきませんよ」
「凪沙が人工的につくられた存在であることは話しました。――――凪沙の元の遺伝子は劉深緑なのです。絶大な能力を有する彼女は毒を盛られて死んだのです。王主席は彼女の死を心から悲しみ、クローンをつくり出すためすべての財産を投げ出した、現、凪沙は数え切れないほどの死体の上に成功した例なのです。それでも足りないのです、二十歳というタイムリミットを越える中性がつくれない。重大な欠陥。凪沙は第二形態、情欲を操るところまではできました。しかし劉深緑の最終段階、子供をつくることはできなかった……………」
「劉深緑は子供が?」
「そう、あなたよ」
「意味がわかりません」
「そうよね、当然、隠されてきたんだから」
「母親はそんなこと口にしたことありません……………」
「そうでしょうね。あなたは他の誰よりも優遇された環境で育てられ、誰よりも良いパートナーをつけられているから」
「そのために日和や雄平をつかったと? 私は自然に仲良くなって、一緒にいて楽しかった。その選択までも私自身が選んだものではなく、選ばされたっていいたいんですか?」
「その通りよ、あなたいじょうに、あなたのことを理解している人がいて、あなたいじょうに計画し行動させている人たちがいるのよ、いまから会う人もそのうちの一人」
「父親は交通事故で亡くなったって、母から聞いてます」
「ほんとよ、ただ、子供はいない、あなたは彼女に育てられた愛情に疑いはないし、お金のためっていうわけでもない。信じて良いわ」
私は椅子に腰を深く下ろし座った。
全部が全部嘘じゃない、それは私にとって救いになる。
「日和や雄平はそのことを知ってる?」
「いいえ、あなたの精神的にフォローし、いついかなるときも味方でいる。それが彼らの仕事です、――――その様子ですと仲違いを?」
学校であった日和の泣きそうな顔を思い出した。
言い訳をして欲しかった、でもしなかった。
縁は……………切れた。
昔の関係には戻れない。

「今から会いにいくのは九星会の張師明、あなたの出生をしる数少ないメンバーの一人」
「私の味方かしら?」
薄紅は頭を横に振る。
「王国家主席と張師明はかつて兄弟のような関係でした。王が国家主席の座つつくことができたのも反乱勢力を粛正した張師明の力があってこそ、しかし張師明は力をつけすぎ次第に王国家主席は疎んじるようになり、張師明、自身も粛正されたのです。以来、影の世界で活動し現在にいたる―――伊織さんは命を狙われ続けている。執念深く必用に、これまであなたは生かされていたの、成長するまで」
「それで薄紅も私を連れ去ろうとしたのね………」
「悔いています」
「過去の薄紅ではないのだからいいの」


「薄紅です」
セキュリティロックがかかった扉を前に、薄紅はカメラ越しに言った。
「どうぞ」
自動扉が開き、前に進む。
「張師明はどこにおられるんですか? ―――藤原伊織をつれてきたというのに…………」
「直接会う? ハッハッ、冗談でしょう、生物兵器ですよ。会うはずがない。いまもどこかでビデオ越しに観察しているでしょう」
「いいえ、彼は会います。なぜなら、彼は中性への免疫抵抗をもっているから。入ってから日が浅いあなたはわからないでしょうね」
その時、スピーカーから声が響いた。
「薄紅、ご苦労だった。会長室で待っている」

コード番号、2975…………パネルを指先で押していく。扉を開くと、彼が待ち構えていた。
「もったいぶらずに連れてくればいいものを…………」
「私が処分される可能性がありますので」
「その通りだな、よくわかっているじゃないか。何が欲しい、金か? 凪沙か? 言ってみなさい」
「中性科学研究所を私にください」
張師明は口元を緩ませ笑った。
「第二の人類でも創るつもりか? ――――いいだろうお前が局長に就任するよう手配する。藤原はどこだ?」
「ここに連れてきております――――入ってきて」

薄紅、私、凪沙さんを助けたい、小春も、だけど……………死にたくない、誰かを守るためには強くならなくちゃ。薄紅ならわかるでしょ、この世界は残酷だから。

初老の男性、しかし近寄りがたい威厳を発している。この男が私を生かし、私を殺そうとしている。
「やはり似ているな、そっくりだ劉深緑に、その私を見る瞳もそのままだ。美しいな」
「質問があります。母を殺したのはなぜ?」
張師明は目を見開き、薄紅を睨んだ。
「まあいい、どのように薄紅から聞いているのかは知らないが……………事実だ。その上で藤原を私の妻に迎える」
(薄紅――――! 聞いてたのとちぐはぐ。どういうこと!)
「無理矢理は好かん。だが、私はもう歳だ長くはない、短い期間だけでいい、連れ添ってくれるならば、藤原の周囲の家族や友人には手をださないと約束しよう」
本当に? 
効かないの?
私は張師明の前に立ち、彼の目を覗き込んだ。
私は目をこらし凪沙や薄紅にしたように彼の心の中へ入っていく。彼の心の中は闇で、核を探す。見渡す限り闇でどこにも彼の偶像は見えてこない。こんなことは初めてだ。
私は闇のなかで視線を感じた。
その目は、じっと私を見つめている。
私は察知した、私は観察されている、動かすことができないパズルのピース。この人は不動だ。私は動かせない。
すぅっと目を閉じ、現実へ戻る。
立ちくらみがして、薄紅の肩を借りた。
「大丈夫?」
「うん」
「たいがい、私の心を覗いたな………、劉と………いや、比較するのはやめておこうか。藤原、私とともに来い、それだけで得られるものがある」
「母は、なんと言いましたか?」
私は黒い瞳の彼を見つめて言った。
張師明は驚いた顔をし、落胆した。
「あなたは、私に恋に落ちていないからダメよ――――と」
「私もおなじ気持ちです」
「私を困らせないでくれ、親も子も変わらんな、わかった、おいテレビを映せ」
張師明はマイクを使って監視に呼びかけた。
すると、液晶の画面から縛られた日和の姿が写しだされた。
「何をしたんですか日和に!」
「彼女の身が大切だろう、藤原、感情に左右されるな、命があってこそだ、神は存在しない故に何をしても許されるのだ――――もう一度言う、私の元へ来い、来なければ彼女を殺すだけだ」
私は鼻で息を吸う。
この人には心がないのだ。
血が通っていない残忍な人、要求を拒めば簡単に彼は日和を殺すだろう。嘘を言っていない、実行する。
「…………わかった。あなたの元へ行きます」
「石原、彼女を解放しろ」
電話口に張師明は淡々と告げ切った。
「薄紅も後ろへ行かせろ」
「薄紅私は一人でいいから、」
「それでは……………はいわかりました」
薄紅がいなくなったのを確認し私は言った。
「約束は守ってください」
「当然だ」
張師明が手を差し出す。
私は手を取った、途端手を引っ張られ強く抱きしめられた。凪沙さんとは違う、ミミズが這ったような不快感が胸に広がった。「離して、私は物じゃない」
手を突っぱねると簡単に彼は離れた。
「はっはっ、食事にしよう。ここは狭すぎる」
彼はジャケットを羽織って翻り車を横へ止めさせた。
「これからどこへ?」
「私の屋敷だよ」――――と、車のライトで闇を照らし直線を描く。この先を照らすことができるのだろうか、いったいどこまで。


「何も心配しなくていい、学校もいかなくてよい、勉強も仕事も必要ないのだ」
私は後ろを振り返って張師明を見た。
この男は約束は守る人だった。
あれから数日、手を出したりしなかったからだ。
私は何をしてもいい、欲しい物はなんでも彼が用意した、ただ一緒に食事をすることは強要した。
ただ彼は話し続けた。
私に諭すように、言い聞かすように。
話は人類が向かうべき未来について。人類は新しい岐路に立っていること、どうしても新人類の誕生が必須なのだと。
……………つまり、子供を産めということ。
テーブルに並べられた小鉢を手に取り箸で山菜を口に運ぶ。
「あなたの子を産むつもりはありません」
苦笑いを浮かべる張。
「死にたくないのだろう? 子供を産むことで形態が変化することがわかっている、凪沙とはもうしたのだろう?」
私は黙々と口にご飯を運び答えない。
「凪沙さんは日々、苦しい生活をしています、あなたのように毎日豪華な食事を食べ、暇をしている人とは違います。なぜ一生暮らせるだけの生活をさせてあげないのですか?」
「凪沙は実験体、オリジナルは君だ。彼女は君のために存在し生きている、改良しやがては君の血と肉となる。彼女の替わりはいくらでもいるのだよ」
私は箸を皿の上に置き、早々に部屋に帰ることにした、口も効きたくない、私は怒っていた。
「待ちなさい。話は終わっていない」
「あなたとは話たくありません」
「君の態度次第で、凪沙の待遇もかえてやってもいい」
この男はどこまでも卑怯だ。権力で私を自在に操れると確信している。おもいっきり睨み付けてやった。
「いつになったら私に慣れるのか…………あのものを呼べ」
「雄平! どうして」
雄平は疲れた表情をして立っていた。
「呼ばれたんだ…………」
「交換条件だ。有賀君の口から言いたまえ」
部屋を通され、私と雄平の二人きりの状況。
「私がいなくなってから、日和は? それと母親はどうしてる?…」
「すべてなかったことになっているよ…………伊織は転校したって、母親は、悲しんでいる。ここへ来たのは俺が監視課をやめてこの研究所にはいったから」
「どうして?」
「伊織を守るため、日和は監視課をクビになった――――安心していい、日和は無事」
そうよかった。
「伊織を説得するために――――」
「私を」
「監視課はもうだめだ、伊織を殺そうとしている。俺もその話を聞いた。日和があぶない、助けてくれたのがここ、なんだ」
「雄平、張師明が私を殺そうとしているんだよ…………、裏で手を回して監視課に指示しているのもそう」
雄平は私の耳もとで声を小さくして言う。
「知ってる、……………しょうがないんだ。伊織を助けたい、手がないんだ」
私は雄平の背中に手を回し抱きしめた。
「心配してくれてありがとう大丈夫だから、何もされてないよ。雄平は日和を助けて」
「それじゃ伊織は……………?」
「殺されたりなんかしない、私の力でなんとかするから」
「なんとかできる次元じゃない」
「それでも、する――――雄平、あなたに会えてよかった。少しだけ救われた……………」
「まるでいまから死地に行くみたいだ」
雄平の瞳の奥を覗きこむとその景色は、美しい色彩で彩られている絵画のようで、純粋に綺麗なものが好きなのだろう。その中に私も存在していて、偶像を美化しすぎだろうとおもう。人の心を覗き見て、雄平に醜いものを見て欲しくない。――――だからこの場所にはもう来て欲しくない、とっても我が儘だと自分でも思う、来てくれてホッとする反面、巻き込んでしまった罪悪感にさいなまれる。
雄平は私に逆らえない、命を張ってでも守り通すだろう。私がいることで雄平の命を失う理由にはならない。
 結んだふたりの心はほどけない。
 落ちて消えてしまってもあなたは残影を追わないでそこに私はいないのだから。

 もうこれでだいじょうぶ、遠く私をしまいこんだ。
「行って」
雄平は唇を噛みしめそのまま走り去った。

交換条件にさえならない、結局の所、私は鎖で雁字搦めになってほどけなくなってしまっている。
あの男は私では動かせない。しかし他の人を動かすことはできる…………、私は目を閉じ、邪のことをおもう、すべて空虚な空想だ。
“人を殺したことがないのね”
また声が聞こえる。
“彼らは私とは違うのよ。騙し搾取しあなたの命を狙ってる。構うことないわ、復讐もできるし”
復讐なんて望んでない、母親はいまの人だけ、
“だとしたらあなたの底に流れる黒い感情はなんだというの?”
いけないこと、なんだよ
“いけないことなんてないわ、あなたは人の枠にはいらない”
私は人間です。
“最後までいくのかしら?”
最後?
“あなたの常識観念も死生観も創られたもの、痛い目をみなければわからないあなたではないでしょう? 覚悟を決めたらどうかしら、大切な人を守りたいならするべき。あなたができなくても私が替わりになれるし”
引っ込んでいて! 
まだやれることがある。

「友達との最後の会話は楽しめたかな?」
「最後になんてなりません、何度でも会えます」
「彼はなんと言っていたかな?」
張は足を組み、余裕の表情を浮かべる。
「中性科学研究所にはいったと…………」
「取引についてはどうだ? 彼の命、家族、友人、両親、すべて私が面倒を見よう、その代わりいいね」
あっ、やばいキスされる。
彼の顔が目前まで来て、私はおもいっきり頭で彼の顔をぶつけた。
痛そうに鼻を手で抑え鼻血を抑えている。
「その目、…………その目なんだ。やはり私がいままで強制しなかったのは劉を死なせてしまったことの償いでもあった」
男の目が怪しくひかる。
「あなたの目的は私に子供を産ませることですか? 私と性交渉することですか?」
「そのどちらでもない、私は藤原の心が欲しい」
「あげれません物ではないので……………いまわかりましたあなたは孤独なんですね。愛されたいと願っている」
「愛されたい? つまらんこと。人は最後まで一人、淡い気泡のようなもので、その一瞬の時に、滅亡と誕生を繰り返しているに過ぎん。人の欲望とは底がない、全てを手に入れようとすれば絶望を知る、人は思い通りには動かないが、欲望に忠実であろうとすれば代償は必要だ」
「普通の人はそんな風にかんがえないですよ」
「私も藤原も普通ではない――――もういいだろう」
「触らないで」
頭に乗せられた手を払いのける。
私には人を殺せないよ。
見殺しにすることなんてできない。
悪魔にはなれない。
“じゃあ自分を犠牲にするのね”
しない、私は全部手に入れたい欲張りだから。
利用する。この男を。
私が知らないあなたを利用して。
いいでしょ?
“もちろん。私はあなたの影だから”
「いいよ、私はあなたの側にいる。それこそ死がふたりを別つまで」
私は深い眠りについた。
意識が消える間近、私はガラス越しに目の前の男と唇をかわしているのをうっすらと眺め消えた。


「結婚しないか?」
男はそう言う。
私は眠気眼で聞き流す。
いつものことだ。
それに私にそんな気はさらさらない。
乱暴なように思えて繊細、私が傷つくことは一切しなかった。
「しないよ」
「そっちのほうがいいだろう母親が安心する」
「家に帰してくれないくせによくいうよ」
「心配なんだ、わかるだろう、籠の中に閉じこめておかないと羽根を広げ飛び立ってしまいそうで」
「その羽根を毟り取ったのはあなたです、責任とってくださいね」
男は頬笑んで頷いた。
「凪沙を呼んで」
私はいつものように頼む。
するといつものように男は頭を横に振る。
「それじゃあ薄紅、もしくは小春」
「ダメだといっただろう」
「つまらない。暇」
ここへ来てからというもの外へ外出もままならない。
私は鍵がかかったこの部屋から抜け出せないまま。
私は影、主人に命を受けた。
汚いことは私がすれば良い、それで充分、純粋なままでは生きていけないもの。
週に一日、私は男と外出できた。
私の瞳孔に焼き付けないためか、全員サングラス越し。誰かに話しかけることさえ禁止されている。
日和のことさえ教えてくれない。
でも……………どんなに隠していても私の瞳だけじゃないすべての幻惑からは誤魔化すことはできない。
針に糸を通すように、細切れになった時間の区切れ私は頼んでおいた情報を男性から切り取ったメモを受け取った。
私は読み終わったらトイレで流す。



「ほんとうにこれで最後なんですね……………」
私はため息をつく。
受け取った手紙はたしかに彼女の見慣れた文字で。
気持ちが落ちこむ、命令には逆らえない、でも彼女と今まで過ごしてきた数十年の積み重ねが私を惑わせる。
……………でも決着の時は近づいている。その場所には私がいなくてはいけない。
「せめて…………良い結末を」




「蒸し暑い国ね、すみにくそうだわ」
「日本は四季がある国、住んでみると快適ですよ」
「そう、劉深緑の忘れ形見はいまどこ?」
「張の元に囚われているとの情報がはいっています」
「あのジジイ、しつこい。いい加減死なないかしら――――遠い過去と未来を繋げるため………劉の夢それを叶えるために」


「それであなたたちは何もせず、臆病にも身の危険を感じ、藤原伊織を売ったのね」
「! 私がどんな気持ちでいるか…………」
「同じ事よ、結局自らの命と家族を犠牲にすることができなかった」
「できるよ! 雄平だって私だって、伊織がそれを望んでいない」
「もういい。計画は実行に移してね」
「あなたはできるというのですか?」
「できる、私は彼女と同類だから」
「お願いします。伊織を助けて」
過ぎ去る彼女は伊織と似ていて、私とは別の人種。
悔しいけれど私にはできない。
「薄紅さん、彼女はいったい何をしようと」
「彼女は世界で2人目の中性。国は彼女をクイーンとして崇拝している。彼女にとっても伊織は同類、張師明に渡すくらいなら自らのものにしたいと考えているの、いずれ世界を自分の子孫に託すつもりよ。あの人は…………」
「薄紅さんはどちらの味方なんですか? 張師明? それともクイーン?」
「凪沙が助かればそれでいいの」
「私も伊織が助かれいい、世界がどうなろうと知ったことではないわ」



「今日はどこへ?」
男が珍しくスーツを着て険しい表情をしている。
「伊織も一緒に来てもらう」
「どうしていいの? いままで嫌がっていたのに」
「クイーンからだ。君に会わせろと言ってきている」
「クイーン?」
「会えばわかるさ」

男と私はふたりで神社の階段を上る。
迎えた先、霞んだ目の先に、凪沙さんを見たような気がした。
「藤原さん、私とともに新世界をつくりましょう」
手を差し出された。
「クイーン、唐突すぎて警戒されていますよ。説明しないと」
「説明は不要。ねっ、そうでしょう」
「声が聞こえる……………からでしょう」
「それがわかっていて、動けないのはあなたの育った環境、倫理観に染められたからでしょうね。でも安心して、私がそれを解放してあげるからね」
この人と私は同類だ。
私に何をさせるのか理解していた。
「張師明、あなた本当は死にたいのでしょう。その夢叶えて上げる。日の当たらないあなたに光を与えるのはあなたの死でしかないものね――――渡して」
「これのことかな?」
張は拳銃を内ポケットから取り出しクイーンに向けた。
「私には死ぬ理由がない、あるとしたら――――つまらないというだけのこと」
「どう藤原を手に入れた感想は? できすぎているでしょうあなたには。さあ、あなたは絶望した。伊織、受け取りなさい」
張は乾いた笑みを浮かべ拳銃を私へ渡した。
「子供をつくるとか、凪沙を実験体として扱ったあなたが、つまらない? 私にしてきたことも…………許せないよ」
「私はお前を利用した、心が欲しいなどと言って、灰色の世界で唯一の色を見た気がした。ありもしない虚像を追い見失い、最後は希望も消え去った――――撃ちなさい、お前の純潔を奪ったのは私だ。憎しみも恨みもいまここで…………」
私は歯ぎしりをして、男の胸に銃口を突きつけ指にかけた。
衝動的にあとほんの少し、中性とそうじゃないものをわけていた私は殺すのを当然と認識していた、手が私の腕に触れた。
それは、私だった。
“殺してはだめ。日和や雄平と顔を会わせることも笑い合うこともできなくなるよ”
誰のために、私は守ったというの。
黒い部分を私が担当するといった。あなたは目を瞑っていればいい。嫌悪、憎悪、醜悪、姦邪、不道徳、影は私そのもの。

「悩むことはありません、声を聞いたでしょ。私たちとそれ以外でしかありません。さぁ、トリガーを引いて、見えるでしょいままでいなくなった人達が」

“さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ、さぁ”


数多の幻影が押し寄せ浸食し、肉体を得ようともがき苦しんでいる。黒い手が私の指先へ浸透しトリガーを強く引いた。
破裂音。
力なく倒れる人影、第三者からの視点のように冷静でいられた。その男は痙攣しすぐに動かなくなった。黒ずむ階段を私は避け昇る。

「わたし、弟子はとらない主義なの、でもあなたは特別ね。生き方を教えて上げる」
日が沈む。
私は後片付けをするクイーンを尻目にただ立ち尽くしていた。
仕事のように男達が布に被せ包みトラックへ乗せ、跡の形跡を洗い流す。何もなかったように、誰も疑問さえ抱かないで……………。
「彼らは?」
「私の手先、勝手に掃除をしてくれるから便利よ」
「私達の力はこんなことのために使うの?」
「ええ、そうよ、あなたは守られていて知らない? 搾取する側とされる側、憎しみと殺意を受ける傷跡、平和は死体の山からつくられる。そして、あなたも人を殺した。あとには引けないかしら」
「雄平と日和………一緒につれていきたい」
「そう、わかったただ、コントロールしておきなさい。多ければ多いほどいいかしら」
「手先として使うつもりはありません」
「こないわ、それじゃ、わかっているでしょうに、私の指先として使ってもいいのよ」
「だめ! 絶対」
「そう――――いつかは会えるわ、理解出来るときが来る、かわりはいくらでもいるってこと」


「冷めないうちに食べましょ」
彼女は厚切りのステーキをナイフで一口大に切り、口に運んだ。「凪沙さんは?」
「組織は存続させる、なに? 凪沙が欲しいのかしら」
「はい、彼女とは気心がしているので、それに生活も大変だし……………」
「わかったわ用意しましょう。他に何が欲しいのかしら?」
「他はありません」
「欲がないのね、もしかして処女かしら」
レアのステーキをナイフで切る、私は死体を見たショックを思い出しナイフを置いた。
この人は私をからかいたいだけだ。
「私に張師明は操ることができませんでした。深い闇、失望、空っぽの部屋のようで、迷い込んでしまいました。彼は一体何者だったんですか?」
「彼は闇の一族、中性の監視者。いわば中性の天敵。彼らは私たちの瞳力は通用しないの。どれだけの中性が彼らに利用され殺されてきたか……………あなたは理解した? 影の声達、数多の叫び声。私とあなたで監視者をすべて粛正しましょ、それがあなたを助けた理由よ。彼らがいるかぎり私達は自由になれない、怯えて暮らすのはうんざり、新世界を創りましょう」
影は私のために犠牲になってくれた、傷だらけの体で、私はなんとかして生きて来れた。これもすべて影のおかげだ。
拒むことなんてできない。


「凪沙さん、少し痩せたね」
私は部屋に連れてこられた凪沙さんの疲れた顔を見て言った。
「なにがなんだかわからないうちにここへ……………伊織がしたんだよね」
私は頷く。
「なにがなんだかわからない、自由にしていいだなんて、お金だってたくさん…………」
「もうお金の心配しなくていいの、ある人から助けてもらったから」
「ある人?」
背後からクイーンがゆっくりと扉を開けた。
「月城凪沙さんね、伊織を支えてあげて」
クイーンの瞳がぼんやりと光った。
いけない! 
私は凪沙を庇い目を逸らした。
「無駄よ。伊織、私の瞳力のほうが強い。それに――――――――彼女はもう長くないわ」
なんて言った、どういう意味?
「残念だけれど、彼女の体は限界…………残された時間をあなたと過ごしてあげなさい」
「どうして?」
「彼女の心の中に残された容量はとても少ないわ、いわば生命の炎、中性が能力を使えるのも炎あってこそ。偽物で、ここまでもったのも彼女が強かったから、よっぽど守りたいものがあったのね」
小春さんだ。
だって凪沙さんが愛しているのは小春だけだから。
「凪沙さんを解放してください、あまりにも……………」
「いいのかしら、欲しいのでしょ」
「わかってるんです、私はそうじゃないって、瞳力をつかって一緒にいても虚しいだけ……………」
「あっそう、わかったわ」
彼女は指をパチンッと鳴らし幻惑を解いた。
「凪沙さん、もう大丈夫です、怯えなくてあなたを利用する人はもういません、小春さんと幸せにくらしてください」
欲しくて触れて欲しくて初めてだった。
彼女にとっては仕事だったとしても私はそれでも……………あなたが好きでした。

「小春さんと一緒に暮らしてください。顔を見たかっただけ。それだけ…………」
「ごめんなさい、あなたを騙していた」
「行ってください」
振り返らず凪沙さんは足早にかけていった。
その背中を私は掴みたかった。
失ったものの代償は大きく、私だけが心に穴が開いたまま。
おいていかないで私を、差し出したい手を必死で抑え震えを堪えた。

「偉いわね、よく頑張りました」
「あなたのためじゃなく、彼女のためです」
「さっそくで悪いけれど、伊織はまだまだ不完全な正体。会わなきゃいけない人がいるのよ」
「誰です?」
「私たちの母です。これで伊織も潜在能力を発揮できるわ――――扉を開くことができる、共通の声を聞き、同じ性を司る審判とでもいうのかしら」
中性は強さに憧れている。
そうしないと生きていけないから。


「このお方が、マダム・マーシャ様です」
クイーンが私へ向かって紹介した。
確かに普通の人とは違う中性とも違う雰囲気を纏っている。
「初めまして、劉緑深そっくりね、彼女は惜しいことをしました。もっと早く合流できていれば死なずにすみました」
「過去のことはもう必要ありません、私は顔も見た記憶も頭を撫でられた感触もないのですから」
彼女はふっと笑みを浮かべ、私の目を見据えた。
「私の目を見て、まずはそこから」
視界が暗闇に染まっていく。
私とマダム・マーシャだけの世界。
“あなたの後ろにいるのは別人格ね”
私は後ろを振り向く。
私の黒い傷を任せていた人格だった。
“ごめんあなたにばかりつらいおもいさせて”
“あなたのために存在し作り出された逃避先、いつでも呼んで”
“あなたは……………”
マダム・マーシャが目を見開き硬直した。
“破壊を生み出すキング、力の扱い方を間違えたら――――人類か中性のどちらかが滅ぶ、あなたはどちらの味方かしら……………対するクイーンは昔ほどの力はない”
深く悩み、苦悩する。
私は白く靄がかかったようにぼやける。
“劉緑深、あなたはどうおもう?”
周囲を見渡しても私には見えない。
“中性の救世主になるか、破壊者になるか…………”
“私は中性です、性には逆らえません…………が、人間です。共栄する道を私は選びたい”
“共栄共存などありえません、あなたは人を殺した。その事実だけで引き返せる道などないのですよ。現にあなたは人を殺したことに罪悪感を抱いていません、なんの感情もなく過ぎていった日常。それほどあなたは超越している。クイーンなぜ、彼女を私のところへ連れてきたのかしら……………、わかったでも完璧じゃない、それで様子見かしらね”

ひとつだけ、たったひとつ。
王は道を示された。

「これでキングのスペースにはあなたが、クイーン、コントロールしなさい」
「マダム・マーシャ、藤原伊織がキングですって?」
「ええそう」
「……………いまさらかしらね、わたしがあと20年若かったら…………、先の将来も考えれた。どんなに探してもいなかったキングが伊織だったなんてね皮肉なものよ」
「なんの話です?」
私はぼうっと、温かい光に包まれたように体が昂揚しているのを感じ取っていた。
クイーンは椅子に深く腰を下ろし、考え込む。
「張師明はあなたに子供を産んで欲しいと言っていたでしょう、その理由はわかっている?」
「中性チルドレンを創り出し世界を制するのだと言っていました」
「その通りね、中性の瞳力があればそれも可能よ、でもねキングには子供を創る能力はないのよ。あるのはキング以外」
「私は子供を産めない……………」
「その代わり中性同士で子供を創ることができるの」
「中性同士で?」
「救世主になれる存在なの…………私は子供を産める歳でもないし、マダム・マーシャだって」
「話がおかしいですよ、私は無視ですか、そんなつもりはありません」
電話が突如鳴り響く。
クイーンが携帯を取り耳に当てた。
「黒龍がこちらにむかっているわ」
「足が早いのね、さっそくだけれど藤原さんにお願いしましょうか。これからくる黒龍を殺して」
「殺すって? わたしにそんな力ありませんよ」
「もうできるわ。監視者の心を壊すこと藤原さんはその瞳力がある」
突然の爆風と熱気。
私は身をかがめ、頭に物が当たるのを防いだ。
クイーンはマダム・マーシャの上に覆い被さり瓦礫から身を挺して守っていた。
濃い煙で1メートル先が見えない。
煙を吸わないように口を塞いでも砂の味がする。
私は立ち上がり気配を探った。
人影、でも私は遅かった。
首に鋭利な物を突きつけられていたからだ。
「動くな、振り返るな、しゃべるな」
私のフェロモンが効かない、、
クイーンは何をしている。
乱暴に目隠しをされ、ロープで手首を縛られ動けない。
慣れた手口で私は車へと押し込まれた。
「乱暴しないで」
「しゃべるなと言ったはずだが…………」
「どうせ殺すつもりもないのに、こんなことするなんて」
「どうして殺さないと?」
「張師明と同じ匂いがしました。あなたの部屋は真っ暗で光を求めている張と同じ、希望を殺すはずがありません」
「生意気だな。俺は張とはちがう、お前の生殺与奪権は俺が握っているんだぞ」
瞳を閉じられても殺意を抱かれても、私の感情や心内まで縛ることなんてできない。
私を殺す事が出来る人。
クイーンやマダム・マーシャが私に何を期待してやらせようとしているのか。
黒龍を殺し、黒の組織を破壊すること。その瞳力が私にはある。キングにはその役割があるのだと、ではどうして?
対立しなきゃいけないの?
私はひっそりと生きていたいだけなのに周囲がそれを許してくれない。消えてなくなってしまいたい……………。
思い通りなんてなってやるものか、
「クイーンやマダム・マーシャは生きているの?」
「殺すわけないだろう、大切な商品だ」
クックッと嗤った。
「何人もの人を騙して、裏切って、搾取して、私は許せない」
「だからどうしたというのだ。安心しろ死ぬまで命は保証してやるから」
私の肩に手を回し耳元で言った。
目隠しをされても私は彼の心臓を掴める。
やろうとしなかったのは、私のなかで人としての常識があったからだ。
もういいや……………。
この人の核。
闇の一族は人の魂を売っている。
闇で消し去り視界を奪う。
現実に言葉さえ、消えてしまうほどの深い闇を、
私は核を握り潰し。
彼の意識を潰した。
息苦しそうに黒龍は悶え苦しみ、虚ろになり廃人となった。
「運転手さん、目隠しとロープを取って苦しいの」
静かにわきに車を停車させ、ゆっくりと解放された。
「ありがとう、さて…………クイーンやマダム・マーシャを助けに行かないと」

ずっと聞こえていた声が、私の耳にもハッキリと形になった。
助けて――――その叫び声が。

電気信号が送られてくる。
まだそんなに離れてない。
私は黒龍のスーツの内ポケットから携帯を取り出し、直後に連絡していた相手にかけた。
「黒龍さん、予定より早いですね」
私は答える。
「黒龍は死にました」
「……………藤原がキングだったのか」
「クイーンやマダム・マーシャはどこにいるの?」
「黒龍さんは最後に何か言っていましたか?」
「視界を奪い、声も奪った、彼の魂はもう抜け殻よ。だからなにも言えなかったよ」
数秒の沈黙。
「そうですか、最後まで報われない人でした」
私は声色から黒龍とこの人との関係にはただの仕事ではない悔しさが滲み出ていた。
「どこですか?」
「あんたにも仲間意識があるんだな、なぁ、クイーンとマーシャを返す。………が、あんた、黒組にはいらないか、尊重しますよ」
策略、謀略、私はうんざりしていた、駆け引きなんてするものじゃない。
騙し騙され、私はここへきている。
至極簡単だった。
「クイーンとマダムを返してくれるならいいよ」
場所を会わせ、私は血の濃さでしか、肌の温かみを感じることができなかった。雄平や日和が好き、でも同族じゃない。
凪沙さんと出会って、肌を重ねて、初めて好きになれた。
同じでいて安心できたんだ。
色のない世界で初めてカラーに見えた。
ラクに生きたい、好きな人と一緒に暮らしたい。
そのために世界を創ろう。
わたしがいなくなった世界でわたしとおなじような人のために。
大勢の人達に囲まれてクイーンと、マダム・マーシャが捉えられていた。
「約束よ、解放して」
男は二人を解放し私の元へ戻ってきた。
二人からは強い疲労感が伺える。
「さぁ、こちらに」
「その手はとれない」
きっと、あなたたちもこの声は聞こえないから。
「約束はどうしたんですか?」
「約束はたがえない。私があとの組織を束ねる。あなたたちはその役目を終えていい」
「殺せ!」
明確な殺意。
生きた心地のしない。
ずっとこのままの世界で生きていくなんて息苦しい。
暗い闇の中で、あなたたちはずっと生きてきた。
それが居心地のいいの?
泥水の中に住む鰐のように、絡め取り、毟る。
あなたの生き方について何かいうことなんてないけれど、戦わなくちゃ乱暴されるだけ。
一人一人が別個の個体。
まずその腕の感覚をなくす。
群像は腕を下ろし銃をバタバタと落とした。
次に私に殺意を向けてくる目の光を消す。
それぞれがぶつかり体をうずめた。
物音で私へ向かってくる男がいたので、その足の機能を踝から先の感覚を切り落とす。
芋虫のように地面に這いつくばって蠢いている。
絡みつくモノクロームを払いのけるように私は見下していた。
うるさい。
雑音のようにザーッと流れてくる不協和音に吐き気を催す。
心臓の鼓動を止めて、終わりにしよう。
苦しまないように、苦痛をなくし、スイッチを切る。
やがて蠢きもなくなり、横たわっている人影が残るだけ。
「ありがとう、命拾いしたわ」
「マダム、クイーン、まだ話してないことあるでしょ」
瞳力が広がったからか、見えなかったオーラが見えるようになった。マダムから漂ってくる死の予感も。クイーンの焦燥と諦念も。
「私やクイーンが二十歳を過ぎても生きていることについて話しましょうか――――中性は二十歳を過ぎると遺伝子が内部破壊を起こし自身を蝕み壊す情報がはいっている。私やクイーンが二十歳を過ぎても死なないのは、13のマークが備わっているから。キングのあなたが生まれたということは、ジョーカーも生まれたということ」
「何のこと?」
「王はこの世界を支配することができるし、ジャックやクイーン、エースを束ねることができる例外はジョーカー。ジョーカーだけは何者にも支配されない。私やクイーンも会ったことがないわ、でも会ったら必ずわかる。そういう風になっているもの、ここに3人が揃っているキング、ジョーカーに会ったら必ず殺して」
「同じ中性なのでしょ、殺すなんてできない」
「ジョーカーはあなたを殺すわ、問答無用で」
「ありがとうかんがえておくから」
私はどうしようもないほど震えていた、恐ろしさではなく、道が見えたから、どうしようもないほど先が見えなかった将来、分岐点、私がなすべき事が示された道を歩めば良いのだと安堵し喜んだ。

一日に何度も電話が鳴る。
それは日和だったり、雄平だったりする。たまに西条さん。だけどそのどれもが、私は受け取ったりしない。
いまはホテルに泊まってクイーンとマダム(ジャック)と話あっっている。
黒の組織から入手した中性の情報。
いまはもう存在していない中性の人。
あとは、クイーン、ジャック、……………目を引いたのはエースのことだ。日本にいる、中性の情報は国家機密にあたるので知らなかったのは当然だけれど、坂本雫さん……………。他に何人もの中性の人がいることがわかった。
「坂本雫さんに会いに行こうとおもう。クイーンは私とともにきて欲しい」
もちろんわたしたちだけの世界をつくるため。


組織は解体されず、名目上存在しているのみとなった。
「雄平もなにも聞かされてないよね」
「知らないな。伊織からも音沙汰ない……………」
「家にも居ないし、凪沙さんのところにも、私たちがなんとかしないと帰れないかもしれないわ」
「伊織は……………もう俺たちのこと知ってて、それで、もう違う世界に行ったみたいだ」
「伊織は伊織、関係ないわ、私が側に居て欲しいもう一度会いたい――――赤松所長と話したけれど……………もう関わるなとしか言われなかったわ、伊織も電話でないし、私達のこと無視してるっぽいし、落ち込む。凪沙さんしかいない」
私と雄平は錆ついたアパートへ向かい凪沙さんの部屋の呼び鈴を鳴らした。
ジリッと少しだけ扉が開かれた。
暗闇から猫目の警戒した小春が覗いていた。
「なに?」
「小春、伊織がいまどこにいるか知ってる?」
小春は目を一度閉じ、再び開いた。それと同時に扉のロックが外された。
「伊織はここにはいないわ、お姉ちゃんに聞いて」
部屋の奥から凪沙さんがゆっくりと悲しい笑みを浮かべて登場した。
「ごめんなさい、私は伊織を置いてきてしまった」
「どういうことです……………?」
私は凪沙さんから経緯を聞いた。
伊織は張師明と取引をして、凪沙や私たちの身柄の安全を確保したこと、それといま、張師明が死に伊織はどこにいるか不明であること。
「そんな……………」
凪沙さんだったら伊織がどこにいるか知っているとおもったのに。
その時、玄関の扉が開き、ひとりの女性が入ってきた。
「誰ですか?」
その雰囲気は神々しく私たちとは一線を画し、初めて凪沙さんと出会ったときのような衝撃を私たちに与えた。
「凪沙さん…………」
私は彼女の後ろに隠れた。
この人には一生敵わない、命令されたら逆らえない圧倒されるほどのオーラ、側にいるだけで私の心が浸透されてしまう。
逃げなくちゃ。でも体が身動きがとれない。
この場にいる全員が硬直している。
発言することも出来ず、ただその人から目が離せない。
「藤原さんの居場所を知りたいのなら私についてきて、……………日和さんと雄平さん?  で合っている?」
「はい」
雄平が頷いた。
あなたは誰ですか?
聞くことは出来ずに、体だけついていくと決めている。
一人だけ身を動かすことができる人物がいた。凪沙さんだ。
「何者ですか? ただの中性じゃない……………」
「運命に縛られ、翻弄されて、あなたはいま解放された……………それはキングが創った道、私は破壊するだけジョーカーだからね」
ジョーカー、キング?

「日和さん、雄平さん、一緒に来てもらいましょうか。最終決戦にはあなたたちが必要だから」
誰もなにも言えず、ただそうあるがままに身を任せるしかなかった。


「直接会って、驚かないかな」
「同じですから問題ないでしょ、ジョーカーに取られるまえにこちらに引き入れないといけないわ」
「クイーンは子供をつくれるんでしょ。年齢はどうなのかしら?」
「中性に年齢は御法度よ伊織」
「子供を産むのだとしたら人でいうと37歳くらいが高齢出産でしょ?」
私はクイーンの満面の笑顔を見て、これ以上突っ込んではいけないと確信していたが、先の情報がどうしても知りたかったので深く尋ねることとした。
「クイーンの役割は譲渡できるの?」
クイーンは言いにくそうに顔を逸らした。
「その問いの答えは、できる。――――ただ自らの意志で譲渡はできない、クイーンの役職者が死ぬことで別の中性へと宿ることになっているわ、いつ何処ではわからないわ」
「いままで何度もクイーンやキングが登場してきたにも関わらず世界は何も変化していないように見えるけれど、それは人類に中性は負けた歴史でもある?」
「中性が人類に負けたことは一度もないわ、問題はジョーカーだけ、ジョーカーは中性の魅了が効かない、上塗りすることができるの、それが闇の組織でもあった。あれはもともとジョーカーがつくった組織だから」
「なんのために?」
「ジョーカーは人類の味方、私たちの敵。姿さえ表したことがない。ジョーカーに勝てるのはキングだけだから、伊織がジョーカーを殺すんだよ」
「ジョーカーを殺したあとは……………また新しいジョーカーが生まれるのかな………だとしたらこの殺し合いは永遠続く」
「伊織、常にせめぎ合っているの、そのっ、中性の環境を良くし新しい人類を創り出すために伊織がやるべきことがあるでしょ。間違ってないわ伊織がしようとすることは」
輪廻転生と私がすべきこと。
中性のために私たちが暮らしやすいために、日陰ではなく日向で生きていけるように。
ジョーカー、あなたはどうして中性を日陰に追いやったのかな。あなたの視線がどこへいっているのかな、私もその視線に立ち入ることができるかな?
多かれ少なかれジョーカーとは出会うことになる。
私は日が暮れる夕日を車の斜光から眺め思った。



無言の車中の中、私と雄平は高級車へ乗り込みジョーカーと名乗った中性と一緒にいる。
言葉をかけることすら許可されないと許されない雰囲気。
気が重い。
「あっ、ごめんなさい、しゃべっていいよ。あと飲み物もここにあるから」
彼女は冷蔵庫から飲み物を取り出し私達に渡した。
なんかおもっていたのとちがう。
「お腹空いたな~、エースに会う前にどこか食べるところないかな?」
彼女は独り言のように話す。
「ねっ、藤原さんってどんな子? 怖くないといいんだけどなぁ、いきなり襲ってきても嫌だし、そういう血みどろのって気乗りしないなぁ、はぁ」
「伊織は、優しくて無口で、…………怖くなんてありません」
「よかったぁー。仲良くは……………できるかなぁ。うーんでも役割的に厳しいかな、あっ、ついた」
「ここはどこですか?」
「聖十字学園高等部で進学校!」
彼女は私の前に親指を立て自信気に言った。
「伊織と関係が?」
「ないよ!」
ないんだ。
「一人、乗せて行きたいからさ、ついてくる?」
「はい、行きます」
私と雄平は車から降りた。

門監の窓口へ行き、書類を記入し私たちは奥の部屋へ案内された。
部屋を開けるとぽつんと幼い顔つきの中性がいた。ジョーカーも伊織と似ていると思っていたけれどこの人のほうが歳が近いぶんそう感じるのかもしれない。
「初めましてエース、坂本雫さん」
ジョーカーはお辞儀をし軽く頬笑んだ。
「あなたですか、ずっと私をつけ回していた人は?」
「そう! 部下にあなたが逃げないか監視してもらってたのエースとキングが組んでしまうと困るからねぇ」
「何が目的ですか? ひっそりと静かに暮らしていたいだけなのに…………邪魔をするんですか?」
坂本さんの瞳が蒼く光ったように見えた。
ジョーカーは何もせずにただ立っているだけ、一方で坂本さんは息を切らし、目を手で伏せて苦しそうに悶えた。
「能力の無駄使いだよ、やめようよそんな怖い顔して襲うつもりもないし平和主義者だよわたし」
「あなたからは闇しか見えませんでした、底知れない深い闇、心の中で深淵を覗いたとき深淵もまた覗いていた」
「過去に存在していた歴代のジョーカーが私を導くの、“人類を助けろ”って、あなたたちは中性は人類を滅ぼす敵になる、わたしは正義の味方になるつもりはさらさらないけれど、放置しておくことできないんだ、だから監視してた一部の中性だけが例外として現れた、それがエース、キング、ジャック、クイーンと呼ばれる中性。いままで同時代に4人が存在していた事実はないから、とっても焦っています」
「私を殺しにきたの?」
「平和主義者っていったでしょ! もう、むっ」
ジョーカーが窓側へ寄り外を眺めた。
「もう来ちゃったかぁ 予想がい 悠長に話している時間がなくなったわエース、わたしにはかつてのジョーカー達が残していった遺物がある、記憶といってもいい だから…………キングがこれからどういう世界を創ろうとするかは知ってる。止めなきゃいけない、キングはすでにクイーン、ジャックを支配している、残る数字はエースのあなただけ」
「それで私になにをしろと?」
「連鎖を断ち切りたい。わたし、キングの子供を産むわさもなくばキングを殺さないといけない」
「ぷっ、ははっ、おもしろい、私たちのこと監視して散々ためしてきて、それでキングが望むかな? わたしはキングに会ったこともないし人類を滅ぼすなんて望んでないけれど、少なくともジョーカーよりキングのほうが好き、あなたは偽物っぽいから」
けたけたと笑う坂本さんは幼い顔でジョーカーを見上げた。
「エース、あなたの中にある剣をわたしに譲ってくれないかな?」
坂本雫さんは静かに目を細め動向をさぐっている。
「メリットがありません、キングと同じ結論を言うと私はあなたが嫌いです。私のように制約をうけることなく生活し管理してきたあなたが、共栄共存なんて信じられない。ジョーカーは中性の敵です」
「そんなこといわないでよぉ、お互い譲りあえる距離があるとおもうの」
笑ったり悲しんだり激しい人だ。
「まっ、断られて当然かな。ジョーカーがしてきたことは鳥を籠に閉じこめていたのと同じだから。才能は誰にも止められない、いずれ芽が出て花が咲く……………」
ジョーカーは椅子に深く背を持たれ力なく虚ろな目をしていた。潮目が変わった。
雰囲気が一気に重くなり、視線がその人物へ注がれた。
私はつい嬉しくなって伊織に抱きつきたくなっていた。
「日和 とまって」
「エースとジョーカー 初めまして藤原伊織です」
「ふーん、あなたが今回のキングかぁ 友達として会えたなら嬉しかったなぁ 可愛いし」
「奇異、深い闇、張師明とは比べものにならない底がない」
伊織は瞳を閉じて言った。
「……………深い悲しみと罪の意識」
伊織の瞳は私の知っている柔和なものとはまるで違った知らない私は。
「それでもキングはわたしを恨む?」
「いいえ、あなたの過去も見てきたから、歴史の重圧による精神的苦痛は耐えがたいものでしょう。そのせいで寿命が短いことも」
「ねっ、このとおり! 人間を滅ぼさないで! ついでに私も見逃して」
「許しません。エースもそうでしょう」
坂本雫さんは黙って頷いた。
「伊織どうしたの? 雄平も何言ってよ!」
「日和、伊織は俺たちのことを知っているそれに…………」
「なに? いいなさいよ」
「もう俺たちの知っている伊織じゃない」
「かわんないよ! わかんない」
「雄平、日和を抑えて」
伊織がそういうと雄平は私が暴れるのを抑え込んだ。
「なんで…………」
「友達さん、あなたは人間だからわかるでしょう、あれが人にできる? かつて中性は天使だっただけどいつか悪魔へ変わるだれも気づかないうちに本性をひた隠し息を潜め爪を研いでいる気づいたときはもう遅い、飲み込まれ従わざるおえないその雄平君のように」
「エース私と手を繋いで」
エースは伊織と手をつないだ。
「エースのなかにある剣、それがジョーカーを殺す剣」
「やめていおり……………まだなにも話し合ってないよ」
私は伊織をとめたかった。
どうしても元はかわらないと信じていたからだ。
「話し合って解決なんてできないよ日和、わかり合えないのだからどちらかがいなくなるしかないの」
「でも会ったばかりだし……………」
「いいよ日和さん、庇ってくれなくて日和さんのほうが心配だよ」
ジョーカーは立ち上がり伊織に手を差し伸べる。
「私と結婚してください」
伊織は少しだけ目を見開きジョーカーのことをじっと見た。
「どういう意味?」
「そのままだよ、キングとジョーカー手を組みましょう。私は人間を愛しているし滅ぼされたくない、キングは中性の存在を脅かされたくない。メリットがあるでしょ! 私を殺したところで別のジョーカーが現れるだけ、そうなったとき記憶は受け継がれより戦辣になるよ」
「爆弾を抱え込んだまま生活はできないよ、ジョーカーは消えてもらうって決めていたから」
「はぁやっぱりだめかぁ、ラビリンス解除」
ジョーカーは私と目があい、全てのこころを見られた。
過去の私、伊織と過ごした時間すべての靄が取り払われた。
私を抑えていた雄平は解放し、ジョーカーのほうへ向かった。
なんだろうこの感じ……………私は伊織を見つめていた。
ずっと愛しかった、好きだった伊織が、ちがうんだ、私がかわったの?
「日和と雄平に何をしたの!」
「中性のもっている情動の誘惑をキャンセリングしただけ、いわば普通の状態、あなたの特権を奪ったよ、このさきもずっっと私の手先として動かすことができる」
「脅しているつもり?」
「あなたに人としての感情があるなら、助けるけることができる」
「交渉はしません。決めたんです」
「やっぱりあなたは人じゃないわ」
「なんとでもいってください」
キングの権限。
職能を持つ者を支配する。
エース、クイーンと私の3人が揃った。ジョーカーはいまここで殺しておかないとチャンスは二度と巡ってこない。
「ジョーカーあなたを破壊する」
私は手を伸ばしジョーカーの額に手を当てた。エースから剣を受け取りクイーンで鍵を開ける。
闇に閉ざされた堅牢な迷宮、それがジョーカーの心。
三度わたしはここへ訪れる。
悲しいほど鮮やかな色をした花片。
ジョーカーの心だ。
壊してしまえばジョーカーはお終い。
力がないから搾取される、雄平も日和も凪沙さんも救いたい。
いまここでやるしかないんだ。

もう一度聞きます、私と一緒になりませんか?

ジョーカーの声だ。
私は幻惑ではない確かな形の音響。

ありえません。
手は取り合わない。
私から搾取し囲い続けてきた苦しむ必要なんてなかった。
凪沙さんの人生だってまったく違っていた。

合わせ鏡、
私が手にした花片が砕け散るそれはガラスのようにひび割れて私の顔が写り込んでいた。


「伊織!」
伊織が突然力なく倒れ体を震わせた。
「伊織に何をしたの!」
私はジョーカーに詰め寄ったが言葉をなくした。
ジョーカーの髪は一瞬にして白く変わっていたからだ。
ジョーカーは声なく頭を横に振る。
雄平は言葉なく伊織を抱き抱え顔をうずめる。
「彼女は長い眠りについた。クイーン、エース。私はジョーカーとしての役割を失った。自由にしていいよ」
エースは鼻で笑った。
「もとから勝手にするわ、邪魔されたくないだけそれだけ」
クイーンは意識を失ったキングにショックを隠しきれないで動揺している。
「そんな……………何をしたの?」
ジョーカーは手を自分の瞳に持っていき瞼に触れ瞳を閉じた。
「見えてないの?」
「たぶんね」
「日和、俺は伊織を病院へ連れていくからその人の肩を貸してやってくれ」
「わかった」
私はジョーカーに触れ、こんなに細い体をしていたんだと驚いた。
「待ちなさい! 彼女を置いていって!」
「どうして? 彼女はもう瞳力はないって」
「ここで終わりにしなきゃ」
ナイフを取り出しこちらに向けているのが見えた。
「止めてって言ってるでしょ!」
私は怒鳴り叫んだ。
「エース、あなたはどうなの?」
「キングは……………戻ってこないよ、道が途切れたから」
クイーンはナイフを落とし肩を落とした。
私たちは逃げるようにしていなくなった。


「雄平、いままでのような気持ちでわたし、伊織を見れてない」
「俺もだよ。だけどいまでも好きだ。伊織がそうでなくったって関係ないな」
雄平は毎日、伊織の看病にいっている。
伊織はまるで寝ているように姿形がかわらない。
「伊織は起きるよ必ず。寝ているだけ」
私は答えることができない言葉が見つからないから。
ガラッと病院の扉が開く音がした。
凪沙さんと小春さんだった。
「伊織、会いに来たよ」
凪沙さんは柔和な笑みを浮かべて席に座った。
小春さんと凪沙さんは仲よさげで、それは伊織が希望した関係だ。凪沙さんは薬の投与を初め延命治療を始めている。
長くは生きれない生まれながらのハンディキャップは埋められないけれど、それでも凪沙さんは幸せそうだ。
小春が帰り際言った言葉が残る。
「日和は伊織が好きなの?」
中性の特権が失われた伊織。
ジョーカーは私と雄平から中性からくる情欲をキャンセリングした。
狂おしいほどに愛しい人だった……………あのときの気持ちは嘘だったのだろうか?
そう突きつけられているようで。
「好き……………だよ」
「偽らなくていいよ自分の気持ちを、かつてのような盲目的な恋じゃなくても好きなのはわかるからだってそうじゃなかったらこんなにも一緒に居られないから。伊織には感謝してる、凪沙が自由でいられるのは伊織のおかげだから」
小春は伏し目がちにでも悲しそうに言った。


わかったんだ。
私が好きだったのは中性の特権を得ていた伊織だった。
雄平は素の伊織が好きだったんだっって……………。
悔しくて涙が流れた。
伊織を目覚めさせる。必ず。


クイーン、エース、ジャック、ジョーカーが会議室に揃った。
闇の組織は壊滅、エースは高校を卒業後、瞳力を使い不自由のない生活をしているといっても家に引きこもっているだけだ。クイーンはキングがいなくなった後、新たなキングの誕生を探しているが見つかっていない。ジャックがジョーカーに接触し今後どうしていくか取り決めを行うことになった。
ジョーカーは視力を失い、杖をついていた。
あれ以来、ジョーカーは光を失っていた。
「ジョーカー、私たちの目的は一つ、キングの復活よ」
「はぁ、わたしの状態を見てよくいえるねぇ、それにわたしはもうジョーカーじゃないよ、大空ひなっていう普通の中性」
「いいえ、隠していることがあるでしょう? だから殺さないで生かしているじゃない」
「見逃してくれてもいいのに、視力もないし、自慢のツヤ髪だって白くなっちゃったし」
「黒いじゃない」
「染めたの! わたしまだ経験ないし、若いもん」
「あらいがい、中性だったら選び放題なのに」
「私は好きな人じゃなきゃいやっ、だから………結構本気だったんだキングに告白したの」
「……………全然伝わってなかったけれど、むしろ突然すぎて巫山戯ているのだとおもったわ。あれじゃ告白は通用しないわ」
「えっ、そうなの、ショック。ずっと考えていたのに」
「ジョーカー、クイーン、話がそれてるわ」
ジャックが窘めた。
エースはため息をつきながら頭を横に振った。
「キングを眠りから解く方法を教えなさい!」
「……………ああ、そういうことか………キングの権能が消えてない忠実な従者、支配から逃れられてないんだ」
「王は、、死んでない。抑えこんでいるだけ、解放しなさい」
「はは………わたしはもうできない」
クイーンが佐倉七海の胸ぐらを掴んで締め上げる。
「責任とれる?」
「責任?」
「あなたたちの権能の剥奪、…………命と交換と記憶の消去」
「嘘じゃないでしょうね」
「どうして? 丸裸の私は無抵抗なのに? ジョーカーでないわたしはもうあと2年くらいしか生きれないもの。あなたたちはまだこれから何十年と先を生きていけるそれを捨てる覚悟はあるの?」
「あなたはまるでわかっていないキングは全ての頂点に立つ権能、命を差し出して助かるならそれでいい。ここに居るメンバーは全員そう、だから集まったの」
「支配という絆は強いね、まっ、わたしには理解できないわけでもないけれど―――私がキングにしたことは合わせ鏡、自らの瞳を失うことで相手の瞳力を奪うこと、キングはあのとき、私の心に入りクイーンで鍵を開きエースの剣を手に取った。ジョーカーを殺す剣、それを反射させた。――――それでもキングが死ななかったということは、殺すのをためらったんだろうね、わたしも死なずにすんだ。彼女を起こすにはわたしがかけた幻惑を解く必要がある。解く方法は彼女の心の中に入りエース、ジャック、クイーンの特権を放棄する。放棄した場合これまでのエース、ジャック、クイーンの記憶は失われ、普通の中性として生きていくことになる、でも…………クイーン、ジャック、あなたたち二人はもう二十歳を越えているからその場で亡くなる。中性の体は脆く儚い、もともと長く生きることができないようになってるから」
「王のために私たちは存在しているの、何の問題もないわ」
クイーンは当然のように言った。
「まあ、キングの意志だったらさからえないよ」
エースは諦めの表情。
ジャックは無言で頷いた。
「わかった、連れて行って伊織が眠る場所へ」



「雄平はこれからどうすんの?」
「どうするって?」
「美大に受かってそれから」
「さあ? 知らん、伊織のことしか考えてない」
「このまま逝ってしまうかもしれない」
「戻ってくる必ず」
大学病院の食堂でお茶を飲み溜まっていた。
鳥遊先生がプレートにランチセットを持って隣の席に座った。
「伊織さんのお見舞いですか?」
「はい」「はい」
「眠り姫は愛されていますね。眠りを覚ます王子様は現れるんでしょうか」
「伊織はこのままってことは?」
「わかりません。ただ眠っているだけですから、起こし方がわからないんです。おっといけない、そろそろもう行きます」
鳥遊先生はあっという間にランチセットを平らげ席を立とうとした瞬間、電話が鳴る。
「はい、―――えっ、伊織さんが起きた?!」
目を見開き私と雄平の顔を見た。
慌ただしく鳥遊先生はかけていった。
私と雄平は先生のあとを追った。
流行る気持ちを抑えきれない、なんて言おう。どんな言葉で、色を形にしよう。ただ生きているだけで嬉しかったのに。




 その後、クイーン、ジャックの行方は不明。エースは残され時間をゆっくり過ごしたいという願いから家に引きこもっている。私はというと、伊織に遊びに誘われ伊織の家に向かっていた。伊織は眠っていた数年間の記憶を失っており、元通りの用に思えた少なくとも触れると切れてしまいそうな恐怖はなくなっていた。ふと、伊織が寂しそうな顔をする時がある、何をおもってか、それとも記憶を想起しているのか、私はその理由を尋ねることができない。
触れるとまた戻ってしまいそうで、私は蓋を閉め気持ちを押しとどめた。
私は気がそぞろ。気持ちを整えて玄関のチャイムを鳴らした。
「いおり~。きたよ――――って、寝起き?」
伊織は眠気眼で髪の毛が横に逆立っている。
「うん、そう、なんか胸がつっかえているようで大切な何かを忘れてるような気がするんだ」
「そんなことより! 早く行こ、雄平の所へ」
私は慌てて伊織の手を引いて行った。
 

 玄関の呼び鈴を鳴らすと雄平が待ち構えたように扉を勢いよく開けた。
「あれ、日和も来たの」雄平の目が点になり固まった。
「悪い?」
日和は意地の悪い表情でにこりと頬笑む。
「悪くはないけどなぁ」
何食わぬ顔をして伊織と一緒にいる私は後ろめたい気持ちになる、雄平と違って私の好きという感情は前とは違ったものになっていたからだ。
だから……………、いざ目の前で雄平が伊織に気がある素振りを見ると切なくなる。
気づいたら雄平の家を飛び出していた。
私はもう来る事はないと思っていたアパートに足を運んでいた。この気持ちを整理したかったからだ。
「凪沙さん?」
私は玄関扉をノックする。
「はい? 日和さんどうしたの?」
「相談……………いいですか」
「うんいいよ。小春もコンビニのバイトで居ないし」
凪沙さんの後ろ姿を見て、私は頭がくらっとする。
いけない、わたしまた。
お茶を入れてくれて、凪沙さんはコップに口をつけた。
薄紅色の唇が綺麗で長い睫毛が瞳の奥を輝かせていた。
「伊織の事でしょ、記憶は戻らないこと?」
「いえ、それもありますけど、残された時間のこともそうだし、いろんなことごっちゃになってあっ、ごめんなさい凪沙さんのことも」
「いいの、どっちにしても長くは生きれないんだから楽しまなくちゃ。ほんとだよ、怖くないんだもうすぐ死ぬのに」
明るく笑う彼女は依然の影がある顔つきとはまるで違った。
「死が怖くないんですか?」
「怖くないよ、競争原理から解放されて諦めもついた。いまは自分の好きなことしかしてないからいいの、ほらっ、先がないから」
私は眉をひそめ、リアクションに困る。
「小春と一緒にいられて幸せなんだ――――伊織に必要なのは私じゃなくて、日和や雄平君でしょそれだけで充分だとおもうけれど」
「それだけじゃだめなんです、伊織は、ほんとの伊織はもっと黒いんです! 純真無垢じゃないから、好きなんです!」
「えっそこ? 好きなポイント」
「そうなんです! その、いままでは中性としての伊織が好きだったんですけど、ジョーカーに情欲をキャンセリングされてからそういう気持ちはなくなって、それで黒い部分が好きなんだって気づいたんです」
「なんだか、あなたも相当歪んでいるね。雄平君かわいそう」
雄平は情欲がキャンセリングされた以降、伊織に告白し振られているのだ。私は伊織の相談役のポジションを維持している。これからはもちろんつきあえればいいと思ってる。
私はにやりと笑うと凪沙さんは、
「はははっ、なんだ元気だね、過去の伊織も今もかわらないよ。それに伊織が中性である以上、どちらの道へも歩めるのさ、心のどこかでその希望が残されている限りきっと先はある、私も諦めてないもの」
あと数ヶ月、圧倒的に圧縮された時間の中で、凪沙さんが導き出した結論は生きることの希望だった。
「伊織はまだ迷っている最中、残された時間と生への執着の狭間で」
「凪沙さんは……………見つけましたか?」
「うん…………決めてる、実はジョーカーとあの後会って話た。私がこうしていられるのも伊織のおかげ、ほんとだったらもう死んでいたから、だから治験体になることにした」
「治験?」
「伊織がこの先、ううん、中性がこの先生きていけるように薬の投与をして寿命を延ばす方法」
「凪沙さんが実験体になる必要がないですよ!」
「誰かはまた誰かのために存在しているなら、私はたぶん伊織のために存在していたんだとおもう」
伊織は凪沙さんの存在を覚えていない、忘れてしまっている。
だとしたら、凪沙さんはそれでいいの?
「伊織には会わないんですか?」
「会わないよ、会っちゃいけない。私は過去の人だし、なにより伊織に嘘をついて接近してたから余計いや。黙っていなくなりたいから」
その時、風鈴の音が鳴った。
微かに香る線香の匂い。冷房の室外機の作動音。
凪沙さんの笑っているような瞳の奥が泣いているような顔。
すべて先を見通した目は、私がどうこう言える問題じゃなかった。
「これでまた伊織の寿命は伸びる」
凪沙さんは青空を見上げてポケットに手を入れて言った。
「良い天気、こんな日に死ねたらいいのに」
手を空へ伸ばす。
掌から零れる光の雫が溢れ温かい空気に包まれる。


本当に一部の人だけが知っていること、秘密に蓋をして優しく包む。何も知らない振りをして。
中学生の頃、伊織とべったりだった西条華奈ちゃんにショッピングをしていて鉢合わせたことがある。
女性らしく大人びて過去よりずっと綺麗になっていた。
無視するわけにもいかず少しだけ話した。
コップに口をつけ、静かな時が流れていた。
ゆっくりと西条さんが口を開いた。
「伊織くんとまだ一緒にいるんでしょ?」
来た!
「そうだよ」
「ふーん。まっ、そうだよねぇ。幼なじみだし。べっとりだったし」
言葉に棘がるなぁ。
「自然消滅しちゃったし、なんだか不完全燃焼って気分」
じろりと私を見つめる。
私は何も答えない。
「はあ、……………安心していまさらどうこうしようっておもってないからさ。いまさら会おうだなんて虫が良いこと言えないし、困ったときに側に居られてなかったし」
「よかったぁ、会わせてって言うんだと思ったから」
「ほんとっっ、会いたいよ! 涙を飲んでるの!」
西条さんは鼻息荒く叫んだ。
「声でかいよ、音量下げて」
「ごめんなさい」
西条さんは素直に謝った。
ふとした瞬間、伊織の顔が頭を過ぎった。
伊織は、どうだろう、もちろん独占したい。誰からもちょっかい出されたくないけれど、伊織はどうだろう? 会いたいかな……………ないか、
逡巡を一蹴して私はやっぱり断る。
伊織に悪い虫がついてはいけないから。
「ダメです」
「それはひよちゃんの願望? 伊織くんは違うかもよ」
「私が嫌だから、伊織もそうなの!」
「よっぽど自信がないのかな? だとしたらまだチャンスあるかも」
「ないよ絶対! 私と付き合っているから!」
咄嗟に本音を伝えてしまった。
「そっか、ひよちゃんと付き合ってるんだ……………私は伊織くんを男性にしてあげられなかったけれど、ひよちゃんは責任とって伊織君を男にしてね、そうしないとわたしひよちゃんを許さないから」
「男にするって、かなちゃんはできるっていうの?」
「できない、私は求められてないし、させてくれなかったから、そんなんじゃなくて、時間がないんでしょ、伊織くんの気持ちを考えていたら間に合わないかもよ、強引にいかないと」
「あのね、伊織はそういうの一番嫌がるの」
「知ってる。ひよちゃんが振られたらチャンスだと思って……………ていうのは冗談(笑)心の底から伊織くんには生きていて欲しいって願ってるの。行動しないと何もかわらないよ、伊織くんは強引にいかないと悲願の達成は無理」
「悲願て(笑)」
かなちゃんは残りの珈琲を一気に飲み干し席を立った。
「もう行くね、彼氏まってるし」
「彼氏いるの?」
「当たり前でしょ。何年たったとおもってるのよ」
私が余程怪訝な顔をしていたからだろう。
あれほど伊織のことを好きと言っていたのに彼氏がいるとは何事かと、顔に出ていたかもしれない。
「現実主義なのわたし、いまを楽しくいきたいだけ、それじゃあ」
彼女は手を振り颯爽と姿を後にした。
私は残った珈琲をただ見つめ、波紋が立っていた。



 私は大きめのストローでタピオカをピンポイントで吸い上げ食べる。
「なにムスっとしてるのさ日和」
「ちょっとストレスが溜まって」
「なんでもない?」
伊織の黒髪は肩まで伸びて風で綺麗に靡いていた。
一緒に歩いていると街中の人が振り返り伊織に注目する。
「やっぱり、家に行こうか」
伊織は私の手を掴んで言った。
最近ではお互いの家に行くことも多くなった。
何をするわけでもないけれど、触れあうことだけはしておきたかった。
「この間、鳥遊先生に紹介されて、中性の長谷川紗妃さんに会ってきたよ」
私はお菓子のチョコを食べながら聞き耳を立ててアンテナを張った。
「どうだった?」
「綺麗な人だった。性的に意識せずに結婚したんだって」
「ふーん。伊織も私のこと性的に意識してないでしょ」
「うん、そうだよ」
ハッキリ言った!
このタイミングで言おうかどうか……………
“今しかない”
「あのさっ、ぃぉり、……………」
「なに?」
怖じ気づいちゃだめ。
ここで言わないと一生言えない気がする。
「結婚してください」
「いいよ」
伊織は簡単に言った。まるで気にもとめずに。
「? いいの?」
「いいよ。結婚しよ」
あまりにもアッサリしすぎていて私は本当かどうか不安になる。「ほんとに? いいの」
「いいよ。あっ、でも結婚式はちょっと、私、日和と雄平しか友達いないし」
覚悟して告白したのに、私だけ意識してしまったみたいだ。
じゃあもしかしていいのだろうか、伊織の唇の色をジッと見つめてしまう。
伊織の瞳が揺れ動揺しているのがわかった。
あー、いまじゃないかも。
嫌われるかも、……………でも付き合ってるのにキスもしてないのはおかしいよね。
ぐっと私は伊織と顔の距離を詰める。
「日和っ、」
……………。
伊織が悩んでいる。でも大切なこと。
「日和はそういうことしたいんだ。うーん。……………わかった」
伊織の瞳の中に私が移りこみ驚いた顔をしていた。
外の蝉の鳴き声と体温の熱さが湯気みたいに上がって光ったみたいだ。
私は気づいたら伊織の胸に顔を埋めていた。
こんな顔、伊織に見られたくない。
頭に触れる掌の感触が優しくて、滑り落ちた。
消えてしまわぬように確かな存在としての形を胸の中に焼き付けた。



「ねえ、伊織、雄馬の送り迎えお願いしていい。きょう会社で遅くなるから」
「うん、わかった」
雄馬は眠そうな顔をしてウトウトしながらご飯を食べこぼしながら口を動かしている。
伊織は雄馬の口元をティッシュで拭き優しい笑みを浮かべていた。
私は伊織お手製のお弁当箱を手に持ち、慌ただしく家から飛びだした。
早いものであれから数年があっという間に過ぎ、伊織は男性へと変わった。残された時間は伸び、私たちの間には子供ができた。雄馬と名付けた。もちろん雄平から一文字もらった。
「いってきます」
伊織が雄馬の小さい手を取り振った。
「いってらっしゃい」

「あー、寒い」
季節は冬で、手に吐く息が白く浮かんで消えていく。
雪化粧に同化したひとりの女性の姿が見えた。
思わず私は足を止めた。
それは長らく忘れていた伊織の面影を見たからだ。
見とれてしまうほどに美しい女性。
私は言葉を失った。
ああ……………そうだ、伊織だ。
「お久しぶりです」
こちらを見つめて吐く息が白く昇る。
「はいお久しぶりです。ジョーカー」
どこまでも白く降り注ぐ雪と彼女の姿。
彼女の瞳は閉じられ、口元は緩んでいた。
「伊織はルートから外れられたんだね――――そしてそれはあなたが新しい道をつくったから」
「あなたのおかげです、そうじゃなかったら伊織と結婚なんて出来なかったし、雄馬も生まれなかった」
「最後にあなたの顔を見ておきたかったの」
「伊織じゃなくて?」
「ええ、そう、安心してあなたたちの人生にはもう関わらないからさ」
「ではどうして?」
「もしかしたら、あなたみたいな人類が中性の救世主になるのかもしれないってほんの少しだけ希望がもてたから」
「好きな人はいますか?」
私はふと気になって尋ねてみた。
「あなたたち人類を愛しているよ、いつまでも」
「ここからどこへ?」
彼女は立ち上がり服をはたいて言った。
「新しいキングが誕生した、今度はあなたのように結婚できたらいいな」
「人とは付き合えませんか?」
彼女は悲しそうに笑った。
「種族が違うからかな…………いいやそうじゃなくて、私の魂がキングを求めているんだ。また一から探してアプローチしなくちゃ」
君たちの人生の幸せを陰から見守っているよ……………。

彼女は雪のように風景と溶けて消えていった。




「いおり、雄馬を連れて雄平のところへ行きましょう」
「雄平のところか~」
「嫌なの?」
私は苦い顔をしている伊織に尋ねた。
「嫌じゃないよ、ただむかし色々あったし」
「告白のこと?」
「あー、それもそうだけど、気まずいから」
「いいじゃん、もう男性なんだし昔のことはどうでも」
「日和はそれでいいかもしれないけどさ、うーん」
「じゃあ、私と雄馬だけで行ってくる」
「えっ、そういうわけにはいかないし、いくよ」
雄馬は伊織の肩の上に頭を乗せてうとうとしている。
雄馬の雄は雄平から一文字もらっている。
雄平は私の元ライバルだったけれど、いまじゃなんの確執もないと私は思ってるけれど雄平は未だに未練があるようだ。伊織と会うたびぎこちない雰囲気を感じているから。伊織の記憶はあの記憶だけぽっかりと抜け落ちている。私はそれで良いと思っている凪沙さんも小春さんも、伊織の記憶にはない。
伊織が幸せならばそれで充分。
胸騒ぎがした。
ジョーカーに会ったこともそうだ。
「どうかした?」
私が思い詰めている表情をしていると伊織が心配して話しかけてきた。
「ううん、なんでもない伊織はそのままでいてね」
「どういうこと?」
伊織は首を傾げた。
戻らないほうがいい来た道は険しく瓦礫に埋まって戻れない。伊織が壊れてしまわぬように、そっと記憶を包み込んだ。
呼び鈴が鳴る。
もうすぐ出発の時間になんだろう。
「はい」
私は玄関を開けるとそこに黒髪が肩まで伸び、凜々しい瞳は相変わらず、さらに綺麗になった小春が立っていた。
私は硬直する。
いま一番、伊織に会わせたら駄目だと直感した。
私は玄関から伊織に伝える。
「ちょっとお客さんが来たから話してるね」
伊織が慌ただしく雄馬が泣き止むのをあやしている所だ。
ゆっくりと玄関を閉め、小春と歩き始めた。

「来ない約束でしょ」
私は冷たく小春に言った。
小春の表情は暗く少し陰があった。
「凪沙が死んだ。昨日」
私は何がおこったのかを理解した。
「私には凪沙を救えなかった、変えることができなかった」
小春は軽く息を吐いた。
「あなたはできた、伊織を救えた」
小春は足を止めベンチに腰を下ろした。
「なにが違うのかわからないわ、ねぇどうして」
私は答えることがない、言葉なんて最初から意味がないもの。どういう風に答えても私は小春を救うことにはならない。
「ごめんなさい、責めているのじゃなくて、悔しいんだ力が足りなかった…………」
「凪沙さんがいたおかげで伊織の寿命は伸びた、終わりへと続いていた螺旋を変えることができた。中性はこれから変化することができる。凪沙さんは希望をつくった伊織はその架け橋になれる」
「凪沙が伊織のために存在していたのだとしたら、私もまた誰かのために存在するのかもしれない……………それだけ」
私は白く溶けていく霧のような息が、惑わす。
「正直、わたしは小春に伊織を会わせたくありません、昔の失った記憶を思い出して欲しくないから、奪われるのが怖いから、凪沙さんが亡くなったことで伊織にとって大切な思い出になって欲しくないから、それも全部わたしの我が儘だけれど、――――会ってみますか? 伊織に」
「いいんですか? 思い出したくないことも全てさらけ出すことになりますよ」
「いいの、女性は子供を産むと強くなるの」
小春は目を閉じて深く息を吸い込んだ。
「ありがとう」
手を自身の目の前に合わせ彼女は目を開いた。
伊織にとって小春は前の彼氏? 彼女? だとおもっている、ヘタしたら私の生活がどうなるかと怖かったのだ。

「日和遅いよ、どこへ……………」
玄関から伊織は雄馬を抱え出てきた所に私と小春が鉢合わせた。
伊織は大きく瞳を開き言葉を失っていた。
その一瞬で全てがわかった。
沈む夕日に淡い温かい色が伊織の瞳に映った。
二人なら見つけられる。
ほらっ、私は何もしていない、伊織は自分で変わっただけなんだ。
「…………………………小春?」
何度だって、私は伊織を好きにさせる。
ある種の諦念と願望。
時が止まったように二人だけの時間が流れていた。
私は疎外され存在がない。
邪魔者だろうか?
小春は涙し笑った。
彼女は飛び出し伊織の胸に飛び込んだ。
伊織も小春を抱きしめた。
胸が苦しい、目の前の景色が歪む。
歯を食いしばって唇を噛みしめる。
「雄馬、ちょっと家に戻ってようか」
雄馬は何もわからず茫然としている。
いまは二人の世界に。

伊織は一言。
「ごめん、ちょっと」
「わかった」
私は振り返りもせず扉を閉めた。


「あれから何年すぎたんだろう、忘れちゃったよ」
成長し少し背が高くなった小春と女性っぽくすらっと伸びた髪を触れてみたいと私は思った。
「伊織は変わったね、背も大きくなったし、男性になった」
「ああうんそうだね」
どうして忘れていたんだろう、長く靄がかかった景色が晴れて、私はこの世界をようやく見ることができた。
それと同時に、思い出した。
「小春、凪沙さんは?」
私は沈んだ小春の表情をみて悟った。
「昨日、亡くなった」
「そう……………」
私は話したいことがたくさんあった、これから先の生活、小春のことも、それもいまはもう話せない。
言葉が宙に舞って消えていく。
「小春は、私のこと恨んでない?」
「恨んでるよ」
「えっ、」
「嘘よ、少しは……………」
「そうだよね、ぜんぶ忘れて私だけ何も知らないままだなんて虫が良すぎるよね」
「いいんだ、凪沙が望んだことだから、凪沙はあなたのために存在していたけど、そうじゃない、伊織は幸せに包まれていたから、でも私が壊した――――彼女はいいの?置いてきて」
「あー、あとで謝らないと」
私は顔が真っ青になる、日和を傷つけた。
雄馬もいるのに、それと雄平と話もあった。
「私は、凪沙を救えなかったけれど、好きだった。最後にはほんの少しだけ理解できた。けれど、凪沙が亡くなったことで後悔したくないって思いました、だから今日ここにきた」
小春の瞳孔が開いてキラキラして綺麗だ。
まずい、吸い込まれそうだ。
「伊織、私はあなたのことが好きです。だからあなたの世界を壊しにきた」
動揺しちゃだめだ、そちらの道は行ってはいけない。
甘美な誘惑には乗れない。
「……………できないよ小春、わたしは結婚してる、子供だって」
「伊織の本心じゃないでしょ。素直に自分の心に従えばいいじゃない、後悔しないで」
「後悔じゃないよ、わたしは――――」
小春は私の目をじっと見つめ訴える。
「まっ、今日は帰るね。行くところがあるんでしょ」
「そう、雄平の所……………」
小春は私に連れて行って欲しそうな目で訴えていた。
「また会えるよ、心配しなくても」
「そうだね、じゃあ」
小春がいなくなったあとも私はその姿が目についてはなれなかった。色濃く残る彼女の残影。
目が追ってしまう自然と、彼女を探し続けている。
日和はそのことについて何も聞かない。
ただ動揺し、おろおろしている。
明らかに小春のことを気にしている。
こんな時に、私は?
振り払うことができずに未練が残る。
日和は髪を掻き、大きく息を吸った。
「ああもう! こういうの苦手なのわかるでしょ!」
「知ってるよ」
私はそっと日和を抱きしめた。
「私の立場からは何も言えない、伊織が小春のところへ行っても、伊織の命の恩人だから……………」
「私のこと?」
家族のことだと思っていた、私はもう独りじゃない、雄馬がいる、日和だって、これからのことは、勝手にはできない。
「ごめん、そだよね、小春とはもう会わないよ」
「いいの?」
「うん。もともと好きじゃなかったし、私を理解してくれる人が欲しかったんだ」
伊織は声を震わせ瞳を閉じている。
嘘だ。絶対に。
私は伊織の優しさを知りすぎている。
昔からそうだ。自分を犠牲にして、心をいとも簡単に犠牲にする。
「怒ってなんてない、まして小春だし…………凪沙さんだし、べつに。ただ、ずいぶん浮かれていますね、そんなに元カノが好きですか、ええそうですか」
「もう会わないって」
「べつに……………勝手にすれば。私には雄馬がいるもん親権は譲らないから」
「もう離婚のはなし!?」
日和はそっぽを向いて雄馬に話しかけている。
これ以上話してもだめだな。
私は独りご飯を食べる。
冷えてしまって味気ない。
日和は子供を産んでから変わった。
私から子供が一番になってる。
当然なんだろうけれど、すこし寂しい。



「どうした? 俺に話せないこと?」
雄平はベランダに私を呼び寄せ煙草に火をつけた。
私が物思いに耽っている様子をすぐに察知していた。
「雄平、……………小春と会ったよ、凪沙さん亡くなったって」
雄平は煙草をかき消し、驚いた表情で私を見つめた。
「記憶戻ったのか?」
「うん」
「そうか……………日和の様子がおかしかったのはそのせいか……………あまり日和に心配かけるなよ、ああみえて伊織がいないと脆い。平気で自分の身を投げるところとか」
「私は大人になった、日和も、だから道は踏み外さない」
「大人か、そうだよな…………伊織は俺と結婚するとおもってた」
「!? まった! その話はもういい」
雄平は横目で私をちらりと見て空を見上げた。
雄平は壁に寄りかかる。
「なんで、子供の名前雄馬にしたんだ?」
「私は雄平に感謝してる、ずっと。親友だし。ずっと」
「そっか、線引きされたようでスッキリした」
線引き、――――そうだ。
これいじょう踏み込んで来ないでというサイン。
私はそのために日和と一緒に決めた。
優しさに包みこんで。
雄平の笑っているような泣いているような瞳が印象的だった。


「日和、ちょっといい?」
日和は少しだけ肩を震わせ、振り返りもせず洗濯物を畳んでいる。
「なに?」
空気が張り詰める。
日和の機嫌が悪くなる。空気で察する。
普段だったらこれ以上踏み込まないけれど、私は今日のために用意したプリンを日和の前に置いた。
「プリンだ!」
「一緒に食べよ」
日和はプリンを口に運ぶたびに笑顔が零れる。
「私には言わないでくれたらいい」
「会うこととか?」
「そう、聞きたくないから」
「わかった」
私はこれ以上話せない。
言葉ではどうしようもない。
「ありがとう」


すべてを思い出し、後悔の日々、何も知らずわからず、ただ消えていく運命を選んだ。私は墓の前に手を合わせる。
小春は涙せず、立っていた。
「伊織ありがとう、きてくれて」
片隅にひっそりとだけれど、大きな花がいくつも積み重なって置いてあり、花を咲かしている。
これだけ沢山の人がここへ来たということだ。
凪沙さんは誰からも愛されていた。
私もそうだ。
「よかったんだよねこれで……………」
小春がこともなげに言った。
私は腰を下ろし、お墓の前で手を合わせた。
さようなら、私の好きだった人。
凪沙さんに会えてよかった。
「これからどうしよう」
小春はぼそりとつぶやいた。
「わたしがいるよ」
「日和さんがなんていうか、嫌われてるから」
「嫌ってないよ、私が小春と会うのが嫌なんだ。昔付き合ってたから」
「付き合ってたか…………、ただ猫のようにじゃれ合って傷をなめていた。私は力のない自分を憂いで傷つけようとして凪沙を遠ざけて、ひどいことをした。その傷を癒やしてくれたのは伊織」
小春の期待した眼差し、どうしようもなく惹きつけられるその瞳に、凪沙さんと似ていると思った。一度魅せられたら虜になってしまう深淵。
「小春、ジョーカーに会わせて欲しいのどうしたらいい」
「どうして? もう済んだことでしょ、会ってどうするの?」
「このままだと一生私のなかのわだかまりが消えない。このあとのスパイラルを止めたいんだ」
「ようやく抜けれたんだよ中性から、死なずにすんだ。家族だっているのに」
「ジョーカーが言っていたこと、確かめたいことがある」
「伊織私……………」
「小春、私は大人になった、日和は裏切れない」
小春は何かを諦めたように、うっすらと涙し言った。
「そういう縁のもとで生まれたのかもね」


小春から手紙を預かった。
ジャックとクイーン、エースの居場所が書かれている。
エースは眠そうな目を開き、私の目の前でカップにいれたコーラを飲んでいた。
「どうしたんだい、元キング?」
「エースはまだ人類を支配するつもり」
エースは途端にコーラを咳き込み笑いこげる。
「君がしようとしたことでしょう、それとも人間になって変わってしまったのかな」
「ジョーカーに会わせて欲しい」
「イヤ、面倒だもん、家に帰ってゲームしたいの! やりたいことが沢山あるの!」
「クイーンやジャックは?」
「知らない、会ってないから、ってかもういい、私だって暇じゃないの」
「ゲームばっかじゃん!」
エースは首を横に振って、話を終わりにしようとする。
「ああそうそう、ジョーカーに会いたいなら、クイーンが知ってるよ」
「教えてくれるの?」
「つきまとわれてもイヤだし、最後だよ、さようなら伊織さん」
エースとの絆は切れた。こうしていると、雄平や日和がどれだけ私との関係を保とうとしてくれていたのかやっとわかった。
中性は人を自在に操れる。その特権がある限り、対等にはなれない。私だってそうだったのだ。どこか雄平と日和とは線引きしていて、彼らとは違うのだと。悲しいけれどこれが事実だ。男性になったいまだからわかるんだ。理解できないって、次、またエースと接触すれば彼女はその特権を使って私を捨てるだろう。

ここは施設?
私はフロントに行き“大空ひな”に会いたいと告げた。
「ひなちゃんね、待ってて」
係の女性は奥の方へ行き、車いすに乗った彼女に会った。
「目は良くなりましたか?」
ジョーカーは頷いた。
「少しだけぼんやりだけど見えるようになったんだよ、足はずいぶんダメだけれどね」
「どうしてなんです、そんな……………」
「命が切れかけてる。ジョーカーの力は随分消費したから、あのときが私の全盛期だよっ」
「横座っていい?」
「スルーされた、老い先短いのに…………」
そうだった、ジョーカーはこういう性格だった。
ずれているというか、仮面を被っているところ。
「ここには誰もいないですし、これからも私と二人ですよ」
「そう? 三樹さんは知っているのかな?」
「知ってる、怒ってるけれど」
「ふーん、そっかぁ、はい」
大空ひなは私の前に手を差し出し、何かを促した。
「おみあげは?」
「えっ、ないよ」
「どうして! 感動の再会だよ、ましてこんな辺鄙な所まで来たんだからなにかあるでしょ」
「そう。………なんだ。寂しくて」
「うーん、、なんだか、そうかぁ、そこらへん変わってなくて驚いたよ、わたしは」
「なんてね、大空さん、私に協力してください、ジョーカーの最後の仕事です」
「………最後か、伊織のほうからそう言われるなんてね、先を越されちゃったな」
終わりにしたい悲しみを、もう二度と、ここで。


いまここにクイーン、ジャック、エース、ジョーカーが揃った。こうして揃うのはあの時いらい。私だけじゃない、かつてより受け継がれてきたこの称号も、普通になって欲しい。それはすなわち、権威の剥奪。それこそジョーカーがやろうとしてきたこと。

“クイーンやジャックに死んでくれっていうのかな?”
無邪気な顔をして大空が尋ねる。
“私もかわれた、だからきっとかえられる”
“ははっ、は、日和さんが言っていたことがわかったよ、伊織は黒いって”
“日和がそんなこと?”
“そうそう、黒い伊織が好きだって!”
一生日和には頭が上がりそうにない。
“ジョーカーさん、できますか?”
“キングがいればね”
“わたしが?”
“そう、キングは消滅したりしない、生きている限りは死んでから受け継がれるから、私は鍵をかけただけその鍵を開けばまた伊織は中性へ戻るよ”
“また中性に……………”
“その覚悟はありますか?”
胸に手を当てて私は頷いた。
日和は許してくれるだろうか?
大丈夫、きっと。
“エース、ジャック、クイーンを集合させて物語を終わらせましょう”
私にしかできないこと。
大空ひな、ジョーカーの運命を歩むしかなかった。
ジャック、中性の保護活動と機密保持。
クイーンはキングを待ち、その時をまっている。
権限の剥奪、元は同じ根より生まれている。キングは支配下における。
“やり方は私を含め互いに手を繋ぎ合わせ円をつくる。道を支配できるキング、その対となるジョーカーの剥奪の力。合わせることで消すことができる”
大空は私の手を取り、やり方を説明した。
“伊織、いまあなたの鍵を開く体が熱くなって数日、動けなくなるかもしれないよ”
私は頷いた。
日和、おこるかなぁ、それでも伝えなきゃ。


「そのカッコ? …………」
「ごめん、元に戻ったみたい」
ははは、私は空の笑い声を上げた。
日和は頭を抑えそのまま倒れ込んだ。
「日和!」
私は日和を抱きかかえベットに寝かした。



あれから数年。
私と日和、雄平の三人でお墓参りをしにきている。
雄平は雄馬にべったりだし、日和はそんな雄平を警戒してるし、私は私で中性に戻ってから女性だと勘違いされることが多くなった。私と日和との関係は男性の時よりもソフトになって、でも日和は受け入れてくれた。いままで生きてきた中で最も静かで幸せな日々。

“ほんとによかった? 後悔してない?”
ジョーカーの声が聞こえた気がした。
してないよ、
“どちらにしても私たちはもう長くない。先にいくよ”
大空ひなは、深く瞳を閉じて亡くなった。

雄馬と繋いだ手が温かい。
確かにある感触、ずっと触れていたい。
日和はおこるだろうか、雄平は勘が鋭い。
私から何かを感じ取ったのだろう。
もう大丈夫。
日が沈む、どうして何気ない風景がこんなにも美しいのだろう。私の目の前を一羽の蝶が舞う、儚く心地良い最後だった。
線香の煙が空に浮かび、灯は風に吹かれ消え去った。




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