第4話

文字数 2,220文字

彼が酒好きなのは、言うまでもない。ある教授が講義で言っていた。統計心理の授業であったかはっきりとは覚えていないが、彼が「煙草を吸う人は酒好きだよ」なんていうデータに基づいた思い込みがましいものを豪語していたことに、平次は辟易したことがある。
彼は、好きなお酒は何かと聞かれると、「電気ブランだ!」と速攻で答えるようなくらいの、太宰治のファンではあるが、同時に、こういったちょっとおしゃれや、ちょっと贅沢と言うものに目が無い。電気ブランはそれだけであまり高くはないお酒であるから、それを贅沢と言っている彼の金銭状況と、そして彼の肝臓の傷み具合は、想像に難くない。
彼の金銭状況はかなり厳しいものがある。ほとんど毎日飲みに出歩いているからである。彼はバイトが好きではない。おそらく働きたくはないだけと言う風に他からは見られているようだが、彼がバイトをしない理由は、学生時代の大切な自由な時間を、時給千円ほどで安売りするのがもったいないからである。彼は、彼の時間にはほとんど無限の価値があると信じている。そう信じながら、今日も飲みに出かける。
先ほども、彼がちょっとした贅沢に目が無いという風なことを言ったが、彼は同様の心理で、カフェによく赴く。カフェに行き、そしてブレンドを頼み、そうして読書に励む。彼は時々思う、「家で珈琲作って読書しても、あんまり変わりはなくね…」そう言った真理が見え隠れしても、彼は心を落ち着け、ひとりにやけながら「贅沢だねえ」こう小声で呟いて読書を再開するような、変態である。
彼が最近読む本と言えば、哲学書である。哲学書と言っても、「ソクラテスの弁明」やらデカルトの「方法序説」と言ったような、智の巨人たちが残した傑作ではなく、ずっと同じような「哲学史入門!」やら「マンガで分かる哲学史」などの平易なものを読み漁って、「僕は哲学しているなあ」なんて言う妄信をいだいているのであるから、他人から見れば少々野暮なことは無論であるが、彼に言わせれば、このような哲学を体系的に理解しようとする理由は、浪人に踏み入る時に母に対して用いたような、詭弁の磨きをかけるためらしい。
彼はある日、例によって哲学史の入門書を読むためにカフェに入った。想像以上に人が多く、席が埋まってしまっていて、空いているのを探すのに一苦労だった。そうしてようやく座り、赤線ばかりの哲学書を開く。彼は、線を引くだけで勉強した気持ちになってしまうのんきものである。すると、不思議なことが起こる。
彼の丁度となりの席に座っているカップルが、なんだか話をしているようだ。カップルがカフェでお話しするなんて、日常茶飯事ではあるが、彼はこういった話が勝手に耳に入ってきてしまって本に集中できない。良く聞くと、彼氏の方は、「ルールってものがある」なんていう哲学的な話を展開している。彼はその時、「僕も尚子と哲学で語らえたら」と言う想像をして、顔が紅潮した。もちろん変な意味ではない。ただ彼が変態であるだけである。もう少し耳を傾けた。すると彼女の方は、「ごめんなさい。ごめんなさい。いやだ。許して」と連呼しているようだ。このとき彼の思考は完全に停止した。
彼は耳を澄ませたが、彼氏の方はずっと無感情な顔をしてルールについて語っている。そして彼女は泣きながら嗚咽を交えて謝っている。ここで彼は、まことに不謹慎ではあるが、これはサッカーにおいて、レッドカード宣告を受けた選手の、審判への嘆願に似ていると考えた。しかしながらこの時のルールとは何だろう。まさか彼女が彼氏に向かってファウルするわけでもない。彼は想像した。
まずもって、彼氏は全く譲ろうとしなかった。相当な道徳的ルールなのであろう。しかも彼氏のほうは神のような静かなまなざしで諭していた。これは、倫理、そしてとくに生命倫理に関わる問題ではないか。そして彼女の方は、ずっと謝っていたことから、言い訳できないほどの根本的問題だと分かる。なるほど。平次には答えが見えてきたようだ。
彼女は、二か月間ほど生理が来なかった。そして、そのことを伝えるのが非常に遅くなってしまった。彼氏の方は、つゆ知らず、趣味の昆虫採集に励んでいる。偏見ではあるが、彼氏の方は、昆虫採集が好きそうなオタク眼鏡を掛けていた。彼女は昆虫採集に連れていかれることが多かった。彼氏にとっては殆ど庭ともいえるような森に連行されては、彼氏が目を輝かせて、「これがね、ナナホシテントウだよ!こいつはね…」と言う風な子供じみた説明を聞き、そして思ってもいないのに「ほんと!?すごいね!」と言うこと、そして、彼氏に嫌われたくはないがために言ってしまう自分に、彼女は嫌気が差していた。そして、彼女は失態を犯してしまう。彼氏の飼っている虫の三分の一は彼女が餌をやることで意見が一致していたために、彼女は餌を毎日挙げていたが、自己嫌悪とストレスによりそれを時々さぼるようになってしまった。ストレスから生理も来なくなった。それが原因である時、昆虫の三分の一がほとんど餓死状態で動きが遅くなっていることを、彼氏が発見する。そして、こういった話になったわけであった。
彼には、単純な別れ話しという一般的な結論は見えなかったようである。そして、彼女がえんえんと泣いているのにそれに対して無感覚を装う彼氏があまり好きではなかったようだ。完全に歪曲された物語ができてしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み